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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
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12.話しかけてみようか

 いくらわがままな弥栄子でも自分都合の予約変更の際、予約で一杯の時間帯に無理やり、優先的に予約を捻じ込ませろとは言えない。それにイラつく弥栄子のうさ晴らしか、午前中という、最も有効に使いたい時間帯に早苗の負担を増やすのだ。

 弥栄子を病院へ届けても早苗は家に帰らせてはもらえない。そのまま待合室で弥栄子の診察が終わるのを待たねばならない。診察が終わったら早苗が弥栄子をすぐに車に乗せて家に戻れる状態でないと、待つのが嫌いな弥栄子が怒るから。

 でもそれは早苗が隣に暮らすようになってから。早苗がいなかった頃は自分で車を運転したり、京一郎に送迎させたり、タクシーを呼んだりしていたそうだ。

 今日のような、京弥までいつもと違う行動をする日は、早苗に頼まずタクシーを使ってもらえると助かるのにと思う。でも早苗がそういう楽を考えないようにか、以前弥栄子からこう脅されていた。


『あなたが一緒にいるんだから、姑にタクシーなんて使わせたらご近所様に恥ずかしいわよ。皆、暇だからすぐに悪い噂になるの。わかっているわよね』





 病院への弥栄子の送迎で、その日は二時間近くが潰れた。

 帰宅後急いで洗濯物を干してからリビングに入り、食卓の椅子に座る。早苗は食卓に放置されているコーヒーと二時間ぶりに対面した。マグカップの置かれている場所は一ミリも動いていない。でもそこからは見ているだけで刺々しい心をホッとさせてくれるような、ふんわりとした温かさを伝えてくれる柔らかく上る湯気はもう出ていない。

 左手を伸ばして、手の平で包み込むようにマグカップの表面を触ってみる。見た目の通りの冷たさが、手の皮膚の低めの体温を遠慮なく奪う。その手を離すと今度は右手でマグカップの取っ手を握る。そしてマグカップを胸元に近づけるとその中を覗き込んだ。湯気のないコーヒーが、黒く澱んだ毒々しい液体に見える。早苗は目を瞑ると、覚悟して毒をあおるかのように、冷たいコーヒーを一気に飲み干した。それからわざとトンと軽く音が出るように、少し乱暴にマグカップを食卓上に置く。それと同時に思わず顔をしかめる。面白くない心の内も手伝ってか、コーヒーは予想以上に不味かった。





 いつもの午後の行動だ。洗濯を干すのが遅くなった分、なんとか遅れを取り戻そうと奮闘したが、当初の予定よりも一時間半遅れだった。今日のこれからの行動は慌ただしい。弥栄子の会計をして薬をもらい、乾いた洗濯物を京一郎に届けて世間話をし、そのまま亮弥を迎えに駅へ行く。夕飯は調理時間が短くてすむカレーにした。京弥はカレーにサラダがないと文句を言うのでサラダを作った。亮弥はむしろカレーのお代わりをしたがり、カレーにサラダは必要ないと言うのでサラダはなし。京弥は福神漬けが嫌いでらっきょうのみ。亮弥はらっきょうが嫌いで福神漬けのみ。一人一人の要望通りに用意する。早苗自身の好みはどうかというと、そんなの考えたこともなかった。カレーがあれば、あとはもうどうでもいい。


 駅へ向かう車内で頭がやっと、午前中の、あの温かいコーヒーを一口飲んでホッとした時間に戻った。もう日が暮れているというのに。

 あの時コーヒーの前で考えていたこと。それはマリコさんの正体だ。今朝京一郎は早苗に『幸せかい?』と聞いた。今までよりも一つ話題が増えた。『幸せですよ』と早苗は答え、そこで会話は途切れた。でも今日の午後は浅間山の話だけだった。それ以外の話はなかった。いや、それをさせないほど早苗が適当に返事をし、さっさと病室を出た可能性もあるけれど。

 でも明日また、幸せかと聞かれるだろうか。それとも別の話をされるだろうか。またはいつもの会話以外話さないだろうか。もしいつも以上に突っ込んだ話が出たら……。『幸せかい?』でも、それ以外でも。


 こちらからも、もう少し話しかけてみようか。


 早苗はそんな風に思い始めた。あの療養中の京一郎が毎日気にかける女性マリコ。京一郎の口から弥栄子でない女性の名前が出るなんて、しかも毎日出しているなんて、妻の弥栄子も息子の京弥も知らない。京一郎が、マリコだと思っている早苗に語りかけるその口調は、聞いたことがないほど優しい。京一郎にとってマリコは特別な女性であると早苗は感じている。

