47.神を欺く
深い森の奥を思わせる緑に金色の紋章を掲げた馬車が、朝日に洗われたソルレカランテの街並みを馳せていた。
城下町に比べ、石畳の整備が行き届いている貴族街の通りは馬車に乗っていても揺れが少ない。おまけにさすがはトラモント三大貴族に数えられる名家の馬車と言うべきか、車内に設えられた腰掛けの質もよく、尻に伝わる感触はやわらかい。
深紅の天鵞絨に包まれた手触りのよい腰掛けの下には、一体どれだけの鵞鳥から毟り取った羽毛が使われているのだろうなどととりとめもないことを考えながら、エリクはどうにか平静を保とうと努力していた。
何しろ今、優に大人六人は乗り込めそうなほど広い車内で対座に座り、窓の外を眺めている初老の男はトラモント貴族の頂点に君臨するオーロリー家の現当主だ。
エルネスト・オーロリー。
オーロリー家の第十七代目当主に当たるらしいその男は、やや褪せた亜麻色の髪を整髪油でかっちりと整え、貴族と言うよりもはや王族に近い風格を漂わせていた。前髪もすべて撫でつけられているせいであらわとなっている眼光は鋭く、虹彩が冷たい色をしているのも相俟って、瞳の奥に刃を忍ばせているかのようだ。
男性にしてはやや長めの髪は、毛先が黒い上着の肩に当たって巻き上がり、外に向かって跳ねていた。が、そうした跳ねのひとつひとつすらも計算されたものであるかのごとく美しく整っているのが印象的だ。
加齢のためか今はわずかに頬が削げ、頬骨が張っているように見えるが、若かりし頃にはきっと美男子として持て囃されたであろう面影が目鼻の並びから見て取れた。将校であるエリクとは違い、軍装に身を包んでいないのは彼があくまで軍属であって、生粋の軍人とは異なる立場にあることを示すためなのだろう。
「え、ええと……それで、オーロリー卿。お話というのは……?」
と、ひとしきり相手の容姿と出方を窺ったあと、何の進展もないことに痺れを切らしたエリクは仕方なくそう切り出してみた。
初対面の、しかもこの国で黄帝の次に名の知れた貴族に自分から声をかけるなんて行為は極力遠慮したかったが、ふたりで馬車に乗り込んでからというものエルネストがまったく口を開かないのだから仕方がない──「話がある」と言って司令部までの相乗りを提案してきたのは他でもない彼だというのに。
そもそもエリクには、彼が何故見ず知らずの自分のもとを唐突に訪ってきたのか皆目見当がついていなかった。向こうも新しく黄都守護隊副長の座に就いた将校としてエリクの名前くらいは把握していたかもしれないが、互いに面と向かって言葉を交わしたのはメイナード邸での自己紹介が初めてだ。
トラモント黄皇国中央第一軍付正軍師。
それが今、エリクの目の前に粛然と腰かけている男の肩書きだった。
もともとオーロリー詩爵家は、始祖の代から黄帝に仕える名軍師の家系として名を馳せている。かの家の当主はいずれも例外なく第一軍の正軍師という役職に就き、有事の際には軍の頭脳として黄帝を支えるのだ。
無論、当主でなくともオーロリー家に生まれた者は幼い頃から軍師となるための英才教育を受けると言い、中でも特に頭脳明晰な者は副軍師として当主の補佐をしたり、他の軍団の軍師として着任することも多いと聞いた。
が、当代のオーロリー家において、軍師の肩書きをもって国に仕えているのはエルネストただひとりだ。
彼には三人の娘と息子が一人いると聞いているものの、長女は既に星界へ入り、三女は余所の家へ嫁ぎ、末の息子はまだ成人していないという。
そして他でもない次女こそが、イークと行動を共にしている大逆人フィロメーナ・オーロリー。国家に反旗を翻した婚約者ジャンカルロ・ヴィルトを追って黄都を飛び出した彼女の行方は未だ知れず、さしものオーロリー家もこれには世間からの厳しい眼差しと批判を向けられている……はずだった。
ところがいざ蓋を開けてみれば、エルネストは以前と変わらず正軍師として淡々と己の役割をこなし、黄帝も特別彼に罰を与えるようなことをしていない。
黄皇国の法では黄帝に対する反逆が最も重い罪とされ、その罪を犯した者は当事者のみならず一族郎党、末代まで滅ぼされるのが常だ。
〝連座刑〟と呼ばれるこの刑は、謀反を企てた当人よりもむしろそんな人物を世に送り出した家門への責任を問う処罰で、ヴィルト家とオーロリー家にも当然ながらそれが執行されるはずだった。ところがオルランドは今は亡き伴侶の生家であるヴィルト家と、黄皇国の建国以前から皇家を支え続けてきたオーロリー家の功績を考慮して、連座刑の留保を言い渡したのである。
だから娘が謀反人となった今も、エルネストはこうして平気な顔で司令部への出仕を続けている。ヴィルト家の家人たちはオルランドの恩情に厚い謝意を表しつつも公の場へ出ることを自粛しているというのに、オーロリー家の現当主は世間の非難や疑念などどこ吹く風だ。彼は自分の娘が反乱軍との合流を目指し、国中を逃げ回っていることをどう思っているのだろう。
まさかこんなことになった今も堂々と公の場に顔を晒しているのは、裏で娘の逃亡を支援しているのを隠すためだったりするのだろうか?
