40.心労去ってまた心労
「じゅ……じゅ、じゅ、ジュード!? お、お前、いつの間に……!?」
と腰を抜かしたままのエリクがそっくり返った声で尋ねると、植え込みにしゃがみこんだジュードはいつもどおりの眠たげな顔で、無害そうに首を傾げた。
「んー……〝どうした、そんなとこで死にそうなため息なんかついて?〟……のあたりから……?」
「わりと最初からいたじゃないか!」
もっとも彼を探して半日も駆けずり回っていたエリクにとっては、ちっとも〝無害〟であるはずがないのだが。
「つまり今のハミルトン殿との会話もほぼ全部聞いてたってことだよな? だったらどうしてもっと早く出てこないんだよ!」
「だって……呼ばれなかったし……屋根の上、居心地がよかったから……」
「屋根の上……!?」
「ははあ、なるほど。お前、また礼拝堂の屋根に陣取ってやがったのか。ったく相変わらず罰当たりな野郎だな、《太陽を戴く雄牛》をケツの下にして昼寝とは」
「……教会からもらった、教章を……〝飲み代が足りなくなったから〟って……質屋に売っちゃうような人にだけは……言われたくない……」
「あなた方の辞書に〝信仰〟という文字はないんですか!」
「馬鹿言え。俺たちみたいなあぶれ者にまでンなご大層なもんが備わってるなら、この世にゃとっくに《新世界》が到来してるっての。なあ、ジュード?」
と悪びれもせずハミルトンが尋ねれば、ジュードも無言でこくりと頷いた。
まったく本当にどこまでも度し難い人たちだ。
信仰ひとつを取ってみても、どちらかと言えば敬虔な信仰者であると自負するエリクにすれば、彼らの言い分は到底容認し難いものだった。
しかし今なら三ヶ月前、城の助祭から聞いた話にも納得できる。
守護隊の部隊長たちがにわかに信仰心などあらわにしようものなら、たちどころに天が落ちて地を押し潰し、ハノーク大帝国を滅ぼしたという《大穿界》よりも恐ろしい厄災が降りかかるだろう──と、初めは悪い冗談にしか聞こえなかったその予言も、隊の内情を知った今となってはむしろ説得力しか感じなかった。
預言の少女が今の会話を聞いたら一体どんな顔をするのだろうなと呆れながら、エリクはようよう立ち上がって軍服についた砂を払う。
ともあれ朝からずっと探していた相手がようやく見つかったことにほっとしながら、エリクはため息をついて仕切り直した。
「はあ……まあ、とにかく、全部聞こえてたなら話は早い。ジュード、分かってると思うがお前が一昨日提出していった報告書が問題だらけなんだ。というかむしろ問題しかない。しょうがないから俺が全部書き直すことになったんだが、まずここに何が書かれてるのか、書いたお前に聞き取りをする必要がある。というわけで今から聴取に付き合ってもらうぞ」
「えー……頑張って書いたのに……」
「どんなに頑張っても他人が読めなきゃ意味がないだろ。個人の日誌ならまだしも、これは上層部に届ける公的文書なんだからな。そもそもこういう二度手間が嫌なら、もう少し字の書き方を練習してみたらどうだ? 上達すれば色々とできることの幅も広がるし……」
「でも……クラエスが戻ってくれば……全部、やってくれるから……」
「そのクラエスが今、誰のせいで死にかけてると思ってるんだ?」
「──あ……蝶々……」
「……。ハミルトン殿、どうやら俺の言葉では彼に響かないようなので、あなたからも何か言ってやってくれませんか」
「諦めろ、アンゼルム。ジュードに言うことを聞かせるなんて、たとえ大母神の力を借りたとしても不可能だぞ」
そうか。この世に二十二大神を生み落とし、人類を創り給うた《母なるイマ》でも無理なら無理か。エリクはそう悟りを開きかけながら、どこからともなく飛んできた白い蝶をぼーっと眺めているジュードを見やった。
もともと上官と部下の関係だったからなのか、彼はハミルトンに対しては比較的従順な態度を示すのだが、それでもやはり完全に従わせることは不可能らしい。
唯一ジュードが素直に言うことを聞いたという先代亡き今、彼はもはや制御不能だ。気に食わない相手には誰彼構わず噛みつくことで有名なセドリックでさえジュードには極力関わらないようにしているくらいだから、もはや彼を御し切れる者などエマニュエルには存在しないのかもしれなかった。
