27.侵入3
マリコ。
よくある名前のはずである。しかし卒業アルバム調査の結果からは、高校から大学にかけての京一郎の周辺には、マリコという名の女性は一人もいなかった。卒業アルバムにのっていなくて高校大学時代で考えられるとしたら、あとは部活の後輩とか、サークルの先輩とか。でもそれだと調べる方法がない。
いや、でも待って。
早苗は確認方法を一つ思いついた。でもそれにはもう一度院長室に入る必要がある。しかしあまり頻繁に院長室に出入りしては、いくら介護をしている長男の嫁とはいえ不自然だろう。
今日は木曜日。早苗は週明けの月曜日に院長室へ行ってみようと決めた。
月曜日の午後。
早苗はまた一人で院長室へ侵入した。
京一郎の許可を取ってない以上、関係者でない早苗がこの部屋にいるのは入室ではなく侵入だ。身内とはいえ、弥栄子や京弥が知ったら早苗は怒られるだろう。身内なんていう馴れ馴れしい単語が思考の流れで頭に浮かび、ふと早苗は自分の立場を考える。そういえば自分は弥栄子や京弥にとってなんなのだろう。きっと彼らの頭の中の認識は身内ではない。多分、子孫繁栄のために連れてきた他人。
今よりも若くてちょっとしたことで頭に血が上り、京弥と喧嘩になった時に、彼から言われた言葉がある。
『お前にプライドなんてあるんだ』
と。どうやら早苗はプライドなどない女だと見られていたらしい。プライドを持つのが許されるのは、周囲がプライドを認めてくれるのは、沙紀のような完璧な女性だけだとでも言いたいのか。
ともあれ、無断で元院長の私物を漁ろうとしている、京一郎の口から出た知らない女の名前という好奇心に負けた馬鹿な嫁の、病院トップの部屋への無断侵入。犯罪だと思うが気にするつもりはない。いくら許しがたい理由からの行動であっても、嫁を警察に突き出すようなみっともない真似を、世間体を気にする弥栄子がするはずないのだから。
木曜日の続きだ。早苗は京一郎の私物の入った扉を開けた。今日の目的は、本のように整然と並べられているアルバム類ではなかった。一番下の段に無造作に置かれている、『愛媛ミカン』と側面に大きく書かれた、いかにも古そうな段ボール箱の中身だった。段ボール箱を両手で持ち上げて出そうと思ったが案外重く、早苗は小さく呻き声をあげながら、その箱をズルズルと引きずるように床の上に引っ張り出した。戻す時は床と収納の五センチほどの段差を引っ張り上げる苦労を思うとうんざりするが、中を見るためにその程度の力仕事は仕方ない。
段ボール箱の蓋を開けると、中には色々な物が突っ込まれていた。小中高大の卒業証書、卒業式や何かの折にもらった表彰状、記念品などなど雑多。さすがに医師免許はない。その中で早苗が見たかったのは、高校の部活や大学のサークル活動での京一郎の歴史だった。
しかし箱の中全部を引っかき回してみて、早苗は自分が随分と認識不足であることを思い知らされた。高校生や大学生として過ごしていた頃の京一郎には多分、勉強以外の余裕がなかった。実際当時の高校や大学がどれほど部活動やサークル活動に力を入れていたのかは、当時を知らない早苗にはわからない。当然京一郎の持ち物の中に、後輩からのお礼や応援の書かれた色紙とか活動中の写真とか、早苗の世代以降ではありがちの記念品はなかった。
木曜日はいいこと思いついたと思ったのだが空振りだった。早苗は「あ~あ、私って考えなし」と小声で自嘲した。しかしその段ボール箱の底に、縦横とも幅二十センチ、高さ十五センチほどの、有名店の煎餅の缶が入っていた。賞味期限が五年以上前だから、これはもう食べ終わった空の缶だろう。両手で持ち上げてみると思ったよりもずっしりと重い。中に何かが詰められている。早苗は蓋を開けてみる。中には煎餅の代わりに沢山の手紙らしき紙が入っていた。
手紙。そうだ。人間手紙だけは書く。
早苗は手紙の入った缶を持って立ち上がると、先日同様にソファに座った。缶とその蓋をローテーブルの上に置き、まずは厚さ目安三センチになるくらいの手紙の束を掴んで、缶の中から取り出した。そして一通ずつその差出人をチェックしていく。ほとんどが医療関係者や医療関連会社、市や県の機関などなどで、差出人にマリコという名前は全く見つからない。早苗はその作業を何度も繰り返す。しかし全手紙の差出人の中にマリコはいなかった。
次は葉書なら裏面の内容、封筒なら中身とその内容をチェックしたいのだが、今日はもう無理だ。差出人チェックのため、当初の予定をすでに数十分超過している。これ以上の滞在は不審に思われるだろう。続きは後日改めて。
早苗は缶を段ボールの中に戻す。
しかしこの手紙の内容の総チェック。手紙の総量を思うとそう簡単に終わりそうもない。全部読むのにあと何回この部屋に通うことになるだろうか。あまり頻繁に出入りしては職員の間で噂になってしまい、京弥の耳にでも入ると追及されてうっとうしいのに。
早苗は重たい段ボールを収納内に引っ張り上げる。そしてそっと収納の扉を閉めた。窓に目をやると白くくすんだ窓ガラスの向こうに、陽の光を浴びる小さな桐の蕾たち。早苗はその景色から目を逸らすと、ドアを開けて院長室を出た。長時間院長室に居過ぎた。誰かとすれ違ったらどうしようとドキドキする。しかしこの日の院長室を出てから京一郎の病室のある階に着くまで――エレベーターの中でまで――早苗は運よく誰とも出会わなかった。こんな些細なことでもラッキーに感じて、その午後は気分がよかった。
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