25.侵入
「覚えて……いな……い?」
京一郎が怒り出さなかったことにホッとするのと同時に、覚えていないという返事が早苗には意外だったので、言葉が途切れ途切れになってしまった。
「マリコさんは覚えているのかい?」
「え、あ、ごめんなさい。私も覚えてなくて」
早苗は咄嗟に言ってしまってから、しまったと思った。自分から出会った時について聞いておいて、聞いた本人が知らないなんて変ではないか。
「だろう?」
京一郎は、お互いそのはずだと納得していると思われる一言を返した。そして認知症が始まっているお陰かこの質問の、早苗の質問と答えのおかしさに対する突っ込みはしてこなかった。
それにしても、出会いをお互い記憶にないのが当たり前とは、どういう状況の初対面だったのだろうか。
「それにマリコさんとの日々は大昔のことだ」
「大昔?」
「ああ、もうずっと大昔だ」
京一郎は顔を再び窓の方向へ戻す。そしてじっと動かない。京一郎の瞳は山を見ているのか、山の方を向いているだけで映るのはマリコとの過去なのか。
「また来ますね」
早苗は京一郎にそう声をかけて、病室をあとにした。
「大昔って!」
運転席に乗り込んだ早苗はハンドルを見ながら、大きな声で独り言を言った。
「大昔ってことは」
声の音量はダウンしたが、早苗の独り言は続く。
「私の今までの行動は無駄だったってこと?」
早苗は京一郎の経歴をもう一度、新しい順に思い浮かべる。京一郎は婿養子として南雲家へやってきた。それ以前は別の土地に住んでいた。大昔ということは、京一郎がマリコと出会ったのはこの土地ではないのではないか。だとしたら一体どこで。
早苗は記憶の中を探す。以前何か聞かなかっただろうか。京一郎とは顔を合わせる時間も少なく、京弥から京一郎の話を聞くことも結婚生活の中でほとんどない。
何かないか、何か。
早苗は何か思いだせそうで思い出せなくて、その何かが気になって、車のエンジンをかける動作をする気が起きない。
そうだ、大崎。いや、ただの大崎じゃなくて、大崎ひろこうじ……とかなんとか。ああ、そうだ、思い出した。五反田駅の近くよ。
早苗は五反田という地名を思い出した。京一郎は高校時代から弥栄子と結婚するまでの十年程を、五反田の父方の祖父の家で過ごしたのだと聞いた覚えがある。高校生ともなれば、好きな女の子の一人もいたかもしれない。大学時代もあり得る。思いを寄せていた女性がいたのかも。それなら京一郎のその時代の資料を見ればいい。
そうと決まれば早苗のとる行動は一つだけだ。早苗はスマホの中に入っているスケジュールを確認する。明日から始めようと思った。
早苗は車のエンジンをかける。首を回して顔をリヤウインドーに向ける。ガラスの向こうに病院の看板が見えた。早苗はニヤリとした笑い顔を作ってから正面に向き直ると、車のエンジンをかけて発進させた。
とある午後のこと。早苗は乾いた洗濯物を持って病院を訪れていた。日頃、早苗が京一郎の元を訪れる時刻の約一時間前だ。早苗は京一郎に会う前にしたいことがあった。それは院長室への侵入であった。
この病院の院長室のドアの鍵がいくつあるのか早苗は知らない。なぜなら早苗はこの病院にとって部外者であるからだ。
京一郎が入院したばかりの頃の早苗は、院長である南雲京一郎の、息子の嫁という立場の人間だった。病院スタッフの間で早苗という人間が話題に上ると、若先生の奥さんなどと表現されていたらしい。早苗が病院スタッフと関わらねばならない用事など、今であっても滅多にない。さらに医療の資格がないから院内で仕事はできないし、経営に携わる肩書ももらっていない。
そんな早苗は、それでも院長室の鍵だけは一つ持っていた。それは京一郎がまだもう少ししっかりしていて、早苗をマリコさんなどと呼んでいなかった頃に、京一郎本人から早苗に渡された鍵だ。京一郎が院長室から持ってきて欲しい物があると、早苗が頼まれて京一郎の代わりに取りに行っていたのだ。京一郎は自力での移動が大変なので、色々とお願いする早苗にそのまま鍵を預けっぱなしにしていた。しかし最近京一郎は一段とおかしくなった。窓の外ばかり見ている。
早苗は鍵を京弥に渡そうと思ったのだが――色々と忙しくて、いやそれは嘘、マリコという名を京弥に言えなくて――問題を放置していた。
そんなわけで早苗の手元には、ラッキーなことに院長室の鍵がある。しかも京一郎から様々な用事を言いつけられていたお陰で、物の置き場所などを結構把握している。早苗が調べてみたい物の場所もしっかり把握していた。
何食わぬ顔で院長室のある階までエレベーターで行くと、すれ違うスタッフに簡単な挨拶などして院長室に向かった。普段通りにしていれば多分誰からも咎められない。早苗は院長室のドアに辿り着くと鍵を鍵穴に差し込む。手首を捻るとカチャリと開錠の音がした。
一歩入ると部屋の中をざっと見まわす。前回この部屋に入ったのは、正確な日付はわからないが、一カ月以上は前のことである。その時と物の配置などなど、見た目は全く変わっていない。
この部屋は近々片付けられる。病院としてはこれ以上京一郎の快癒を待てないため、最近京弥に院長が変わったからだ。よって病院関係者以外にはまだ十分知れ渡っていないが――環も弥栄子を院長夫人と呼んでいた――、現在の早苗は院長の息子の嫁という立場から、院長の妻という立場に変わった。といっても、早苗の扱いの何かが変わるわけではない。
今後この部屋は京弥が使うため、京一郎の持ち物を運び出す日程が決められた。早苗はその前にこうして入り込めてラッキーだったと思った。ふた月後にはこの部屋は京弥が使用しているので、こうして早苗が勝手に入り込むのは不可能となっていただろう。きっと鍵も返せと言われる。
こうして現在は早苗が院長夫人だが、それが気に入らない人間がこの世に一人いた。
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