79.種の行方
「ああ」
と、ため息のような声を漏らして、女は星屑の瞬く天を見上げた。
血のように赤い髪が肩を流れ、深紅の長衣の背を撫でる。満天の星空を掬い取った赤眼を、女は愛おしむように、されど悲しむように細めて言った。
「エリク。あなたはやはりその道を選ぶのですね」
星に向かって語りかける女の後ろ姿を、ひとりの少女が声もなく見つめている。
陶器のように無機質な顔に、地に向かってまっすぐ垂れる長い髪。
膝まで届く純白の貫頭衣に身を包んだ彼女の色素はあまりに薄く、この世のものではないかのようにそこにあった。あまりに浮世離れした立ち姿は、何も知らない者が見ればきっと精巧な人形と見まがうことだろう。
「……では、私はあなたの選択を守ります。──ターシャ」
やがて女が天上の星々を背に振り向くと、ターシャと呼ばれた少女の瞳がわずか動いた。目を凝らさねば見逃してしまいそうな、あまりにも微かな変化だったが、それは彼女が人に似せて作られた人形などではないことの何よりの証左だった。
「私はしばらくここを離れます。塔の管理は任せて構いませんね?」
「……嫌です、と言ったところで拒否権はないんですよね?」
「そんなことはありませんよ。嫌なら私が留守の間にどこへ去っても構いません。何度も言っているとおり、私はあなたが神の側につこうと人類の側につこうと、咎めるつもりはないのですから」
そう言って微笑んだ女の顔から目を逸らし、少女は露骨なため息をついた。
もちろん女は知っているのだ。
少女がここを去ったところで、この世のどこにも行く宛などないことは。
我ながら意地の悪いことをしているという自覚はある。されどもし、彼女が世界への憎しみや諦めを捨ててここを出ていくと言うのならそれもひとつの選択だ。
ならば引き止めはしない。詰りもしない。
女が見届けたいのは神ではなく、人類の手によって選ばれる未来なのだから。
「……分かりました。なら帰ってきたとき、私がいなくなっていても恨まないで下さいね、ペレスエラさま」
「ええ、もちろん恨みませんよ。五百年もの間、あなたは本当によく仕えてくれました。私から教えられることはもう何もありません。ここから先はあなたもまた、あなたの望むまま生きてよいのです──運命の鎖を振り払った彼のように」
そう言って、女は天上で瞬くふたつの星を見上げた。今にも近づき、重なり合うかに見えた赤い星と青い星。されど彼らは再び離れて、暗い虚空に浮かんでいる。
未来は変わった。それはあまりにも些細な一歩だが、時の果てを見通す眼を持つ女にとっては、何よりも大きな一歩だった。
「では、ターシャ。任せましたよ」
最果ての塔と呼ばれる世界の果ての白き塔で、夜空に手が届きそうなほど高い露台に立った赤き魔女は、もう一度少女に微笑みかけた。少女は黙って頭を垂れる。
イヴという名の生命体──いや、あれを生命と呼ぶのは命に対する冒涜か──とよく似た気配をまとう彼女は、果たしてどちらを選ぶのだろうか。
──マナ。あなたの蒔いた未来の種が、芽吹き始めましたよ。
最後に見上げた星々にそう語りかけ、女は風となった。
運命が、狂い始めている。
● ◯ ●
「──エリク、そっちに行ったぞ!」
という鋭い呼び声で、エリクははっと我に返った。
叢を掻き分ける音が聞こえる。
予想よりもずっと速く、まっすぐこちらへ向かってくる。
異変に気づいたシェーンが前脚を浮かせ、嘶きそうになるのを押さえた。
と同時に番えておいた矢を引き絞る。──雑念は振り払わなければ。
視界の中心に収まった鏃の先端に意識を集め、そう念じた。
次の瞬間、灌木の間から黒茶色の塊が飛び出してくる。
甲高い鳴き声を上げ、白い牙を振り上げたその塊は野生の猪だった。
年が明けたこの時期には珍しい、丸々と太った雄の野猪だ。
