77.預言のままに
黄暦三三四年。
エリクがトラモント黄皇国で迎える、二度目の新年が巡ってきた。
世界でも有数の巨大都市ソルレカランテで催される新年祭はとにかく華々しい。
昨年は『黄帝の父』の訃報によって自粛された催し事の数々が、今年は元日から例年どおり──否、あるいは例年以上の盛り上がりで連日開催されていた。そもそも六聖日とは、新年最初の六日間を世界の始まりに見立てて祝われる祭日だ。
一日目の『鳥来祭』は神鳥ネスがエマニュエルの起源となった天樹の種を蒔いたことを、二日目の『祝矢の日』は流れ矢によって原初の神である《始まりの二柱》が生まれたことを、三日目の『神誕祭』はふたつの神が交わって《母なるイマ》と二十二大神が生み落とされたことを祝う。
さらに四日目の『嘆きの日』はイマが天界から身を投げたことを悲しむと共に故人を偲び、五日目の『祓魔の日』には、神界戦争において天界の神々が魔界の神々を打ち破った故事になぞらえ、一年の無病息災や除災招福を祈る行事が催されるのが常だった。
そして最終日となる六日目の『黎明祭』は名前のとおり、神界戦争後に訪れた世界の夜明けを祝う日だ。特にこの日、ソルレカランテで行われる天燈祭は数々の冒険書や旅行記に記されるほど有名で、境神の刻(二十一時)の鐘が鳴ると同時に、街のあちこちから人々の願いがしたためられた天燈が一斉に舞い上がる。
その美しさは筆舌に尽くし難く、初めて目にする者は皆一様に言葉を失い、夜空に打ち上げられた希望という名の星々に釘づけとなる──とは、世界三大冒険記のひとつであるアベオ・トラディティオの『見聞録』の記述だ。
ゆえにエリクは、今年こそ噂の天燈祭を目に焼きつけようと期待に胸膨らませながら、眼前を行き交う人々の談笑に耳を澄ました。
境神の刻までまだ一刻(一時間)以上もあるというのに街中、どこへ行っても人で溢れ返っているのはみな天燈祭が待ち切れないためだろうか。
ソルレカランテ北区の中心部にぽっかりと口を開けたアンジェロ広場。
そこに佇む歌姫の塔の麓にて、エリクは現在、ガルテリオが彼のふたりの子供を連れてやってくるのを待っていた。傍らには共に広場まで赴いたシグムンドとコーディ、そして先刻合流したばかりのウィルもいる。
黄帝の居城たるソルレカランテ城を中心に、ほぼ円状に広がるソルレカランテは地区ごとの特色に富む街だ。
ここ北区はいわゆる富裕層や中流階級の人間が暮らす高級住宅街で、目抜き通りに貫かれたアンジェロ広場周辺には帝立の劇場や美術館、聖戦場、官立オリアナ学院といった文化施設や学府が集まっているのも特徴のひとつだった。
そんな北区の中心広場には目下大規模な夜市が立ち、世界中から集った商人たちが思い思いの店を開いている。庶民が多く集まる南区の城門前広場にも同じように市が立っているものの、玉石混淆といった様相を呈するあちらの市とは違い、こちらには一定以上の品質と価格が保証された品ばかり集まっている印象だった。
となると当然ながら、客層も南区とはずいぶん違ってくる。北区の市を行き交う買い物客はいずれも裕福そうな身なりの紳士淑女ばかりで、南区のような猥雑さはまったく見られないのだった。おかげでシグムンドのような爵位ある人物が混じっていても、傍目にはまったく違和感がない。あるいはエリクが気づいていないだけで、他にもこの市に足を運んでいる貴族は多いのかもしれない。
一年に一度の新年祭ともなれば、普段は到底手に入らないような珍しい品が出回っている可能性も高いはずだ。ここならリナルドの姉の結婚祝いにふさわしい品が見つかるだろうというガルテリオの提案は、まったく慧眼と言わざるを得なかった。買い物のついでに皆で天燈祭を見られるというのも、実に乙な計らいだし。
「いやー、しかし北区はいつ来ても場違い感がすごいな……同じ街の中なのに、馴染みがなさすぎて落ち着かないっていうかさ。こんなとこひとりで歩いてたら俺、絶対に浮く自信あるぜ。やっぱお前を誘っといて正解だったわー」
