76.たとえ暗い夜道でも
「あら、あなたリナルドじゃない!? 久しぶりねえ! 今年も帰ってきたの!?」
と、エリクが黄色く弾む女の声を聞いたのは、ふたりの友人と共に『笑う金檬亭』をあとにして、ようやく帰路に就いた途端のことだった。
何事かと足を止めて顧みれば、後ろでリナルドが見知らぬ女に呼び止められている。上着を着込んでいても凍えるほどの気温だというのに、外套の胸もとを大きくはだけ、肩まで露出しているその女は身なりや化粧からして……たぶん、娼婦だ。
「ああ、チェルシー。久しぶり。こんなところで会うとは奇遇だね」
「ほんと、運命感じちゃう! いつ帰ってきたの? 戻ってたなら連絡してちょうだいよぉ! あなたが店に来てくれるのをずっと待ってたんだから!」
「ごめんごめん。つい三日前に帰ってきたばかりでね。軍の仕事や実家への挨拶に追われて、なかなか顔を出せなかったんだよ」
「あら! じゃあ暇ができたら会いに来てくれるつもりだったの?」
「当たり前だろ。せっかく黄都へ帰ってきたのに、君の顔も見ずに西へ戻るなんてありえない」
「きゃあああっ、嬉しいっ! ね、今日はお休みでしょ? じゃあこのまま店に寄っていってよぉ! 女将もきっと喜ぶわ!」
「ああ……そうだな。寒空の下、夜道に女性をひとり放っていくわけにもいかないし、女将さんに挨拶に行こうか」
「そうこなくっちゃ! も~、ほんとに寒くて凍えそうだったの! 早くあなたの体温であっためて……ね?」
「……おい、リナルド」
と、流れるように女と腕を絡ませ、艶っぽい空気になっている友人を、エリクは低く呼び止めざるを得なかった。するとその声に気づいた女が振り向くなり、ぱっと瞳を見開いて、厚く香粉が塗られた頬を上気させる。
「えっ……!? ちょ、ちょっとリナルド、こちらどなた!? もしかしなくてもリナルドのお知り合い……!?」
「ああ、軍の友人だ。赤い方がアンゼルムで、黒い方がウィル」
「〝黒い方〟って、お前な……」
「やだやだやだ! リナルドったらお友達まで美男子揃いなの!? 信じられない! どうしてもっと早く紹介してくれないのよ!?」
「どうしてって、君に目移りされたら困るからに決まってるだろ」
「ああん、いけず! 分かっててそういうこと言うんだからっ!」
エリクたちとさして歳も変わらないように見える女は猫撫で声でそう言うと、いかにもわざとらしい仕草でリナルドの胸を小突いた。
が、対するリナルドは爽やかに微笑むばかりでまったく動じていない。
というか、呼吸するように女を口説いている。
……出会った当初から知ってはいたが、やはり女遊びには慣れているようだ。
「ねえっ、あのっ、よければお兄さんたちもうちの店に寄っていきません!? 私ほどじゃないですけど、他にもかわいい子が揃ってるんです! 今ならリナルドの紹介ってことでお安くできますし……!」
「い、いや、俺は間に合ってるので……ウィルは?」
「俺も帰んないとお袋に心配かけるからパス。明日の仕事に遅れたらまずいし」
「えぇぇっ……! そ、そう言わずに、せめてお酌だけでもぉ……!」
「チェルシー。俺というものがありながら他の男を誘うなんて感心しないな。あんまり妬かせないでくれ。でないと……今夜は優しくできなくなる」
「り、リナルド……」
……商魂逞しいというかなんというか。ふたりがリナルドの連れと知るやまとめて店へ連れ帰ろうとする女に、エリクは若干たじろいだ。
が、そんなエリクの動揺を軽く超越したのがリナルドの口説きぶりだ。
彼はどうにかふたりを店へ連れ込もうとする女の顎を掴むや、強引に自らの方を向かせ、鳥肌が立つような台詞を甘く囁いてみせた。
すると女の方も頬を赤らめ、すっかりリナルドに見惚れてしまっている。
……俺たちは一体何を見せられているんだ? と、ほどなく冷静さを取り戻したもうひとりの自分が脳裏でぼやくのと、リナルドが女の肩を抱くのが同時だった。
