(5)・盃に囚われる
この作品は、長岡更紗 さん主催の第二回ワケアリ不惑女の新恋企画参加作品です
1~5同時投稿です
私ががっかりしていると、垂水さんは右手の盃を差し出してきた。月明かりにも鮮やかな朱が美しい酒杯だ。つららさんの盃と同じ形である。子供の掌にも乗りそうな可愛らしい大きさだった。思わず受けとると、左手に提げていた大きな瓢箪から、良い香りの透明なお酒を注いでくれた。
「ニホンシュですね」
「叢雲山の、鬼の酒です」
「そんな貴重なものを」
私が恐縮すると、垂水さんはうっすらと、しかし柔らかく微笑んで瓢箪を振った。
「鬼の瓢箪です。お酒が、湧きます」
私は感心して瓢箪を観る。磨き込まれた飴色の瓢箪は、ぷっくりとお手本のような形をしている。背の高い垂水さんが抱えても、胴体が隠れてしまいそうな程大きい。垂水さんは痩せているので、余計に瓢箪が大きく見える。
細く節くれだった職人らしい手だ。片手で、大きな瓢箪を軽々と掴む。手先の仕事をする人特有の筋肉が、指にしっかりとついている。一見筋ばった細い手だが、手の甲から爪の先まで、張りのあるしなやかな筋肉で覆われている。
「この瓢箪も垂水さんが?」
「いえ、これは、叢雲山の宝です」
「つららさん達とは、随分親しいのですね」
「ぶんさん、つららたちの、ともだちだよねっ」
にこにこ顔のたーちゃんの頭を軽く撫でた垂水さんは、静かに答えた。
「彼等は、恩人です」
真面目な顔で、鬼の酒を注いでくれながら、垂水さんは小鬼達との出会いを話し出す。
「若い頃、漆職人に、弟子入りしたんですが、漆かぶれが、酷くて」
盃に映る6日の月に、蛍の光が横切った。
「どうしても、治らなくて、漆職人の道は、諦めました」
私は、鬼の銘酒に唇を浸す。なんとも言えない爽やかな香りだ。
「この先どうしようか、自然の中で、考えようと思って」
垂水さんは、相変わらずぽつりぽつりと穏やかに話す。
「美澄川の、芦原を訪ねて。叢雲山に、登って」
盃の中で鬼の酒が小さく波打ち、月が揺れた。
「師匠に、出会いました」
もう一口、銘酒を含む。
「師匠」
垂水さんの呼び掛けに、高級な漆器のような艶やかな黒い角を持つ、茶色の鬼が近づいて来た。少し細身で、職人風の頑固な顔立ちをしている。
「うるしだ。よろしくな、とんがり帽子職人のラーニャ」
「よろしくお願いいたします、うるし師匠」
「俺が遠い刷毛工房から帰って来た時さ」
うるし師匠は、懐かしそうに眼を細める。
「こいつが空っぽな顔して鳥居を見上げてやがってよ」
盃の月は歪んでいる。
「聞いてみりゃ、漆が好きだって言うじゃあねえか」
盃の縁に、蛍が止まった。すうっとお尻の光が消えて行く。
「そんなら、叢雲山の鬼漆を試して見ねえかい、って誘ったのさ」
「その時は、鬼漆と言うものを、見たい、一心で」
そして、才能が開花した。鬼の秘術に使う叢雲山の鬼漆は、垂水さんの体質に合っていた。あんなに苦しめられた漆の汁が、ここではむしろ良薬のようだったという。
鬼達が飛行術に使う盃は、人間の漆器同様、細かい専門分業制で作られるのだそうだ。うるし師匠は、塗師という、塗りの専門家である。
人間の漆器は、地方によって多少の工程や分業の仕方、また担当職人の名称の違いがあるようだが、叢雲山の鬼の盃には5つの工程があるそうだ。
形を作り、下塗りをし、研磨し、仕上げ塗りをし、名前を金泥で入れる。うるし師匠は、空飛ぶ素材である『鬼漆』を使って仕上げ塗りをする職人で、垂水さんはその弟子だ。
刷毛に使うのは、遠くの山に住む山神様の髪の毛である。垂水さんと出合った時は、その山にある刷毛工房に、うるし師匠が行ってきた帰りだったのだ。
「垂水さんは、この里に住んでおられるの?」
ふと気になって聞いてみる。
「ちがうよー」
たーちゃんの元気な変事に、垂水さんが説明を加えた。
「山向こうで、小学校の、事務員をやってます」
「あら、そうなの?」
意外な副業である。
いや、世間的には事務員が本業なのだろうが、垂水さんとうるし師匠の様子を見る限り、本人が打ち込む仕事は、断然鬼の盃職人のほうだ。
「ご家族もそちらに?」
たーちゃんのお友だちのお父さんかと思ったのだが、山を越えて通うのは大変そうだ。
「いえ、身軽な、独りもんです。両親も、もう、居ないですし」
「それは、すみません」
「いえ」
盃の縁で休んでいた蛍のお尻に、黄緑色の光が現れて膨らんで行く。
「ラーニャは?おうちに、おかあさんたち、いる?」
たーちゃんは、ちょっと心配そうに聞いてくれた。
「お母さんとお父さんは居るけど、旦那さんはいないわ」
「ふうん」
「とんがり帽子に夢中だったの。ふふっ、可笑しいね」
「なんでおかしいの?」
「何でかしらね」
「へんなの」
渓流へ眼をやれば、川岸のあちこちに陣取って、小さな鬼達が宴会を始めている。どうやって運んできたのか、ちゃんとご馳走もあった。
「ほんとに綺麗な盃ねえ」
私は改めて、垂水さんに渡された朱色の盃を眺める。まだ少し、鬼の銘酒が残っている。蛍は、いつの間にかまた飛び立って、仲間と一緒にせわしなく明滅している。もうどれだか見分けられない。
静寂が際立って、沢の音がやけに大きく聞こえてくる。盃の月は朱に抱かれて安らいでいる。
私は名残り惜しみつつ、最後の一口を呑み干した。
「どうぞ」
指先で縁を拭って、盃を返す。
「返盃、というのでしょう?」
「よく、ご存知ですね」
垂水さんは、また微かに微笑んで、快く私の盃を受けてくれる。大きな鬼の瓢箪を垂水さんから受けとる時、刹那、指先が触れた。
「あ」
「すみません」
「いえ」
謝る程の触れ方ではない。レジなどでの受け渡しでも、特に気にしない程度の触れ方だ。だが、どうしたことか、とても気まずい。垂水さんも同じ気持ちなのか、少し眼を伏せた。
盃に眼を向けた垂水さんの視線に促されるように、私は鬼の銘酒を注ぐ。とぷとぷと、小気味良い音が清涼な瀬音に溶けて蛍の光と戯れる。
盃に囚われた6日の月は、微睡むように揺れていた。
完結です。
お読み下さりありがとうございました。