20.飯塚家での亮弥
「あの子何か失礼なこと言った?」
東京にいた頃、互いの家をよく行き来させていた凛音のママから何か言われたことはない。躾が悪いと言われるような子供ではないと信じたい。
「ううん。うちに対して何かしたってわけじゃないのよ。大人しくて礼儀正しくて、とってもいいお子さんだったわ。ただ凄く怒っている声が聞こえたの」
環の話ではそれは昼食後だったそうだ。
ミートソースのスパゲッティを昼食として出した。パン、サラダ、スープもつけたが、中学生男子のお腹はそれだけでは満ち足りないかもしれないと思い、午後一時半ごろに環はお茶とお菓子を持って淳也の部屋へとやって来た。
二人は昼食時以外朝からずっと淳也の部屋に籠って、多分ゲームをしていると環は思っていた。二階の廊下を進み淳也の部屋の前に立ってドアをノックしようとした時、ちょっと興奮の混じったような、もしくは怒っているような、そんな風に感じられる大きめの声が聞こえてきた。環は『ゲームで盛り上がっている?』と思ったのだが、そのゲームの興奮とはどこかが違う険悪な声が気になってしまい、ドアに耳を近づけて部屋の中の会話を盗み聞きした。
「実は盗み聞きなんで話し辛いのよ。息子たちにバレたら監視だってカンカンに怒って、しばらく口きいてくれないんじゃないかと」
環は眉根を寄せているのに口元は笑っているという、困り笑いの表情を作って言った。
「亮弥には言わないわ。私たちの間だけの話ね」
どうやらいい話ではないらしい。早苗は自分一人の心に留めておくと約束するつもりで言った。環は変な表情をやめて頷いた。
「ちょっと怒った声っていうのが、南雲君の声だったのよ。最初ね、『あの糞ババアのせいだ』っていう声が聞こえたの。真面目そうな南雲君の口から『糞ババア』なんて言葉が出ると思わなかったからびっくりしちゃって」
亮弥の通う私立中学校は身だしなみが厳しい。特に髪型はしょっちゅう検査があり、染めるのも制服のシャツの襟より伸ばすのも禁止されていた。さらに亮弥の顔立ちも、弥栄子似なので目元がきつめの印象の顔ではあるが、成長したら強面男になれそうな造りではない。私服も早苗がチェックをして、大人から見てだらしのない印象を与える服を着せていないので、常識的で問題のない中学生男子に見えるはずだ。糞ババアという単語が口からスラリと出てくるようには見えないのだろう。
「でも男の子だし、反抗期だし、友達と二人きりだし。多少の乱暴な言葉は仕方ないとは思うのよ」
環は先ほどと同じ困り笑いを一瞬だけ浮かべたが、すぐに真顔に戻った。早苗も思わず似たような表情を作ってしまったが、すぐに顔を引き締めた。
「私ね、南雲君が糞ババアって呼んだのは、あなたのことだと思ったのよ」
「私のこと?」
「そう。あんな優しそうなお母さんをあんな風に呼ぶなんて、実は母親に何か問題でもあるのかしら。それとも南雲君自身に問題があるのかしら、そう思ったのよ。でも話を聞き続けているうちに、南雲君が言っているのはあなたのことじゃないとわかったの」
「私じゃない……」
「もうわかるでしょ。南雲君のお祖母ちゃん、院長夫人のことよ」
この土地の人たちが院長夫人と呼ぶのは弥栄子のことだ。
「どうしてわかったの?」
「『ジジイは施設に入れればいいんだ。ババアが一人暮らしができなくて、お父さんが病院を継がねばならないなら、このド田舎で二人仲良く暮らせばいい。俺とお母さんは東京で暮らす』それから」
他にも亮弥は何か言ったようだ。
「リオン? レオン? そんな名前の子知り合いにいる?」
「凛音じゃないかしら。東京で仲良かった同い年の男の子よ」
「じゃあ、『凛音と一緒の中学に進みたかった。同じ私立中学に進もうって凛音と約束して、二人で励ましあって、塾で頑張っていたのに全部無駄だった』」
確かに考えてみれば亮弥にとっては、そういう結果になってしまった。しかし引っ越しが決まって志望校変更を相談した時、亮弥は親に対して何も言わなかった。だから亮弥も家庭の事情を納得しているのだと思っていた。しかしそうではなかった。言っても何も変わらないと悲観していたのか。勝手な親を嫌っているのか。とにかく、亮弥が傷ついていたことは確かだった。
「それから」
亮弥と凛音について考えていた早苗の耳に、『続きがあり』を意味する接続詞が入ってきた。話しはそれだけではないようだ。二人について考えるのをやめて環の話に集中する。
「『お姉ちゃんはいいよな。大学生になって逃げ出せて。俺も早くあの家から逃げ出したい。大学は医学部にはいかない。医者にはならない』」
そこでやっと環の話が止まった。早苗は話を聞いているうちに、恥ずかしさでどんどん身を縮めていった。頭を抱えてしまいたい。
「お恥ずかしい、不快な話を聞かせてごめんなさいね」
早苗は環に謝った。南雲家の上手くいっていない現状の話を聞かされるなど、気持ちのいいことではない。
「いいのよ。ていうか、私が行儀悪く立ち聞きしたんだから。自己責任よ。逆にお宅の人に聞かれたくないだろうことを聞いちゃって、申し訳なく思っているのよ。そんな行動とっちゃって、恥ずかしいのはこっちもよ。それよりも南雲君、かなり内に籠ってストレスたまっているみたいね。引っ越して友達と別れたこととか、お祖母さんのこととか。医者にはならないって言ってるし」
「でも聞かせてくれて感謝だわ。私には医者にならないなんて言わないし、主人にも将来のことなんて何も言ってないと思うのよ」
親とは滅多に口をきかなくなった亮弥。早苗は亮弥の心の中がわかってよかったと思う。ただ、この話が弥栄子や京弥の耳に入ったら大変だ。大騒ぎになる。弥栄子も京弥も亮弥が医者にならないとは思っていない。二人が知ってしまったら、家族会議という名の亮弥への説得会となるだろう。それでも亮弥が頑なな態度をとれば、弥栄子はヒステリックに喚き散らし、京弥は頭ごなしに怒鳴りつけるだろう。
「ところで南雲君お姉ちゃんがいるのね。知らなかった」
「年が離れているの。亮弥とは八歳差。関西の大学に通っているの。一人暮らししているのよ」
早苗は家族にほとんど連絡を寄越さない弥生を思い出した。
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