だからこそ〝自分にはやましいことなど何もない〟と表明するかのように、敢えて人前に出ることを続けている?
黄皇国きっての忠臣と謳われるかの家の当主までもが、ついに国に愛想を尽かして面従腹背しているなどというのはあまり考えたくない事態だが──
「貴君にはいくつか質問したいことがある」
と、エリクが気まずい沈黙の間に悶々と思考を巡らせていると、不意にエルネストが口を開いた。彼の視線は相変わらず磨き上げられた窓の外を向いたまま。
そこには馬車を囲むようにして騎行するエルネストの従者の姿があり、かなり厳重な警戒態勢が敷かれているのが見て取れた。無論、目の前にいる男の身分を思えばこれくらいの護衛がついていて当然だし、今は世間からの風当たりもある。
娘との内通を疑い、彼を亡き者にしてしまおうともくろむ輩がいないとも限らないから、見るからに手練と思しき屈強な男たちが馬車を取り囲んでいるのは至極まっとうな措置と言えるだろう。
だというのに、彼らの存在がエルネストの護衛というよりも、むしろ自分をここから逃がさないための監視役のように思えて仕方がないのは何故だろう。
オーロリー家は政治的混乱の只中にある黄皇国で、保守派にも革新派にも与しない中立派の中核を担う存在だと聞いているが、もしもその話が事実なら彼は一体どこからエリクの黄都入りを聞きつけてきたのかという疑問が残る。先程市門でエリクを尋問した門衛は、部隊章からして確実に保守派の息がかかった者であったはずで、だとすれば中立派のエルネストにまでわざわざ報告が飛ぶとは思えない。
だから、だろうか。まったく面識のないエルネストが突然自分を訪ねてきたことに、不可解さよりも不穏さを強く感じてしまうのは。
「質問……でございますか? 私にお答えできる範囲のことであれば……」
「ああ。まず、貴君が所属している黄都守護隊の現状についてだ。メイナード卿がかの隊の長に就任されてしばらく経ったが、状況はどうだ? 卿が何かご苦労されている様子は? 隊は維持できそうかね?」
「え……ええ、そうですね……着任当初はやはり不慣れな部分も多く、隊の現状を把握するのに時間を取られていたご様子でしたが、現在は既に滞りなく軍務を遂行されております。隊長の交代で浮き足立っていた各部隊もようやく落ち着きを取り戻しましたし……所属将校たちとも徐々に良好な関係が築けてきているので、有事の際にも隊に課せられた使命は充分に果たせるのではないかと」
「そうか。では今のところは特に目立った問題もないと?」
「はい、少なくとも私はそう認識しております。新兵の調練が始まったばかりで、そちらの成果に対する懸念は少々ありますが、他に特筆すべきことは何も……着任前に危ぶまれていた隊費の問題も陛下にご英断を賜り、無事解決致しましたから」
「それは重畳なことだ。だがその問題を解決するために、卿は幾人かの貴族と対立しておられただろう。私の目には、当時の禍根が未だ根深く残っているように見えるのだが?」
「……確かにおっしゃるとおりです。おかげで軍事面はともかく、行政面で色々と問題が発生していることは否定できません。とは言え対立している方々もシグムンド様とは政治的思想が異なるだけで、黄皇国に至誠をもって仕える身であるという点は同じです。よって今後は極力反目を避け、お国のために手を取り合っていければと考えているのですが……」
と当たり障りなくそう言って、エリクはちらとエルネストの顔色を窺った。
というのも今の問答で、彼の目的が何となく垣間見えたような気がしたからだ。
あくまで推測の域を出ないが、ひょっとするとエルネストは中立派の代表として、軍内での革新派と保守派の諍いを諫めにきたのではなかろうか。
