60.誰もおまえを愛さない
「いい加減面倒ね」
と、女は細い煙管の先から紫煙を立ち上らせて呟いた。
真紅に艶めく彼女の唇から零れる吐息は、甘い。
煙管からゆらゆら漂う煙と同じ、濃厚でとろけるような、酩酊を誘う香り。
その紫煙が流れゆく方向にはふたりの男。
ひとりは腰まで届く長髪を壁に預け、腕を組んで不敵に微笑んでいる。
そしてもうひとりは全身を深黒の鎧で覆い、素顔すらも兜の内に秘めたまま、手にした剣にべっとりとまとわりつく腥血をひゅっと払った。
「確かに近頃、こういう無粋な輩の訪問があとを絶ちませんね。淑女の閨に断りもなく押し入り集団で凶行に及ぼうとするなど、まったくトラモント紳士が聞いて呆れます。少しは私の品位ある振る舞いを見習ってほしいものです」
「……少なくとも今回の件については、襲撃を手引きした者がいる。でなければこれだけの人数が皇居の警備を掻い潜り、ここまで辿り着くのは不可能だろう」
「そうでしょうね。まあ、首謀者については追々炙り出して始末すればいいとして、問題はこの連中が一向に学習しないことよ。私を排除しようとすればどうなるか、文字どおり手取り足取り教えてやっているのに……ここまでしても理解しないとなれば、別の方法を考えるしかないわね」
壁に回された壁紙と同じ紫檀色の絹がかけられた寝台に腰かけて、女は気怠そうに嘆息をついた。彼女が冷ややかな眼差しを注ぐ先には、数拍前まで人間だったものの残骸がいくつも転がっている。
バラバラになった腕や足はもはやどれが誰のものか判然とせず、大量の血を吸った絨毯も既にもとの柄が分からない。確かそこにはトラモント黄皇国の象徴たる太陽が描かれていたはずだが、今は赤黒い血に塗り潰されて影も形もなかった。
「しかし別の方法と言いますと? せっかくですから、この機に革新派を名乗る輩をひとりずつ確実に消していきますか? そういうことでしたらどうぞ私めにお任せ下さい。ただ殺すだけでは芸がありませんから、まずは若く美しい娘を持つ者から順に屍人化させて……」
「お前は若い女の血を吸いたいだけでしょう、アンギル。……けれど目障りな連中を魔術で傀儡にしてしまうというのは悪くない案ね。実は私もちょうど考えていたの。そろそろ憑魔を使う潮時じゃないかしらとね」
女がなおも紫煙を燻らせながらそう言えば、鎧の男が黒い眉庇の向こうで緋眼を細めた気配がした。ゆえに女は大胆に裂けたドレスの切れ込みから覗く足を優雅に組んで、余裕たっぷりに微笑みかける。
「もちろん魔族を使うリスクは承知の上よ。だけど今なら黄帝を手中に収められると思うの。あの口やかましかった老害が死んでからというもの、オルランドはどんどん耄碌してるわ。最近じゃ政務よりも私の機嫌を取ることの方が大事みたいだし……今の彼ならきっと〝私の傀儡になって下さいな〟と寝台で囁けば、喜んで願いを叶えてくれるはずよ」
「……だといいがな。だがもし憑魔を使っても取り込めなければどうする?」
「そのときは『魔王の忠僕』と交渉するしかないわね。アンギルの魔術で屍人化させるのは最終手段よ。殺して肉体だけ利用するのは確かに一番簡単な方法だけど、見抜かれる可能性も格段に高くなる。一日中侍従や近衛兵に監視されている男が急に食事も排泄も睡眠も必要としなくなれば、誰かがすぐに異変に気づくでしょう」
「いえ、大変失礼ながら、ルシーン様。私が血をいただくのはあくまで若く美しい女性のみです。いくら高貴な血筋とは言え、みすぼらしく干からびたご老人から吸血するのは御免被りたく……」
