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Anyone can't separate my soul from me except love of God

            第2章  永遠の初夜の中で


 女は夢で思い出していた・・・。自分が「ある嫌疑」でイギリス警察に逮捕され、その後、その裁判は「ある者たち」の執り成し[フランス王国がイングランド共和国に保釈金を払ったこと]によって、その裁判が彼女の母国フランス王国で行われるまでのいきさつを・・・。


 ここはイングランド共和国、首都にあるロンドン塔、イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれたロマネスク様式の中世の城塞である。

しかし、城塞と言っても、ここは監獄を兼ねていたので、歴史上、哲学者フランシス・ベーコンが幽閉されたり、ばら戦争で敗れたヘンリー6世や「ユートピア」の著者トーマス・モアなどが処刑された獄舎でもあった。


 鉄格子の中の女は向こう側の獄吏に力なく頼んだ。

「あの、お水を一杯いいですか?」

「ええ、いいですとも」

 その獄吏は快くその女に紙コップに水を汲んで鉄格子側に運んだ。

「どうせもう、私の命は・・・」

 この時、女は自らの将来を投げやりに考えていた。2年前の冬、あのオックスフォード大学のブリストル教授が製作したiPS細胞より効率よく製作でき、かつ遺伝子を操作する必要が殆どないこのSTAP細胞こそ人類の再生医療の旗手たらんと、そう謳ったのは今から2年半前の出来事であった。

 しかし、このSTAP細胞の存在は多くの人から疑問視され、そして、科学の発展を「捏造した」との烙印を押され、論文作成の中心的な役割を演じていたケビン・デューイ・サザーランドは自らの研究室で、シアン化カリウムの飲用で死に至ったが、その「死亡理由」がその女、ケイト・ノエル・ラングレーの犯行であると、イギリス警察に嫌疑を掛けられたのであった。

「こんな筈ではなかった・・・」

 ラングレーは自分の心中で独語した。

 ラングレー自身、3姉妹の末子として育てられてきたが、理科系の世界で「若い女が活躍すること自体、珍しいこと」であったことを逆手に取って、「再生医療界のシンデレラ」として脚光を浴びれられるという稚拙な計算があるにはあったが、自身の最大の庇護者であったサザーランド教授をああいう形で失うとは思いもよらなかったのである。

 しかし、そのサザーランド教授殺害の容疑自体、本人としては「冤罪」を主張すべきであったが、ラングレーはこの時、STAP細胞の存在を多くの人に疑問視されたので、自ら弁護士を雇って、自分の弁護をする気力すら失っていたのであった。

 しかし、そんな中、一組の男女がラングレーのいる独房へやって来た。

 中年の男の警官がラングレーに声を掛ける。

「釈放だ、ラングレー研究員。と言っても、保釈にすぎないがな」

 この40代前半の男の名はキドナップ・ロジャース。このイギリスのスコットランドヤードで型破りな警部としてその名が知れ渡っていたのであった。

 もう1人、30歳ぐらいの若い女がラングレーに話しかけた。

「初めまして、ラングレー被告、私はカレン・ラッシュフォードと申します。フランスでのあなたの殺人容疑の裁判の首席検事をさせていただきます」

「?」

 ラングレーは首席検事を務めるそのラッシュフォードの若さに疑問を持ち始めた。尤もな話、何故、当時、30歳の自分がノーベル賞級の研究ができたのか?多くの人々の持った疑問を棚に上げて、その自らより若い女の地位に疑問を投げかけたのであった。

 それでも、ラングレーは気丈にロジャース警部に話しかけた。

「あの、今回、私の保釈の為のお金を用意してくださった方は一体どなたですか?」

「フランス王国の宰相であるリシュリュー枢機卿だよ」

「リシュリュー枢機卿・・・?」

 ラングレーはその人の名前を聞いた時、感謝より疑問の思念を持った。自分は曲がりなりにも生物学・再生医療の研究者である。それなのに、フランス王国の政治権力の中枢にいる人が何故、私の身を庇ったりするのか・・・?

