28.ハンカチーフ
水曜日朝。早苗は京一郎の病室に来ていた。
「今日もいいお天気ですね」
「これなら今日も浅間山が見えるな」
頭部側を少し起こしたベッドの上にいる京一郎からも、いつも通りの言葉が返ってきた。
一昨日の院長室の探索も空振りであった。早苗は明日木曜日に、院長室への三回目の忍び込みを計画していた。院長室への無断侵入は週二回、月木。それ以上の頻度になると、いくら身内の早苗でも不審に思われるだろう。これがマリコさん探索のために早苗がやれる精一杯だ。
あの日、次回の木曜日は手紙の内容を読んでいこうと決めて、院長室を出た。なん日もかかるだろうな、とは思った。あまり出入りしたくないのにな、とも思った。しかしそれ以上に、実はその仕事は考えているよりもずっと大変なのではと、帰宅した頃に思い至った。週二ペースで手紙を読んでいくとして、無断侵入という状況で一日に読める通数、そのペースであの量を全部読み終わるまでの時間を計算する。気が遠くなってきた。
いい加減なチェックはできない。マリコに繋がる切っ掛けとなる話は、どこにどんな形で潜んでいるかわからないのだから、手紙をざっと読み飛ばしていくわけにはいかないのだ。
手紙を減らしたい。でも読まねばならない手紙の量を減らすためには、マリコについて更なる情報が必要だ。京一郎の口からあの『大昔』という情報を得て以来、早苗と恭一郎の会話でのマリコについての情報の進展はない。京一郎の話は繰り返される単純なものばかりで代わり映えしない。あの手紙の山を一通ずつ読む前に、あの手紙の山を減らせる、できれば半分以上減らせる情報が欲しい。
何をどんな風に話しかければ新たな情報を聞き出せるだろうか。そんな風に考えて、ふと姉の沙紀を思い出す。沙紀ならもっとスマートに調べられるのではないか。もっと簡単にマリコに辿り着けるのではないか。自分は沙紀と違って賢くないから、そこまで考えて首を振った。ないものねだりをしても、自分は沙紀にはなれないのだから。自分で自分を卑下するだけの、無駄な時間の使い方はやめねば。そう考えても結局ことあるごとに、沙紀と自分を比べて凹んでしまうのだ。特に先日ランチで環と話をしてから、今までずっと頭の隅に追いやっていた沙紀に対する劣等感が、頭の中心の方へ移動してきてしまったように感じている最近は。
ガタ、ドタ、コン。
何かが床に落ちる音がした。音の方を見て早苗はうんざりした。早苗のコートが椅子から床に滑り落ち、更にバッグの中身が床の上に散乱しているのだ。なんてことはない。早苗は考え事をしながら、応接セットの椅子の上にバッグを置いた。そしてその上に背中側を内側に縦半分に折りたたみ、両袖を合わせた形にしたコートを乗せた。バッグは上部がジッパーやボタンで閉まるタイプではない。中身が偏った状態でいい加減に置かれたバッグはコートを道連れにして傾き、コートを床に落とすとともに、バッグの中身もぶちまけたのだった。京一郎のベッドサイドで洗濯物の回収をしていた早苗は、作業を中断して椅子へ向かった。
財布、スマホ、車の鍵……。早苗は一つずつ拾い上げ、バッグに戻していく。コートは椅子の背凭れにかけた。
「マリコさんにハンカチを買ってあげたいな」
早苗がハンカチを拾い上げると、そのタイミングで京一郎が言った。
「え? ハンカチ?」
「ああ」
早苗は握った安物ハンカチを見る。それから京一郎を見ると、京一郎は早苗の方を見ていた。京一郎から新たな話題が振られた。ハンカチの話を早苗は一度も聞いたことがない。
「以前あげたハンカチは古くなって捨ててしまっただろう? だから新しいのをあげたいんだ」
「大事に使ったのでそんなに傷んでいませんし、まだ持っていますよ。まだいただかなくても大丈夫です」
早苗はマリコとして適当に話を合わせた。この返しで京一郎を不快にさせないといいが。でもよく考えたら、大昔のハンカチだったらもう擦り切れて捨てられているのが正しいか? 欲しいと言った方が自然だっただろうか。京一郎がどう感じるかドキドキしながら考えていると。
「そうなのか?」
京一郎はそう言うと顔を下に向け、目が合っていた早苗から視線を逸らす。不審がられているという気はしない。寧ろどことなく寂しそうに感じる。もしかして断ったのがいけなかったのだろうか。京一郎の次の反応が怖い。
「でももう古いだろう。マリコさんには新しいのをあげたい」
顔を上げた京一郎は、怒りはしなかった。しかし京一郎からそうお願いされてしまい、早苗はありがたく受け取ると言わねばいけないような、そんな気がしてしまった。
「そうですか。それなら素敵なのをプレゼントしてくださいね。京ちゃんは」
早苗はここで一歩踏み込んでみようと思った。これを聞いたせいで京一郎が怒らないでくれと祈りながら。
「どうしてそこまで私に、ハンカチをプレゼントしたいのですか?」
早苗はすぐに何かしらの返答か反応が、京一郎から返ってくると思っていた。しかし京一郎はこの質問の直後から黙ってしまった。目を開けているから寝てはいない。上半身を少し起こした状態の京一郎の視線は、ベッドの正面の、壁と天井の境目辺りを見ていた。
「俺があげたんじゃない。あれは俺の母があげたものだろう」
「え?」
早苗は思わず変な返事をしてしまった。ここで京一郎の母が出てくるとは思っていなかったからだ。頭のどこにもなかった人物の登場で不意を突かれたのだから、声を出してしまったのは仕方がないだろう。
「そうね、そうだわね」
早苗は焦る。返しとして、これで合っているのかわからない。敬語も使い忘れた。京一郎は視線を早苗に向ける。
「覚えてないか」
京一郎は落胆したように溜息をついてから、独り言のように呟いた。小さな声だったが、早苗の耳には届いていた。京一郎をがっかりさせてしまったようだ。これはまずいことをしたと思った。
「ごめんなさい。今、思い出したわ」
早苗は謝った。早苗にはこれしかできない。あと何を言おうかと、あまりよくない頭をフル回転させていた時。
「謝ることはない」
京一郎はそう言って目を閉じた。
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