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灰のマリコさん  作者: 我堂 由果
10/65

10.目の前の遠く

 いつもと変わらない午前が終わった。

 亮弥を駅に送り届け京弥に朝食を出して家から見送り、病院で京一郎を見舞い、家事が片付くと昼食の前か後に、弥栄子と一緒か、または弥栄子から頼まれた物と自分の家族の買い出しのためにスーパーへ行く。

 今日、最後の用事は午後に一人でとなった。そして今はその場所へ行く途中。


 京一郎は今朝もお約束通り、早苗をマリコと呼んだ。

 京一郎が早苗をマリコと呼び始めてからもう二カ月以上が経つ。その間、早苗はずっと単独で見舞っていた。京弥は病院で働いているので消灯前に少しだけ病室を訪れる。


『病院は何とかなっているよ』

『そうか』

『安心して養生してくれ』

『そうか』


 京弥の話だと、何を話しても毎日こんな感じで、京一郎の反応は薄いらしい。

 弥栄子は気が向いた時に、一、二カ月に一度だけ、日曜日の午後に京弥に車で連れて行ってもらい見舞う。

 先日、年が明けて初めて弥栄子が見舞いに行った。


『会いに行ったって、ボーっと窓の外を見てるだけで碌に口もききやしない』


 弥栄子は以前からだが、会いに行ってもすぐに帰って来た。


『人間あの年で、まだああはなりたくないわ』


 自分の夫なのに随分な言いようだ。弥栄子は毎回見舞いから戻って来ると、そんな感じの不快な話しかしない。


 今回も、もし京一郎の口からマリコの名を聞いていたら、家に帰って来てからなんらかの話が出るはずだ。マリコというのが弥栄子にとって気に入らない人物であったとしても、逆に気に入っている人物であったとしても、全く知らない人物であったとしても。ぼんやりと過ごしている京一郎の口から零れた名前に関して、京弥にも早苗にも何も言わずにいられる人とは思えないから。それなので弥栄子がマリコという名前を耳にした様子はない。


 車がスーパーの駐車場に着いた。早苗は車を停めると、店の方へ歩いて行った。





「こんにちは。最近よく会うわね」


 本日の特売品コーナーに並ぶとんかつソースを籠に入れていた早苗は、声のした方を向いた。


「こんにちは。スズエさん」


 声の主は先日もスーパーで会った、弥栄子の友人のスズエだった。


「また弥栄子さんちの分も?」

「ええ」

「沢山買うのねえ。誰か来るの?」

「いえ。中学生の男の子がいるからかしら」


 実は、大量買いの理由はそればかりではない。弥栄子の希望のせいだ。

 引っ越してすぐ、弥栄子は早苗たちと夕飯を食べたがった。一人でご飯を食べるのは寂しくて味気ないのだそうだ。しかし京弥は職場で食べてくるか、家で食べるとしても午後十時よりも早いことはない。亮弥は帰宅後すぐに食べるが、無言で素早く食べると、さっさと自分の部屋に引き上げてしまう。キッチンとリビングのある一階は、すぐに早苗と弥栄子の二人きりになってしまうのだ。弥栄子はそれが面白くないのか最近は日曜の夜にだけやってきて、京弥にベラベラと話しかけて食事をする。

 早苗たちだって平日の夕食で三人が揃うことはまずない。日曜は唯一親子で団欒ができる曜日なのに、弥栄子はそれを微塵も気にかけない。毎週当たり前のようにやって来る。弥栄子にそういう遠慮とか気遣いとかができるわけもないのだ。


 今日は金曜日。土日の混雑するスーパーには行きたくないので、その分多めに食材を買う。しかし南雲家の場合はそれではすまない。日曜の夕食分は特別に大量の食材が必要だ。それは、弥栄子の好みを考えた上で食べきれないほどのご馳走を並べないと、弥栄子が拗ねるからだ。でも年齢的にそんなに食べられないからか、早苗の食事が気に食わないからか(結婚してから京弥の好みや関東の味付けは勉強している)、弥栄子は並べた料理にほとんど手をつけない。結局、調理時間食材全てが無駄になる。それならば普通の料理でいいではないか。早苗から見れば、極普通の食事を出して拗ねるのだったら、来なきゃいいのにと思う。残った料理は小分け冷凍して後日お弁当に入れる。当然男性陣の評判は悪い。


「お嬢さんが、偶には帰ってくるのかと思ったわ。弥栄子さんが、孫娘がちっとも現れないって愚痴ってたから。まぁ確かに男の子って、馬鹿みたいに食べるわよね。じゃ」


 スズエはそう言って立ち去った。早苗たちがこの土地に越して来てから一度も訪ねて来ない弥生のことを、弥栄子はスズエに愚痴っていたようだ。小さい頃の弥生を碌にかわいがりもしなかったくせに。弥生が寄りつかない原因が自分にあるとは、弥栄子は露ほども思っていないだろう。自分は祖母として何よりも大切にされるべきなのに、孫娘はそれができていないとでも思っていそうだ。





