19.環とのランチ
スマホを見ると時刻は午前十一時十五分。早苗は溜息をついた。
今日は亮弥の友達・飯塚淳也の母、飯塚環とお昼を食べる約束をしていた。地元で人気のレストランに午前十一時半の予約。今から車で移動して、間に合うかギリギリだなと思った。こんな状況ではスマホに文字を打つ時間さえ惜しいが、間違いなく待たすことになる環に、少し遅れるかもしれないと連絡を入れた。そのまま小走りに家を出て車に向かう。弥栄子の家の、駐車場横の腰高窓のレースのカーテンが三十センチ開いていて、そこから弥栄子がガラス越しに早苗の車を睨んでいた。
早苗はそれを見て見ぬふりをして車に乗り込む。そのまま弥栄子を気にかけることもなく車を発進させた。
「自分はどうなのよ」
早苗は運転席で独り言を呟いた。
毎日なわけじゃない。本当に偶にだ。友人とランチすることの何が悪いのか。弥栄子が子育てをしている時代のこの地域には、そういう習慣はなかったのかもしれない。しかし弥栄子だって京一郎が元気で院長をしていた頃、友人と旅行へ行ったり東京へ遊びに行ったり、京一郎に仕事をさせて遊び歩いていたではないか。しかも京一郎が病に倒れ介護が必要になったのに何もせず、今月もこれまでと同じように友人たちと温泉に行く。
自分は夫を気にせず遊び歩いていいが、早苗は家を短時間空けることさえ駄目なのだ。自分に気晴らしは必要だが、早苗に気晴らしは必要ないのだ。
京一郎は養子で創設者・弥彦の血縁ではないから、弥栄子は弥彦の娘だから、だから家の中で自分が一番偉くて、自分の意見が絶対であると思っているのだ。早苗は弥栄子の息子京弥の嫁だから、奴隷同然に扱ってもいいと思っているのだ。
スマホの通知が鳴った。環からの返信かなと思う。
信号待ちで、助手席に置いたショルダーバッグの中を覗き見る。
『了解。急がなくていいよ。気をつけて』
スマホの画面に環からの通知が表示されていた。
三分遅れでレストランに着いた。環は店の入り口で待っていてくれた。詫びを言って中に入る。店内はベージュとブラウンを基調とした、壁に数枚の静物画が飾られているだけで派手な装飾のない、落ち着いた内装のレストランだった。ワインの種類が豊富らしいのだが今日は早苗も環も車なので、ワインはまたの機会にした。
「遅れてごめんなさいね。急に姑から電話がきて」
早苗はもう一度遅刻を詫びた。
「大丈夫よ。数分だけじゃない。それにしても大変ね」
環は同情的な言葉を返してくれたが、仕事をしている環がこうして時間を作ってくれたわけだし、数分とはいえ遅刻は遅刻。早苗は申し訳なかった。
「ご主人のお父さんが入院してて、ご主人のお母さんと敷地内で同居。わざわざ東京から越して来たんでしょう?」
「そうなのよ」
「南雲病院って言ったらこの辺では有名ですもの。私の母も入院してたのよ」
環の母は数年前に病気で亡くなったそうだ。環の父は健在で環の妹夫婦と暮らしている。
「父はしばらく一人で暮らしてたんだけど、八十過ぎて一人でいさせるの、私たちも不安でね」
話し合いの末、妹夫婦が同居してくれたそうだ。
「それで私もあなたと似たようなものなの。実家が問題ないなら丁度いいって、近所に住んでいる義理の両親から頼りにされちゃってて。だけどさ、義理って面倒よね」
環は「フフフ」と笑った。そこで丁度、前菜が運ばれてきた。食事が始まった。
早苗は今日が、この土地での初めての外食だった。
この土地に一緒に食事に出かけられるような同世代の女性の友人はいないし、京弥は早苗と二人で出かけたがらない。四人でならと京弥は言うが、早苗は弥栄子と食事はしたくないし、亮弥は外食自体したがらない。早苗は四人でという京弥の提案を嫌がって見せた。当然、外食嫌いの亮弥を抜いた三人で食事なんて案は冗談じゃない。
「久しぶりのフレンチ、嬉しいわ」
「久しぶり? 外食しないの?」
「子どもたちのつき合いで折角できたママ友たちは、皆東京在住で声かけ辛いし。主人は私と二人で出かけるのは嫌がるのよ。家族でといっても、反抗期の亮弥は外食嫌がるし、お義母さんと一緒は私が気を使って嫌だし。結局、家族で食事は家でばかり。そうなると一緒に外食する相手がいないのよ」
「それもそうよね。うちも旦那と出かけるのは年に数回よね。淳也も亮弥君同様、親との外食には一緒に行きたがらないし。ああ、でも私は年に数回、会社の飲み会に呼ばれて東京まで行くから、そこでおじさんたちと食事はできるかな。でも仕事の食事はイマイチね。飲むばっかりで料理を楽しめるわけじゃないから。あ、それだったら、これからは私たちこうして月一はランチする?」
「いいの?」
「私もその方が嬉しいわ」
「じゃあ、お願いします」
早苗はにっこり笑って少し頭を下げた。頭を上げると前菜の皿が下げられ、代わりにテーブルにはスープのボウルが置かれる。手にしたスープスプーンをスープに入れ、少しの量を掬おうとした早苗の頭にふと、先ほど窓から駐車場を睨んでいた弥栄子が浮かんだ。恨めしそうな視線だった。
環とこれからも、こうして食事ができるのはとても嬉しい。しかしその度にああして、『あなたの行動に抗議します』という、弥栄子の不機嫌アピールを突きつけられるのだろう。しかしあんな視線に怯んだりしない。弥栄子が嫌な思いをしている原因は早苗にあるなんて言われても、微塵も罪悪感なんて持てそうもない。
「反抗期の息子たちっていえばね、私先日、凄いこと聞いちゃったのよ」
一口目のスープを口に入れた環が、スプーンをスープに戻しながら言った。
「凄いこと?」
「う~ん、それがこの間、亮弥君が遊びに来てくれた時のこと」
亮弥には、遊びに行く飯塚家に迷惑をかけないようにと言った。帰宅後本人は何も言っていなかったが、一体何を言ったのだろうか。早苗は亮弥が何か失礼なことを言ったのではないかと心配になった。
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