52.蛇と蠍
晴れ上がった初夏の空が、市門を抜けるなり目に眩しかった。
大陸の南に夏の足音を運んでくる瑠璃燕が、軽やかな声で歌いながらエリクたちの頭上を飛び過ぎていく──理神の月、賢神の日。
またひとつ月を跨ぎ、トラモント黄皇国が雨季に一歩近づいた頃、エリクは供のコーディを連れて黄都ソルレカランテを発った。
シグムンドの名代として黄都入りしてから実に様々な受難を経験する羽目になったが、今日でようやくこの黄砂岩造りの牢獄ともおさらばできる。
エリクは市門を抜けた途端に胸を満たした開放感に、思わず馬上でぐぐーっと伸びをして、朗らかな気持ちで近郊農園の景色を眺めた。
「いやー、まったく生きた心地のしない五日間だったなあ。やっとスッドスクード城に帰れると思うと感慨もひとしおだよ。あんな問題だらけの城でも、黄都に五日も滞在すると《新世界》のように思えるものなんだな。これからまた毎日シグムンド様に小言を浴びせられたり、セドリック殿につまらない因縁をつけられたり、ジュード文字の解読に頭を抱える日常を過ごせるのかと思うと心が踊るよ」
「あ、アンゼルム様……よほどお疲れなのですね……で、ですが滞在中は本当に気苦労ばかりでしたから、無事に黄都を出られて何よりです。僕もこの五日間、途中でアンゼルム様が血を吐いて倒れてしまわれるんじゃないかと心配で心配で、気が気じゃありませんでしたよ」
「そうだな。正直俺もよく五体満足でここにいるなと感心してる。何かあとひとつでも問題が起きてたら、本当に胃が捩じ切れて血を吐いてたかもしれないからな」
なんてことを笑いながら話していたら、途中で追い抜いた商人と思しき一団にぎょっとした眼差しを向けられた。時刻は真神の刻(九時)。日は既に高くまで昇っているが、黄都から南へ向かって伸びる街道には人の姿が多い。
開門直後の混雑を嫌い、ほんの少し時間をずらして黄都を出発した旅人や商人たちが一斉に南を目指しているためだろう。
そんな人混みの間を速歩で抜けながら、エリクは嵐のように過ぎ去った五日間を改めて回想する。シグムンドの命令違反を正当化するところから始まって、オーロリー家の当主であるエルネストに目をつけられ、さらには政敵ヴェイセル・ラインハルトの屋敷でルシーンと鉢合わせするなどというとんでもない事態の連続だったが、いずれもギリギリのところで乗り切ることができたのは、他でもないオズワルドやハインツといった心強い協力者のおかげだった。
彼らがいなければ本当に、自分は今頃毒を盛られて死んでいたか、人気のない用水路に水死体として浮いていたのではないかという気さえする。
次に黄都を訪れるときには、今回救いの手を差し伸べてくれた人々に手土産のひとつでも用意してこないとな──と思いながら、エリクは晴れ渡った空の彼方へ吸い込まれていく瑠璃燕の青い背中を見送った。
「今回は実に災難でしたね、アンゼルム殿。ですがこうして貴殿を無事連れ帰るという任務を達成できて何よりです。何しろ貴殿の身に何かあれば、私は『三鬼将』の生き残りふたりから同時に折檻を受ける羽目になっていましたから……そうなれば恐らく私の命はありませんでした。今夜はお互い、どうにか首の皮一枚でつながれたことを喜び合いましょう」
と、ラインハルト家に呼び出され、ルシーンと直接対面するという窮地からエリクを救ってくれたハインツが冗談めかして笑っていたのは、今から五日前のこと。
彼がいなければ妹を人質に取られ、危うく保守派に籠絡されてしまうところだったエリクはメイナード邸へ帰る道すがら、繰り返し感謝の言葉を述べることしかできなかった。ハインツのあの発言が保守派に対してどれほどの効力を発揮するかは未知数ではあるものの、少なくともエルネストの甥であるハインツを敵に回したくはないヴェイセルにとっては充分な牽制となっただろう。