普通、野生動物は餌の少ない冬を秋に蓄えた脂肪を使ってやり過ごすため、今の時期は痩せてげっそりしているものが多い。
されどメイナード家の猟犬が見つけ出してくれた今回の獲物は、見るからに脂の乗った大物だ。ひょっとすると森の主だろうか。
だがどれほど太く逞しく生きてきた森の王も、たったひとつ何かを間違えばこうしてたやすく命を落とす。それが世の巡り合わせというものだ。
「すまない」
ひと言、そう呟くと同時に弓弦を放した。
風を切り裂き、一直線に飛翔した矢が野猪の背に吸い込まれる。
再び甲高い悲鳴を上げた猪は束の間よろめいた。既にウィルが一撃加えたあとなのか、よく見ると後ろ脚にも矢が一本突き立っている。勢いが止まった。
今ならとどめを刺せる。エリクは弓を捨てて素早く鞘走り、馬腹を蹴った。
心得たとばかりに地を蹴ったシェーンが、迷わず手負いの猪へ肉薄する。
されど猪は、まだ生を諦めてはいなかった。
さすがは森の主と言うべきか、枯れ木ばかりの森に渾身の絶叫を轟かせ、受けて立つと言わんばかりに突撃してくる。
ただでさえ繁殖期を迎え、血の気が多くなっている時期だ。
闘争本能に火のついた猪は最後の力を振り絞り、シェーンに鋭い牙の一撃を見舞おうとした。が、猪の反撃を知ったエリクがとっさに手綱を引き絞るよりも早く、シェーンが前脚を高く蹴り上げる。
彼女が棹立ちになったおかげで猪の狙いがはずれた。反り返った牙が宙を掻く。
「アンゼルム様!」
どこからかコーディの声がした。猟犬の吠え声もする。
と同時に一本の矢が大気を引き裂く音がした。
エリクの真横から飛んできた矢が猪の蟀谷に吸い込まれ、脳天を貫く。
一瞬の静寂ののち、森の主の巨体がどうと倒れた。脳を射抜かれた猪の眼は開かれたまま急速に生の光を失い、すぐにぴくりとも動かなくなる。
「危ないところだったな、アンゼルム」
横ざまに倒れた猪を見下ろしてエリクが呆気に取られていると、ほどなく戛々と馬蹄の音が近づいてきた。見ればそこには自前の弓を手にしたリナルドがいて、黒い愛馬の上からちょっとからかうような視線を投げかけてくる。
「たかが狩りとは言え、油断するなんてお前らしくもない。ぼーっとしてたようだが何か悩みごとか?」
「あ、ああ……助かったよ、リナルド。すまない。まさか手負いの猪が立ち向かってくるとは思わなかったんだ」
「窮鼠猫を噛むって言うだろ。獣だって生きるためには戦うさ。しかし狩りにも集中できないほどの悩みとなると異性絡みかな。もしそうなら喜んで相談に乗るぞ」
「いや、生憎間に合ってる。というか仮にそうだったとしても、お前にだけは相談しないから安心してくれ」
「ははは、連れないな。お前にもひと足早く春が来たなら、せっかく祝ってやろうと思ったのに」
などと、エリクの呆れの眼差しを笑って受け流しながら、馬を下りたリナルドがひょいと屈んで落ちていた弓を拾い上げた。他でもない、エリクが投げ捨てた狩猟用の半弓で、これもまたメイナード家から借り受けてきたものだ。
ところがエリクがその弓を受け取り、礼を言おうとしたところで、先刻猪が現れた茂みから今度は新手の馬が二頭飛び出してきた。
背に乗っているのは血相を変えたウィルとコーディだ。
「おいエリク、大丈夫か!? さっき猪に突かれたように見えたけど……!?」
「ど、どこかお怪我は!? 僕でよろしければ治療します!」
「落ち着け、ふたりとも。アンゼルムならシェーンが機転を利かせてくれたおかげで無事だ。猪も俺が仕留めた。それよりウィル、お前、いつまでアンゼルムを〝エリク〟と呼ぶつもりだ? いい加減改めろと何度も言っているだろう」
「へっ? あ、ああ、悪い、エリ……じゃなくてアンゼルム! い、今のはお前が猪に襲われたんじゃないかと、気が動転しててだな……」
「いや、いいよ、少しずつ慣れてくれれば。こっちこそ心配をかけてすまない。俺もシェーンも見てのとおり怪我はしてないから、安心してくれ」
