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お昼。ススムはリュックからお握りと水筒を出した。向かい側の男は、諦めた様子だった。リールを巻き戻し、装備を畳んでいる。お握りをぱくつきながら、ススムはにやにやした。
……そうだよ。今日初めてアタックしたヤツに、釣れるわけないじゃないか。そう思うススム自身、かれこれ五年のキャリアになっている。主は、簡単に釣られる玉じゃないのだ。
次の瞬間、ススムは緊張してしまったのだった。男の人が竿をしまい終わって、こっちに向かって両腕を大きく振ったのだから。
「……おおおういいい……」
大声で呼びかけてきた。
「……ススムくうううん……」
ここに至ってススムは仰天した。僕の名前を知ってる!?
「……そっち行くねえええ……」
こっち来るって!
男は岸に沿って、北端周りで歩き出す。距離があるから十数分はかかるだろう。さあどうしよう。
実を言うと、ススムは南回りで逃げ出したかった。人見知りする性格だし、知らない人とおしゃべりするのは苦手だった。……が、けっきょく意地を張った。よそ者に、背を見せられるもんじゃなかったから。
ようやく声が届く距離になって、男の人は片手を上げて笑顔を見せた。歯が真っ白だった。
「こんにちは!」ほがらかな声。
そして背が高い。自分はチビッ子だなぁと思い知らされる。
「……こんちは」
「どうだい、釣れるかい」
男はススムの隣に到着すると、平気なふうに腰を下ろす。
「……まあまあってとこです」
ちょっとぶっきら棒すぎたかもしれない。男の人が苦笑する。彼は水筒を取り出し喉を潤すと、サングラスを外して汗を拭いた。その顔が意外と優しかったので、ススムはいくらか気が緩んだ。
「俺なんか丸で駄目だった。どうしてだろう?」
「……」
「仕掛けが、まずかったのかな」
主ねらいだったら、それ以外は釣れるはずないじゃん。そう言いたくなるのをグッとこらえる。男はそれを見て取った。
「ちょっと、教えてくれないかなァ」
「なにを?」
「黒鷹湖の主のことさ。もちろん」
ほら来た。ススムは身構える。男はそんな様子を見て、困ったように笑う。そして言った。
「君は、斉藤ススム君だろ」
そうだそうだった。この人、僕の名前しってる。男に顔を向ける。
「いやなに……ふもとの町で、聞いてきたんだよ」
「小父さんはだれです」
「小父さん、かぁ。小父さん、ねぇ。ショックー。そんなに老けて見えるんかなぁ。小父さんはひどい。せめてお兄さんと呼んでくれよ」
「兄チャは今、北氷洋に行ってる」
「そうか、お兄さんがいたのか。お父さんは釣具屋さんだろう。家族そろって、釣りが好きなんだな」
「そうさ!」
思わず弾んだ声を出して、慌てて口を塞ぐ。や、この人、父のことも知ってるぞ。丁寧な口調になる。
「その……お兄さんはだれなんです」
「ああ、ごめんごめん。そうだ」
男は黒革の名刺入れを取り出すと、一枚、ススムにくれる。もちろん、名刺をもらうことなんか、初めてのことだった。
「読めるかな?」
「県庁観光開発部、小林……」
「敦。あつし、と読むんだ。よろしく」
「どうも……課長」
「えへへ、そこはいい」
照れくさそうに笑う。ススムは名刺の扱いに困った。気を悪くしないかな、と敦を盗み見て、そっと胸のポケットに入れたのだった。
「……何やってんの?」
「今かい。水筒の口を締めている」
「いや、その、仕事」
ススムは顔を赤らめる。
「ああ……ようするに、観光地になりそうな所を探して、観光地にするのさ」
「どうして」
「他の県の観光客を呼んで、楽しんでもらうためだよ」
「よその県の人たちだけなの」
「いやいや、すまん。言い方が悪かった」
敦は頭を小突く。
「もちろん、この県の人だっていいんだ。つまり……その。観光客を呼べば、ここでお金を使ってくれるだろう? たとえば、食事したり、土産物を買ってくれたり、旅館に泊まったりして」
「うん」
「その観光客がヨソの県の人だったら、つまりウチの県が儲かるってことじゃないか」
「うーん……」
「難しいかな」
「だいたい、分かるような、気がする」
「あはは」
敦は明るく笑い、ススムは少し心が軽くなったのだった。




