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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
26/65

26.侵入2

『早苗さんが院長夫人なんて、まだ早いわ』


 弥栄子は大反対した。


 京一郎が倒れ、京弥が実家へ戻り、院長代行として働き出してしばらくした頃、京一郎はまだ復帰できる状態ではなかった。年齢的にここは院長を京一郎から京弥に変えるべきという話が出たが、弥栄子の反対は凄まじかった。


『東京で散々甘ったれた生活をしてきたくせに』


 甘ったれた生活とは思っていない。勤務医の妻として、忙しい夫に極力頼らずに子育てに奮闘していたつもりだ。


『京弥が院長になったって、早苗さんは役員にはしないわよ』


 弥栄子は弥彦の娘として病院役員に名を連ねている。早苗にはその立場は与えないという。別に早苗はそんな立場が欲しいとは思っていないが、弥栄子は早苗の関心のなさを信じてはいない。


『あの人が引退しても、私は理事長夫人と呼んでもらえると思っていたのに』


 とはいえ京一郎の頭の病状は悪くなる一方で、ちっともよくならない。それで理事長職はないだろう。


 結局、弥栄子のわがままを通しては病院の業務に差し障るのだ。さすがに言いなりにはなれない。とうとう、我慢の限界に達した京弥が怒鳴りつけた。


『怒鳴りつけるなんて、親をなんだと思っている。大事に育てた息子からこんな屈辱を受けるなんて』


 弥栄子は『死にたい』と、この世の終わりのように泣き喚いた。怯んだ京弥はオロオロし、怒鳴ったことは弥栄子に謝罪した。しかし京弥は院長にならないとは言えなかった。京弥が院長になるという決定は、病院のために覆らないと慰めた。病院のためは弥彦のため。弥栄子も尊敬する父・弥彦のためならと涙をのんだ。


「こんなこと程度で怯むのね。だから舐められるのよ。死ぬわけないんだから、放っておけばいいのに。面倒臭い人たち」


 主が不在のどこか寂しい院長室を見まわして、一頻り出来事を思い出したあと、早苗は京弥を馬鹿にして呟いた。ドアを開けた正面には院長の執務机と椅子。執務机の上には何も置かれていない。以前はパソコンと書類ケースが置かれていた。パソコンは越してきたばかりの頃に、仕事を引き継ぐために京弥が持って行った。以前はまだ京一郎も今より真面な状態だったので、京弥にパスワードを伝えることもできたらしい。書類ケースは京一郎が書類を見る必要がなくなってから撤去された。

 スマホも持っていたらしいが、こちらは弥栄子に回収された。しばらくは弥栄子が保管していたらしいが、京一郎が真面な返答をしなくなってからは、『もう必要なさそうね。解約するわ』と言っていたので、今はどうなっているかわからない。


 どちらもともに、京一郎の所持していた電子機器は早苗の手の届かないところにある。よってパソコンやスマホの中に入っているかもしれないデータを、早苗は確認することができない。しかし大昔ということで、マリコが平成より前に知り合い二度と戻らないとするとその古さから、パソコン内やスマホ内に何かしらの情報がある可能性は低そうだ。

 それでも電子機器の中を見たいとは思う。住所録にくらいは何か残っているかもしれない。でも京一郎の持ち物だった、主に仕事に使っていたパソコンやスマホを見たいなどと言ったら、それこそ不審がられて理由を追及されるだろう。それは避けたい。


 執務机の手前にはソファやローテーブルの応接セット。両側の壁は本棚や収納で、本や資料がびっしりと並べられていた。執務机の向こうの壁には腰高窓があり、カーテンはレースもドレープも窓の両端でまとめられ、外の景色がはっきりと見えていた。丁度外には桐の木があって、落葉していて緑はないが、黄色いスエードに包まれたような丸い蕾が房状になって見える。この季節特有の景色のはずなのだが、ここには自然を眺めている時に感じる気持ちのよさはない。その原因は長期間磨かれていないくすんだ窓ガラスと、この土地特有の強い北風のせいか、どこかからか飛んできたらしき透明なビニールの小さなゴミが、網戸と窓の隙間に挟まっているせいだった。特に窓枠の下とカーテンの陰から微妙に少しだけ覗くその異物が妙に汚らしい。この部屋は窓の拭き掃除をしないのか。その前に窓を開けて空気の入れ替えさえしないのか。それとも入れ替えしてもゴミは放置されているのか。早苗はこの部屋の現在の扱いにがっかりした。


