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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
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2.病室

第二話です。

   灰のマリコさん

                         南雲弥生(なぐもやよい) 作


「おはよう、マリコさん」

「おはようございます、(きょう)ちゃん」

 早苗(さなえ)とその義父・京一郎(きょういちろう)は窓の大きな広い病室で、当たり前のように軽く朝の挨拶を交わした。現在京一郎は、彼の長男の嫁の早苗をマリコと呼ぶ。介護が必要となってすぐからそう呼ぶようになったわけではない。これはごく最近に始まった変化だった。


 早苗が京一郎の長男・京弥(きょうや)と結婚した当初からずっと、京一郎は長男の嫁に呼びかける時は極普通に『早苗さん』と呼んでいた。その後もずっとそうであったし、早苗もそれを自分の常識で考えて、当然のことと認識していた。

 しかしある日、院長室で倒れている京一郎が発見された。その後、何とか一命をとりとめこうして病院の個室に入ってからは、時々やって来る早苗をなぜかマリコと呼ぶようになってしまった。自力でできることに制限のある刺激のない生活のせいで、認知症が始まってしまったのかもしれない。


 困ったことにマリコは早苗の義母すなわち京一郎の妻の名前ではない。義母の名は弥栄子(やえこ)である。それ故に早苗はこのことを義母にも京弥にも相談できないでいた。マリコがもし京一郎の過去の不倫相手の名前でそれを弥栄子が知っていたりしたら――プライドが高くて気の強い弥栄子がどんな反応をするか想像するだけで恐ろしかった。


『マリコさんじゃありません。私は早苗ですよ』


 最初に京一郎が早苗をマリコと呼んだ時、早苗はそう言ってマリコという名をやんわりと否定した。その瞬間、ベッドに横たわる京一郎の顔が真っ赤に変わった。


『なんで嘘つくんだ!』


 京一郎はそう怒鳴って必死に布団の中の左手をバタつかせた。京一郎は右半身が不自由だ。左半身はあれだけ暴れているのに、右半身はたいして動かなかった。

 京一郎の目は必死の形相でベッドサイドのカップの方向を見ている。早苗は京一郎がカップを掴んで早苗に投げつけたいのだなと思った。それほどまでにマリコではないと否定されたことを怒っているように見えた。

 どうせ弥栄子は京一郎には滅多に会いに来ないし、京弥も早苗ほどは来ない。物を投げつけようとするほどの怒りを見せられるくらいなら、このままマリコと呼ばせておけばいいだろう。弥栄子や京弥に知られたらその時のことだ。京一郎の剣幕に早苗はそう開き直った。


『お義父(とう)さん、そうですね。私はマリコです』

『俺を馬鹿にしているのか! おとうさんなんて呼ぶな! マリコさんは俺の娘じゃないだろう!』


 京一郎はそう言ってカップに向かって手を伸ばしている。多分、投げつけてやりたい俺は怒っている、の激しいアピールだ。


『そうですね。じゃあ、なんて呼んだらいいですか?』


 早苗はそう聞いてみた。怒りの火に油を注ぐだけかもしれないが、本人に聞かねば何もわからない。


『いつも呼んでいるだろう! 俺は京一郎だからキョウちゃんだ』


 単純なあだ名であった。


『わかりました。これからは間違えずに京ちゃんと呼びますね』

『わかればいい』


 京一郎は満足そうにそう言うと、左手の動きをおさめた。


『それに、どちらかというとマリコさんは、俺のお母さんだ』


 京一郎は満足そうにそう言った。


 お母さん?


 早苗は京一郎の母、京弥の祖母となる女性の名前を思い出そうとした。何かの折に聞いたことはある。しかしうろ覚えだ。記憶の奥深くを掘り返す。確か確か……。


 (いく)


 そうだ、郁だ。京一郎の母の名前は郁だ。マリコではない。それではどうして京一郎はマリコをお母さんと言うのか。しかし京一郎はその日、マリコについてそれ以上は何も語らなかった。





 朝の挨拶を交わしたあと、京一郎は窓の外を見ていた。早苗はテーブルの上に置かれていた蓋つきのプラスチックカップを洗い、洗濯物を巾着型のビニール袋に入れる。


「空がきれいだ。マリコさんの心のようだ」


 窓の外に顔を向けていた京一郎が突然そう言った。今日の外は雲一つない青空。真冬の東日本の澄みきった青が広がる。


「ありがとうございます。京ちゃんだって優しい心の持ち主ですよ」


 早苗はそう返した。自分はマリコではない。『そんなことありませんよ』とか、『そう思うのは京ちゃんだけですよ』とか、そんなマリコの心の清らかさを否定するような表現の入った言葉を返しては、いけないような気がしたのだった。それで考えて、早苗はそんな風な言葉を選んでみた。


「俺は駄目だよ。だって俺は打算で生きてきた、汚い人間だから」


 打算で生きてきた? どう意味だろうか。


「そんなことないです。京ちゃんは立派な人ですよ。だって沢山の人の命を救ったじゃありませんか」


 早苗は強い口調で言った。事実、仕事に関しては、京一郎はストイックだった。京一郎は窓から天井に視線を移すと目を閉じる。


「ここに来たことからして、打算だ」


 京一郎はそう言ったあとも目を開けない。何かを深く考えているように早苗は感じた。


「京ちゃん、私、家に戻りますね」


 早苗は目を瞑ったままの京一郎にそう話しかけた。京一郎は目を開けると早苗を見る。


「仕事か?」


 京一郎の声はどこなく寂しそうだ。ここにまだいて欲しいのだろうと思うと、早苗は申し訳なく思ったが。


「仕事もありますけど、こんないいお天気ですからこれを洗って干さないと」


 早苗は床に置いていた、洗濯物が入ったビニール袋を持ち上げた。


「そうか。それもそうだな」

「洗って乾いたら持って来ますから」

「うん。空っ風が吹いていそうだ。暖かくして外に出なさい。風邪をひかないように」

「はい。ありがとうございます」


 早苗は病室をあとにした。





 家に戻って洗い終えた洗濯物をベランダに干す。今日は風が強い。干した洗濯物は吹き飛ばされそうにはためき踊らされて、結局物干し竿に絡まった。それを見つけて絡まりを解いても、またすぐに絡まる。強風の中では無駄な作業だ。早苗は解くのを諦め、絡まる洗濯物を放置した。

 手や頬を赤くする冷たい北風が吹く中、見上げた天空は果てしなく青い。真冬の、靄や霞のない澄みきった青空を、京一郎はマリコの心のようだと言った。

 この空のように深く広く美しいマリコの心。病室に横たわる京一郎は今もこの空を見詰めているのだろうか。そしてマリコに思いを馳せているのだろうか。


 早苗はマリコという人物が気になった。早苗がこの家に嫁いで二十二年。一度も聞いたことのない名前だ。一体マリコとは誰なのだろう。

 京一郎はいつどこでマリコに出会ったのか。マリコはどんな風に京一郎に接していたのか。どんな影響を京一郎に与えたのか。

 そして今、マリコはどこにいるのか。


ありがとうございました。

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