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 ススムの父、斉藤貞次郎(さだじろう)は敦の腕前を褒め、今夜は泊まっていけと、引き留めて放さなかった。ススムも強引に腕を引っ張り、敦はとうとうやっかいになることになったのだった。

 敦は話が巧みだった。彼は様々な釣りの体験談を語り、ヒメマスの塩焼きが花を添え、夕食はかなり楽しいものになった。

 貞次郎も負けずに面白く語る。若いころ釣り上げた、八〇センチというクロダイの自慢を始める。そんな化け物見たことないと敦が本当に驚いたので、貞次郎はいよいよ得意になって口から泡を飛ばしたりするのだった。わざわざ妻のサエ子に、その魚拓を出して来させたりもしたのだった。

 そして、とうとう、黒鷹の(ぬし)の話になる。改めてススムも体を前に進める。帰り道に自分の思い出話を語ったものの、残念ながら、幼いときに「見た」というあやふやな体験一つだけ。あとは、いままで自分がどんな仕掛けでチャレンジしたか、それだけの内容でしかなかったのだ。経験量は遙かに父が(まさ)る。ここは自分も聞く側に回るのだった。


 貞次郎は敦のコップにビールを注ぐ。

「……あいつは、ちょっと変わってんだ」

 口火を切る。

「なんて言ったらいいんか分からねえ。例えばさ、普通だったら、どんな魚であれ、感触、雰囲気てモンがあるだろ。まだ釣り上げる前でもよ。糸を垂らしてると、いや、その前に湖を見ただけで、魚を感ずる事ができたりするんだ。なんて言うのかな、存在感、かな。それが、あいつの場合、まるで分からんのだよ。どこか変わってんだ……」

 首をかしげつつ、自分もビールを口に運ぶ。

「あいつはな、嵐の後にしか、姿を見せないのだよ。それもただの嵐じゃ駄目だ。湖をかき回すほどの大嵐じゃないと駄目なんだ」

「大嵐のあと、ですね」

 記憶するように復唱する。

「最初に(ぬし)を目撃したのが、わしのじっちゃんだ。じ様もえらい釣り好きでな、そのころ食糧難という時代でもあって、食うためにちょくちょく黒鷹に釣り糸を垂らしていたそうだ。

 その日の前夜はひどい嵐でな。ものすごく危険なのに、かえって都合ええってほざいて、湖に登った。ところがどうしたものか、一向に当たる気配がない。餌を(つつ)きにも来ない。手を変え品を変えても駄目。しまいにゃ、さすがのじ様も諦めて、竿を畳んだそうだ。

 悔しそうに睨み付けたんだと思うよ。湖面をさ。わしの想像だけど」

 貞次郎は一息つく。

「全く、偶然だった」

「見たんですね」

 貞次郎、頷く。

「湖の中央付近に、なにかが浮かび上がった。えらく目が良かったじ様の、若いころの話だ。それでもじ様は、何度も目をこすったそうな。背ビレだったそうだ。

 次いで、水面下にそのシルエットが見えた。デカい! デカかった。……じ様は、身の(たけ)(けん)、今で言う約一・八メートル、と言っとった。なんぼか差し引いても、それでも一・五メートルはあるだろう、それが、背中丸出しにして、ゆったりと漂っているのだ。