 ロジャースが再び、ラングレーに話しかける。

「それじゃ、君の身はフランス王国の管轄に預けることになるから、そういうことで、お願いするよ」

 ラッシュフォードがラングレーに一礼して言った。

「それでは、裁判で再会しましょう。ラングレー被告」

「エッ?どうして・・・・・・?」

 ラングレーは今まで自らの身が収監されていたロンドン塔の鉄格子の外に出ると、やっと自由の身になれたという解放感より「何故?」という疑問の念の方が強かった。

 そして、ロンドン塔の出入口でそのラングレーを待っていたのは、40代の2人の男と1人の30代前半ぐらいの若い男であった。

 3人の男のうち1人がラングレーに挨拶した。

「初めまして、ラングレーさん、私の名はヒューゴー・グロチウスと申します。只今、フランス王国で外務大臣をやっております」

「は、はあ・・・・・・」

 理科系の研究者であるラングレーも、このグロチウスが19歳でライデン大学を卒業し、この欧州をまたに駆ける国際派弁護士であることは知っていた。

 それから、中背の若い男がラングレーに挨拶をした。

「私の名はジャン・バティスト・コルベール。このブルボン王朝で財務総監をやっております」

 コルベールは三十路の歳にしてはかなりあどけなさが残る童顔で、特徴としては濃いブラウンの髪とその右耳にはピアスをしていた。

 そして、最後に、そのコルベールの横に彼とほぼ同じ体格の男・・・。

 この男があのSTAP細胞問題を起こし、自らの上司を殺害した嫌疑でイギリス警察に逮捕されたケイト・ノエル・ラングレーに保釈金を払った本人であるアルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリューであった。

 そのリシュリューは口数少なく、右手をラングレーの方に差し出し、ラングレーに指示をした。

「ラングレー研究員、卿には是非、このイングランド共和国ではなく、フランス王国でやってもらいたい研究がある。さあ早くこのロンドン塔の入り口にある我々の車に乗ってくれ給え」

「?」

 今のラングレーには、その「研究」とは何のことだかさっぱりわからなかった。

 そして、グロチウス、コルベール、リシュリュー、そしてラングレーの4人が車に乗った後、たわいない会話を始めた。

 車を運転するグロチウスが助手席側のリシュリューに話しかけた。

「なあ、アルマン、このロンドンからドーバーまで100キロ近くあるわ、どこかのカフェかレストランで食事していかないか?」

 そのグロチウスの問いかけに対し、リシュリューは首を縦に振った。

「うん、いいんじゃないの。確か、港町ドーバーの酒場では、ベリーダンスを行う一団が滞在しているらしいから、このイギリス土産にそれを見るのも一興だな」

 それを聞いたグロチウスが後部座席にいるラングレーに訊いた。

「それならば、そこのお嬢さん、どないします?」

「私は別にどちらでもいいですが・・・・・・」

 ラングレー個人としては、この車でドーバーの港まで行く途中で休憩しようがしまいが関係がなかった。いくら彼らが自分より年上とは言え、かつてのサザーランド教授やハウ教授のように自分に専門的な指導をしてくれる訳ではないと思うので、彼女の気持ちとしては、自分の身はこれからどうなるのか?それを考えただけで不安でいっぱいになった。

 それから、その車がこの4人をこのレンタカーを借りた店の駐車場まで来ると、腕組みをするリシュリューがグロチウスにアドバイスした。

「なあ、ヒューゴー、この車、見かけはボロいが、ボタン1つでAiが駐車場に車を先導してくれるんだ、便利な世の中になったものだなあ」

「ううん、そうだなあ」

 グロチウスがリシュリューに相槌を打ちながら、ハンドル横のボタンを押した。

 すると、車は内蔵された人工知能が作動し、同様の車が並ぶ駐車場に運転するグロチウスの操作なしに駐車を始めた。

 しかし、この4人が車を降りる前にリシュリューがラングレーに釘を刺した。

「ラングレー被告、この件でちょっと僕は卿にお話しをしておきたい」

「な、何でしょう?リシュリュー枢機卿」

 ラングレーは次に何を言われるのか、動揺を隠せなかった。

「自動車の技術ですら、ここ数年でこれだけ進歩している。我々、フランス王国は卿の為にかなりの保釈金を払った。だから言わせてもらうが、卿は自らの専門分野でどれだけ貢献を成したというのだ?」