何しろ目下、黄皇国は政治的混乱だけでなく反乱軍の台頭という内乱勃発の危機に直面している。だというのに黄帝の旗本である第一軍の将軍たちは心を合わせて一丸となるどころか、互いの顔に泥を投げ合うのに躍起になっている始末。
そんな状況を見かねたエルネストが、事態を収拾させるためにいよいよ重い腰を上げたのだとしても不思議はない。何しろ彼は中立派の筆頭である以前に、黄帝に代わって平時の第一軍を預かる軍師なのだ。
しかしそうは言っても、目下両派の対立の最たる原因となっているシグムンドを直接諫めたのでは角が立つ。保守派の将軍たちはオーロリー家当主として強大な発言力を持つエルネストがシグムンドを抑えつけたと知れば図に乗って、その事実を存分に利用しようと奸計を巡らせるに違いないからだ。だから彼はシグムンドに直言することを避け、副官であるエリクを呼び出したのだと考えれば、何の前触れもなくメイナード邸へ押しかけてきたのにも納得がいくというものだった。
恐らくエルネストは保守派の将軍たちとは別に独自の網を張っていて、エリクの単独での来都を知るや、またとない好機と見て接触を図ってきたのだろう。
エルネストの言動からそう判断したエリクは、己が主が派閥同士の対立を深めている事実を認めつつ、シグムンドとしてもそれが本意ではないことを遠回しに訴えた。こちらにはいざとなればある程度の譲歩をする用意があるが、対する保守派がまったく和解の姿勢を見せないことこそが問題の根本的な原因ではないのか、と。
そう主張することでエルネストの意見を聞き出せれば、今後の身の振り方を考える上での判断材料を得られると思ったし、何よりシグムンドの体面も守られる。
エリクとしては国政を正しい方向へ導こうとしているシグムンドのやり方が間違っているとは思えないから、叶うことならエルネストからも一定の理解と助言を引き出したいという狙いがあった。
ところがほどなく、エリクはそんな己の甘さを痛感する羽目になる。
何故ならエリクの回答を聞いたエルネストがついに窓から視線をはずし、こちらへ向けた双眸をすうっと細めたからだ。
途端にエリクの背筋を撫で下ろしたのは、あまりに鋭利で冷たい悪寒。
そうして刃のごとく突きつけられたエルネストの眼差しを、果たしてなんと形容するのが正しいのだろう。敵意? 嫌悪? 侮蔑? 嘲笑?
いずれの表現も近くて遠い。少なくともエリクにはそう思えた。最初に対面したときからエルネストの表情はまったく変わっていないというのに、その瞬間、エリクは何故だかはっきりと彼に拒絶されたのだと理解した。そしてエルネストには最初から、こちらに歩み寄るつもりなど毛頭なかったのだということも。
「なるほど、貴君の考えは分かった。さすがは陛下直々のお言葉を賜った人材というだけのことはある。とても市井の出身とは思えぬ才知の持ち主のようだな。司令部の中にはまだ若く、軍での経験もない貴君を黄都守護隊の副長に据えることに対する不安の声もあったのだが、それだけの器量があればまず無用の心配であろう」
「あ、ありがとうございます。私のような身分の者には過分なお言葉ですが──」
「まあ、しかし当然と言えば当然か。聞いた話によれば、貴君も半分は高貴な家の血を引いているそうだからな。確かご母君はルエダ・デラ・ラソ列侯国の、ビルト紅爵家のご出身という話だったか。どうりで我が国の貴族にも劣らぬ教養と作法を持ち合わせているわけだ。貴君のような人材を野から見出だしてきたメイナード卿の慧眼は、やはり群を抜いていると言っていいだろう」
刹那、エリクはますますぞっとした。
心臓が驚愕と緊張のあまり縮み上がり、肺を圧迫して息が詰まる。
だって、どうして──どうして初対面のこの男が自分の素性を知っている?