「よ、よかった……僕、野生の猪を狩ったのは初めてなのですけど、あんなに凶暴なのですね……」
そう言って胸を撫で下ろしたコーディの傍らで、黒い鼻先を天に向け、猟犬がワンと吠えた。無事に獲物を仕留められたことが嬉しいのか、しきりに尻尾を振っているさまは〝さあ褒めてくれ〟と言わんばかりだ。
黄暦三三四年、賢神の月、戒神の日。
新年を迎えたエリクたちがソルレカランテで過ごす最後の休日だった。
ガルテリオを始めとする中央第三軍の将兵は、明日には黄都を離れ、グランサッソ城へ帰投する。同じくエリクら黄都守護隊の面々もまた、月を跨ぐ頃には司令部での雑務をすべて片づけ、スッドスクード城へ戻る予定だった。
そこでエリクは現在コーディ、ウィル、リナルドの三人と共に、黄都郊外の森へ狩りに来ている。誘ってきたのはウィルで、次に会えるのはいつになるか分からないから、今のうちに思い出作りでも、という名目だった。
まあ、とは言え彼の本当の目的が、先日結婚式で姉を見送ったリナルドに気晴らしをさせることだというのは分かっている。
実を言うとエリクもどさくさにまぎれて式に招待され、ウィルやリナルドと共に参列してきたのだが、実に晴れやかで微笑ましい式だった。新婦となったリナルドの姉はとても幸せそうだったし、新郎も温厚で誠実そうな青年だ。
が、式のあいだ笑顔で姉夫婦を祝福していたはずのリナルドは、その後実家で催された祝宴を中座して戻らず、なんと帰ってきたのは翌朝だったと聞いた。
……ということはあまり考えたくはないが、また年末のように娼館へ入り浸っていたのだろう。姉の門出の日にわざわざそんな行動を取るということは、やはりウィルの言っていたとおり、リナルドも何かしら抱えているものがあるらしい。
ゆえにエリクはウィルの誘いに応じ、せっかくならとコーディも連れてこの森へやってきた。かく言うエリクも黎明祭以来鬱ぎ込むことが多かったから、狩りでもすればいくらか気がまぎれるのではないかと思ったのだ。
もっともウィルとコーディが獲物を追い込むのを待つうちまた妄念に囚われ、皆に心配をかける羽目になってしまったが。
「いやー、けどまさか冬の森でこんな大物が獲れるとは思わなかったな。これならいくらか昼飯にしてもだいぶ余るぞ。三等分してそれぞれ持って帰れるかもな」
「ほ、保存用のお酒を持ってきて正解でしたね……! 今の時期の猪は獣臭いと言いますが、葡萄酒に浸けておけばいくらかマシになるでしょうし……」
「だな。んじゃーいい加減腹も減ったし、サクッと解体しちまうか。ひとまず泉のとこまで戻ろうぜ。さっき獲った鶉も捌かなきゃだしな」
「聞いた話によると、コーディは料理が得意なんだろう? とすれば今日の昼食は期待させてもらって構わないかな?」
「は……はい……! か、狩りの獲物をその場で調理するのは初めてですが、ががが頑張ります……!」
ほどなくウィルが猪の四肢を縛り上げ、馬に積み終えると、四人は移動を開始した。頭上を覆う枯れ枝の向こうに見える空は薄曇りだが、日は既に中天を過ぎているようだ。早朝の開門と同時に黄都を出てきたことを思えば、エリクたちは既に半日近く狩りをしていたことになる。森を目指す途中馬上で軽食を取ったとは言え、この時間ともなるとさすがにみな空腹のようだった。
が、獲物を探してあちこち走り回ったわりに、エリクは腹が減っていない。
前を行く三人の談笑もどこか遠い世界のもののように聞こえて、自分の存在だけが宙に浮いているような、奇妙な現実感の薄さを感じていた。
あるいは今、自分が見ているものはすべて夢で、目が覚めれば何もかもが年の明ける前に戻るのかもしれない。もっとも時間が巻き戻ったところで、あの日フィロメーナと出会った自分がまったく違う選択をするとも思えないが。