「そ、それはその・・・」

 返す言葉に行き詰まるラングレーに、コルベールが救いの手を差し伸べた。

「まあまあ、リシュリュー枢機卿閣下、もう、港町ドーバーに着いたのですから、そういう話はフランス王国に着いてからでいいではないですか?」

 腕組みをしながらのリシュリューがコルベールの助言に頷いた。

「まぁ、コルベール財務総監がそう言うのならば、その話は今日のところはここまでにしておこう」

 そして、イングランド共和国の港町ドーバーの一番大きな酒場、「ローラン・アット」にて、リシュリューたち4人は軽食を摂ることにした。

 リシュリューがグロチウスに労いの言葉をかける。

「ヒューゴー、あのロンドンからこのドーバーまで運転ありがとう。もうレンタカーは営業所に返したから、この酒場でビールでもワインでもスコッチウイスキーでも好きな飲み物飲んでくれ、勿論、食事代はおごるから・・・」

 そうすると、グロチウスは頷いた。

「わかった、それじゃ、スコッチウイスキーの水割り、お願いしようか」

 その後、コルベールがリシュリューの方を向いて言った。

「私の方もアルコールはいいです。アイスコーヒーをお願いします」

 続いて、ラングレーが、

「私も、今はお酒を頂く気にはなりません、オレンジジュースなどでいいです・・・」

 と、言葉少なげに答えると、リシュリューは、

「ああそう、でも、僕はここでイタリアンワインでも飲みたいのだがな・・・」

 と、飲酒することを全く拒まなかった。

 ローラン・アットの給仕がこの4人にそれぞれが頼んだ飲み物と軽食を運んでくると、コルベールが右にサンドイッチ、左にアイスコーヒーを置きながらリシュリューに訊いた。

「リシュリュー枢機卿、このドーバーも、日の沈む時間となりました。今日は夜の船便でフランスのカレーまで行くのですか?」

 リシュリューは首を振った。

「いや、今日はもうこんな時間だ、今宵、我々はドーバーのホテルに泊まり、明日の早朝に船便でカレーに行く」

「・・・・・・・・・・・」

 コルベールは黙って頷いた。

 ここで、スコッチウイスキーを少し口に含んだグロチウスがこの酒場のステージの方を向いた。

「おっ、どうやら、このドーバーでのベリーダンスの公演、始まるみたいだな」

 5人のダンサーたちはその艶やかな肢体を下半身は長い襞のあるスカート、上半身は黒や紺の上着はその膨よかな胸だけを隠しながら、その音楽とステージへのスポットライトに合わせながらダンスを始めたのだが・・・。

 しかし、この時、1人の泥酔した客がそのステージに上がり、そのダンサーのうちの1人の左腕を捕まえて、こう言い放った。

「へへへ、おい、ねーちゃん、こっちに来いよ。俺たちと一緒に飲もうぜ」

「や、やめて下さい、その手を離して下さい」

 そのダンサーは一度拒否したが、その泥酔したごろつきが中々引き下がらないので、その様子を見ていたリシュリューはグロチウスとコルベールに向かって言った。

「ヒューゴー、コルベール、どうやら、ここは我々の出番がやってきたようだな」

 しかし、グロチウスは首を振った。

「出番って・・・、うちら「文官」やで、どう考えても白兵戦は・・・」

「いいから、一緒に来いよ!ヒューゴー」

 それでも、リシュリューは躊躇する相棒の右腕を左手で掴んで、共にステージに登った。

 そして、そのダンサーに対し、しつこい誘いをするごろつきに対し、リシュリューはこう言った。

「やめろよ、今は美しいダンサーたちが客人を魅了する時間、お前の相手なら安いキャバ嬢にでも頼むことだな」

「なんだと・・・、てめえ、俺たちとやる気か!」

 その後ごろつきが体格のいい筋骨隆々の仲間の2人を呼び、ステージ上に登らせた。

「あれっ・・・、こんな筈では・・・」

リシュリューたちはそのごろつきは1人で泥酔していたのだと思っていたが、その予想と違って、格闘戦が「2対3」になってしまったことは、まるであたかもSTAP細胞製作者たちのように、当てが外れてしまったのである。