だが問題は今日まで中立派を標榜していたハインツが、保守派の中核を担うヴェイセルやルシーンに対して明確な宣戦布告をしてしまったことだ。果たして自分ごときのためにあんな真似をしてしまってよかったのかとエリクが問うと、ハインツはちょっと困ったように──されど何か吹っ切れたように微笑した。
「私が今日まで中立派の立場を取ってきたのは、直属の上官であるゼンツィアーノ将軍に倣ってのことです。将軍にご迷惑をおかけしないために、極力大人しくしているべきだと自分に言い聞かせてきましたが……そもそも私がいくら黙っていたところで、弟は憚りもなく革新派を自称していますし、当家を真の中立派だと信じていた者はひとりとしていないでしょう。ですからこれでいいのです。何より私も、いつまでも弟の陰に隠れてはいられませんから」
そう言って笑ったハインツは、馬車の窓から夜光石の仄明かりに照らされた街並みを見やってどこか遠い目をしていた。そして別れ際こう付け足したのだ。
「スッドスクード城へ戻られたら、どうか弟をよろしく頼みます。あれは周りに敵を作りやすいので……」
と。あの晩のハインツの微笑を思い返す限り、彼が弟に対して腹に一物抱えている、ということは少なくともないように思う。
性格は正反対のふたりだが兄弟仲は悪くない、という話は本当だと思うし、ハインツは本心からセドリックを案じているように見えた。
けれど単純に〝仲のいい兄弟〟と形容してしまうにはどこか違うような気もして……ひとまずスッドスクード城へ帰り着いたら、セドリックとも話をしてみようとエリクは思った。もちろんまったく気は進まないが。
(しかし結局、イークの件がどこまで知られてるのか探ることはできなかったな。カミラを人質に取る作戦が失敗したとなれば、次はイークの名前を出して脅してくるんじゃないかと身構えてたが……)
波瀾にまみれた黄都滞在の初日を切り抜けたあとの四日間。エリクはシグムンドから預かってきた諸務を片付けるために毎日軍司令部へ顔を出していたのだが、結局その後は事件らしい事件もなく、無事に今日を迎えることができた。
もちろん保守派の将軍たちからは顔を会わせるたびに嫌味を言われたり悪態をつかれたりしたものの、ヴェイセルの屋敷でルシーンと直接対決をしたあの晩の出来事に比べればどれもこれもかわいいものだ。
しかし四日を費やしても結局、イークの情報がどこまで知れ渡っているのか把握できなかったのが気にかかる。エルネストがもし保守派に転向したのなら、エリクを服従させるための切り札として親友の名をチラつかせてくるはずだと思ったのだが、少なくとも第一軍所属の将軍たちはイークのイの字も知らない様子だった。
ということはやはりオズワルドが話していたとおり、エルネストは本気で保守派に宗旨替えしたわけではないのだろうか。彼らに取り入っているのはあくまで一時的な措置に過ぎず、裏で何かを画策していると?
まあ、確かにあの男ならいかにもやりそうなことではあるが、だからと言って安心できるかと問われれば答えは否だ。もしかしたらエリクの油断を誘うために、今は敢えて情報を伏せているだけかもしれない。
何しろエルネストほどの切れ者ならば、強力な手札は最後の最後まで温存して、ここぞというときに使うことを選ぶはずだ。実際エリクは彼と初めて対面した朝、まんまと油断したところを容赦なく突き落とされた前科があるのだから。
「あれ……? アンゼルム様、あちらをご覧下さい」
ところがそんなことを考えながら街道を数刻進んだ頃のこと。
馬を休ませるのも兼ねて簡単な昼食を取り、再び出発しようとしていたところでコーディがふと元来た道を指差した。どうしたのかと振り向けば、すっかり人の姿もまばらになった街道を、物々しく武装した騎兵が速歩でやってくる。
数はざっと十騎程度。騎上にあってなお整然と隊伍を組み、黒い軍服に深い青地の外套をまとった彼らは──間違いない。黄皇国軍の兵士だ。
(どこの軍団の兵だ?)
