35.罪悪感
罪悪感。早苗は手紙の入った煎餅缶を抱えて、リビングのソファに座っていた。はたから見たら、誰にも渡さまいとまるで煎餅を独り占めしようとしているかのような、変な食いしん坊おばさんに見えるだろう。それくらいしっかりと両腕で抱え込んで、その上、煎餅缶を中心に上半身を縮めていた。
今朝ああして、その場の思いつきで京一郎とのふれあい時間を持った。京一郎は嬉しそうだった。それなのに。
それなのにその午後に早苗は計画通り、京一郎の病室を訪れる直前に院長室に忍び込み缶を丸ごと持ち出した。
早苗が午後に病室を訪問した時、車椅子の京一郎はテルテル坊主と一緒に、大粒の雨の落ちる、昼間にしては薄暗い窓の外をぼんやりと見ていた。テルテル坊主は顔を窓の外に向けて、少し傾きながらも窓の額縁にちょこんと乗せられていた。
それを見たせいで罪悪感だ。実は午前中あんな京一郎を見て、一旦は罪悪感に苛まれた。しかし帰宅後電話で弥栄子の偉そうな命令口調を聞いたら、そんな代物は速攻彼方へ吹っ飛んだ。
南雲家なんて、どうとでもなってしまえ。
しかし午後の訪問で、テルテル坊主と雨を見ながら静かに過ごす京一郎を見ているうちに、早苗の胸の中の真っ黒な塊は、シューッという音が聞こえてきそうな勢いで萎んでいった。
あの純粋な京一郎を見ていると、興味本位でこんな大それたことを始めた自分が情けなくなる。それならここまででマリコ探しをやめてしまえばいいのか。そして今日みたいなふれあいなど全くない、マリコのふりして相槌を打つだけの、以前のような義務的な訪問に戻せばいいのか。でもきっとそれでは早苗の罪悪感は消えない。早苗は弥栄子にも京弥にも、誰にも相談せずもう何カ月もマリコとして過ごして、早苗を認識ができない京一郎を欺いていたのだから。
「なら、せめて少しでもお義父さんに、何かしてあげたら」
マリコの正体がわかれば、早苗は京一郎のそばで何かしてあげられるだろうか。お前の自己満足のために自分の行動を正当化できる理由を強引に見つけたいだけだろうと、その話を聞いた人から笑われそうだ。しかしマリコ探索をやめるという選択肢を、早苗は選ぼうとは思えなかった。
早苗は腕の力を緩めると、缶を開けて手紙を取り出した。
探すのは仕事関係者以外の手紙。宛名が『南雲京一郎先生』ではなく『南雲京一郎様』、もしくは京一郎の旧姓の『原田京一郎様』となっている手紙。それからチェックをするのがいいだろう。個人的な手紙の山のせいか、結構そう書かれた手紙がある。差出人は様々だから、内容から誰であるのか推察する必要があるだろう。
そんな中、仕分けの上の方にあった手紙でまず目に留まったのが、石川益男(いしかわますお)という人物からの手紙であった。
『南雲先生がお前にぜひ会ってみたいとおっしゃってくれている……今後の人生をよく考えろ』
石川益男はどうやら京一郎の父方の祖父のようだ。郁からの手紙で見合いの紹介者は五反田のお義父さんと書かれていたから、それがこの人で間違いないだろう。この手紙の中で京一郎の祖父は南雲先生のお嬢さん、すなわち弥栄子をベタ褒めし、京一郎に弥栄子との見合いを強く勧めていた。
早苗は手紙の山の中から別の石川益男からの手紙を選び出す。
『養子として精一杯尽くせ……失望させるな……祖父の顔に泥を塗るな』
次はそんな文章が並ぶ手紙だ。多分結婚後の京一郎に宛てた、全く心のこもっていない励ましの手紙なのだろう。こんな圧を孫にかけるなんて随分と酷い祖父だと早苗は思ったが。
『南雲家の援助だけでは生活できないと郁がうちに来た。毎月十分すぎるほどの額を、南雲家との取り決めでもらっているはずだ。今後はお前がお前の母親を躾ろ。返しもしないくせに金を貸せという話ばかりで、あれの姿を見ると頭痛がする』
そんな文章も見つけた。石川益男は京一郎の母・郁にとっては元夫の父親だ。郁の実の父親ではない。それでも京一郎の祖父であるからと石川家に押しかけて、お金を要求していたのだろう。
京一郎の父親は別の女性と家庭を持ち、石川家にとってはそちらの息子が跡取りだ。本来なら京一郎なんて血縁はこの世に存在してはならなかった。
石川家は致し方なく京一郎の高校から大学までの面倒を見たが、京一郎が社会人になったなら、石川家と縁を切って欲しかったのだろう。母親の郁も京一郎にくっつけてどこかに押しつける。それが土地の名士の南雲家。だから南雲家ともめて京一郎が追い出されるなど、決してあってはいけないことなのだ。
そこまで読んだとき玄関で人の気配がした。京弥が帰って来たのだ。早苗は手紙を片付けその缶をバッグに突っ込むと、リビングに現れた京弥に、笑顔を作って「おかえりなさい」と言った。
予想としてマリコとは、かつて京一郎が好きだった女性ではなかろうか。
父方の実家との軋轢、奨学金、母の金銭問題。それらを自分で解決するために、京一郎は南雲家との養子の話を受け入れマリコと別れたのでは。
火曜日の午前中、早苗は昨晩の続きの手紙チェックを始めた。益男からの手紙は前夜に読んだあの二通しかなかった。郁からのお金の催促と縁談の勧め、益男からの郁に関する苦情と縁談の勧め。それ以外の情報も欲しい。また別の個人名の差出人を探す。
原田孝道(はらだたかみち)。という人物からの手紙を見つけた。これは郁の実父ではないか。まずは一通目を読んでみる。
『郁から遺産は分けてもらえるのかと連絡がきた』
どうやら正解のようだ。しかしここでもお金の話である。この郁という女性は驚くほど厚顔無恥で、ある意味逞しい人である。
『遺産は郁の兄、長男の孝弘(たかひろ)が相続する。孝弘も嫁も真面目な人間で立派な家庭を作っている。孝弘には跡取り息子もいる。原田の本家はこれから二代、家も墓も守られる。ムダ金ばかり使う郁にはビタ一文やる気はない。ただ京一郎はたいそうな人間になって』
ここからしばらくは、医師となった京一郎に対する賛辞が続く。
『京一郎になら僅かだけだが分けてやってもいい。でもそれが郁の狂った浪費に流れるなら渡すわけにはいかない』
一通目はそんな内容であった。
読んでくださってありがとうございました。