 当然、リシュリューとグロチウスはステージ上で苦戦を強いられた。

 それから、その戦いは舞台の上から多くのテーブルがある客席にと移っていた。

 その体格のいいごろつきの1人にリシュリューが首を絞められている態勢となったが、初めにステージ上のダンサーに絡んできた男と格闘していたグロチウスが慌てて相棒の救援に行き、ステージの裏にあったマイクをそのリシュリューの首を絞める男の右腕に投げつけたのであった。

 そして、その隙にリシュリューとグロチウスの2人は・・・、

「いやぁ」

「でやぁ」

 2人は気合一閃、その初めにダンサーに絡んだ男の脛をグロチウスが蹴り、リシュリューが見事に柔道の一本背負いを決め、そのごろつきをテーブルに叩きつけ、テーブルを真っ二つに分けたまでは良かったが、その報復と言わんばかりにその体格のいい男2人がリシュリューとグロチウスに襲いかかってきた時・・・。

「ジュワー」

 この時、姿が見えなかったコルベールが消火器のノズルをその体格のいい男2人に吹き付けたのである。

 しかも、その消火器は本物のそれではなく、クロロピクリン、クロロアセトフェノンなどを含んだ催涙ガスを噴射する装置であった。

 コルベールがここで決め台詞を言った。

「私も、武人、武官の類ではありません。でも、いざという時の「備え」はちゃんとしていますよ、お2人共、お疲れ様です」

 リシュリューは苦笑いしながらコルベールに答えた。

「ははは・・・、どうも、コルベール、メルシーボークー」

「・・・・・・・・・・」

 ラングレーはさっきまで3人がいたテーブルでただ沈黙しながらその様子を見ていた。

 その後、リシュリューたち一行は何事もなく、船便でフランス王国のカレーに付き、首都のパリに着いたのであった。

 ・・・この出来事をラングレーは数か月前の出来事を自らの見る夢で思い出していた。


 そして、ラングレーは目を覚ました。そこはフランス王国の最高行政官の私邸のリビングルームであった。

「やっと、目を覚ましてくれたか、ラングレー研究員。早く、STAP細胞の虚妄からも目を覚ませ・・・、とまでは言ってないがな・・・」

「何故、私なんかの為に保釈金を出してくれたのですか?私の研究に可能性を見出してくれたのですか?」

 ラングレーの口調は感謝しているというよりはむしろ、疑問に満ちたそれだった。しかもラングレーは・・・、少しばかり胸部を露出したような上着と丈の短いスカートという恰好は明らかに男を誘惑する「それ」だった。

 そのラングレーの誘惑をリシュリューは無視して、テーブルのすぐ横のソファに座り、真顔で隣にいる彼女に問いかけた。

「ラングレー研究員、現在は被告の身だが、僕は卿に専門的な質問の前に、1人の人間として問わなければならないことがある」

「?」

 ラングレーは首を傾げ、リシュリューが次に何を話すのか皆目かわからなかった。

「かつて、あのオックスフォード大学のブリストル教授がiPS細胞でノーベル賞を受賞した時、週刊誌の特集記事で書かれていたことだが、教授が少年時代、作文だか、寄せ書きに「忍耐」と書いたみたいだ・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 ラングレーはリシュリューがあのサザーランド教授のライバルだった「ブリストル教授」の名前を出しただけで少し不愉快になった。

 それに対し、リシュリューは、

「しかし、中国清朝からアメリカ大陸へ移民した作家に楊文七ヤン・ウェンチー)という者がいるが、その冗漫な作品の中で、近未来、人類が広大な宇宙に進出し、清廉な専制政治国家と腐敗した共和制国家での尽き果てることのない戦乱を描いた作品があるが、その作品の中で・・・」

 と、一息置いて、ラングレーに話し続けた。

「その小説の一説に、忍耐と沈黙はあらゆる状況の下で美徳となるものではない、耐えるべきことに耐え、言うべきこと言わずにいれば、相手は際限なく増長するだろう・・・、と書かれている」

「・・・・・・・・・・・・」

 ラングレーは沈黙したままだった。

「更に、キリスト教カトリック系のある新宗教の偉い人が、その著書の中で、「・・・だから絶対に自殺はいけない。絶対に暴力はいけない。人を傷つけてはいけない、尊い生命を傷つける資格は誰にもありません」とおっしゃっている」