と、二十枝(百メートル)ほど先に見える彼らの軍装に目を凝らし、エリクは一抹の緊張と共に腰の剣へ手をやった。もしかしたら黄都の誰某かが、自分たちに向けて放った追っ手かもしれないと思ったからだ。
特に黒い軍服は憲兵隊の象徴だから、一瞥して肝が冷えた。しかし彼らは憲兵の証である赤い綬を斜めにかけてはいない。むしろ緑燃ゆエオリカ平原の風に吹かれ、優雅に翻る群青の外套に縫い込まれたあの白鳥の紋章は──
「……あ」
間違いない。皇女率いる黄皇国第二軍の軍章だ。
エリクがそう確信するのと、一団の先頭を馳せていた男がこちらに気づいたのが同時だった。途端に相手は「げえっ……」という心の声が聞こえてきそうなほどうんざりした顔をして、跨がっていた黒馬ごと連れの騎兵を停止させる。
「……これはこれは。どこの旅客かと思えば貴兄でしたか、アンゼルム殿」
やがて乗騎の歩調を常歩に切り替えて歩み寄ってきた男は、やはり心底うんざりした顔で、さりとて立場上無視するわけにもいかないから仕方なく、といった風に声をかけてきた。他でもない黄皇国第二軍の副統帥、オスカル・エクルンドだ。
もちろんエリクも顔にこそ出さなかったが、五日前の晩にヴェイセルと共謀し、散々煮え湯を飲ませてくれた男の登場に表情筋が引き攣りかけた。
こちらは軍服を着ていないし、声をかけられる前に素知らぬふりをして逃げてしまおうか、とも思ったものの、そもそもこの赤い髪を目撃された時点で別人を装うのは不可能だったことだろう。
「あー……こんなところでお会いするとは奇遇ですね、オスカル殿。先日は大変ありがとうございました」
「いや……こちらこそ。あの晩、貴兄とハインツ殿から頂戴した善意ある寄付のおかげで、しこたまうまい酒が飲めましたよ」
「……」
「今からスッドスクード城へお帰りですか」
「え、ええ……ですがオスカル殿も今日任地へ戻られるとは存じませんでした」
「おや、そうでしたか。私はてっきり、ご存知の上で待ち伏せされていたのかと思いましたよ」
「ははは、そんなまさか──」
──誰が好き好んでお前のような男を待つか。
……と心底から吐き捨ててやりたい衝動を辛うじて捩じ伏せつつ、エリクはいっそ自画自賛したくなるほど晴れやかな笑顔でオスカルの戯言を聞き流した。
ヴェイセルの屋敷ではたびたび引き攣ってしまった愛想笑いも、四日間司令部での罵詈雑言の嵐に耐え続けた今ならお手のものだ。が、エリクはそこでふと思う。
そうだ。保守派の筆頭たるヴェイセル・ラインハルト──その愛息子だという彼ならば、エルネストの動向について何か情報を掴んでいるのではないか?
(そう言えばルシーンは、ヴェイセルが六人の息子の中で一番目をかけているのはオスカルだと言っていたな。ヴェイセル本人もそれを否定しなかったし……)
いや、違う。そもそもヴェイセルは否定しないどころか、ラインハルト家の跡目はオスカルに継がせてもいいと言っていた。
長男のアダムこそがヴェイセルの跡を継ぎ、次期ラインハルト家当主兼財務大臣になるのだろうと誰もが目している中で、当のヴェイセルは本心ではオスカルを後継者に指名したいと思っていると、そう明言していたのだ。
(だとしたら……ヴェイセルや保守派の思惑についても何か探れるかもしれない。正直なところ、まったくもって気乗りはしないが──)
と心中ではそうぼやきつつ、エリクはなおも晴々とした笑顔を湛えた。
今の自分ならきっと貴族令嬢時代の母にも劣らぬはずだと自負しながら、さりげなく愛馬の手綱を手繰り寄せ、言う。
「ところで、オスカル殿。北のエグレッタ城へお帰りになるということは、当然ながらロカンダを経由して街道を北上されるのですよね?」
「ええ、まあ……予定している行路としてはそうなりますね」
「では我々も途中までお供してもよろしいでしょうか。どのみち向かう先は同じですし、これも何かの縁ということで」
とエリクが朗らかな口調で提案すれば、途端にオスカルが露骨な拒絶の表情を見せた。馬上からこちらを見下ろす彼は、何が悲しくてお前なんかと一緒に行かなきゃならないんだよ、とインクで書き殴ったような顔をしている。が、それでもなおエリクがにこにこと無言の圧力をかければ、ついにオスカルが折れた。彼は深く嘆息すると同時に黒髪を掻き上げ、いかにも不承不承と言った口振りで了承する。
「……分かりました。いいですよ。お互いの行程の妨げにならないところまで、という条件つきで構わなければ」
「ありがとうございます。黄都の賑やかさに慣れてしまうと、供とふたりきりの旅というのはいささか心細いと感じていたところだったのですよ」