彼は熱に当てられて恍惚としている娼婦を抱き寄せながら微笑むと、まったく何のためらいも感じさせない笑顔でエリクらにひょいと別れを告げる。
「じゃ、そういうことで。俺はこのまま彼女の店に顔を出すから、また明日」
「い、いや、〝また明日〟ってお前、家に帰らないつもりか……!? お前も黄都にいる間は実家に帰ってるんだろ? ならご両親が心配するんじゃ……」
「大丈夫だよ、うちの親はウィルのところと違って放任主義だから。俺が連絡もせずに外泊するなんていつものことだし、明日の朝、出仕前に顔を出せば問題ない」
「い、いや、けど……!」
「成人男子の異性間交遊なんてこんなものだろ? ふたりもせっかく黄都に来てるんだから、適度に息抜きしておけよ。それじゃ」
と朗らかに言うが早いか、リナルドは女と抱き合ったまま踵を返して立ち去った。トラモント人が性に開放的な民族であることはエリクも一年の滞在で理解したつもりでいたものの、あれはいくら何でも開放的すぎやしないか……と絶句する。
少なくともエリクは、いくら気心の知れた友人とは言え、人前であんなに堂々と娼婦を買える自信がなかった。
グランサッソ城でも若い女中にちやほやされていたリナルドが、本気であの娼婦を口説いていたとも思えないし……トラモント人というのはほとほと業が深い。
いや、育った文化圏の相違による価値観の違いだと言われればそうなのだが。
「……おい、ウィル。行かせてよかったのか?」
「あー、いいんじゃないか、本人が問題ないって言うなら。あいつの女遊びは今に始まったことじゃないし」
「お、お前は動じないんだな……」
「まあ、一緒に飲みに行くたびああいうのを見せられたらさすがにな……もう慣れたというか、諦めたというか」
毛糸の襟巻きに顔を半分うずめたまま、ウィルは遠のくリナルドの背中を半眼で睨みつけながら言った。なるほど、彼の女癖の悪さにはウィルも呆れ果てているようだが、あの様子では苦言を呈したところで本人が聞く耳を持たないのだろう。
「ま、とは言え今回は大目に見るさ。あいつ、今、傷心中だしな。気晴らしくらい自由にさせてやんないと、あとでシグ様仕込みの報復をされかねないし」
「傷心中って……何かあったのか?」
「ああ、そういやお前は知らないか。あいつ、四つ上の姉さんがいるんだけどさ、その姉さんが結婚するんだよ、年明けに。今回の上洛に俺たちが同行させてもらえたのも、リナルドが姉さんの結婚式に出席できるようにって、ガル様が取り計らってくれたおかげなんだ。俺も友人代表として顔出しときたかったしな」
そう言って再び歩き出したウィルにつられつつ、エリクは驚きに目を見張った。
リナルドに姉がいる、という話は以前どこかで聞いた覚えがあるものの、結婚するというのは初耳だ。確かリナルドの実家は街の小さな道具屋で、長男でありながら家業を継がず軍に入ってしまったリナルドに代わって、姉が店を手伝っていると言っていた。ならば姉が婿を取る……という話なのだろうか。リナルドはあまり自分の話をしたがらない質だから、寝耳に水だなと思いながらエリクは首を傾げた。
「そうだったのか……あいつ、まったくそんな素振りもないから驚いたよ。だけど〝傷心中〟ってことは、リナルドはお姉さんの結婚に反対なのか?」
「いや、反対してるわけじゃあないんだろうけど、旦那の都合で姉さんが家を出ることになっちまってさ。それが応えてるんだよ、たぶん。あいつもああ見えて、お前に負けず劣らずのシスコンだからなあ」
「だけどお姉さんが家を出たら、実家の道具屋はどうするんだ? リナルドはふたり姉弟で、他に家業を継げる人もいないんだろ?」
「お前、自分もシスコンだってのは否定しないんだな……」
「まあ、俺も妹がどこの馬の骨とも知れない男と結婚するなんて言い出したら、相手を簀巻きにしてタリア湖に沈めるくらいのことはするだろうからな」
「涼しい顔でサラッと恐ろしいこと言うなよ! ていうかお前、もともとひどかったシスコンが一年でさらに悪化してるぞ!?」
「しょうがないだろ。俺も結局妹をこっちに呼べずじまいで、もう二年近く会えてないんだからな……」