 早苗はその残念な景色から目を背けると、まっすぐに壁際の一角に向かった。それは院長室に入ってすぐの左側にある収納部分で、上側は五段の本棚、下側は幅四十センチ高さ八十センチほどの大きさの扉が二枚、観音開きに開けられるように取りつけられていた。早苗はしゃがむと下側の扉を両手で開ける。全開になった収納の中には京一郎の私物が入っていた。


 三段に仕切られた収納の中。一部は段ボールに入っているが、本やアルバムや資料のファイルや学会誌などは、背表紙をこちらに向けてきれいに並べられていた。

 この収納に入れられた物は早苗が予想するに、弥栄子から家に持ち込むなと言われたものだろう。弥栄子にとって京一郎は、父・弥彦の業績を守るためのただの養子だ。弥栄子にとって大事なのは弥彦の足跡。弥栄子の家には弥彦関連の物が山ほどある。以前早苗は弥栄子から、自慢げに見せてもらったことがあった。

 これこそ病院に寄贈し、京一郎の私物こそ家にしまっておけばよかろうに、弥栄子は決して手放さない。


『お父様の歴史を守るのは家族の役目』


 と言っているのだ。


「面倒臭い人たち」


 早苗は先ほどと同じ言葉を言いながら、アルバムの一つに手を伸ばす。右手に人差し指の先端を引っかけて取り出したのは、京一郎の大学の卒業アルバムだった。





 執務机の椅子に座るのは申し訳ない。あれは院長の席だ。早苗はソファに座るとローテーブルの上にアルバムを置き、ページを捲った。まずは卒業生の顔写真。写真の下の名前を確認する。しかし卒業生の顔写真のページはあっという間に終わった。

 昭和時代の医学部の卒業生なんて、ほとんど男性だ。そしてマリコという名の女性はいなかった。教職員の写真もほぼ同じ。マリコはいなかった。再び写真のページに戻り、京一郎の写真をまじまじと見た。原田京一郎(はらだきょういちろう)。写真の下の名前は旧姓だ。若い頃の京一郎は爽やかで、かなりのイケメンだった。早苗と出会った頃の京弥にも少し似ている。お義父さん案外かっこいいじゃない、と思って、早苗はイケメン青年時代の京一郎の写真を、心の中でフフフと笑いながら凝視していた。しかし十秒ほど見詰めてから我に返り、今はそんなことに耽っている場合ではないことを思い出した。


 早苗は何も収穫がなかったアルバムを元あった位置に戻す。そして今度はその隣にある高校の卒業アルバムを手に取った。こちらは都立高校の卒業アルバム。

 そして再びソファに座り、アルバムを捲る。中の写真は集合写真のみで一人一人の顔写真はない。集合写真の下に並び通りに書かれた一人一人の名前を、チェックしていくことにした。こちらは高校だけあって、大学の卒業アルバムよりもはるかに女子の人数が多い。右手の人差し指で名前を指し、その指を名前に沿って移動させながら頭で確認していく。指が最後の一人の名前まで辿り着いた。


 いない。


 マリコという名はなかった。見落としがないか、読み方によってはマリコと読める漢字を素通りしてないか、もう一度確認した。やはりいない。次は教職員。卒業生の時と同様に、慎重に女性の名前を確認する。しかしマリコはいない。早苗は立ち上がると高校の卒業アルバムも元の場所に戻した。そして再び大学の卒業アルバムを手にする。今度はその場でしゃがんだまま膝の上にその卒業アルバムをのせて、高校の卒業アルバム同様女性の名前の漢字の読み方次第でマリコと読めないかまで、早苗は一人一人丁寧にチェックしていった。


 いないか。


 早苗は溜息をついて大学の卒業アルバムを元の場所に戻す。そして立ち上がった。

 今日はここまで。もう時間だ。京一郎の病室へ行かなければならない。早苗は窓の外に目を向ける。桐の花の蕾が寒風に揺れていた。



読んでくださってありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 早苗さんか一つ一つ捲るページに、こちらまで息を殺して見守ってしまいました((((;゜Д゜))))))) 早苗さんの胸の奥に沈む色んな柵。 私なら、ムキーッとなっちゃいそうです。゜(゜´Д`…
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