とは、南区から遥々貴族街を迂回してやってきたウィルの言だ。彼も今は軍の将校らしい上物の外套に身を包んでいるから、本人が言うほど浮いているとは思わないが、富裕層が多い北区の空気はやはりどこか肌に合わないと感じるのだろう。
他方、エリクはシグムンドに誘われて何度か歌劇や聖戦の試合を観に来たことがあるから、北区には多少土地勘がある。
むしろ遠慮がちに縮こまっているのはコーディの方で、彼はあっけらかんと笑うウィルとエリクとを見比べると、何やらひどく申し訳なさそうに口を開いた。
「で、ですが、場違いと言えば僕の方で……ガルテリオ将軍もご一家でいらっしゃるというのに、僕なんかがご一緒してしまって本当によろしいのでしょうか……」
「何言ってるんだ、コーディ。お前のことはとっくにガルテリオ様にも紹介してあるんだし、別に場違いでも何でもないだろ。むしろお前が元日の祝賀会に顔を出さなかったことを、ガルテリオ様はとても気にかけて下さってたんだぞ。そうですよね、シグムンド様?」
「ああ。君とアトウッド家の確執はガルテリオ様のお耳にも届いていたようだからな。お父上が今の君を見ても〝一族の恥晒し〟などとおっしゃるようなら、私から苦言を呈してもいい、とまでおっしゃっていたほどだ」
「そっ……そ、そ、それは、あ、あまりに畏れ多いです……! ぼ、僕なんてまだまだ未熟で、父や兄に認められないのも当然だと思っていますから……な、なので父と会うのはもう少し軍での実績を積んでからと、そう考えているだけです」
「まあ、確かにアトウッド将軍ってめちゃくちゃ厳しそうだもんなー。俺は直接関わったことないけど、部隊の訓練も第一軍の中じゃずば抜けて過酷で、何人も脱落者を出してるって聞くし。けどそんなおっかない親父さんじゃなくて、エリクの下で将校としての勉強ができるんだからよかったじゃんか。と言ってもその上にいるのがシグ様じゃ、結局おっかないのは変わんないだろうけど……」
「何か言ったか、ウィル?」
「いえ、何も! ただコーディがいい上官に恵まれてよかったなーって話をしただけです!」
「そうか。それほどコーディが羨ましいのなら、私からガルテリオ様に口添えしてお前を我が隊に引き抜いてやってもよいのだぞ」
「お気持ちだけで充分です!!」
ウィルがあまりにも必死に、かつ全力でシグムンドの勧誘を断るので、エリクは思わず笑ってしまった。
隣ではコーディもつられて笑い出し、いくばくか心の閊えが取れた様子でいる。コーディをガルテリオやウィル、リナルドに紹介したのは年が明ける前、軍司令部でのことだが、早いうちから彼らと交わらせておいてよかったとエリクは思った。
新年祝賀会ではセドリックの兄であるハインツもまたコーディの不在を気にかけてくれていたし、彼には彼が思う以上にたくさんの味方がいる。
それは長年孤独な戦いを強いられてきたコーディにとって大きな励みになることだろう。彼が胸を張って家族のもとへ帰れる日も案外そう遠くはないのかもしれない。いつかそんな日が訪れることを願いながらエリクはふと、間もなくガルテリオが姿を見せるであろう貴族街の方角へ目を向けた。
が、その刹那、視界に現れたのは黒鬣の獅子ではない。
物々しく徒党を組み、今にも腰の剣を抜き放ちそうな剣幕で、黒い軍服に赤い綬を下げているあの男たちは──
「おい、いたか!?」
「いや、人混みにまぎれられた……! だがこの方角へ逃げたのは間違いない。他の出口には別の班が網を張っているはずだから……」
「とすれば西へ逃げたか。向こうは住宅街だ。ここに比べれば人出は少ないだろうが、路地に逃げ込まれでもしたら厄介だぞ」
「落ち着け、相手はたったのふたりだ。数で追い込めば何とでもなる。警笛を鳴らせ、応援を呼ぶぞ!」
明らかに様子がおかしかった。今、エリクが視線を送る先にいる男たちは、どこからどう見ても憲兵隊の関係者だ。
六聖日は基本的に休暇という扱いだが、ソルレカランテ城や黄都の治安を守る一部の軍組織はいつもと同じ警備体制を布いている。ゆえに市中の治安維持を司る憲兵隊が、新年祭真っ只中の街に姿を現すことは何ら不思議ではないのだが、彼らは見るからに切迫した気配をまとい、只事ならぬ空気を醸し出していた。