 驚くことはそれだけでねがった。じ様が呆然としてる間に、その怪魚は水中に消えていったんだが、そのあとで、じ様は摩訶不思議な光景を見た。

 その怪魚の後ろに、まっこと、湖中の、とも言うべき沢山の魚が、長い列をなして泳いでいたんだ。殿様とその家来衆ってかんじで、皆、怪魚に付き従っていたのだ。

 じ様、その光景に驚いたものの、これで釣れん訳が分かったと膝を打った。あの化け物が、子分どもを安全に誘導していたからに違いない。

 その時ばかりはじ様、恐くて震え上がったそうな。山道を飛んで帰ったそうだ」

「じゃ、それ以来、おじいさまは、湖に行くことを止めたんですか」

 貞次郎は強く首を振った。

「まさかまさか。並み居る天狗連から師匠と呼ばれてたじ様だぞ。もちろん、しばらくは恐くて近づかなかったけど、やがて、血がふつふつと沸き上がってくる……」

 ここでススムが大真面目に頷いたので、周りの三人は思わず笑い出すのだった。

「わはは。そして、それからじ様の挑戦が始まったのだ。まぁ、はしょるが、結局、破れた。(ひと)当たりすらなかった。残念、と笑いながらあの世に逝ってしまった。

 次はわしの(オド)の番だった。釣りに関してはこれも負けず劣らずの狂い者だったんだか、オドは実は、最初は全然関心がなかった。じ様は丸太かなんかを見間違えたんだろ、とな。自分の目で見ん限り、信じない人だった。

 が、なんやかんや言っても、やっぱり気になってたんだな。秋台風の通り過ぎた次の日、確かめに出かけたんだ」

「そして、見た?」

「うん。じ様が見たのと、全く同じ状況だったそうだ。さあ、それ以降、オドも血がぼこぼこだわさ。暇さえあれば、なければ作ってでも黒鷹に挑んだ」

「首尾は?」

 貞次郎は首を振った。

「皆無」すぐに続ける。「あの日から、オドはぷっつりと釣りをやめた。そんで、五年前に死んだよ。穏やかな顔だったな」

 祖父の今際に、ススムは付き添っている。この父が、肩をふるわせて無言で泣いていたことを記憶している。

「あの日ってのは、何です」

 貞次郎は笑いながら。

「いや、わしの(アン)チャが死んだ日のことなんだ。もう、何十年も昔の話だぁ。こういうのも口はばったいものだけど、兄チャは一族中一番の傑物でな。天賦の才があった。なんと言うのかな、センス、が良かったんだ。腕自慢のオドも、じ様も、まるで敵わんほどにさ」

 貞次郎は遠くを見つめる顔になる。

「名前は清太郎(きよたろう)。風変りな人でな、清太郎兄チャは見てもいないのに、(ぬし)の存在を確信したんだ。夢幻の相手に対して、現実にて技の限りを尽くした。ありとあらゆる、それこそ多種多芸な手段を講じた。数百種、数千手の仕掛け、超人のごとき粘り。だが、なんとしても釣り上げること叶わなかった」

 貞次郎はまた笑ったが、敦は真面目な顔のままだった。

「天才、兄チャも、結局、駄目だった。そればかりか、どうしたやら、ある日湖面を漂っているところを発見されてな」

 皆、無言。

「事故だよ。足滑らして、頭打って。……いやそんな顔すんなって! もう、かれこれ……二十年も昔の話よ」

 ビールを飲んだ。

「さあて、次はいよいよ、わしの番だ。実はわしも、この目で見るまで信じられなかったな」

 ボリボリと腕を掻く。

「全く言い伝えの通りだった。体長一・五メートルくらい。いや本当に一間あったかもしれん。胴回りは、大人の一抱え分はあるようだった。そいつが湖の魚を従えて、極めてゆっくりと泳いどった」

「確かですね?」

 真剣な顔。

「わはは。そうだろ? 信じられんよな。無理ない。サイズがサイズだし、それよりも何よりも、なにしろだ。じ様の代から数えても、かれこれ、七、八十年は立っとるもんな……。これは不思議を通り越して、奇跡だよ」

「ずばり、主の正体は?」

「なんだろね」

「黒鷹に生息しているのはマスでしたよね。サケ科ですよね」

「考え方がスマートだな。イトウのこと言いたいんだろ。たしかに、あれにはいろんな伝説があるからな。だが違う」

「巨鯉」

 貞次郎、断言する。「違う」

 敦は急に声を潜めたのだった。

「……外来種?」

「時代からして、さすがに違うと思うぞ。それに、これはただのわしの勘なんだが、在来種であろうと確信している」

 二人は熱心に話し合っている……。

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