6.砂賊の都 ☆
「うーん、参ったな」
と、照りつける太陽の下、エリクは雲ひとつない空を仰いだ。
いや、より正確には、青い空の下に聳え立つ褐色の城をと言うべきか。
その城は砂の大地から塔のごとく突き出た巨大な岩の上にあった。
この広大な砂漠の国──シャムシール砂王国の王城は、真下からだと天辺が見えないほど高い岩塊を削って造られている。
だからこうして眺めると、自然の岩と人工の建物が融合したようなとても奇妙な外観をしていた。岩肌に穿たれたあの四角い穴は、たぶん窓に違いない。
そこからひとりの男が身を乗り出し、退屈そうに頬杖をついているのが見えた。
窓の位置が高すぎて年齢もどこを見ているのかも定かでないが──何となく、目が合った、ような気がする。
「おらっ、何をボサッとしてやがる! さっさと歩け!」
とにわかに腕を引っ張られ、危うく躓きそうになった。慌てて体勢を整えながら、しかし己の両手に嵌められた鉄の手枷に目を落とし、エリクは深く嘆息する。
「はあ……なんでいつもこうなるんだろうな……」
思わず零れた恨み言に、隣のラヴィニアが不安な顔をしたのが分かった。
それに気づいたエリクははっとして、泣き出しそうな彼女に笑いかける。
「ああいや、君のせいじゃないから安心してほしい。必ず助けるよ、ラヴィニア」
「助かるわけねーだろ。てめーらはこれから王子に切り刻まれるんだよ。ま、女の方は上手く媚びればちょっとしたお仕置きで許してもらえるかもしれねーけどな」
ギャハハハハと周りを囲む男たちから哄笑が上がって、ラヴィニアが震えながらうなだれた。襤褸切れを接ぎ合わせただけの、粗末な奴隷服をまとった彼女の横顔にはもはや諦めの色しかない。エリクは改めて嘆息した。何ならこの下卑た野盗どもを神術で吹き飛ばしてもいいのだが、やり方を誤れば状況は悪くなるばかり。
だから今はこらえようとどうにか己を宥めすかして、エリクは亡者の口を思わせる岩壁の城への入り口をくぐった。
さて、事の発端は、今から二刻(二時間)前に遡る。
● ◯ ●
シャムシール砂王国は、王国とは名ばかりの無法地帯だ。
この国には確かに王がいる。名前は確かヴァリス=ヤウズ=ジャハンギル。
今からおよそ二十年前、前王ハムザを闇討ちし、王位を簒奪した男だ。
ここでは代々そのようにして王が決まる。砂王国で王の称号を名乗れるのは前任の王を出し抜き、殺害に成功した者だけなのだ。
しかしこの国における王の役割とは、国の頂点としてただ君臨すること。
砂王国に集う荒くれどもは王の称号を持つ者の意向に従うが、かと言って彼に統治されているのかと言われれば否だった。
そもそもシャムシール砂王国は国の名を冠してはいるが正確には国ではない。ここには軍人も役人も存在せず、突き詰めて言えば国民すらも存在しないからだ。
広大なラムルバハル砂漠の真ん中に唯一存在する街、シェイタン。
この街に集っているのは砂賊と呼ばれる盗賊崩れの傭兵ばかり。
彼らは金欲しさから王に尻尾を振っている、砂王国の手駒だった。
北西大陸南部に広がるラムルバハル砂漠には、地中から不意に砂金が湧き出てくる〝金泉〟と呼ばれる現象がある。砂王の役目はその金泉を管理し、砂金を独占して、相応の働きをした者に分配すること。つまり砂王は王というより、シェイタンに集う傭兵たちの元締めと呼んだ方がしっくりくる立ち場にいるというわけだ。ここは破壊と略奪を愛する男どもの吹き溜まり。表向きにはシャムシール砂王国の都などと言われているものの、実態は街の体をなした砂賊どもの巣窟にすぎない。
「──でよ、あのタマなし野郎、最後はなんて言ったと思う? 〝妻は好きにしていいから命だけは取らないでくれ〟だとさ! だからオレもヤツの提案を受け入れて、目の前で女房を犯しまくってやったのよ。そんときの野郎の顔と言ったら傑作だったぜえ。散々泣き叫んでた女房が大人しくなる頃には廃人寸前って感じでよ。だったら最初から黙って殺されときゃいいのに、まったく馬鹿な野郎だぜ!」
