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ススムは湖の東岸にいた。“西口”は真向かい、緑の壁のように立ち並ぶ林の中、木の一本だけ抜けたように見える辺りにある。だから、ススムはすぐに、湖に登ってきた男に気づいた。
麦わら帽に黒いサングラス。ダブダブな白いTシャツ。足の長いジーパンという格好だ。そして荷物を背負っている。釣り具だった。
ススムはちょっと舌打ちした。湖はもちろん、だれのものでもないから、その男の人を拒むことはできない。でも、いかにも自分の縄張りを侵されたみたいで、面白くなかった。
男はススムの向かいで準備にかかった。まるで見せつけているかのようだった。眺めているススムの胸に、苦いものが満ちていく。男のその道具は、遠目にも分かる。ロッドもリールも、何もかも大型だったのだから。つまり――
大物ねらい!
男はススムに気づいている。なぜか、律儀に、キャスティング前に、ススムに片腕を上げて挨拶したのだった。
黒鷹湖の主!
体長一間(約一・八メートル)ほどの、目撃者の極めて稀な、いわば幻の大魚である。
ススム自身が、その数少ない目撃者の一人だ。六年前、幼稚園の頃、父親に連れられてここに遊びに来た。戯れに、顔ほどの大きさの石を、ドボンと深みの中に落としてみたところ、そいつが出たのだ。
なにか下の方から黒影が上がってきたなぁ、と思ったら、落とし石への怒りを示すがごとく、ザッパリと水を割り、丸太のような背を湖面に浮かばせたのだ。その迫力ったらもう! 幼児の目に、まるで巨大な黒鯨のように映ったのだった。
やがて、ゆうるりと、沖に向かって泳いでいく。その貫禄。さらにはだ。なんという魚群、魚影なのだろう。夢かうつつか、数十という魚たちが、まるで王に従う家臣のように、主の後を追って大行進をし始めたのだ。
ススムは急いで父親に報告し、父が押っ取り刀で竿を振るうも時遅く、取り逃がし。
どころか、その日を境に、ぷっつりと、主の目撃情報は絶えたのだった。
死んだのか、あるいは――
もう記憶も曖昧に、本当は、すべてが白昼夢だったのかもしれない、と気弱く思ってしまうこの頃だ。