「確かに栄えある黄都守護隊の副官殿が、たったひとりの供しかつけずに旅をされるというのは少々無防備かもしれませんね。いかに我が国が平和の只中にあるとは言え、油断していると我欲に駆られたどこぞの輩にお命を狙われかねませんよ」
そう言って振り向いたオスカルは、既にあの晩と同じ白々しさ満点の微笑を湛えていて、エリクは彼とふたり、しばし爽やかに笑い合った。
それは何も知らない者の目には、歳の近い青年将校同士が麗しい友情を育んでいる場面のごとく映るかもしれないがそのような事実は断じてない。
現に事情を知るコーディは背後で青い顔をしているし、オスカルの供勢も何とも言えない表情のまま目配せを交わしている。彼らにしてみれば今のエリクとオスカルは、笑いながら相手の隙を探して睨み合う蛇と蠍のようなものだろう。
「で、いかがでしたか。先日の当家での楽しいひとときは」
ほどなくエリクとコーディが出立の準備を終え、第二軍と共に街道を歩き始めると、轡を並べたオスカルが前を向いたまま尋ねてきた。
一連の出来事はエリクにとって悪夢以外の何ものでもなかったことは彼も承知しているだろうに、ほとほとふてぶてしい男だ。
「ええ、おかげさまでルシーン様の謦咳に接する貴重な機会を得られて、ラインハルト卿には感謝していますよ。同席して下さったハインツ殿とも親交を深めることができましたし……」
「ああ、そう言えばハインツ殿も先日は珍しく酔っておられたようですね。ここ数年、何があろうと決して波風を立てずに貴族社会を渡り歩いてこられた次期黄帝候補が、賓客であるルシーン様から銀貨を毟り取っていかれるとは驚きました」
「そうですね。しかし私の記憶が確かなら、その次期黄帝候補から容赦なく大金を巻き上げておられた方もいらっしゃったような気がしますが」
「へえ。そんな恐れ知らずがいたなら私もぜひお目にかかりたかったですね」
「……」
「白状すると、あの晩は少々気が立っていたんですよ。何せせっかく理由をつけて実家には顔を出さずに済むようあれこれ手を回していたというのに、貴兄と貴兄の主殿のおかげで結局父に捕まり、屋敷へ強制連行されたものですから」
「……オスカル殿はご実家に帰省されていたわけではないのですか?」
「まさか。私は皇女殿下から頼まれた仕事を片づけるために上洛していただけですよ。だというのに無理矢理実家へ連れ戻されたあげく、あんな面倒ごとに巻き込まれて腹を立てるなという方が殺生な話でしょう。こっちはただでさえ気難しい妻の機嫌を取るのに忙しかったというのに」
「い……意外ですね。私はてっきり、オスカル殿とお父上は親子仲が大変よろしいのだとばかり思っていましたよ」
「そう見えるように努力していますからね。少なくとも父はそう思っていることでしょう」
やはり馬の向く先を見据えたまま表情も変えず、オスカルはわりととんでもないことを口走った。あれほどヴェイセルから気に入られている様子だったオスカルが、内心では父親を毛嫌いしているなんて完全に予想外だ。
いや、あるいはこれはエリクにそう思わせて、ラインハルト家に対する余計な穿鑿をためらわせようという作戦か? 少なくともこの男ならばそういう策略を平気で巡らせそうな気がして、エリクはなおのこと気を引き締めた。
親授式の日、初めてソルレカランテ城で顔を会わせたときから分かっていたことだが、やはりオスカル・エクルンドはひと癖もふた癖もある食わせ者だ。
彼から有益な情報を引き出そうと思ったら、小手先の話術だけではあっさり煙に巻かれて、徒労感と苛立ち以外何も得られずに終わってしまうことだろう。
「……ところで、うちの弟のことですが」
「え?」
「クラエス・ラインハルトです。先日貴兄も会食の席で、隊での働きぶりを褒めちぎっておられたでしょう」
「あ……ああ、そう言えば確かにクラエス殿のことも話題になっていましたね。あの話がどうかしましたか?」
「いや……どう、というか。今なら父や義母の耳もありませんし、貴兄の目から見た正直な感想をお聞きできるかと思いまして」
「正直な感想……とおっしゃいますと?」
「ですから……黄都守護隊でのクラエスの働きぶりについてです。貴兄やハインツ殿はああ言っていましたが、本当にうまくやれていますか? 父も話していたとおり、あいつはとても軍人向きの性格ではありませんので……」
と、珍しくちょっと言葉を濁して、オスカルは黒馬の手綱を握る手に視線を落とした。その口振りと横顔から察するに……もしやオスカルは本気で異母弟を心配しているのだろうか?