わはははははと背後で弾けた笑い声が、そうした砂王国の実態を何よりも如実に物語っている。屋内にいてもジリジリと暑い砂漠の昼下がり。とある宿屋の一階で薄汚れた酒場の酒卓に腰かけ、豆と香辛料と何かの肉を適当に煮込んだスープのようなものを口に運んでいたエリクは、食事の手を止め眉間を押さえた。
……本当に、なんというかこの国は、何度訪れても眩暈がする。
さすがは蛮賊の国と言うべきか、ここには常識も良心も衛生観念すらも存在しないと言って良かった。何せ食事処でもあるはずの酒場は荒れ放題、床には砂が溜まっているし、使われている食器も薄汚い。ここでは水が貴重だから、節水という大義名分の下、皿洗いさえしていないのではないかと疑いたくなるほどだ。
そんな不衛生な酒場で先程から盛り上がっている男たちは、酒卓に座るエリクの後方、壁際に設けられた四人がけの席にいた。
彼らは真っ昼間から憚りもなく酒の匂いをぷんぷんさせて、わざわざ振り返って確かめずとも全員見事に出来上がっているのが分かる。
そして砂王国で暮らす傭兵たちの間では、酔っ払うとかつて己が働いた悪行の数々をひけらかすのが慣例となっているらしかった。エリクは有り余る怒りと不快感を剣に乗せて叩き込みたいのをぐっとこらえ、砂避けフードを引き下ろす──砂王国の人間とは決して事を構えないこと、という契約を遵守するために。
「あー、そうだ、馬鹿野郎で思い出した。そういやお前ら、もう聞いたか? 何でもファリドの野郎が久しぶりに戻ってるそうじゃねえか。野郎、また気まぐれに帰ってきたかと思えば早速王と派手にやり合ってるらしいぜ。次の列侯国攻めは取りやめて、代わりに黄皇国を攻めるべきだとか何とか言ってな」
「はあ? ろくに戦にも参加しねえ腰抜けが何を偉そうに。あのガルテリオとかいう成り上がりが国境の守りについてから、黄皇国は攻めても攻めてもアガリが取れねえ。手っ取り早く略奪すんなら列侯国を攻めた方が断然いいに決まってんだろ」
「いやいや、それがよ、どうもファリドの野郎には勝算があるらしいんだよ。そのために遥々東の海を渡ってきたんだと、そう訴えてるらしい。まあ、ボスは野郎のことを信用しちゃいねえから、何か裏があると勘繰ってるみてえだが……」
「おい、待てよ。勝算って? つまりあいつには、ガルテリオの首を取る算段があるってことか? どうやって?」
「さあな、そこまではさすがのオレも知らねえよ。だがもし本当にあの竜もどきを蹴散らす方法があるってんなら、ぜひともご高説にあずかりてえもんだな」
と、続いて聞こえた男たちの会話にエリクはまたも手を止めた。
さしてうまくもない赤色のスープが微かに揺れて、煮込まれすぎた豆がひとつ、匙から転がり落ちていく。
──ガルテリオ・ヴィンツェンツィオ。
その名にはエリクも聞き覚えがあった。
ラムルバハル砂漠の東、南北に走った防壁の向こう側。そこに君臨する大国トラモント黄皇国で、ここ数年常勝無敗と謳われている将軍だ。
彼はシャムシール砂王国との国境を守護する戦巧者。配下には常に三万の軍を抱え、砂王国の侵攻を幾度となく跳ね返し続けていた。黄皇国で彼の名を知らない者はなく、ガルテリオがひとたび勝利を収めれば国中が喝采に沸く──そんな英雄の中の英雄だと、エリクも旅の途中で耳にしたことがある。
ゆえについた渾名が『常勝の獅子』。この広大な北西大陸においても、同等の兵力で彼に挑んで勝てる者などいないのではないかとまで噂されている男だった。
それほどの男に勝つ方法がある、だって?
エリクは赤い汁に浮かんだ、豚のものとも羊のものともつかない細切れ肉へ目を落としながら考える。ファリドなる人物は傭兵だけが頼りの戦力で、どうやってまともな勝利を収めようというのか。砂王国には正規軍と呼べる組織は存在していないはずだし、砂賊上がりの荒くれどもには軍隊のように規律立った動きはできない。彼らはただ己の望むままに暴れ、壊し、奪うだけだ。
(なのにどうやって黄皇国軍を打倒するっていうんだ……?)