「さて、そんじゃいっちょバラしていくか。ちなみにコーディは、獲物を解体した経験は?」
「い、いえ……じ、実はそれも今回が初めてで……こ、後学のために、勉強させていただきます……!」
「そっか。なら猪は俺とアンゼルムで手分けして捌こう。リナルド、お前は鶉の下拵えをしといてくれよ」
「ああ……けど、鳥を捌くならまず湯を沸かさないとな。血抜きの間に薪を集めて火を熾そう。あとは三脚も作らないと」
「あー、そうだな、まずはそこからか。じゃ、お前は火床と三脚の準備を頼む。鍋は俺が積んできた荷物の中にあるから。俺らは先に薪を集めに行こうぜ」
「はい……! ウィルさんは火焔刻が使えますから、薪さえ集めてしまえば火熾しは簡単ですよね」
「おうよ。神術を使えば生木でもすぐに火がつくからな。多少湿ってる枝でも気にせず持ってきてくれていいぜ」
かくして、猪を仕留めてからほどなく。事前に見つけておいた小さな泉の傍に馬をつないだエリクたちは、早速昼食の支度に取りかかることにした。
収穫は森に到着してすぐにウィルが仕留めた鶉が一羽と猪が一頭。これを両方、近くの木の枝に逆さ吊りにし、首もとに刃を入れておく。溢れた血が重力に引かれてぼたぼたと垂れ落ちるのを、しばらく放置すれば血抜きは完了だ。その間に薪となる枝を探すため、エリクはウィル、コーディと手分けして森に入った。
冬の森はうらぶれていて、とても静かだ。
時折吹く風が足もとに折り重なった落ち葉を運び、波のような音を立てるが、そこに生命の息吹は感じられない。葉が落ちて丸裸になった木々は見ているだけで寒々しく、春がまだ遠いことを暗示している。エリクはそんな木々が北風に枝を震わせ、啜り泣く声を聞きながら、黙々と手頃な枝を拾い集めた。
(……故郷の森では絶対に見られない光景だな)
と、長靴の下を彩る枯れ葉の絨毯を見つめて思う。一年中温暖な気候が続くグアテマヤン半島では、冬でもこんな風に森が枯れることはない。故郷の森はいついかなるときも青々と葉を繁らせ、噎せ返るような生命の躍動で溢れていた。今あの森がとてつもなく恋しいのは、黄皇国の冬の寒さが骨身に応えているためだろうか。
はたまた二年ぶりに目にした親友の姿が、郷愁を運んできたためだろうか。
「……」
落ち葉の下に感じた硬い感触の正体を確かめようと、爪先で枯れ葉を掻き分けてみる。すると葉の下に隠れていた虫が寝床を荒らされて飛び起き、慌てて逃げてゆくのが目に入った。あれからイークとフィロメーナの消息は杳として知れないが、彼らもあんな風に隠れ家を暴かれたりはしていないだろうか。いや、中央に何の動きもないということはきっと無事でいるのだろう。それは喜ばしいことに違いないのに、立ち尽くしたエリクの胸裏を覆う暗雲は、未だ晴れない。
「ワフッ」
ところが刹那、背後で聞き覚えのある鳴き声がしてエリクははたと我に返った。
振り向けばいつからそこにいたのか、メイナード家の猟犬がエリクを見上げて佇んでいる。リナルドと共に泉の傍へ残してきたつもりだったが、ついてきてしまったようだ。狩りの間の勇ましい姿から一転、今は無邪気に舌を出し、しきりに尻尾を振っているさまに、エリクは小さく苦笑して傍らへしゃがみ込んだ。
「どうした。まさかとは思うが、シグムンド様に俺の目付役でも任されたのか?」
「キューン……」
「はは……そんなわけないか。お前も腹が減ったんだよな。もう少しだけ待ってくれ。獲物の血抜きが済んだら、すぐに解体してうまい骨をたくさんやるから」
エリクがそう言って手を伸ばせば、猟犬は甘えるように頭を擦りつけてきた。
さすがは良家に飼われているだけはあり、彼の毛並みは非常に指の滑りがいい。
おまけに黒の混じった黄茶色の毛皮は温かく、指先が悴んでいたエリクは思わずわしゃわしゃと体毛の豊かな首もとを撫でやった。