 ラングレーはその「絶対に自殺はいけない」という言葉に、STAP細胞事件の渦中、シアン化カリウムで中毒死したサザーランド教授を思い浮かべざるを得なかった。

 リシュリューは、話を更に続けた。

「ただ、知り合いのカトリックの僧侶たちも、身内で自殺をした人、自殺をしたがっている人たちに対し、「自死・自殺の問題は、「生き方」の問題、「命」のあり方の問題です」と言っている・・・」

 ここで、リシュリューはこの話をまとめた。

「僕はこの話の中で、前者が善で、後者が悪と言っている訳ではない、ただ、一般的に言って、前者は普遍的、後者は特殊的な話であることは言うまでもないと思う、尤も、隣国神聖ローマ帝国の内戦に介入している立場で、その新宗教の偉い人の言葉を引用するのは間違っているかもしれないが・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 ラングレーは黙ってリシュリューの話を聞いた。

「卿がそんなに特殊な生き方をしているなら、いっそのこと、特別な死に方もありではないのかね?」

「いや、それは・・・」

 ラングレーは俯き様に答えた。

 そして、リシュリューは手元に資料を用意した。

「では、これから、卿に新聞や雑誌でよく言われた論文のコピー・アンド・ペーストや画像の差し替えのことではなく、少しSTAP細胞について、専門的なことを訊きたい、僕も苦手だけどね・・・」

 そして、リシュリューは手元の資料を見ながらラングレーに質問をした。

「STAP細胞の遺伝子解析によると、8番染色体にトリソミーが見つかったらしいけど、そのSTAP細胞は赤ちゃんマウスのリンパ球から製作するらしいが、そのトリソミーは長く保存したES細胞を分化させると良くできるらしいけど・・・」

「それが捏造の証拠とでも言いたいんですか?」

 ラングレーはリシュリューがその分野の専門家でもないのに専門的なことに言及したことにやや腹を立てた。

「あるいは、論文の画像が腫瘍を意味するテラトーマがそれにしては小腸や筋肉が成熟し過ぎているという指摘は?」

「私個人が確認しないとわかりません」

 ラングレーは全く釈然としていなかった。

「その他、STAP細胞の発光する光は細胞が死ぬ時の自家蛍光か、マクロファージだとか、あるいは、ロンドン大学のハウ教授が卿に渡したマウスでSTAP細胞を製作したが、そのハウ教授がSTAP幹細胞やキメラマウスを作成しても、その遺伝子型が元のマウスと違うとか、疑惑・疑義に枚挙に暇がないみたいだが・・・」

 その一連のリシュリューの話を聞いたラングレーが少し怒気を帯びて彼に訊いてきた。

「あの、丞相閣下、それらの話、一体何処で調べられたのですか?」

「とあるこのSTAP細胞問題を取材してきた女性新聞記者さんの本で調べただけだが・・・」

 それを聞いたラングレーはリシュリューにかなりの抗議口調をした。

「なんでそんな人の本だけ読むのですか?STAP細胞問題についてはこの私も本を書いています、どうしてそれを読んでくれないのですか?」

 そのラングレーの「抗議」にリシュリューは冷静に答えた。

「残念ながら私の方も忙しくて、卿の書いた本は1回通読しただけなんだ。それに卿は思想家や文筆業ではない筈、自らの正しさは研究や実験で証明すべきではないのか?」

「・・・・・・・・・・・・」

 沈黙するラングレーに対し、リシュリューは救いの手を差し伸べた。

「ただ、卿らのやった研究でも、未分化細胞を弱酸性の溶液に浸すことで神経などに分化できることや、植物細胞で「カルス」が作られるのなら、動物細胞でも「カルス」が作られるのでは?と、発想すること自体間違いではないと思う・・・」

「はい・・・」

 そう言われてラングレーはやっと落ち着きを取り戻したようだった。

 そして、リシュリューはこのラングレーとその女性記者の「軋轢」には「中立」であることを説明した。

「もしも、僕があのサザーランド教授の親友ならば、その女性記者に銃口を突き付けて、「わが友ケビン・デューイ・サザーランドの(かたき)、取らせていただく」と迫ることもありうるけどね・・・」