「まあとにかく、だ。クラエスに続いて副長殿にまで倒れられちゃ敵わねえ。ってことでジュード、お前もたまには仕事しろ。俺だって調練以外の仕事なんざ全部サボりたいのを我慢して真面目に働いてるんだからな」
「ハミルトンは……別に……真面目なわけじゃなくて……ロッカを怒らせるのが、怖いだけでしょ……?」
「そうとも言う。あの女、キレるとマジで容赦なく人のケツを蹴り上げてきやがるからな。しかもそのあと笑って〝次は尻じゃなくて正面からいきますからね?〟とか脅してきやがるし」
「ですがそれは自業自得ではないでしょうか」
「チッチッチッ……アンゼルム、お前はロッカの恐ろしさを何も分かっちゃいないな。言っとくがあいつの爆乳に惑わされると、あとで絶対痛い目に遭うぞ」
「貴重な実体験からのご忠告ありがとうございます。ですが俺には縁のないお話ですのでどうぞご安心を」
「ほう、そうか。じゃあロッカには俺から〝アンゼルムにはお前を女として見る気はさらさらないらしい〟と伝えといてやるよ」
「ではどうしてそんな話の流れになったのかと本人に尋ねられたら、先程のハミルトン殿のお言葉を一言一句正確に伝えておきますね」
「わー……ハミルトン……そしたらもう、娼館に通えなくなっちゃうね……」
「おい、待て。お前ら少しは先輩を敬うってことを覚えたらどうなんだ?」
「でしたらそちらも日頃からもっと上官を敬って下さい」
「くそっ。言うようになりやがったな、こいつ……!」
エリクがくるりと踵を返しながらそう言えば、舌打ちしたハミルトンが後ろからドンッと背中を小突いてきた。そうしてハミルトンが笑うので、エリクもつられて吹き出せば、ジュードも自然と後ろについてくる。副長就任から三ヶ月。確かに業務上の問題は山積みだが、人間関係だけを見るならば、黄都守護隊を支える主要なメンバーとはエリクもおおよそ良好な関係を築けていた。部隊長の五人を取ってみても、もともと世話焼きのハミルトンは年下のエリクを後輩としてかわいがってくれるし、ジュードも歳が近いおかげで気兼ねなく接することができている。
逆に歳が離れたブレントも、シグムンドが選んだ副長ならばと、上官であるエリクには常に慇懃な態度で接してくれた。
部隊長の中でも最年長にして最有力と目されている自分が進んで恭順すれば、他の将兵もおのずとシグムンドやエリクを敬うようになると考えているのだろう。
おかげでエリクは隊内での交友関係という点においては特に苦労を感じておらず、当初の想定よりも幾分早く隊に馴染めた手応えを感じていた。
この手応えが業務にも直結してくれればもはや文句はないのだが、まあ、何もかもが初めから順風満帆というわけにはいかないのが現実というものだろう。
もっとも同じ部隊長でも、残りのふたりとはお世辞にも上手くいっているとは言えない。エリクの着任当初から敵意を剥き出しにしていた第二部隊のセドリックとの関係は言わずもがなだし、第五部隊長のキム・イーリイも相当に気難しい男だ。
いや、気難しいという形容には多少語弊があるかもしれない。何しろエリクは副長就任から三ヶ月が経過した今も、彼の性格をそう断じられるほどの交流がない。
元傭兵という出自も関係しているのか、キムは根っからの一匹狼で、隊内の誰とも私的に交わろうとしないのだ。おかげで彼の素性をよく知る者はほとんどおらず、エリクも未だに必要最低限の会話しか交わしたことがなかった。
というかこれは単なる自意識過剰かもしれないが──どうも彼には初めに挨拶に行ったあの日から、何だか妙に避けられている気がする。
唯一隊内でキムと親しいハミルトンなどは「あいつはもともと人見知りだからしょうがない」と笑っていたものの、どうもそれだけが理由とは思えないのだ。
思い当たることがあるとすれば、初めて彼の執務室で顔を合わせた日、いかにも歴戦の傭兵といった風貌のキムの姿に妙な既視感を覚えたせい、だろうか。
──俺はこの人とどこかで会ったことがある。
考えれば考えるほどそうとしか思えなくなったエリクは、着任の挨拶もそこそこに「以前、どこかでお会いしたことがありませんか」と単刀直入に切り出した。が、キムから返ってきた答えは「気のせいだろう」という素っ気ないひと言だけ。