エリクの母が列侯国出身の元貴族であるという話は、既に黄都守護隊内でも知られている話だから彼の耳に入っていたとしてもおかしくはない。
しかしエリクは母の生家の名前や爵位についてまで人前で詳しく語ったことはなかった。少なくとも母は貴族であった頃の自分を愛していなかったから、彼女のことを紅爵家の人間として語ることはあまりしたくなかったのだ。
だというのにエルネストは一体どこから母の出自を聞きつけてきたというのだろう。いや、違う──いま問題視すべきは情報の出処よりも、彼によって自分の素性が徹底的に調べ上げられているということだ。
そしてその事実を敢えてエリクに知らせることで、彼はこちらの反応を窺おうとしている。ということは先にエリクをやたらと持ち上げてみせたのも、本心からの言葉ではなく油断させてから突き落とし、揺さぶりをかける魂胆だったのだろう。
つまり自分は目の前の男に試されている。だが、だとしても何のために?
ここにきてまたエルネストの目的を見失い、エリクは全身が嫌な汗で濡れるのを感じた。すべてを見透かすような彼の眼差しが恐ろしくて仕方ないものの、目を背けるわけにもいかない。そんな真似をすればひと目で動揺を見抜かれ、さらなる追及を受けるに違いないからだ。
ゆえにエリクは下腹部にぐっと力を込め、目を逸らすのではなく目礼した。
次いで視線を上げると同時に、
「もったいないお言葉です」
と微笑しておく。果たして絞り出した声は緊張に揺られてはいなかったか。
作った笑顔は列侯国の貴族社会を欺き続けた母のそれを真似られていたか。
答えは神ならぬエルネストのみぞ知る、だ。が、彼はエリクに答え合わせをさせる気はさらさらないらしく、相変わらずの無表情で窓の外を一瞥した。
馬車の現在地を把握し、司令部までの残り時間を確認するためだろう。
つられてエリクも外を盗み見たが、馬車の速度と現在地を照らし合わせると、司令部到着まで恐らくあと十小刻(十分)はかかる。
オズワルドとの待ち合わせ場所になっていたユライアス邸の角はとうに過ぎたが、密書を託したコーディは無事彼と合流できただろうか──
「ところで話は変わるのだがな」
──などと現実逃避じみた思考へ逃れることを、稀代の天才の生まれ変わりと言われる男が許してくれようはずもなかった。
「貴君にはもうひとつ、訊いておきたいことがある」
「何でしょう?」
「この男を知っているか?」
次に投げかけられた問いかけはあまりに簡潔で明瞭だった。
エルネストは当てつけに思えるほど洗練された所作で上着の懐へ手をやると、一枚の亜麻紙を取り出してエリクに見せる。
三つ折りにされたそれを受け取り、「拝見します」と断ってから慎重に紙面を開いた。瞬間、息が止まりかけたことは言うまでもない。
〝姓名不詳。生死問わず〟。
東の大国、エレツエル神領国から伝来したという活版印刷の技術でもって、はっきりとそう記された紙面には、
(イーク──)
やや黄色みがかった安紙の真ん中から、無表情にこちらを見つめる親友の眼差しに喉骨が震えた。ついでに指先まで震え出しそうになるのを懸命にこらえる。
しかし同時に確信した。エルネストは既にイークの正体を掴んでいる。
つまり真の目的はこれか。
イークと同年、同郷の自分を呼び出し、彼との関係を探ること──否、もっと突き詰めて言えば、エリクとイークの内通の可能性を探ること。
(……どうやら俺は『奇跡の軍師』の血を甘く見すぎてたみたいだな)
ここまで見事に追い詰められると、いっそ笑い出したくなってくる。
『神謀』。今、目の前にいる男が巷でそう呼ばれているのにも納得だ。
──参りました。
ただひと言そう告げて、エリクは神の眼を持つ男にひれ伏したくなった。
だが、まだだ。
ここで降参するわけにはいかない。
今、彼に自分とイークの関係を知られればすべてが終わる。
イークを助ける術が奪われるばかりか、内通の疑いのある自分を副官につけたシグムンドまで危険に晒すことになるのだ。それを分かっていながら素直に白旗を上げるほど、エリクの往生際はよろしくない。エルネストが神の眼を持って生まれたと言うならば、自分は神をも欺く。欺いてみせる。
そう心に決めた瞬間、腹が据わった。
気づけば全身を覆いかけていた戦慄はやみ、凍えていたはずの魂が燃えている。
「──もちろん存じ上げております。昨年自ら野に下られた貴卿のご息女と、現在行動を共にしていると噂される男ですね」