すると爪の先にわずか硬い感触が当たり、何だろう、と軽く探ってみる。
正体は革の首輪だった。真ん中から垂れる小さな金属板には、彼がメイナード家の猟犬であることを示す祝福されし青蛇の紋章が刻印されている。
「──で、君は私にどうしろと言いたいのかね?」
その瞬間、エリクの脳裏に甦ったのは、灯の落とされたメイナード邸の書斎に響き渡ったシグムンドの声だった。
「この隊章を手土産に、君の首を上層部へ献上しろと言っているのか。それで此度の一件を丸く収めろと?」
「……証拠品の使い方はお任せします。ですがたった今シグムンド様がおっしゃったとおりに計らわれるのが、最も安全かつ適切な措置かと」
直立したままそう答えた自分の声が、闇の中でやけに無機質に響いたことも覚えている。フィロメーナと出会い、憲兵隊の刃から彼女を逃がした夜。
すべてを打ち明けたエリクが自身の凶行の証として持ち帰った憲兵隊の隊章を前に、腰かけたシグムンドは瞑目し、深いため息をついていた。
彼の前に並べられた血まみれの隊章は、エリクがフィロメーナを守るために斬った憲兵から奪い取ってきたものだ。
そこには犠牲となった者たちの名がしっかりと刻印されていて、これを憲兵隊へ提出すればまず間違いなく、エリクの犯した大罪の動かぬ証拠となるだろう。
「まったく君にはほとほと驚かされる。一年ものあいだ探し続けた友人をようやく見つけ、説得へ向かったのかと思えば、まさか罪人を救うために味方を斬って戻るとはな。まあ、憲兵隊が我々の味方かと言われれば、確かに議論の余地はあるが」
「……申し開きのしようもございません。今回私が犯した罪は、シグムンド様のご信頼を裏切ったばかりか、国家に仇為す反逆行為であると言われても仕方のないものです。この背信は万死に値すると、私自身そう確信しております。ですのでどうかご裁断を」
教会の鐘も鳴らない真夜中のことだった。屋敷の住人は皆寝静まり、シグムンドとエリクが書斎にいることを知っていたのは、恐らく執事のベケットのみだろう。
主従ふたりきりの暗闇には、執務机に置かれた手燭がひとつだけ。
シグムンドの答えを待つ間、じっと立ち尽くすエリクの耳には、玄関広間で時を刻む柱時計の振り子の音だけが聞こえていた。
「……そうだな。君が犯した罪の罰として死を望むと言うのなら、それを与えることはたやすい。だがひとつ訊こう。君の願いは友を黄皇国の内乱から遠ざけ、無事に故郷へ帰すことであったはずだ。だというのに何故フィロメーナを逃がした? 彼女がもし本当にジャンカルロの遺志を継ぐべく動いているのだとしたら、君の親友は引き続き罪人として追われることになるのだぞ」
「承知しております。ですが私は、彼女と……フィロメーナと直接言葉を交わし、国の未来について論じ合ったとき、気づいてしまいました。最愛の人をむごたらしく殺され、乱を起こさずに済む道を潰したのは他でもない黄皇国だろうと泣き叫ぶ彼女を見て、彼女もまた救いを求めるこの国の民のひとりなのだと──あの涙は、我々が救うべき万民の涙なのだと」
誰も失わずに済む道があるのなら、自分だってそうしたかった。
そう叫んだフィロメーナの涙を思い返すたび、エリクは肺に爪を立てられているような気分になった。あの瞬間、エリクは思い知ったのだ。
今、この国で最も救いを必要としているのは彼女だと。
誰よりも救われたいと願いながら、血を流す心を抱えて戦い続けることを選んだ彼女こそ、真に救われるべき国家の罪の象徴だと。
「シグムンド様。私はトラモント黄皇国の軍人です。そして軍人の使命とは、身命を賭して力なき民を守ることだと信じています。ゆえに私は己が守るべき民に剣を向けることができなかったのです。詭弁だと言われればそれまでですが……私が彼女を斬れなかった理由は、そうとしか申し上げられません」
甘すぎる理屈を捏ねているのは、自分でも分かっていた。