しかしエリクは、自分で言うのも何だが記憶力には多少自信がある。
特に一度でも言葉を交わしたことのある人間の顔は今までも大抵覚えていたから、本当に気のせいだろうかと疑問に思った。特にキムは右目を縦に切り裂かれたような特徴的な古傷を持っていて、ひと目見ただけでも記憶に残りそうな人物だ。
ゆえに「本当にお会いしたことはありませんか?」と食い下がったら、少々気分を害した様子で「人違いだ」と突っ撥ねられた。以来キムにはどことなく避けられているような気がして、未だに接し方が分からずにいる。結局過去に面識があるのかどうかも分からずじまいだし、エリク自身、どれだけ記憶を遡ってもどこで彼らしき人物を見かけたのか思い出すことができなかった。もしも本当に自分の勘違いならば、しつこく聞き出そうとしてしまったことを謝りたいが……そんな些細なことでいちいち謝罪されても、彼としては余計に煩わしいだけだろうか。
そうした雑念を頭の片隅で持て余しながら、将官の執務室がある本棟へ戻ったエリクはハミルトンと別れ、ジュードとふたりで無人の打合せ室に籠もった。そこで例の報告書をジュードに読み上げさせ、聞き取った内容を書き留めていく。
が、その作業にも予想以上の時間と労力が要った。何しろ文書を書いた張本人であるジュードが自分の字を「読めない……」と言い出して、結局読み解くのに時間がかかったからだ。それをどうにかこうにか解読し、数枚に渡る報告書の内容をエリクがすべて書き取った頃には、外では日が暮れ始めていた。先刻ハミルトンやジュードと邂逅した礼拝堂から蒼神の刻(十六時)を告げる鐘の音が聞こえる。
ようやく作業にひと区切りついたエリクは椅子の背凭れに沈んで深々と嘆息すると、最後に自らの作成した走り書きの内容をざっと確認した。
あとはこれを読める文章に直し、規定の書式で書き直すだけだ。
本音を言えば今日はもうすべての仕事を投げ出して寝台に倒れ込みたかったが、膨大な仕事があとに閊えていることを思えばのんきなことも言っていられない。
ほどなく打合せ室を出てジュードとも別れたエリクは、本棟の最上階にある守護隊長執務室へと帰還した。迎えてくれた先輩方は「遅かったな」と言い、シグムンドには「早かったな」と言われた。エリクはもはやどちらにつっこむ気力も起きず、とりあえず収穫があったことだけ伝えると、半分以上書類に埋もれている自分の執務席へ戻った。ジュードを探しに行く前に、今日中に処理しなければならない書類の山とそうでない書類の山を仕分けていったはずなのだが、席についてみるとふたつの山の境目がなくなっている。間にモリッと増えているこの山は何だろう。
半眼になってしばしその山を凝視したのち、エリクは何も見なかったことにして報告書の作成に取りかかった。疲れと眠気で朦朧とする頭からどうにかやる気を絞り出し、可及的速やかに文章を綴っていく。
かくして計六枚に渡る報告書を書き終えたのち、エリクは並々ならぬ達成感と共に「終わった……!」と歓声を上げ、そして力尽きた。
頽れるように机に突っ伏し、書類の山の間から見やった窓の外は既に暗い。
気づけばとっくに終業を告げる鉦は鳴り、執務室に残っているのはシグムンドとエリク、そしてスウェインの三人だけだった。
「ご苦労だった、アンゼルム。君の犠牲は無駄にはしないぞ」
「はい……ぜひ……そうしていただけると助かります……ついでにもう少し、部隊長方の素行も何とかしていただければ……私の苦労が……半分くらいで済むような気がするのですが……」
「それについては全面的に同意するが、私にどうこうできる問題ならば、ラオス殿の代でとっくに改善されているはずだとは思わんかね?」
「シグムンド様は諦めがよすぎるんですよ……」
「〝兵は拙速を聞くも、未だ巧久を睹ざるなり〟だ。努力しても無駄なことに時間と労力を注ぎ込むくらいならば、もっと肝要なことに目を向けよと偉大な先達も言っている。物事に完璧さばかり求めていては、いずれ君のように使い潰されてしまうからな」
「つまり私を使い潰される気は満々ということですね……?」
「不満なら君ももう少し狡猾になりたまえ。そう立ち回れるだけの智恵も器量もありながら、君は何故か自分から余計な苦労を背負いに行くきらいがある。お前もそうは思わんか、スウェイン?」