とため息が白く染まるのを見て言いながら、エリクはふと腰に提げた剣へ目を落とした。そこでは柄の先に括りつけられた羽根飾りが、酒場街を飾る店々の明かりの中で音もなく揺れている。
この冬が明けてしまえば、郷を旅立ったあの日から丸二年。
あっという間に過ぎ去った二年でありながら、最後に目にした妹の姿に想いを馳せると、もっとずっと長いあいだ彼女に会えていないような、そんな気がした。
年が明ければエリクは齢二十一になる。ということは、十三のときに別れたきりのカミラももう十五歳だ。十五と言えば故郷では成人の歳。
とすれば来年はカミラにとって特別な年になる。ルミジャフタでは一年に一度、その年成人を迎える子らを集めて行われる盛大な儀式があり、婚礼や葬儀にも並ぶ重要な通過儀礼として郷中の注目を集めるからだ。
無事に成年を迎えたことを天に報告し、感謝の舞を捧げ、郷を挙げての祝福を受ける成人の儀──本来ならエリクもそこに加わり、妹の晴れ姿を目に焼きつけて、彼女が成人を迎えられたことを喜び合う、はずだった。
されどトラモント黄皇国の臣となり、反乱軍に奔ったイークの行方も分からない今、エリクが成人の儀までに郷帰りを果たせる可能性は極めて低い。
仮にイークが先の第一軍との交戦で命を落としたならば、エリクは事実を伝えるために一時帰郷することも検討しているものの、だからと言って彼が既に死んでいるとは思いたくなかった。否、そもそも年の初めに聞いた預言者を名乗る少女──イヴの言葉を信じるならば、イークは今も生きている。そして来年、どこかでエリクと再会を果たすことになるだろうと彼女はそう言っていた。
あれ以来、エリクは一度もイヴの姿を見かけてはいない。
が、過去にシャムシール砂王国との戦で敵の策を言い当てたイヴの預言者としての実績は充分信用に値する。ゆえにエリクは信じていた。今回もイヴの予言は的中し、年が明ければ自分はきっとイークと再会する機会を得られるはずだ、と。
(そんな不確かな話に縋るしかない自分が情けないが……今は他に頼れるあてもない。シグムンド様も引き続きイークの消息を追って下さっているものの、進展はないし……早く年が明けてほしいような、ほしくないような……複雑な気分だ)
──一年。どうか私に一年だけ時間を下さい。
黄皇国に仕官したばかりのあの日、エリクはそう言ってシグムンドに仕える許しを乞うた。一年の間に必ずやイークを見つけ出し、説得して反乱から手を引かせることを条件に、自分は彼の部下となったのだ。
けれどもしその誓いを果たすことができなかったら。考えれば考えるほど靄のような不安が広がり、じわじわと肺を冒してゆく。ジャンカルロの訃報に触れてからというもの、幾度となく押し寄せる息苦しさにエリクは思わず口を噤んだ。
が、途端に訪れた沈黙を、ウィルはまったく別の方向から解釈したようだ。
「あー、そういやお前、妹まで保守派とのいざこざに巻き込まれたら大変だからって、黄都に呼ぶのをやめたんだっけ。まあ、けど妥当な判断だと思うよ、うん。そんなに妹のことが大事なら、なおさら」
「……」
「俺は兄弟がいないからいまいちピンとこないけどさ。妹……カミラって言ったっけ? カミラだって、自分のせいでお前が背負わなくていいもんまで背負い込んじまうのはつらいだろうし。俺も親父やお袋には、極力迷惑も心配もかけたくないと思ってるからさ。なら、カミラもきっとそう思うんじゃないかと……お前が妹のためを思って決めたことだってのは、ちゃんと伝わってると思うぞ」
「ああ……そうだな。そうであってくれることを願うよ」
隣を歩く友人のあまりにまっすぐな励ましに、エリクは苦笑を返す他なかった。
と同時に一抹の罪悪感が胸を刺す。ウィルはエリクが郷愁に苦しんでいると思って言葉をかけてくれたのだろうが、状況はもっと複雑で険悪なのだ。
だがウィルにもリナルドにも、エリクは未だ真実を話せていない。
つまり彼らに嘘をつき、友情を裏切っている状態だ。