浅間山(あさまやま)が見えるな」


 夕方、亮弥を迎えに行く前に、いつも通り京一郎の病室に寄った。そしていつもの話が繰り返される。早苗は適当な返事や、軽い相槌を打っては聞き流す。はっきり言って、浅間山にも鬼押出(おにおしだ)しにもいい思い出はない。原因は京弥にあるのだ。


 あれは二十年以上前の話。婚約をする前に、初めて京弥の両親、すなわち京一郎と弥栄子に挨拶に行った時のことだった。あれは十一月だったろうか。よく晴れた日だった。

 早苗と京弥は京弥の車で、東京から関越道で新潟方面に向かった。関西出身の早苗は京弥の実家の住所を見ても正確な場所が思い浮かばなかった。早苗の母も○○市から始まる南雲病院の住所を見て、『これって群馬? 埼玉?』と首を捻っていた。

 高速に乗った車は、武蔵野台地と呼ばれる地域の北端部を進んでいく。高速からではわかりにくいが、平らな土地が広がっているらしい。早苗は挨拶に行くことに緊張しつつも、生まれて初めて見る埼玉県内の車窓を物珍しく思い眺めていた。


 東京から離れれば離れるほど高速を走る車の数は疎らになり、周囲の風景も、より緑が多くなってきた。フロントガラスの向こうの景色にも、進路を塞ぐように左右に連なる山々がはっきりと見えてくる。『あれは赤城山(あかぎやま)かなあ』と呟く京弥の話では、前方に見えるのは群馬県内の山々らしい。ただ彼にとっては子供の頃からずっと見ている景色なので、山の名前なんて気にしたことがないし、確信もないそうだが。

 やがて車の左手にうっすらと冠雪した、他の山々よりも頭一つ高いと表現したくなるような目立つ山が一つ、はっきりと見えてきた。その山はまるで富士山を思わせるような形状の、絵に描きたくなるような理想的な頭部をしており、その頭部が他の山々から隠されずに、堂々と天へ向けてとび出していた。その特異な高さと形のため、早苗は一瞬富士山が見えたのかと思ったが、方向的にも大きさ的にもそんなはずはない。あれは長野県に近い側の、別の山である。


『あの富士山の頭みたいなシルエットの山は何?』


 住んでいた人に聞いてみるのが一番だろう。早苗は山の方向を指差した。


『ああ、それはきっと浅間山だ』


 それは見なくてもわかるのか、京弥は前を向いたままそう答えた。


『噴煙が上がってないか?』


 早苗は山の頂を、目を凝らして見る。確かに山の天辺に、白い小さな雲のような物が漂っていた。


『今度、連れて行ってあげよう』


 京弥はそう言った。


『麓に鬼押出しって場所があるんだ。そこにも行ってみよう。案内するよ』


 そして今日まで、早苗は浅間山にも鬼押出しにも行ったことはない。あれは結婚何年目だったか、一度だけ、なぜ約束通り連れて行ってくれないのか京弥に尋ねたことがある。その時の京弥の返答は。


『俺あの時、そんなこと言ったっけ? 覚えてない』


 だった。そしてこの話は、もう二度と京弥にしないと決めた。





 浅間山の話から鬼押出しにも行こうという流れ。親子だから仕方ないのかもしれないが、同じ誘いをするなんて二人は思考回路がよく似ている。知らない人が聞けば、『親子は似るのね』、なんて面白い話かもしれないが、早苗にはムカつくだけの思考回路だ。


「また明日の朝来ますね」


 早苗は静かな声で京一郎の背中に声をかける。山を見る京一郎は何も言わない。早苗は病室を出た。


 あの日京弥は、『行ってみよう』なんて、婚約者となる早苗に会話の流れで言ってみただけだろう。早苗を浅間山に連れて行くなんて人生を左右するような大事な話ではないので、彼には言った記憶さえも残ってないのだ。そして言ったくせに忘れていたのを指摘されたあの結婚後の会話も、彼なら秒で忘れただろう。運転中に話したそんな些細な話を覚えている早苗の方が、人として異常だと感じているかもしれない。京弥が早苗を浅間山に連れて行く日は永遠にこないと早苗はわかっていた。

 さらに、新たな『浅間山へ行こう男』の京一郎はあの状態。一緒に出かけるなんてもっとあり得ない。京一郎が浅間山に行けるわけがない。


 浅間山はすぐそこなのに、窓からあんなに大きく見えるのに。早苗は一生その山を、その麓でさえも、訪れることはないような気がしていた。


読んでくださってありがとうございました。

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