と、エリクが物思いに耽った直後のことだった。
突然扉を突き破り、ひとりの女が文字どおり酒場へ転がり込んできたのは。
「た、助けて下さい……!!」
にわかに響いた騒音と悲鳴じみた絶叫。その双方に居合わせた誰もが面食らった。エリクの背後では例の男たちが何事かと色めき立っているし、酒卓の奥にいる無愛想な店主も、体格のわりに細い眉を片方だけ持ち上げている。
「お、お願い、誰か助けて……! 私、追われているんです……! 匿って下さったら、お礼は何でもしますから……! お願いします、助けて下さい……!」
店の外からまろぶように現れた女は、足がもつれたのか砂だらけの床に倒れたままでそう叫んだ。が、女と分かるのは声が細く高いからで、顔まではよく分からない。帯のような布を頭に被り、面貌を隠しているせいだ。
まあ、とは言えあの体格で実は男でしたということはないだろう。
ボロボロの衣服から覗く手足は日に焼けてはいるがほっそりしているし、腰のラインにも女性独特のしながある。
しかしエリクが何より驚いたのは砂王国に女がいたことだ。シェイタンを訪れるのは二度目だが、街中で女の姿を見かけたのはこれが初めてのことだった。
「おうおう、姉ちゃん、どうしたァ? そんなに慌ててよ」
「追われてるって? そいつは大変だな、オレらでよければ匿ってやるが」
ところがすぐに驚いている場合ではないと気がついた。呆気に取られたエリクが我に返るより早く、ニヤけ面を引っ提げて女へ歩み寄った連中がいる。
言わずもがなやつらだ。女はそれを善意から来る行動だと信じたのか、「ああ……」と感激に声を震わせた。鼻を啜って口もとを押さえているところを見ると、魔界で天使にでも出会ったような気分でいるに違いない。
「あ、ありがとうございます……! 私はラヴィニア……ラヴィニアといいます。トラモント黄皇国の、クワロス村の出身で……」
「へえ、トラモント黄皇国? ってことは姉ちゃん、トラモント人か」
「え、ええ、あの……私、納められなかった税の形としてここへ……どうやら郷守さまに売られてしまったみたいで……あ、郷守さまというのは、私の国で地方の政を担当している方のことなんですけど……」
「あー、なるほど。つまりアンタは奴隷として砂王国に売られてきたってことか」
「は……はい……そういうことに、なるかと……で、ですが黄皇国では人身売買が禁止されているはずで……なのに、私……売られてしまって……っ」
「そうか、そいつは気の毒になあ。だが知ってるか? 法律だの秩序だのそういうのとは無縁のこの国にも、一応暗黙の了解ってモンがある。その了解によるとだな、一度砂王国に奴隷として入った女は死ぬまで男に奉仕し続けなきゃならねえ」
「……え?」
「逃げれば殺す。逆らえば殺す。それが砂王国での奴隷の扱いだ。つまり、姉ちゃん──てめえはもうここで肉便器として生きてくしかねえってことだよ」
ラヴィニアと名乗った娘が縋る先を誤ったと気づいたときにはもう遅かった。
彼女は立ち上がる間もなく男たちに組み敷かれ、悲痛な叫びを上げている。
男どもは怯え、暴れる彼女の頭からまず邪魔な布を剥ぎ取った。途端に波打つ黒髪が乾いた粘土床に散らばり、砂にまみれる。布の下から現れた彼女の顔はエリクの予想よりちょっと幼かった。年齢はたぶん十七か十八くらいだろう。
ラヴィニアの素顔を拝んだ男たちは「おおっ」と喜色に満ちた声を上げた。彼女の腹部に馬乗りになったひとりが「なんだ、別嬪じゃねえか」とニヤついている。
確かにラヴィニアはふっくらとした頬に厚めの唇を持つ、愛らしい顔立ちの娘だった。今は恐怖で歪んでいるものの、ぱっちりとした瞳は長い睫毛に縁取られていて泣き顔まで絵になっている。男たちは酒に酔っているせいもあってか、そんなラヴィニアの体を興奮気味にまさぐり始めた。ラヴィニアは終始嫌がって暴れているものの、屈強な砂賊どもに押さえ込まれては為す術もない。
「お客さん、やめた方がいいですよ」
と、そのとき背後で低い店主の声がした。が、脳が聞こえた言葉の意味を弾き出すよりも早く、左手が鞘ぐるみ剣を抜いている。そこに素早く右手を添えて思いきり振りかぶったのち──エリクはゴッと、情け容赦なく男の頭をぶん殴った。
