9 この手に闇魔法を(2)
遡ること数時間前。
ボーン……ボーン……。
静謐な書物庫に鳴り響くは、古ぼけた柱時計の報せ。
ちょうどこの時間は、クロエの元へ一日一回の食事が運ばれてくる頃合でもあった。
……ボー……ン。
やがて柱時計の音が鳴り止むと、それに替わる形で書物庫の扉が開いた。
見るとそこには、トレイを持った一人の聖女の姿。そのトレイの上に乗っているのは、いつもと同じの極めて質素な食事メニュー。
しかし、いつもと違って今日の食事係は大聖女ではなく、彼女より遥かに年下の少女だった。
「クロエ様ー、クロエ様ー。どこにいらっしゃいますかー?」
その少女は慣れない様子で書物庫内を歩き回る。
それから程なくして、クロエが少女の呼びかけに応じた。
「ここだよー、ここー」
本棚の間から、ぴょこんと手が飛び出る。
「そちらにいらっしゃいましたか。食事をお持ちしましたので、召し上がってください」
「うん、ありがと……って、あれ? 今日は大聖女様じゃないんだね」
「あ、はい。訊いた話ですと、大聖女様は温泉旅行に行ってて不在らしいです」
「そうなんだ。だからユノが代わりに来たんだね」
「はい!」
元気よく返事をしたユノという少女は、クロエのように元から大聖堂にいた人間ではなく、一年ほど前に修行のためにやって来た見習い聖女である。
年はクロエより二つ下の十三歳、ふわっとゆるい金色の髪が特徴的な後輩だ。
「そっかそっかぁ。働き者だね、ユノは」
「いえいえ、そんなことありませんよ。わたしなんてエリシア様に比べたらまだ全然です」
「またまた~、そんなこと言っちゃって~」
「あ、そうです、エリシア様といえば今日こんなことがあったんですよー……」
「――んむ?」
とっくに食べ始めているクロエ。パンを頬張ることに意識が集中しているため、ユノの話はほぼ頭に入ってこない状態、しかし当のユノはそんな事情を知る由もないので話し始めてしまう。
案の定、クロエが聞き取ったのは最後の部分だけだった。
「……――だから言ってやったんです、『そんな言い方ないじゃないですか!』って」
(ん? 誰かと喧嘩でもしたのかな?)
「クロエ様はどう思います? ひどいですよね!?」
「あーうん、そうだね。でも喧嘩はよくないよ」
「け、喧嘩……? あの、わたしの話ちゃんと聞いてくれてました?」
「もちろんだよ! はは、ははは……」
「そうですか、それならいいんですけど……あ、それでこの後、不思議なことが起こりましてね――」
またしても話を始めようとするユノ。
それと時を同じくして、クロエも最後のパンの一欠片を口に放っていた。
「ごちそうさま!」
「ええ!? もう食べ終えられたんですか!?」
空っぽになった食器を見たユノは、自ら話の腰を折るほどに驚く。
クロエは意外と早食いだった……と言いたい所だがその実、ユノがそこそこ長い時間話し続けていたことに気づいていないだけだった。
なのでクロエも「そんなに早かったかなぁ」と首をかしげていた。
「あ、そう言えばなんですけど」
突然、ユノは何かを思い出したように手を打つ。
「どしたの?」
「実は明日、孤児院のお手伝いがあるんですけど、クロエ様もいかがですか?」
「えー、やだよ」
その瞬間、クロエはハッとする。
あれほど言わないよう意識していた言葉を、あろうことか人目の前で言ってしまった。
油断していたのだ。なにせ今は食後、眠くなるほどに気持ちが緩まる瞬間なのだから。
しかし、そんな言い訳を並べた所で闇魔法は待ってくれない。
クロエの手の平からはすでに闇の弾――《уад》が放出され、無慈悲にもユノに襲いかかろうとしていた。
「と……止まれぇぇー!」
クロエは必死の思いで手の平を突き出し、叫ぶ。
すると願いが通じたのか、闇弾はユノに直撃する寸前で動きを止めた。
「な、なんですか、これ……」
尻もちをつきながら、ユノは怯えていた。本能が目の前にあるソレを、危険な物だと認識していた。
「ごめん、今はとにかくそこから離れて……!」
クロエは余裕がなかった。少しでも意識を緩めれば、闇弾が再び動き出す予感がしていた。
「そうしたいのは山々なのですが……こ、腰が抜けて動けません……!」
身体を小刻みに震わせながら、ユノは言う。
「分かった、じゃあどうにか消してみせるよ……!」
意識を集中させながらも、クロエは魔導書の最初のページに書かれていたことを思い出していた。
――対象への拒絶心が充分に高まった時に、この術を詠唱せよ。
これが示すのはすなわち、あの闇弾は拒絶心を糧にしているということだ。
だとすれば、拒絶心を薄めていけば――無にすれば、あの弾は消えるはず。
クロエは突き出した腕をそっとおろし、目を閉じた。拒絶を無に。さらには無を超えて、肯定する気持ちを顕わに――。
邪悪な気配を感じなくなった。目を開けると、闇弾は跡形もなく消えていた。
「今のは……何だったのですか?」
尻もちをついたままユノが言う。
実物を見られた以上、クロエも黙っているわけにはいかなかった。
「今のは闇魔法さ。ボクが未熟なせいで、時々こうやって暴発しちゃうんだけどね」
「闇……魔法……」
「うん。ユノもこれが禁――」
「すごいです! そんなすごい魔法、見たことも聞いたこともないです!」
「へ?」
クロエは「ユノもこれが禁忌の術なのは知ってるよね」と言おうとしたが、思わぬユノの反応に遮られる。
闇魔法が禁忌の術であるどころか、闇魔法の存在自体を知らないような反応だ。
――そっかぁ、闇魔法が滅んだのってすごく昔だから……それ自体を知らなくても当然かもね。
クロエは考えた。
闇魔法が禁忌の術であるかを、伝えるべきか伝えぬべきか。
答えは、すぐに出た。
伝えない。
なぜなら伝えれば、即刻大聖堂を追い出されることになりそうだから。
数秒前までは出ていく覚悟をしていた彼女の気概も、今はどこへやら。
「うん、すごいでしょ。でも他の人には言わないでね」
「え、なぜですか? クロエ様が魔法を使えるって知ったら、きっと皆さん喜びますよ?」
「いーのいーの、これはボクとユノだけの秘密ってことさ」
「わたしとクロエ様だけの秘密……! すごくいい響きです、分かりました!」
(ふぅ、なんとかなったぁ……)
再び現在。
「――ってことがあってね。まあでも、そのおかげでボクは割と自由に《уад》を動かしたり、消したりできるようになったんだよね」
「はぁ……バレたのがユノで本当に良かったわね」
クロエが淡々と語るバレるまでの経緯を、エリシアは肝を冷やしながら聞いていた。
「けど、今回が大丈夫だったからって油断は禁物よ。闇魔法って基本的に、悪いイメージしかないんだから」
「それは分かってるよぉ」
「特に大聖女様の前では絶対、ゼ~ッタイやっちゃダメだからね」
「あ、大聖女様にはもう《уад》を食らわしちゃってるんだよね」
「は……?」
「しかも二発」
「は……はァァァァ!?」
エリシアの絶叫が、静かな書物庫に木霊した。