「シグムンド様」
「ああ」
そんな憲兵の姿に不穏なものを感じ、エリクは思わず呼びかける。
するとシグムンドも既に気づいていたのか、すぐに頷き歩き出した。
向かう先は言わずもがな、今にも警笛を吹き鳴らそうとしている憲兵のもとだ。
「おい、何があった?」
「あ……!? 誰だ、あんたは!?」
「私は黄都守護隊長のシグムンド・メイナードだ。地位は翼爵、階級は将軍。つまり貴兄らの上官に当たる」
「こっ、黄都守護隊長って、あの……!?」
「貴兄らがどの黄都守護隊長を思い浮かべているのかは量りかねるが、恐らくその黄都守護隊長だと言っておこう。見たところ何者か追跡中のようだが、状況を教えてもらえるか。場合によっては市民の安全確保のため、我々も貴隊に助勢しよう」
言いながらシグムンドは外套の懐をまさぐり、身分証代わりの懐中時計を引っ張り出して憲兵たちの眼前に示した。
そこにはメイナード家の家紋である祝福されし青蛇の彫刻がはっきりと刻まれており、彼が現メイナード家当主であることを歴然と示している。
途端に憲兵たちが引き攣った表情で固まったのは、まあ無理からぬことだろう。
何しろ現黄都守護隊長のシグムンド・メイナードと言えば、一昨年のちょうど今頃、憲兵隊長のマクラウド・ギャヴィストンを不正行為の罪で弾劾し、半年間の謹慎へ追いやった張本人だ。つまりこちらは憲兵隊の天敵。
そんな人物が何故ここに……と言いたげに顔を見合わせた憲兵たちはしかし、立場上逆らえないと判断したのか、苦り切った様子で敬礼した。
そうとは知らずぞんざいに誰何した無礼を詫びつつ、シグムンドの背後に控えたエリクたちの身分を問うてくる。ゆえに三人が銘々黄都守護隊副長とその補佐官、及び第三軍所属の将校である旨を名乗ると、全員軍人では煙に巻くこともできないと判じたのか、班長らしき男が軽く舌打ちしてから言った。
「実は先刻、市民から手配中の逃亡犯の目撃情報が寄せられ、現在憲兵隊総出で捕縛に動いております。黄都守護隊長ともあろうお方のお手を煩わせるのは、我々としても本意ではないのですが……」
「構わん。休暇中とは言え有事とあらば迷わず剣を取るのが軍人の本分だ。して、問題の逃亡犯とは? 手配書を借りられるのであれば協力しよう」
「いえ、改めて手配書を見るまでもない大物ですよ。逃亡犯の名は──フィロメーナ・オーロリー。かのオーロリー詩爵家のご息女です」
瞬間、憲兵が投げやりに返した答えがエリクの呼吸を止めた。ついでに心臓の鼓動まで止まってしまいそうになり、エリクは思わず目を見開く。
フィロメーナ・オーロリー。
ああ、確かに、改めて手配書を見るまでもない。
昨年第一軍に討たれて命を落とした反乱軍総帥の妻であり、彼との再会を果たすまでの一年間、エリクの親友と行動を共にしていた女だ。
「は……フィロメーナ・オーロリー……!? 反乱軍に奔ったオーロリー卿のご息女が、なんでソルレカランテに……!?」
「さあ、目的までは知らないが、恐らく新年祭の人の出入りにまぎれて忍び込んだのだろう。だがご実家に戻られることもなく、こそこそと逃げ回っておられるところを見る限り、謀反の罪を償いに来たわけでないことは確かだな」
「だが詩爵家の令嬢が単独で取れる行動ではなかろう。他に潜入と逃亡を助けている者がいるのではないか?」
「ええ、少なくともおひとりで行動なさっているわけではなさそうです。共に手配されていた反乱軍の残党と思しき男が、ご令嬢を連れて逃亡しています。姓名は不詳ですが──髪から青い鳥の羽根を垂らした、若い剣士ですよ」
は、と吐き出そうとした息が、喉に閊えて声も出なかった。
青い羽根。霊鳥の羽根飾り。間違いない──イーク。
「えっ……!? あ、アンゼルム様!?」
そう確信した瞬間、何か思考するよりも早くエリクは駆け出していた。
打たれたように地を蹴り、身を翻して、先程憲兵たちが示した方角へ走り出す。
呼び止めるコーディの声が追いかけてきたが構わなかった。
否、構っている暇がなかった。やはりイヴの預言は正しかったのだ。
今、この街に、探し続けていた親友がいる。