「はぁ・・・」

 ラングレーの短い返答の後、この時の台詞を説明した。

「何故、僕が卿とその女性記者との関係に中立なのか?それに関しては追い追い説明するよ・・・」

 しかし、リシュリューはその発言も束の間、ラングレーの前に1つのホワイトボードを持ってきた。

 「ここで、卿に説明したいことがある、つまり、ES細胞やらiPS細胞などが万能性・多能性を持つことを登山者が山頂に登る過程に譬えてみよう」

「はい・・・」

 リシュリューはマーカーを持ちながらラングレーに説明を始めた。

「ES細胞にせよ、iPS細胞にせよ、1個の受精卵ないし、体細胞から多能性幹細胞となる。でも、人が人工的にそれを持たせるまでに至るには、麓からエベレストのようなもの凄く高い山に登るような苦労があったと思う・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 沈黙するラングレーを余所に、リシュリューは話を続ける。

「つまり、その高い山に登るという行為は、その切り立った崖を登ったり、急峻な山道を登ったり、奔流のような激しい川を渡るような命懸けの行動を取らねばならないということだから、科学上の新しい発見をするにも、それらと同じような苦労があるのだと思う・・・」

「はい・・・」

 ラングレーは力なく答えた。

 リシュリューは宣告のように次のことを話した。

「もしも、そのSTAP細胞とやらで、山の1合目、2合目までは登れるとする。でもその後はどうやって山の山頂まで登っていくつもりかね?」

「そ、それは・・・」

 ラングレーは言葉に詰まった。

 それに対し、リシュリューは、

「この件を卿だけを責めても仕方ないと思う。例えば、卿の上司だったサザーランド教授にも同じことが言える・・・」

 そう言ってその後、話を続けた。

「サザーランド教授の経歴としてケンブリッジ大学の医学部を現役で合格されている。つまり、最難関大学の最難関学部に現役で合格するということはある種、18歳で世界の最も高いような山に登り切ったようなもので、それ以上、もう高い山に登る気力はなかったのではないのか?」

「・・・・・・・・・・・・」

 沈黙するラングレーにリシュリューは更に追い打ちをかけた。

「それから、かつての中国、今の清朝に「死せる孔明生ける仲達を走らす」という故事がある。しかし、今回、サザーランド教授が亡くなってもブリストル教授の方は何も動じなかったようだけど・・・」

 今まで殆ど、沈黙を守っていたラングレーだったが、ここで堰を切ったようにリシュリューに話し始めた。

「丞相閣下!あなたは歴史や物のたとえ話が得意でも、分子生物学の専門家でもないのに何故、私たちの失敗をそんなに追及するのですか?」

 そのラングレーの話を聞いたリシュリューは両手の手の平を彼女に見せた。

「ま、まぁ、ラングレー研究員、今回、僕が卿を助けたのはある特殊な理由があるんだよ」

「ある特殊な理由って何ですか?」

 ラングレーにそう言われて、リシュリューは自分の書斎へと走った。

「その理由はだね、実は卿に見せたいものがある・・・」

 書斎から戻って来たリシュリューはラングレーに巻物のようなものを見せた。

「これは我がリシュリュー家の家系図だ・・・、まず、ここに注目してほしい・・・」

 そう言うと、リシュリューは自分と姉の名前の上の部分、つまり、父母の箇所を指して言った。

ここにいるのが父親のアルノー、母親のソレーヌだが、その父の弟,つまり叔父が2人の男児を持ったんだが・・・」

 リシュリューの声はやや嘆息気味だった。

「この叔父さんの子供2人、長男リベルノと次男マクシムだが、長男はやや知的障害者で、この間、アパートに干してあった女の下着を盗もうとして失敗し、官憲に逮捕され、次男は次男で、新大陸アメリカでの事業に失敗して、多額の負債を抱えて、私に泣きついてきた・・・。無論、借りた物は必ず返せと、誓約書を書かせたが・・・」 

「・・・・・・・・・・・」

 沈黙するラングレーに対し、更に、リシュリューの発言は続いた。

「それで、僕の姉弟でお姉さんが第一子なのだが、お姉さんが結婚して産んだ子供も男児なんだよ・・・」

「・・・・・・・・・・・・?」

 ラングレーはそのリシュリュー家の家族構成よりその第二子の次の子供の名前、つまり、第三子が黒く塗りつぶされていることの方が気になった。

「しかし、お姉さんはその幸せも束の間、この間、自らの夫を自宅での転落事故で失う悲劇に遭い、コレージュ[日本の小学校高学年に相当する]に在籍する男児と共に、未亡人になってしまった・・・。お姉さんの旦那さんは丁度あのサザーランド教授と同世代だった人だ・・・」