 京一郎がマリコの名前を口にしているということは、今のところ早苗と京一郎のみの秘密だ。そして性格悪くクスっと笑いたくなることに、京一郎の口から、大切な妻であるはずの弥栄子の名前が出たことは一度もない。


 ざまあ。面白そう。探ってやろう。


 早苗はそう思った。ばれたらばれた時のことだ。それで文句を言われたり怒られたりしたら、女性の名前など、誰にも相談できなかったとでも言い訳すればいいのだ。それまではこっそりとマリコを調べてやる。

 そう決心した早苗は思わずクスリと笑った。面倒な病室への訪問がなんだか面白くなってきた。

 しかしこれが面白いなんて、自分はこんなに性格が悪い人間だっただろうか。人生をざっくりと振り返ってみたが……自分はそんな悪い人間ではなかったと思う。年を重ねて色々経験して狡くなったからともいえるが、それよりも人生に大きな影響を与えた要因があるからが当たっていると思う。そう、ここでの生活が悪いから不快だからこうなってしまったのだ、そう考えるのが自然だ、と早苗の頭は結論した。





 早苗が悪だくみを思いついた翌日の朝。早苗はいつも通りに京一郎の部屋にいた。しかし今朝は遅れる理由がなくいつも通りの時間に病室に着いたので、京一郎はまだベッドに横になっていた。よって浅間山は京一郎の視界にない。こういう時、京一郎は浅間山の話はしなかった。でも浅間山が見えていなくても、早苗のことをマリコと思っていると思われるような話をしたり、『マリコさん』と呼びかけたりしていたから、早苗はマリコとしてふるまえば正しいはずだ。


「天気がいいな」


 ベッドに寝かされていたり曇って山が見えなかったりすると、京一郎は天気や気候の話をする。早苗はそれに適当に合わせるのが常だ。


「今日も晴れそうですね」


 窓の外は今日も快晴だ。気持ちのいい青空が広がる。


「いい天気だ」


 京一郎は再び、最初と同じようなことを言った。


「これならきっと、今日は浅間山が見えますね」


 早苗はいつも通りの流れ作業をしながら言った。今朝は早苗の方から浅間山の話題を仕掛けてみた。


「あ、見えますよ」


 京一郎と違い早苗は立っている。当然よく見える位置に移動できる。今日も晴れの日らしく、雪を被る浅間山が見えた。


「早く見たいな」


 京一郎は窓の方に顔を向けながら言った。


「私の力で車椅子に移動できればいいのですが。ごめんなさい」


 マリコのふりをして『ごめんなさい』などと、しおらしく、馴れ馴れしく謝ってみる。


「優しいね、マリコさんは。でもマリコさんには無理だ。看護師がしてくれるよ。気にしなくていいよ」


 京一郎はやはり今朝も、早苗をマリコと思っていた。


「キョウちゃん、早く元気になってくださいね。夏にあの山へ行きましょう」

「そうだな。元気にならないとな。きちんとマリコさんを案内しないと」

「また午後に来ますね」


 早苗は洗濯物を抱えてドアの方へ向かう。


「待っているよ」


 京一郎は早苗の後ろ姿にそう優し気な声をかけた。

 部屋を出た早苗はエレベーターに向かう。向かいながら、京一郎から『待っているよ』という言葉を引き出せたことがおかしくて、少しだけ笑顔を作った。





「浅間山が見えるな」


 早苗がその日の午後やって来ると、京一郎は車椅子に座って窓の外を見ていた。そしてお決まりの話を始める。一通り話し終わったら、早苗は問いかけてみようと思っていた。


「キョウちゃんはなん度くらい浅間山に登ったのですか?」

「う~ん、そうだな」


 京一郎は目を瞑ると少し考え込む。


「二回かな」


 目を開けて答えた。


「二回とも大人になってからだ」

「誰と行ったんですか?」


 『誰と』と聞かれても、京一郎は何も答えない。無表情で外を見ている。早苗は京一郎が質問されたことを忘れたかなと思い、返事を諦めていたのだが。


「う~ん、友達かな。思い出せない。忘れたよ」


 そう答えた。


「マリコさん以外のことはもう忘れた」


 とつけ加えてから。


「浅間山が見えるな」


 話がループした。早苗はこの日はこれ以上の会話を諦めて、病室をあとにした。


読んでくださってありがとうございました。

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