29.本日の収穫
早苗は退室の挨拶だけすると、バッグのベルトとコートを引っ掴み、急いで病室の外へ出た。廊下を数歩進むと、よろけるように立ち止まり、京一郎の部屋から見えない壁に背中を預ける。そしてバッグとコートと、洗濯物の入った袋、三つを両腕で抱え込むと、ぎゅっと抱き締めた。
京一郎を傷つけてしまった気がする。
ハンカチをもらった一件は些細なことで、ほとんど私の記憶に残っていません――と、マリコが京一郎に言ってしまったようなものなのだから。マリコ本人ならきっと、ハンカチを誰がくれたか承知していて、あんな驚いた声は出さなかっただろう。京一郎をこんな風に傷つけない会話ができたはずだと思う。でもマリコではない早苗はハンカチの一件など知らない。だから思わぬ話の展開で、早苗のぼろが出てしまった。
今頃京一郎はどう感じているだろう。マリコを冷たい女だと思っているだろうか。それではマリコにも京一郎にも非常に申し訳ない。演じた早苗がマリコを汚してしまったかもしれないと、罪悪感に襲われた。
よくよく考えてみれば、早苗がやっていることは大それたことだ。
京弥にも弥栄子にも言わずにこんな状況を放置していることでの罪悪感はない。二人に対しては少しも悪いとは思わない。思わないからこそ今まで楽しんで行動した。しかし京一郎のマリコへの思いを考えると。
京一郎の相手をして探って楽しんでしまったことを早苗は後悔し始めていた。
その日の午後。乾いた洗濯物を持った早苗は、のろのろと家を出た。京一郎に会って今朝の話をされたらどうしよう。そう思うと気が重かった。京一郎からは謝る必要はないと言われた。今日もう一度謝るというのも違う気がする。
今からでもマリコのふりはやめようか。返事をしなければ京一郎も早苗をマリコと呼ばなくなるだろうか。しかし前者だと京一郎は怒るし、後者だと京一郎を傷つけてしまう。
病院の駐車場に車を停めると、いつも通りに病棟へ向かう。廊下を歩く足が重い。病室の前に着くと早苗はまずは壁側に体を残し、開けっ放しのドアから片目だけでそっと中をのぞき込む。京一郎はいつも通り、車椅子に座って窓の外を見ていた。
「こんにちは」
早苗はそう言って病室の中に足を踏み入れた。京一郎から返事はない。振り向くなどの反応もない。
「片付けますね」
早苗はストローをゴミ箱に捨て、コップを持って洗面台に向かった。バシャバシャと水の音を立てて洗っていると。
「――」
京一郎が何か言っているのが聞こえた。早苗は水を止める。
「ごめんなさい。水の音で聞こえませんでした。何か言いましたか?」
コップを布巾で拭きながら、早苗は京一郎の方を向いて尋ねた。京一郎は窓の外を見たままである。
「浅間山が見えるな」
それだけ言った。早苗の耳には聞こえなかっただけで、今さっきもそう言ったのだろうと早苗は思った。
「そうですね。お天気がいいですから」
「夏になったら浅間山に行こう」
「そうですね」
「マリコさんを連れて行ってあげるよ」
「ありがとうございます。楽しみです」
京一郎は今朝の会話をもう忘れているのだろうと思った。そのうち何かの折に偶々ハンカチを目にしたら、京一郎はまたあの会話を始めるかもしれない。でもその時の京一郎は今朝のマリコのふりした早苗がとった失礼な反応を、すっかり忘れているのだ。京一郎にとっては初めてマリコと交わすハンカチの会話となる。
今日一日あんなに凹んで後悔したのが馬鹿馬鹿しくなった。京一郎は最近のことは覚えていられない。今度ハンカチについての会話が始まったら、早苗は反応を間違えない。ハンカチをくれたのは京一郎ではなくその母親だ。そのことをきちんと覚えていたふりをして、会話を進めよう。しかしそこまで考えてまた馬鹿馬鹿しくなる。早苗が一生懸命演じて対応したとしても、きっと京一郎は数時間とその会話を覚えていてはくれないのだろうから。
早苗は運転席に乗り込むと、シートに背を預け溜息をついた。本日の収穫を悪い頭で分析する。
京一郎はマリコにハンカチを渡したことがある。しかしそれは京一郎からの物ではなく、京一郎の母からの物。京一郎の母の名前は郁。マリコは京一郎だけではなく郁の知り合いでもあるということだろうか。もしそうなら、マリコは早苗の予想以上に古くからの知り合いということになる。
早苗の記憶では、京一郎は中学卒業まで郁と暮らしていた。その後は高校に通うために、祖父へ引き取られたと聞いた。そのまま大学卒業まで祖父宅で世話になった。ということは、マリコは京一郎が中学生以前の知り合いなのだろうか。
「あ~あ、まさか、また無駄足?」
早苗は先週と今週、高校・大学時代の京一郎の人生を調査したのを思い出し、がっくりきた。ドキドキしながらこそこそと侵入して、全く関係ない物に時間を費やしていた可能性が高くなってきたのだ。
「次回は中学・小学校か。手紙はとりあえず後回しね」
気を取り直すしかない。新たな情報が手に入ったことを喜ぶように、自分の脳に言い聞かせるしかないのだから。
「一歩前進と考えなきゃ」
早苗は車のエンジンをかける。夕食の支度、亮弥を駅までお迎え。これからの時間は忙しいのだ。もたもたしている時間はなかった。
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