「ぐおっ……!?」
ラヴィニアに馬乗りになっていた男が、側頭部に打撃を受けてものの見事に吹き飛んでいく。床を転がった男の巨体は店内に並んだ椅子やら食卓やらを盛大に巻き込み、やがて干し煉瓦の壁にぶち当たってようやく止まった。
そんな仲間の末路を残りの三人が唖然と眺めているうちに、傍にいたもうひとりの顔面へ華麗な回し蹴りを決める。上段から脚を振り下ろすように蹴られた男は硬い床に頭を打ちつけ、毬のごとく跳ねたのち動かなくなった。
そこでようやく残りの酔っ払いが我に返る。彼らは慌ててラヴィニアから飛び離れると、各々腰に帯びていた得物を引き抜き、赤黒い顔をしてエリクを威嚇した。
「て、てめえ、何のつもりだ……!?」
が、エリクは一旦彼らを無視することにする。
何しろ今は足もとに座り込み、怯えている彼女を安心させる方が先決だ。
「立てるか?」
可能な限り優しく聞こえるよう尋ねてから、エリクは手を差し伸べた。
ラヴィニアは顔の見えない相手に一瞬恐怖を覚えたようだが、すぐに敵意はないと分かってくれたのか恐る恐る手を握ってくる。彼女の手の感触を確かめたエリクはふっと笑ってラヴィニアを引き上げた。おぼつかない足取りで立ち上がった彼女を背にかばい、素早く腰に戻した鞘から今度はすらりと刀身を抜く。
「おい、てめえ! いきなり邪魔しやがって、何のつもりだって訊いてんだよ!」
「見て分からないか? 彼女を助けようとしてるんだが」
「はあ!?」
「人の食事中に散々耳が穢れるような話題を提供してくれた礼だ。遠慮しないで受け取るといい」
「っの野郎……! ナメた口聞いてんじゃ──ねえぞ!」
怒りに顔を歪めた右の男が、激昂してすぐさま踏み込んできた。
彼の手には刀身がわずかに湾曲した片刃の剣、シャムシールが握られている。
砂王国の国旗にも掲げられている刀剣だ。
エリクは無軌道に繰り出された切っ先をまず刃で弾くと、次いで右から振り抜かれた一撃を去なし、手首を拈って返された奇襲も難なく回避した。
「下がって」
と後ろで立ち竦んでいるラヴィニアを促しながら、迫り来る刃を剣で止める。
いい角度で鍔迫り合いへ持ち込んだ。エリクは互いの力が拮抗すると見せかけて、即座に相手の剣を巻き取ってしまう。男の手からシャムシールが離れた。落下する得物に相手が気を取られた一瞬の隙を衝き、鳩尾に柄頭を叩き込む。
「がっ……!」
胃液を吐いた男はうめき、背中からひっくり返った。あまりの痛みにのたうち回る姿を見ながら、エリクは冷静に相手の得物を蹴りのける。
刹那、死角から鋭い一撃が来た。来ることは分かっていたから回避は容易だったが、相手の得物の切っ先が砂避けに引っかかり、図らずもフードが外れてしまう。
「あ、赤い髪──」
外套の下から現れたエリクの髪の色を見て、ラヴィニアが驚いているのが分かった。そう、エリクの髪は世界でも特に珍しいと言われる赤髪だ。
緑や紫といった有色髪は稀に見かけるが、赤というのはエリクも自分と家族以外に見たことがない。
──だから顔を晒すのは嫌だったんだ。
最後のひとりとの間合いを計り、下段から刺突を繰り出しながらエリクは内心舌打ちした。赤い髪というのはどうしたって人目を引いてしまう。
ゆえにエリクは他者に顔を覚えられやすく、それがこの国では要らぬ災厄を招く気がして入念に隠していたのだ。だが見られてしまったからにはもう開き直るしかない。エリクは素早く相手の懐へ踏み込んだ。
向こうはこちらの突きを躱して一瞬気がゆるんだようだが、甘い。
「雷槍」
直後、エリクは相手の胸にトンと手を当て、神の力を呼び覚ます言葉を唱えた。
瞬間、左手の甲で稲妻の形をした刺青──否、神刻が瞬き、閃光を走らせる。
「ぬおっ……!?」
大地を揺るがすほどの轟音がはたたいた。
と同時に雷の槍で貫かれた男の体が吹き飛んでいく。
雷刻。雷の神ラアムの力を宿した神刻だった。
神刻とはかつてこの世を統べた神々の力の欠片であり、それを肉体に刻みつけることによって人間もまた神の力を行使することができる。
