『岩石華』の場合
――――足がすくむ。
自分の部屋から出る時も、家から出る時も。校門をくぐる時も、そして、教室に入ろうとしている今も。
冷や汗が染みたインナーが、べっとり背中に張り付いて気持ち悪い。内臓だけが、妙に冷えて気持ち悪い。廊下に響く笑い声が、頭の中に響いて気持ち悪い。
(気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち……!)
吐き気を抑えようと、左手を口に当てた時、ドン!と、誰かに、後ろから強い力で右肩を押された。同時にカクンと、右足の力が抜け、そのまま廊下に、べたりと座り込んでしまった。
「……めん……な……!」
かすれた声で謝りながら顔をあげると、ニヤニヤ笑うクラスメートの女の子が三人立っていた。
ドドドドドドと、心拍数が一気に上がる。それに比例して、身体中から血の気が失せていく。思わずサッと、顔を背けた。
「あっ!ごっめんね~!まさか倒れるとは思わなくってぇ~!ずーぅっと立ってるから、『遂に固まったんじゃね?』みたいに思ったからさ~」
ギャハハと笑う声が上から降ってくる。気管に栓をされたみたいに、呼吸ができなくて、息苦しい。突然、ぐいっと顎を掴まれ、しゃがんだ彼女の全く笑ってない目と、目が合った。
周りは煩いくらい賑やかな筈なのに、他には誰もいないみたいに彼女の声だけが聞こえた。
「――き・え・ろ」
ゲラゲラ笑いながら彼女達が去ると、途端に周りの音が津波のように押し寄せてきて、視界がぐらぐら揺れる。ぎゅっと自分の腕を掴んだ。トクトクトクと冷えきった手から、心臓の鼓動を感じると、そこからじんわり体温が広がっていくようで、少しだけ心が落ち着いた。
そっと顔をあげて、廊下を見ると、人はほとんどいなくなっていた。教室から響いてくる声が、少しだけ廊下に反響する。ホームルームの時間が近いのだろう。
(教室に、入……らなきゃ……)
込み上げる吐き気を押し殺しながら、ゆっくり立ち上がると、ドクドクドクと心臓が膨張をはじめる。膨張した心臓が、気管を圧迫して、息苦しい。
(息って、どうやって吸うんだっけ……)
そんなことを考えながら、胸の前に鞄を抱えた。
(大丈夫。誰も、私を見ない。そっと、教室に入れば、誰も私を見ない)
ツンと、鼻が痛む。ギュと抱えられた鞄が曲がる。
(大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫……)
そう念じながら、できるだけ身体を小さくして、歪む視界の中、教室に足を踏み入れた。
教室の中は、いつもと変わらず活気に満ちていた。ロッカーの前でバタバタと走り回る男子グループ。リーダー格の女の子の机に集まってお喋りに花を咲かせる女子グループ。自分の席に座って周りの席の子と話をしている子達。予習に余念のない子。宿題を慌てて写している子。本を読んでいる子。集中して携帯を弄っているかと思えば、突撃叫び出すグループ。皆が思い思いに過ごしている中、ぽっかりと取り残されたように誰もいない空間がある。窓際から2列目、後ろから3番目の、私の席。グッと息を飲んで席に近づいた。心の中で、
(大丈夫。大丈夫……)
と、唱えながら、ドクドクドクと早くなる心臓に急かされるように席に向かう。誰とも目を合わせないように俯きながら歩いていると、ふと視界が暗くなり、ドンと何かにぶつかった。
「うわっ!」
男の子の声がした。
「……!」
謝ろうと声を発するよりも先に舌打ちが聞こえた。
「チッ。『岩石』かよ」
その言葉に、ビクッと身体が強ばる。
「謝罪もないとか、まじねーわ~」
固まったまま動けない私に、吐き捨てるようにそう言って、彼は去っていった。
「……ごめんなさい」
やっとの思いで口にした言葉が、騒がしい教室の中彼に届く筈もなく、グッと下唇を噛んで目から溢れだそうとする涙を堪えるしかなかった。
◆◆◆◆◆◆
彼女――『岩石華』は、名前とは正反対に華やかさの欠片もない少女であった。腰まで伸びたのっぺりと岩海苔を張り付けたかのような真っ黒の髪。長く伸びた前髪から、時々見える肌は、赤く腫れ、膿を蓄えたニキビがあれば、大きなクレーターのようなニキビあとがあり、それでは人に見せられまいと、他人に思わせてしまうほど荒れていた。愛嬌があれば、幾何か見ることもできるだろうが、父親譲りの高身長と、骨太な骨格のため、運動部でもないのに、ガッチリとした印象を与える体格であるくせに、人目を気にするように背中を小さく丸め、おどおどと様子を伺う様は、妙に人を苛つかせた。
幼い頃から内向的で、人よりも発達が遅かったため、両親からは、「しっかりしろ」「そんなこともできないのか」と、怒られながら育ってきた。彼女には、姉と弟がいるが、彼女とは正反対に姉は器量がよく、明朗快活で、弟は物静かであったが、記憶力がよく、勉強ができたため、両親の自慢であった。そんな姉弟がいれば、当然のように比較されて育ち、挙げ句姉は勿論、弟からも蔑まれきた。内向的だった彼女の性格に拍車がかかり、自己肯定感が低いまま成長してしまったことは言うまでもない。
それでも、小学生の頃までは、穏やかな日常を送っていた。家に居場所がなくとも、仲の良い友人がおり、学校生活の中では笑って過ごすことが多かった。しかし、父親の転勤によって、彼女にとっての地獄が始まった。
新生活が始まる四月。彼女は、知り合いの全くいない中学校に入学した。地域性の高いその学校は、近隣の小学校からそのまま進学する生徒がほとんどで、すでにある程度の『グループ』が存在していた。超内向的な彼女が、自らクラスメートに声をかけるなど、できる筈もなく、興味を持って話しかけてくれる子に対しても、緊張で話すことができなかった。そんな彼女がクラスで浮いた存在になってしまうのは、当然だったのかもしれない。
話しかけても、固まって返事をしない無機物。鈍くさく、大きいが故に目につく存在。授業で指名されても、声が小さいため、進行の妨げになる邪魔者。いつしか彼女は陰で、『岩石』と呼ばれるようになっていた。
季節が変わり、学年が変わっても、彼女に友達はできなかった。学校行事を重ねるに連れて、親睦を深める同級生に反して、彼女は一層の孤立を深めていった。ある意味、明確に虐められているとわかるような扱いを受けた方が、彼女にとってはよかったのかもしれない。
小学生の頃は、彼女の狭い世界で学校だけが、彼女の存在を認めてくれる大切な居場所だった。しかし、中学生の今、学校でさえも、彼女の存在を認めない場所となってしまったのだ。
彼女の狭い世界の中で、『彼女』の存在は無くてはならないものではなく、別に無くても問題のない存在であった。
ならば、なぜ自分が存在しているのか、存在しなくてもいいのなら、、、、『私』は…………。
◆◆◆◆◆◆
ピリッと刺すような痛みに、ハッと我に返った。痛みを感じた左手を見ると、上に向けられた手首から一線の血が垂れていた。肘に向かって流れ落ちていく血を見て『綺麗だな』と思った。じじんわりと広がる痛みに、不思議な安心感を覚えて、カッターを持つ右手に力が入る。
もっと切ったら綺麗かな。抉ったらどうなるかな。もっと、もっと、血が見たいな。血が、血が、血が!血が見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!見たい!
思いっきり右手を振り上げた。