「エッ・・・?」

 あまりのことにラングレーは絶句したのであった。

 そして、リシュリューはラングレーに対し、ある提案を言った。

「卿の専攻は確か分子生物学だったな、それは、具体的には分化とか、遺伝子を専門とする学問だが、ここは一つ、生物学でが「性と遺伝」の分野、「男女産み分け」を新しく専攻してくれないか?理論上、男女の性比を1:1にするために・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 ラングレーは沈黙を守った。いくらフランス王国宰相閣下の依頼と言っても、唐突過ぎる、と、彼女は考えたからだ。

 ここで、リシュリューはラングレーに力説した。

「あのな、ラングレー、男女の出生率が男105に対し、女100なのは知っているよな・・・」

「はい・・・」

 ラングレーは静かに頷いた。

「今の時代でも原始時代でも、男が狩りや戦争で簡単に死ぬから、その性比でいい・・・、と僕は考えてはいない、人、いや1人の男の人生で、社会の下の方では結婚したくてもできない男が増え、そして、上の方では志半ばで倒れる男も増える・・・、それをまさか、卿は自然の摂理だから仕方ないなんて言えまいて・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 ラングレーの脳裏に確かにあのサザーランド教授の姿が浮かんだ。しかし、暫くの沈黙の後、ラングレーは口を開いた。

「宰相閣下のおっしゃりたいことはわかりましたが、いきなりそんなことを言われましても・・・、それに・・・」

ラングレーはリシュリューの依頼に難色を示した。

「それに、何だね?ラングレー研究員?」

「実は、私、今回の研究がもしも、見通しが立たないようであれば、フランス菓子を作って、生計を立てていきたいと考えているのです・・・」

 数年前、かつてのラングレーの見せた「気迫」とは裏腹に、その彼女の態度はリシュリューにはかなり弱気に見えた。

「・・・・・・・・・・・・」

 ここで、リシュリューは一冊の漫画本をラングレーに見せた。

「これは、「Good luck,Kitty」というタイトルの漫画本だが、実はこの本のあらすじとは、あるところに母親に見捨てられたかわいそうな孤児の女の子がいて、その子の唯一の友達がぬいぐるみの子熊で、子熊とその子は会話できるんだが、いざ、その孤児の伯父がその子を性的虐待しようとすると、いざ、その子熊は何もしようとしないんだ・・・」

「この漫画がどうかしたんですか?」

 リシュリューの説明が続く。

「それをイマジナリーフレンドと、解釈する奴もいる、しかし、例えば、現実には、さっき卿に話した作家の楊文七ヤン・ウェンチー)は自分の作品でのスタンスと違って、己が住むアメリカの独立革命にも、今回のドイツの宗教的内戦、それから新型コロナウィルスの蔓延にも一切口を出さない、僕からすればその作家は漫画の子熊と同じだよ・・・」

 リシュリューの話がかなり長くなったので、この邸宅のメイドであるエステル・メローにワイングラスにワインを一杯注がせて持って来させた。

「どうぞ、丞相閣下」

「ありがとう、エステル」

 赤ワインを一口飲んで、リシュリューは話を続けた。

 そして、エステルが持ってきたワインを半分くらい飲んだリシュリューがラングレーに結論を言った。

「僕は無論、そんな子熊のぬいぐるみ、あるいは作家の楊文七(ヤンウェンチー)そして、卿の上司だったサザーランド教授とも違う、専門知識では両者に劣るところがあるとしても、政治力と信仰心でそれをカバーするつもりだ、その僕の気持ち、何とか理解してもらえぬか・・・、ラングレー研究員」

「わかりました・・・、私に少し、考える時間を下さい」

「ありがとう。ただこの長い説明で、僕は喉が痛いがな・・・」

 この邸宅の外である若い男が独語した。

「やっと着いたぜ、どうやらここだな、リシュリュー丞相閣下の家は・・・」

 そう言った30代半ばの青年は走り幅跳びの感覚で城門を飛び越したのであった。


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