「お前は吸血鬼のくせに選り好みしすぎよ、アンギル。誰のおかげで二百年もの間、退魔師に祓われることもなく生き延びられていると思っているの?」
「それはもちろん慈悲深きルシーン様とハクリルート殿のおかげ。ですがいかなおふたりのご命令とあれど、男の血を吸うことだけはしたくありません。若い女性の血のあの甘美にしてまろやかな味わいを知ってしまったら、もうむさ苦しく生臭い男の血など飲めたものではないのですよ。ルシーン様も一度飲み比べてみていただければご理解下さると思いますが──」
と西日の射す窓際で恍惚の表情を浮かべ、饒舌に話し出した長髪の男に、女は心底呆れた様子で手を振った。中身のない長話には付き合うだけ時間の無駄だ。
やはり自ら進んで魔界と契るような狂人には話が通じない。二百年下僕として従えていても女は男の思考がまったく理解できなかったし、したくもなかった。
「……では本当に喚ぶんだな、憑魔を」
「ええ、試してみる価値はあるでしょう。成功すればもう汚ならしい娼婦の真似事もせずに済むことだし……黄帝で試してうまくいくようなら、次はこの国で最も強い発言力を持つ五黄将あたりを傀儡にしてもいいわね」
そう言ってほくそ笑みながら、女はやたらと尖った靴の先で、足もとに転がる誰かの頭部を蹴り除けた。にぶい音を立てて血の海を転がった頭はぐるりと寝台を向き、色を失った唇を半開きにしたまま恨めしげに女を見つめてくる。
「……本当に、人間は馬鹿ばかりね」
その虚ろな視線の主にぽつりと吐き捨ててから、女はふたりの下僕に向かって手を振った。ここはもういいから出ていけ、の合図だ。それを見た長髪の男は胸に手を当てて大仰に一礼し、鎧の男も黙って剣を収めた。次の瞬間、ふたりの姿はどろりとした闇に溶け、血溜まりに吸い込まれるように消えてゆく。
「……さて、後始末は誰に押しつけようかしら」
音もなく夕闇が忍び寄る部屋で、女はさも大儀そうに呟き腰を上げた。
さっさと処理した方がいいのは分かっているが、夕餉の前の貴重な時間を潰されて女は大層機嫌が悪い。夜になればまたあの老人とうまくもない食事を共にし、閨に侍って、自分でも粟が立つような睦言を囁いてやらねばならないのだ。
すべてはトラモント黄皇国を手中に収め、長年の悲願を成就させるため──とは言え何百年もこんなことを繰り返していると、さしもの女もいささか倦んでくる。
「……一体、いつになったら」
夜に呑まれつつある空を映した窓辺に佇みながら、女はぎり、と爪を噛んだ。
あの地平の先。ゆっくりと夜に押し潰されようとしている残照の対岸──既に闇に呑まれた世界の先に、女の渇望してやまないものがある。
されどどこへ行っても邪魔ばかり。
これを逃せば今度こそ女の望みは潰えてしまう。
女を生かし突き動かしているのは、もはやこの想いひとつだというのに。
『エヴェリーナ』
刹那、怒りと失意に満ちた女の脳裏をふといつかの晩の記憶がよぎった。
『エヴェリーナ……』
自分ではない誰かの名前を呼び、かつての甘く美しかった日々に溺れる男の声。
黄帝とは名ばかりの依る辺を失くした哀れな老人。
あまりにみじめで惰弱なそのさまを、あれほど胸中で嘲笑っていたというのに。
「──ッ」
次の瞬間、女は衝動に任せて拳を窓に叩きつけた。格子に嵌められた硝子が儚げな音を立てて割れ、黄昏の残滓を反射しながら地上へと注いでいく。
そうしてしばし荒い息をついたのち、女はきつく切歯して身を翻した。
ついに地平を飲み込んだ夜からひとり逃げ出すように。
(第二章・完)