「ええ。そもそもこの隊の副長などという仕事を大人しく引き受けてしまう時点で、自ら地獄に片足を突っ込んでいるのではないかと」
「誰が押しつけたと思ってるんですか!」
「しかしだからこそ我々も早く補佐官をつけるべきだと勧めているのだぞ、アンゼルム。君が副長の座に就いてもう三ヶ月だ。そろそろ隊の通常業務も把握できた頃だろうし、一軍の副将ともなれば、最低でもひとりくらいは補佐官を持っておくものだぞ」
「ええ……もちろん分かっているのですが……」
と、完成した報告書を受け取りにきたスウェインに手渡しながら、エリクはようよう重い頭をもたげた。
補佐官。それが何を意味する言葉かはエリクとて重々承知している。
シグムンドがまだ第三軍副統帥であった頃、側近としてスウェインを見出だしたように、エリクもまた有能かつ信頼の置ける部下を持てと言われているのだ。
実際、准将以上の将官は従士と呼ばれる補佐官を持つのが黄皇国軍の常識で、他に数人の従者を従えることもできた。エリクの現在の階級は隊将──これはエリクの副長就任に伴い、上層部が渋々附与してくれたものだ──だが、立場的には一軍の副将であるため、特別に補佐官を持つことが可能だ。
しかしエリクが副長就任直後から散々指摘され続けているにもかかわらず、未だ補佐官を指名していないのにはわけがある。というのも黄都守護隊にいるめぼしい人材はみな自分よりも年上で、心情的になかなか指名に踏み切れないのだ。
もちろん相手も軍人であるからには、エリクが命じれば唯々諾々と従ってくれるのだろうが、やはり年長者を部下として使うというのは据わりが悪い。
実際、既に階級的にも立場的にも目下の存在となったスウェインにすら、エリクは未だ鄭重な態度を取ったままだった。
部下として扱ってくれて構わない、と再三言われているにもかかわらずそうできないのは、もはやどうやっても直らないエリクのくせのようなものだろう。
とは言え今、目の前で文字どおり山をなしている仕事を今後もひとりでこなしていくのはさすがに無理だ。副長の業務を補佐してくれる従士の必要性はエリクが最も肌で感じているし、いつまでもスウェインを始めとする先輩方に助けてもらっているわけにもいかない。何故なら彼らはあくまでシグムンドの従者であって、本来は彼の仕事を補佐するためにここにいるのだ。だというのにずるずると甘えていては、いずれシグムンドの職務にも差し障る日が来るだろう。
そうなる前に何とかしなければ……と働いていない頭の片隅で考えながら、エリクはようやく次の仕事に着手する。
終業の鉦が鳴ったからと言って、山積みの仕事が消滅するなんて奇跡は起こり得ない。せめて今日中に目を通すと決めた書類だけでも処理してしまわなければ。
いつの間にやらスウェインが用意してくれていた角灯の明かりを有り難く手繰り寄せながら、エリクはいよいようず高い紙の山の一角を崩し始めた。
ようやく完成した報告書の内容を確認すると、シグムンドもスウェインを連れて退室してしまったがエリクの夜はまだまだこれからだ。
くれぐれも無理はするなよ、と言って退出しながら、一刻後には城の女中に言って軽食を届けてくれた上官の心遣いに感謝し、エリクは職務に没頭した。
報告書を書き上げた直後には限界を訴えていた頭も、無理矢理働かせるうちに抵抗を諦めたのか、順調に情報を処理していく。
ところがやがてある一冊の書類の束がエリクの手を止めた。それはレーガム地方の民政を担当している、スッドスクード城の内務官からの市場調査報告書だ。
曰く、現在黄皇国では昨年の凶作と治安の乱れを理由に物価が上昇している。
ところが近頃余所の地方から流れてくる商人たちが、レーガム地方の農民や職人から生産物を買い叩き、荒稼ぎしている疑いがあるとのことだった。
というのもトラモント黄皇国の商工業は、トラモント商工組合と呼ばれる商人組織によって管理されている。この組合は地方ごとに支部を持ち、物価や物流の調整といった民の暮らしには欠かせない役割を担っていた。
が、ひと口に物価の調整と言っても、地方ごとの事情や傾向が異なる以上、全国ですべての物の価値を統一することは難しい。ゆえに組合は地方ごとの支部を設立し、現地の情勢に見合った市場統制を図っていた。