確かにフィロメーナもまた救われるべき民であることは事実だ。しかし彼女の罪を許すということは、トラモント黄皇国に乱を呼ぶのを許すということ。
そうなればより多くの民が苦しみ、傷つけ合う未来は避けられないだろう。
つまりエリクの主張は根本的なところで矛盾しているのだ。
ひとりでも多くの民を守りたいと言いながら、フィロメーナを救うことで、彼らをさらなる脅威に晒す選択をしてしまったのだから。
「ですので、シグムンド様。どうか当初の誓約どおり、私の処遇をお決め下さい。一年前、私はイークを説得し、反乱から手を引かせることを条件にシグムンド様の部下としてお仕えすることを許されました。しかしその誓いを守れなかった今、いかなる処分も謹んでお受けする所存です。シグムンド様のご期待に背き、失望させてしまった罪をわずかでも償えるなら、どのような罰でも構いません」
「……」
「ですが先程も申し上げたとおり、シグムンド様のお立場とメイナード家の家名を守るためには、やはり証拠品と共に私を憲兵隊へ差し出されるのが──」
「いや。この件は一度保留としよう。証拠品は私が責任を持って預かっておく。今のところは預かるだけだが、どこでどう使うかは私の裁量に任せてもらおう」
「シグムンド様」
「勘違いするな。処分はあくまで保留であって不問ではない。今後君に軍人を名乗る資格がないと判断した場合には、これらの品を有り難く使わせてもらう。だが今はまだ答えを出すべきときではない。フィロメーナがジャンカルロの跡を継ぎ、反乱軍を再び束ね上げられるかどうかは、まったくの未知数なのだからな」
予想もしていなかったシグムンドの答えに、エリクは束の間絶句した。
そうして立ち尽くしているうちに、シグムンドは机上に並べられた隊章をまとめて布で包み、すっと懐へ入れてしまう。そこでエリクはようやく我に返った。
──何故だ?
自分はシグムンドの信頼を裏切り、明確に黄皇国と敵対したのだ。
だというのに処遇は〝保留〟? そんな真似が許されるはずがない。
ゆえにエリクは、話は終わりだというように席を立ったシグムンドを引き止めるべく、目の前の執務机に両手をついた。
「お待ち下さい、シグムンド様! 仮にフィロメーナがジャンカルロの跡目を継げる器ではないとしても、彼女自身に反乱の意思があることは間違いないのです。ならばそうと知りながら彼女を逃がし、そのために味方まで斬った私の罪は、公に裁かれて然るべきで……!」
「そうか。君がどうしてもと言うのなら私も固辞するつもりはないがな。しかし君は、まだこの国で為すべきことがあると言ってフィロメーナの手を振り払ってきたのではないのか? 君が彼女に告げた〝為すべきこと〟とは、国を変える努力も民を救う道も捨てて、ただ死を待つということなのか」
「それは──」
刹那、にわかに鋭さを増したシグムンドの舌鋒に、エリクは返す言葉を失った。
何故だろう。まるで喉もとに白刃を突きつけられている気分だ。
おかげで身じろぎはおろか、唾を飲み込むことさえできない。
灯明かりの中に佇むシグムンドの眼光は険しかった。ああ、そうか──これが自分の仕えるシグムンド・メイナードという男かと、今頃になって思い知る。
「エリク。目に見えることにばかり惑わされるな。君ひとりが罪を被って死んだところで、国の何が変わると言うのだ。本気でフィロメーナを救いたいと願うのならば生きて戦え。彼女が反乱などという愚かな罪に手を染めずに済む道を作り出せ。それが今の君の為すべきことだ。軍人としてあるまじき過ちを犯したという自覚があるのなら、安易な死に逃れるのではなく、ひとりでも多くの民を救うことこそが償いだと心得よ」
闇の中に響き渡ったシグムンドの言葉は、獅子吼に似ていた。彼は確かに厳しい上官だが、これほどの厳しさでもって打擲されたのは仕官後初めてのことだ。
