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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
36/65

36.薄紫色

 早苗は二通目を見つける。


『長谷川のおじさんから連絡がきた。京一郎が医師になった途端、郁が、働いていた長谷川家の社員寮から逃げ出した』


 長谷川家? 早苗は初めて聞く苗字である。どこかで聞いたことがないか記憶の中を探るが、全く思い当たる身内や知り合いはいない。


『『京一郎は医者になった。あの子が稼ぐから、私はもう働かない』と言って、これまで面倒を見てくれた長谷川家の仕事を辞めた』


 どうやら郁が働いていたのは長谷川という親戚の家のようだ。そこを辞めたという連絡が京一郎の元へきたのだろう。


『お前を預かってくれていた石川さんもカンカンだ。郁に寄生させるために京一郎を預かったわけではないと』


 早苗にも話が見えてきた。そして予想は当たっていた。

 郁は医師の京一郎に生活の面倒を見てもらおうと、仕事を辞めてしまった。このままでは京一郎の稼ぎは一円残らず金食い虫の郁に使い果たされてしまう。そこで男性医師の養子を探している南雲家に声をかけた。南雲家は医師免許を持つ養子が欲しい。郁は働かなくても生活できる以上のお金が欲しい。石川家と原田家は、郁ごと面倒を見てくれる京一郎の養子先が欲しい。全員の利害が一致して、当事者の京一郎は南雲家との縁を選ばざるを得なくなった。


 郁のせいで全員が迷惑を被っている。特に京一郎が。


 孝道(たかみち)からの手紙を読み終えた早苗は腹が立っていた。郁の問題は京一郎の我慢で全て解決ということなのか。これならなおさら京一郎の若い頃の想い人はマリコで、京一郎はその想いを諦めざるを得なかった説が有力のように思われる。


 もしかしてすでに京一郎の恋人だった?

 その関係で郁はマリコにハンカチをプレゼントした? いや、それなら恋人時代にやり取りした手紙くらい残っているだろう。一緒に出かけた写真だってあるかもしれない。金の亡者の郁に恋人の影をすべて消せと言われたとか? 弥栄子に見られたら大変だから、自ら全部処分したとか?


 そこまで調べると固定電話が鳴った。早苗は手紙をローテーブルに置くと電話機に駆け寄る。表示されている番号は弥栄子からだ。周囲に誰もいないのをいいことに、早苗は盛大な溜息をついた。早苗に何か頼みたい用事でもあるのだろう。早苗は受話器を取った。





 午後に京一郎の病室を訪れた。今日はいいお天気なのに、車椅子の京一郎は膝の上にテルテル坊主をのせて、一緒に山の方を見ていた。


「今日は天気がいいのに、テルテル坊主と一緒にいるのですか?」


 早苗は京一郎の横顔に話しかけた。


「ああ。マリコさんが作ってくれたからね。大事にしないと。もう失くしたくないんだ」

「失くす?」

「マリコさんの思い出を、沢山失くしたから」

「沢山?」


 京一郎はそれには答えない。早苗は思い出を沢山失くしたという話に引っかかっていた。それは、京一郎は弥栄子と結婚するにあたって、マリコの手紙や写真を捨てたという意味なのだろうか。だから手紙や写真がないのだろうか。


「今日はいい物を持って来たんですよ」


 早苗は京一郎に近づくと、体を少し屈めて話しかけた。京一郎は早苗を見上げる。


「一度テルテル坊主を窓辺に置いていただけますか?」


 京一郎は手を伸ばすと、なんの疑いの言葉も発さずに、テルテル坊主を窓の額縁の上にのせた。早苗はカーディガンのポケットから、輪っか状にまとめられた、幅五ミリほどで薄紫色のサテンのリボンを取り出した。それをテルテル坊主の首にくるりと巻く。そして綺麗な蝶々結びを顔の下部分に作って、リボンを留めた。完全にではないが、これで少しは殺風景でオシャレさのない首の輪ゴムが隠れる。


「いかがですか?」


 早苗はテルテル坊主を両手で包み込むように大事に持ち上げると、それを京一郎の膝の上に戻した。先程と逆に、テルテル坊主の顔を京一郎の方に向けた。


「かわいらしいな」


 京一郎の顔がほころぶ。


「お好きな色のリボンがあれば用意しますよ」

「これでいい。いや、これがいい」


 京一郎は左手の人差し指でテルテル坊主の頭を優しく撫でる。


「これがマリコさんの色だ。ぴったりだ」


 早苗もそう思った。藤の花のような薄紫色は、不思議な気持ちを起こさせる幻想的な色合い。その一方で優雅で気品があって、早苗もマリコにはこの色が相応しいと思って選んだ。

 京一郎はテルテル坊主の顔を窓の方へ向ける。


「マリコさんと浅間山へ行く時は、お前も連れて行くぞ」


 京一郎は顔を少しだけ下に向けてテルテル坊主を見ながら言った。


「だからその日は必ず晴れにするんだぞ」


 早苗にはそんな日が来るとは思えないが、京一郎はテルテル坊主に言い聞かせる。それから顔を上げて視線を山に戻した。





「大した距離じゃないんだから、現地までの送り迎えを申し出て欲しかったのに。言われた通り駅までなんて、全く気が利かない」


 車の助手席に座る弥栄子が偉そうに言った。早苗は今、友人と温泉に行く弥栄子を駅まで送るため、車に乗せていた。温泉地の名前は、頭に『い』がついたような気がする。イカホとか、なんとか。数日前に聞いたが『そうですか。よい旅を』と返事だけして聞き流したので、弥栄子が出かける先の地名はよく覚えていない。

 予約した温泉地が近場だから現地まで車で送れと言われても、大体今の季節は温泉地なんて積雪があるかもしれないし、冬用タイヤも履いてないし、雪道の運転にも慣れていない。そもそも、なんで義母だからってそこまで嫁が気を使わないといけないの、としか思えない。仮に頼まれたのが雪の季節じゃなくても、絶対に嫌だ。


 送り届けて戻って来たら、早苗は京一郎の病室にも行かねばならない、亮弥の送迎もしなくてはならない。日頃の用事はなくならない。現に早苗だけではなく、他三軒の家のお嫁さんたちもそんな話は無視している。その三軒の家の実の娘たちなどは血の繋がった親に対してだから、当然きつくはっきりと断ったそうだ。そんな頼み、誰だってそうだろう。


 そもそも駅まで送る話だって京弥に相談した時点で、京弥と早苗はもめていた。送迎時間の問題で早苗はずっと頭を悩ませていた。弥栄子の出かける時間が決まって亮弥の朝の送迎時間と被らなかったラッキーにホッとしていたら、今度は弥栄子からこの言われよう。


 早苗は駅前に着くと弥栄子を車から降ろした。すでに駅の入り口で待っている友人が一人いた。早苗は車の窓を開けてにこやかに挨拶だけ済ますと、急いで車を発進させた。


読んでくださってありがとうございました。

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