許されることなら、彼らにもきちんと真実を伝えて謝罪したい。
されど今はまだ、そうすべきときではない……分かっていても身動きの取れない歯痒さに、エリクは再び視線を落として沈黙した。
するとウィルは場を仕切り直そうとしているのか、殊更明るい声を作って言う。
「ま、とにかく! そういうわけで、年明けの結婚式では俺からも何か祝いの品を贈ろうと思ってるんだけどさ、よかったらお前も品物選びに付き合わないか? 実は六聖日の最終日に、ガル様と市を見て回ることになってるんだ。お前、贈り物とか選ぶのなんかうまそうじゃん?」
「ガルテリオ様と?」
「ああ。ほら、去年はラオス将軍の国喪で中止になっちまったけど、六聖日のソルレカランテには毎年世界中から行商人が集まるからさ。その市でなら贈り物にちょうどいい品も見つかるだろうって話になったんだよ。ガル様もヴィンツェンツィオ家一同からって形で祝いの品を贈るつもりでいるらしくて、ティノ様やマリーさんにも一緒に選ばせるって言ってたぜ」
「ティノ様、って、つまりガルテリオ様のご子息もご一緒にってことか?」
「おう。マリーさんってのはガル様のご養女で、今はティノ様のお世話係をしてるマリステアさんのことな。去年は色々慌ただしくて叶わなかったけど、ガル様もお前とティノ様を会わせたがってたろ? なら一石二鳥ってことで、ガル様には俺から話を通しておくからさ! お前も友人代表として一緒に市を回ろうぜ」
と、まったく無邪気な様子で、ウィルはにかりと笑いながらそう言った。
が、いくら友人の姉の結婚を祝うためとは言え、そこにヴィンツェンツィオ一家まで加わるとなれば話は別だ。
仮にもガルテリオはトラモント黄皇国を代表する貴族であり、彼の一家と対面初日に何食わぬ顔で祭を見て回れるほどエリクの神経は太くない。
というか世界中の行商人が集まる市を回るということは、ガルテリオも市井に出て街を歩くということだろうか?
だとすれば一国の大事を担う大将軍として不用心すぎるような気もするが……。
「い、いや……けど、六聖日はガルテリオ様にとって貴重な家族水入らずの時間だろ? そんなところに余所者の俺がいきなりお邪魔して構わないのか?」
「おいおい、それを言ったら俺だってお邪魔虫ってことになるだろ。でも誘って下さったのはガル様だし、もしかしたらシグ様も今頃誘われてるかもしれないぜ。お貴族様御用達の品なんか贈ったらさすがに恐縮されちまうから、市で一緒に手頃な品を探そうってな」
「そ、そうか……なら一度、シグムンド様にお伺いを立ててみるよ。あの方も一緒に市を見て回られるなら、俺も同行させてもらう。その間にウィルも、本当に俺がご一緒して構わないのかガルテリオ様に確認しておいてくれ。俺たちだけで勝手に話を進めるわけにもいかないからな」
「へへっ、了解! まあ、ガル様なら絶対ダメとは言わないだろうけど、一応な。あー、けどお前、仮に一緒に来れることになってもマリーさんには惚れるなよ? いくら血のつながりはないとは言え、ヴィンツェンツィオ家の大事なご令嬢なんだからな!」
「俺をリナルドと一緒にするな。たとえ天地がひっくり返っても、ガルテリオ様のご息女に手を出すなんて恐れ知らずな真似はできないよ」
「ははっ、そりゃそうか。第一お前、女は妹以外眼中にないもんなー」
「そうとも言う」
「だからそこは否定しろって……」
襟巻きの向こうであからさまにげんなりしているウィルの反応に、エリクは思わず笑いを零した。次いで「事実なんだからしょうがないだろ」と弁明すれば「余計タチが悪いっつーの!」とすぐさま抗議が飛んでくる。
されど全身に粟を立てているウィルの心中はさておき、今はそんな他愛もないやりとりが、やはりエリクの心をほぐしてくれた。
リナルドのおかげですっかり醒めたと思っていた微酔が心地よい。
今夜だけはその酔いに身も心も委ねてしまおうとエリクは目を閉じ、黄皇国で出会えた友人とふたり、不安も翳りもない夜道を歩いた。