おかげで涙が溢れ出すのを、エリクは堪えることができなかった。
シグムンドの叱声に身が竦んだためではない。
彼の言葉の奥底にある深い慈愛と気高さに、魂が燃え上がったためだ。
ああ、やはりこの人は俺の魂の主だと。
自分は彼に仕えるために生まれてきたのだと、心の底からそう思った。
(だというのに俺は、そんなシグムンド様のご信頼に背いて……あんな風に諭されるまで、どうすればその罪を償えるのかさえ分かってなかった。本当に……どうしようもない大馬鹿者だ)
あの晩のシグムンドの叱責を思い出すたび、エリクの心は痛みに軋む。
許されたとは思っていない。されどシグムンドは、フィロメーナがジャンカルロと同じ轍を踏むことのないように、これからも共に戦おうと言ってくれた。
ゆえにエリクも改めて誓ったのだ。
命の続く限り、魂に懸けてシグムンドと彼の祖国を守り抜くと。
そう言って跪き、もう一度捧げた剣を、主は頷きと共に受け取ってくれた。
(……フィロメーナを助けたことを、俺は後悔していない。ただ、結果としてシグムンド様を裏切ってしまった自分を許せないだけだ。だからこそ、フィロメーナが反乱軍と共にもう一度決起する前に……内乱を止める。シグムンド様とフィロメーナ、どちらも守るためにはそうするしかない。そして、イークも……)
まるでエリクを慰めようとするかのように鼻を鳴らす猟犬の首を抱き、束の間毛皮に顔をうずめて、エリクはそう言い聞かせた。
されどまったく不安がないと言えば嘘になる。自分は本当に内乱を止められるのか。どうすれば守るべきものを守れるのか。考えれば考えるほど恐れは積もり、気ばかり焦って、何も成し遂げられていないような無力感に苛まれる。
(シグムンド様はできることからひとつずつ手をつけていけばいいと仰って下さるが……果たしてそれで間に合うのか? もしまた何かしくじったら? そうなれば今度こそシグムンド様を危険に晒してしまうかもしれない。イークと関わりのある俺が部下にいる時点で、既にあの方のお立場を危うくしているというのに……)
友も、主も、国も、誇りも。目に映るものすべてを失いたくないと願ってしまうことが、そもそもの間違いなのだろうか。
こんなギリギリの綱渡りを、いつまでも続けていられるわけがない。
そう遠くない未来、自分にもきっと選ばなければならないときがやってくる。
そのとき自分は何を守り、何を捨てる選択をするのか。
考えるだけで恐ろしかった。
されど一縷の望みに懸けるのならば、怯え立ち竦んでいる暇などない。
今はただ、すべてを守れる未来を信じて、一歩でも前へ──
「エリク・ビルト・バルサミナ・セル・デル・シエロ」
そう勇気を奮い起こそうとした、刹那。
突如森に風が吹き、巻き上げられた落ち葉が渦を描いた。
はっとしたエリクが振り返るよりも早く、腕の中の猟犬が吠え立てる。
とっさに立ち上がり、顧みた先。
そこにはまるでこの時期の、灰色の海を思わせる眼差しを湛えた少女がいた。
預言者、イヴ。
一年ぶりに見えた透徹の瞳が、枯れ葉の雨の向こうから、エリクをじっと見つめている。
いつもご愛読ありがとうございます。2020年最後の更新です。
そして突然ですが連載維持のため、来年より当面の間、毎月14日と28日のみの月2回更新とさせていただくことになりました。更新を楽しみにお待ち下さっている皆さまのご期待を裏切り、大変申し訳ありません……。
恐らく2021年いっぱいはこのペースでの連載になるかと思われますが、充分な更新ストックが溜まり次第、また元のペースに戻す予定です。
しばらく亀更新となりますが、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しく思います。来年も『エマニュエル・サーガ』をどうぞよろしくお願い申し上げます。