(……驚いたな。兄のアダム殿とは見るからに険悪だったのに)
てっきりラインハルト家の兄弟姉妹は皆、家族でありながらあんな風に反目し合っているものとばかり思っていた。家長であるヴェイセルの好色ぶりを思えば、母親の違う兄弟たちが打ち解けられず、仲違いしてしまうのも当然のことだろう。
しかしわざわざこうして弟の評価を尋ねてくるということは、少なくともオスカルとクラエスの兄弟仲はそこまで悪くないのかもしれない。
言われてみれば確かに、黄都守護隊内でも真面目で人当たりがよいと評判のクラエスが、兄たちとギスギスしながら睨み合う姿などとても想像できないし。
「……まあ、我が隊のよからぬ噂は貴殿の耳にも入っているでしょうし、ご心配なさるのも道理かと思いますが。少なくとも先日、私がラインハルト卿の前で述べたクラエス殿の評に偽りはありませんよ。彼は実によくやってくれています。クラエス殿のお働きがなければ私は今頃、医務室の常連になっていたかもしれません」
「……なら、いいのですが。クラエスはああ見えてどこか抜けているので……果たしてあれに一隊の指揮など務まるのかと、家族総出で首を傾げていましてね。本人は何を訊いても〝大丈夫、うまくやれている〟としか言いませんし……」
と、なおも己の手もとを見つめたまま、オスカルは何か思案するような面持ちでそう答えた。ひょっとしたらオスカルもクラエスが軍人となることに反対したひとりだったのだろうか。しかし思えばラインハルト家は確かに文吏の家系だ。
ヴェイセルの息子たちは皆、オスカルとクラエスを除いて全員が文官職に就いているし、聞いた話によればかの家が一族から武官を出したのはオスカルとクラエスが初めてだという。そもそもラインハルト家はどちらかと言えば歴史の浅い新興貴族で、爵位を得てから百年と経っていなかったはず。
それを思えばオスカルとクラエスが一族初の武官だと言われても大袈裟には感じないが、だとしたらオスカルは──クラエスよりも先に軍人となることを志したオスカルは、周囲の反対を受けたり逆境に立たされたりはしなかったのだろうか。
「……あの、失礼ですがオスカル殿は──」
「──うわあああああああああっ!!」
ところがエリクが口を開こうとした刹那。突如いずこからともなく裂けるような悲鳴が聞こえて、エリクたちははっと馬を止めた。
何事かと視線を巡らせれば、エリクたちの前方、街道をやや南東へ逸れたあたりに生い茂る森から人が飛び出してくるのが見える。数は二、三人。
いや、やや遅れてもうひとり、木立の間から走り出してきた者がいるようだ。
誰もが皆、大荷物を背負いながら、しかし血相を変えて逃げてくる。
──一体何から?
明らかに様子のおかしい一団に気づいたエリクは思わず身を乗り出して、十二枝(六〇メートル)ほど先に見える森の様子に目を凝らした。
すると次の瞬間、叢を突き破るような勢いで黒い影が空中へ躍り出る。
それは一団の最後尾、やや逃げ遅れつつあった小太りの男に狙いを定めると、迷わず背後から襲いかかった。背筋が凍るような断末魔の悲鳴が上がり、視線の先で鮮血がほとばしる。エリクたちを乗せた馬が一斉に嘶いた。
まさか──いや、しかし間違いない。魔物だ。鳥に似た胴から伸びる首の先に、真っ白な人面を貼りつけたかのような禍々しい姿の。
「……! あ、アンゼルム様……!」
その人面が裂けるように笑った口から牙を剥き、まだ息のある男の肉を喰らい始めたのを見て、後ろのコーディが悲鳴を上げた。
果たしてそれを聞きつけたのか、新たな獲物のにおいを嗅ぎつけたのか。真っ白な顔面を血に染めた魔物がおもむろに頭をもたげ、ニタァとこちらを顧みる。
「黒死鳥か……! オスカル殿!」
「チッ、次から次へと面倒ごとばかり……勘弁してもらいたいね」
心底うんざりした様子で吐き捨てたオスカルが、細身の剣を腰から引き抜いた。
エリクも得物の鞘を払い、鋭く愛馬の腹を蹴る。
瞬間、後肢の鋭い鉤爪で獲物を押さえつけた魔物が天を仰いで甲高く吼えた。
その呼び声に誘われるかのごとく、森の奥から次々と新手の黒死鳥が現れる。
全部で七体。危険だが、決して倒せない数ではなかった。
エリクの左腕を青い雷気が駆け上がる。
「雷槍……!」
次いで弾けた轟音の槍が、閃光をまとって魔物に襲いかかった。短い羽をばたつかせながらやかましく鳴き、男にのしかかっていた黒死鳥が弾け飛ぶ。
魔物にも一応、同族意識のようなものはあるのだろうか。仲間を屠られた黒死鳥の群がおぞましい鳴き声を上げて向かってきた。ゆえにエリクも剣を構える。
直後、牙を見せて飛びかかってきた黒死鳥の首が飛び、真っ黒な血が飛沫いた。