エリクはその神刻を操る能力に長けた神術使いだ。
おかげで彼らのような力押しで来る相手にはこういった奇襲が実に効く。
先程まで店内で騒ぎまくっていた四人がようやく大人しくなったのを確かめると、エリクは息をついて剣を収めた。扉を突き破り、店の外まで飛んでいった最後の男の体からうっすら煙が立ち上るさまを、ラヴィニアが青い顔で凝視している。
「やあ。驚かせてすまない」
だからエリクは努めて気楽な様子で声をかけた。ラヴィニアはもはや恐怖と混乱が許容量を越えたらしく、大きな目を見張るばかりでまったく声を発さない。
「君、ラヴィニアといったね。俺はエリク、傭兵だ。と言っても砂王国に雇われているわけじゃなくて、今はトラモント黄皇国へ向かう隊商の護衛をしている。つまり君を奴隷とは思っていないから、安心してほしい」
「……」
「ええと、とりあえず怪我はないかな。どこか痛むところがあれば手当てするが」
「……」
「君は、黄皇国の……クワロス村? の出身と言ったっけ。俺はルミジャフタ──君たちトラモント人が〝太陽の村〟と呼ぶ郷の出身だ。だから、まあ、ほとんど同郷みたいなものだよ、うん。そう思えば怖くないだろ?」
「太陽の村──」
と、エリクが告げた郷の名を小さく復唱したかと思えば、途端にラヴィニアが崩れ落ちた。ぎょっとしたエリクは彼女へ駆け寄り、慌てて手を差し伸べる。
「ら、ラヴィニア、大丈夫か? やっぱりどこか痛むなら……」
「あなた……太陽の村の戦士さまなの……?」
「あ、ああ。生まれは列侯国だが、育ちは間違いなく太陽の村だよ」
「ああ……神よ、感謝します……!」
エリクの出身を知ったラヴィニアはたちまち安堵した様子で泣き崩れた。
両手で顔を覆い、しゃくり上げる彼女を見下ろして、エリクはほっとしたような居心地が悪いような複雑な思いで苦笑する。
エリクの故郷であるルミジャフタ郷は、トラモント黄皇国建国の英雄フラヴィオ一世との関わりが深く、トラモント人の間では聖地のごとく崇められていた。
その聖地からやってくる戦士はすべからく善のために戦う──と彼らは何故だか固くそう信じているそうで、ラヴィニアが急に警戒を解いた理由もそこにある。
まあ、エリクもそうなることを見越して郷の名を出したのだが、やはりルミジャフタの出身というだけで聖者のごとく崇拝されるのは決まりが悪かった。
実際のルミジャフタ郷は亜熱帯の森の深くにありすぎて外界と交流できず、勝手に秘境扱いされているだけの田舎にすぎない。確かに妙な妖術を使う巫女こそいるものの、それ以外は至って普通のごくごく小さな郷だった。
今、安堵のあまり泣き崩れているラヴィニアだって、いざルミジャフタを訪れたなら、あまりに質素な佇まいにきっと拍子抜けすることだろう。
「お客さん」
と、ときに横合いから声をかけられてエリクは振り返る。視線をやった先には、あの体格のわりに細眉の無愛想な店主がいた。もとからそういう目つきなのか、はたまた店を荒らされて機嫌が悪いのか、こちらを見据える店主の眼光は鋭い。エリクはそこでようやく店主への謝罪がまだだったことに気づいて姿勢を正した。
「ああ、えっと、店主殿。お騒がせしてすみません。できれば穏便に済ませたかったのですがついカッとなってしまって……壊してしまったものについては弁償を」
「ん」
と、エリクの謝罪に対して店主は何故か顎をしゃくった。最初は頷いてくれたのかと錯覚したがどうやら違うらしい──何かを見ろ、と言っている?
促されるがまま、エリクは店主の顎が示す先を顧みた。
そしてすぐさま「げ、」と声を漏らし、口もとを引き攣らせる。
「見つけたぞ、奴隷十七番。城でファリド王子がお待ちだ。いい加減観念して、大人しく連行されてもらおうか」
そこにはいつの間にか酒場の出口を塞ぐように集結した大勢の凶漢たちがいた。
その数、ざっと二、三十。彼らは手に手に得物を携え、ギラついた目でエリクを──いや、奥にいるラヴィニアを睨み据えている。
しかもエリクの聞き間違いでなければ彼らは確かにこう言った。
ファリド王子がお待ちだ、と。