そう言って紙面から顔を上げ、エリクは正面からエルネストを見据えた。
受けて立つ。目だけでそう答えたのが伝わったのだろうか。
刹那、いかにも神経質そうなエルネストの細い眉が片方だけ、ほんの微かに跳ねたのが分かった。どうやら一矢は報いたようだ。
エリクはつい口角が上がりそうになるのをこらえ、エルネストの次なる一手を待った。何しろ相手は神に愛されし頭脳を持つ男だ。であるならばエリクがこの程度の安い腹芸を決めることくらい、当然想定の範囲内だろう。
(だが、悪あがきだとしても構わない)
どんなに無様に映ろうと、そう簡単に掌の上で踊ってなどやるものか。
何故ならエリクはエルネストのやり方が気に食わない。
正々堂々、真っ向からこちらの懐へ切り込んでくるならまだしも、回りくどく意地の悪いやり方で相手の退路を塞ぎ、然るのちねちねちと追い込んでくるなんてなんと陰湿な男だろう。エリクは数いる人種の中でもこういう手合いが一番嫌いだ。
自分の手は決して汚さず、相手の自滅を誘うか他者を利用してことを済まそうとする魂胆が透けて見えるからこそ唾棄したくなる。
それに比べたら、赤恥を晒しながらも自らの手でエリクを始末しようとした憲兵隊長の方がまだ可愛いげがあるというものだった。
ゆえにただでは屈さない。そう心に決めたエリクの宣戦布告を受け取ったのか、エルネストは初めて目尻の皺にわずかな感情を映すと、先程とは打って変わった優雅さに欠ける手つきで差し出された手配書を受け取った。
「……なるほど。貴君もこの手配書を見て真っ先に愚女の名を挙げるか」
「お気に障ったのでしたら申し訳ありません。ですが単身黄都を出奔されたというご息女の安否は目下、我々群民の一番の関心事ですから」
「お気遣いは痛み入るが、無理に繕うことはない。かような噂が立ってしまった以上、次女についてはもはや手の施しようがないことは私も重々承知している」
「手の施しようがない……とおっしゃいますと?」
「娘が黄都を出た直後は、私もあれを連れ戻そうと手を尽くしたのだがな。まったく浅はかなことに、次女は度重なる説得を頑なに拒んだばかりか、やがてどこの馬の骨とも知れぬ男と行動を共にするようになった。おかげでもはや使いものにならん。無傷のうちに連れ戻せていればまだ過ちを償わせる手立てもあったが、傷物になってしまっては道具としての価値もないからな。もともと不出来な娘ではあったものの、まさかここまで愚かとは思わなんだ」
と、口調だけは至って平板に言いながら、エルネストは再び三つ折りにした手配書を懐へ戻した。しかし次の瞬間、エリクはカッと全身を貫いた怒りに、思わず身を乗り出してしまいそうになる。
(……つまりこの男は、フィロメーナがイークと通じたと──婚約者のいる彼女をイークが手籠めにしたと言いたいわけか)
なんというあけすけな侮辱だろう。イークが他人の女に手を出して傷物にするような下郎でないことは、長年兄弟として育ってきたエリクが一番よく知っている。
百歩譲って、仮にフィロメーナに下心を抱くようなことがあったとしても、既に結婚を誓った相手のいる女を横から奪い取るなどという卑劣な真似をイークがするはずがない。確かに彼は不器用で直情的な男だが、エリクと同じかそれ以上に戦士としての誇り高く、曲がったことを何よりも嫌っているのだから。
(しかもこの男は今、自分の娘さえ道具としての価値もないと──)
いや、もちろんエリクとて分かっている。
直前のエルネストの発言はエリクを挑発し、怒りで思考を乱そうという策略だ。
しかし仮にこちらの失言を引き出すための方便だとしても、血のつながった娘を〝道具〟と呼んで捨てるとは一体どういう了見か。
相手が貴族でなく、自分が軍人ではなかったら、間違いなく全力で殴り飛ばしていた。心底からそう思いながらエリクはしかし、ほんのひと筋だけ残った冷静さを辛うじて手繰り寄せた。うなじの毛は今なお怒りで逆立っているが、ここで相手の術中に嵌まってはもとも子もない。ゆえにエリクは微笑を湛えた──もっともそれは単なる作り笑いというよりも、眼前にいる男への哀れみを含んだ嘲笑だったが。
「確かにご懸念はもっともかと存じます。仮に彼とご息女の間に何事もなかったとしても、歳の近い男女がふたりきりで人目を忍んで旅しているとなれば、口さがない噂が立つのは避けられませんからね」