しかし今回、とある内務官が報告してきている内容によれば、レーガム地方の物価の上昇が他地方に比べて緩やかなのをいいことに、余所の土地から商品を買いつけにきた商人たちが農作物や手工業品をかなりの安値で買い占めているとか。
彼らはそれを拠点へ持ち帰ってその土地の物価で高く売り、ぬくぬくと懐を肥やしているらしかった。
まあ商いというのは本来そういうものだし、彼らのやり方は別段法に触れるものでもないから、以前のエリクなら仕方がないのではないか、のひと言で片づけていたことだろう。しかし問題は彼らがレーガム地方の生産者に富を一切還元しないこと、そして一度に大量の物資を買い占めていくことだ。
おかげでレーガム地方では様々なものが品薄になり始めており、結果として物価の上昇が加速の一途を辿っている。
このままでは当地の物流は滞り、商人どもの利己主義によってレーガム地方の民の暮らしが圧迫されてしまう、と報告書には怒りの籠もった筆致で綴られていた。
ここに書かれたことがすべて事実であるならば、確かにレーガム地方の民生を守るためには商人による物資の買い占めを迅速に規制しなければならない。
本来であれば行政が口を出す前に、商工組合が自ら気づいて動き出すべき案件だが彼らも所詮は商人組織だ。
民の生活と自分の儲け、どちらが大切かと訊かれれば迷わず後者を取るだろう。
しかしエリクたちは為政者の立場としてそれを黙認するわけにはいかない。民の暮らしを守ることこそがひいては国家を守ること。であるならば黄皇国に忠誠を奉じる者が為すべきは、自己の利益の追求ではなく国土を富ませるための尽力だ。
(これは……早急に裏づけを取った上で組合との協議が必要だな。だが相手は商人だ。何の根拠も見返りもなしに規制を承諾するとも思えない。過去に似たような事例があれば参考にして糸口を掴めそうだが……幸い残りの仕事は明日に回してもギリギリどうにかなりそうだし、今日は隊舎に戻りがてら、行政棟の資料室に寄ってここ数年の記録を洗ってみるか)
報告書の筆跡と文章の端々に滲んだ内務官の義憤に動かされ、エリクは軽食の残りをひと思いに口に押し込むと席を立った。必要な資料と灯入りの角灯だけを携えて、誰もいなくなった守護隊長執務室をあとにする。
上層部から正式に副長としての辞令が下った日、シグムンドが就任祝いとして贈ってくれた懐中時計を取り出すと、時刻はもう境神の刻(二十一時)だった。
ここでは黄都と違い、終業時刻を過ぎると礼拝堂の鐘が鳴らないから、たびたび時間の感覚が狂ってしまう。
せめて日付が変わる前には自室に戻りたいが……と苦笑しながら、エリクは足早に本棟の階段を駆け下りた。民政にまつわる記録が収められた資料室は、本棟と道を挟んで隣り合う文官たちの城、通称〝行政棟〟の二階にある。この時間に行って鍵を借りられるかどうかという問題はあるものの、行政棟の窓にもまだぽつぽつと明かりが灯っていることから、まったくの無人ということはないだろう。
駄目なら駄目で城の東にある文官宿舎まで足を伸ばし、内務地方長官に直談判すればいい。こんな時間にはた迷惑な、と呆れられることは覚悟の上で、エリクは一階にある正門から本棟をあとにしようとした。ところが、
「──お、お願いです、通して下さい……!」
と、つづら折りの階段を降りきった先で声がする。
何だと思って足を止めれば、ほとんど同時に哄笑が起こった。明らかな悪意と敵意を秘めたひどく不快な笑い声だ。エリクは正門のある通路へと続く曲がり角から顔を出し、その先に正門を塞ぐ複数の人影と見覚えのある華奢な背中を見つけた。
「どうしても通りたきゃ力づくで通ってみろよ、チビ。ま、それができるならあんな風に、毎日毎日セドリック隊長にどやされるわけがねーんだけどな」
通路に据え付けられた燭台の明かりの下で、薄笑いを浮かべた兵士のひとりがそう言ってドンッと彼の肩を押す。
おかげで彼は後ろによろめき、「わっ……!」と短い声を上げて尻餅をついた。
そんな彼の姿を見た複数人の兵士たちが、さらにげらげらと笑い出す。
……嫌な場面に遭遇してしまった。
エリクが頭痛をこらえながら見やった先、そこでうつむいて震えている少年は、あの日第二部隊長執務室にいたセドリックの従者、コーディだった。