「ああ。ゆえにどうしたものかと頭を痛めている。あの娘は当家の名に泥を塗るだけでは飽きたらず、自らも売女に成り果てた。あれを野放しにしていては、我が一族が辱しめられる一方だ」
「『神謀』と畏れられる貴卿をかくも悩ませるとは、ご息女もなかなかの才媛ではございませんか。しかしこう申し上げては何ですが、ご息女が無事にジャンカルロと再会することさえできれば、下世話な風聞も自然と霧散するのでは?」
「……つまり娘を反乱の首謀者と引き合わせろと?」
「それが貴卿にとって最も望まぬ結末のひとつであることは承知しております。ですがご息女が幼少の砌より結婚を誓い合ったジャンカルロと再会し、晴れて夫婦として結ばれれば、手配書の男との噂などあっという間に立ち消えましょう。異邦人の私からすると、トラモント黄皇国の人々はそういった恋愛劇を熱烈に支持する傾向があるように見えますし……」
「貴君の言い分にも一理ある。どうせ始末するにしても、当家の風評を害する要因は極力排除した上で手を下すべき、ということか。娘がジャンカルロと再会したという事実と、大衆受けのいい脚本……確かにそのふたつさえ用意できれば、あとは如何ようにも風聞を書き換えられそうだな」
「はい。ジャンカルロとしてもいかなる危険も顧みず、ただ己と会いたい一心で黄都を飛び出してきたご息女を無下には扱えないでしょう」
「そうだな。ジャンカルロはそういう男だ。実際やつは娘の反乱軍への参画を許した。余計な情に絆されればされるほど身動きが取れなくなることを知りながら」
「……はい?」
「貴君の提案を容れるなら、あとは腕のよい脚本家を雇うだけ、ということだ。幸い当家が後援している戯曲家の中にそこそこ名の売れた者がいる。近々彼を招いて、愚女を主役に据えた喜劇でも書かせてみるとしよう」
「お……お待ち下さい、オーロリー卿。それは、つまり──」
と思わず剥がれた仮面をつけ直す暇もなく、エリクが尋ねかけたときだった。
ガコン、という小さな揺れと共に馬車が止まる。
はっとして目をやれば、窓の外は既に司令部だ。すぐに馭者台へと続く小窓が開いて、壮年の馭者が帽子の下から「旦那様、到着致しました」と短く告げた。
エルネストは彼を振り向きもせずに頷くと軽く手を上げる。
たぶん〝扉を開けろ〟の合図だ。
「オーロリー卿」
ところが馭者台を下りた馭者の姿が小窓の向こうに見えた刹那。
エリクはとっさに身を乗り出し、彼が開けようとしている扉を内から押さえた。
すぐに外からぐっと把手を引く力を感じたが、同じくエリクも反対方向に把手を引いているので当然扉はびくともしない。窓の向こうの馭者が怪訝そうに眉をひそめた。が、彼がさらに二度、三度と力を加えるたびにエリクは抗う。
それを見たエルネストが、冷めた眼差しをこちらへ向けて口を開いた。
「何をしている、アンゼルム」
「どうか非礼をお許し下さい。ですがひとつだけ、私からもお尋ねしたいことが」
「何だね」
「ご息女はジャンカルロのもとに辿り着いたのですか。であるならば貴卿は──」
「愚問だ。己が生んだ道具の扱い方くらい、貴君のような末輩に諭されずとも心得ている。どこまで行こうとあれは私の手の内で踊る駒だ。生きていたところで他に価値がないのだから」
「か……価値がない……? ですが、あなたは」
「どうやら本当に知らぬようだから教えてやろう。新たに反乱軍に加わったのは娘だけではない。先程の手配書の男も共にジャンカルロの傘下へ入ったそうだ。太陽の村の戦士というだけで、あの男には多大な利用価値があるからな」
「……!」
「だが幸いにして、貴君と例の男の間で情報が共有されている事実はないようだ。今後も翻心することなく、ぜひ我が国の繁栄に貢献するように」
冷然とそう吐き捨てて、エルネストは自らの手で扉を押し開いた。
エリクの左手は未だ把手にかかったままだったが、外から引く力と中から押す力が同時に加わるとさすがにひとりでは支えきれない。
結果、馬車の扉は難なく開き、エルネストは涼しい顔で踏み台を降りていった。
そうして残されたエリクを一顧だにせず、亜麻色の頭頂に優雅な貴族帽を乗せた彼は司令部へと消えていく。
その背を見送り、座り込むしかできないエリクに馭者の鋭い眼差しが刺さった。
されど冷たい汗で凍えた体は、思うように動かない。




