37.決意のち挫折
「……はい? 今、なんとおっしゃいましたか?」
と、スッドスクード城の本棟最上階にある守護隊長執務室で、シグムンドと向き合ったエリクは間の抜けた顔で間の抜けた問いを投げかけた。
「本日をもって君を私の副官──すなわち黄都守護隊副長に任じると言ったのだ。先程の会議の席での承認も下りた。というわけで今日から君がここにいる全員の上官だ。よろしく頼む」
するとシグムンドが何食わぬ顔でそんなことを言い、傍らに佇立したスウェインも無言で頷いている。おかげでエリクはシグムンドの正面に立った自分の背後、そこにいる諸先輩方を振り返って彼らの顔色を窺う羽目になった。
何故ならこれはシグムンドたちが新人の若造をちょっとおどかしてやろうと仕組んだ悪ふざけで、どうせ皆で自分をからかっているのだろうと思ったからだ。
ところが新しい職場の新しい執務席に腰かけた先輩方は、皆がエリクと同じ間抜け面を晒してぽかんとするばかり。
皆一様に開いた口が塞がらないといった様子で、それを確認したエリクは改めてシグムンドに向き直った。長方体を横倒しにしたような執務机の向こうに腰を下ろしたシグムンドは至って平静だ。少なくとも乱心している気配はない。
「……あの、シグムンド様。私に何か至らない点があったのでしたらお詫び申し上げます。ですがそれなら笑うに笑えない冗談で私の心臓を停止させようと試みるのではなく、どうか直接お叱り下さい。そうしていただいた方が私も素直に反省できますし……」
「君が何を言っているのかよく分からんが、とにかくこれは決定事項だ。ついては明日、黄都の軍司令部に人事確定の報告書を送り、君に相応の階級を附与してもらう。まあ、さすがにいきなり准将へ昇格というのは無理だろうが、少なくとも士官見習いは卒業することになるな。おめでとう」
「おめでとうございます、アンゼルム殿」
まったく何もめでたくないのに、あげくの果てにはスウェインさえもシグムンドに便乗し始めた。しかもご丁寧に敬語を使い、ついさっきまで呼び捨てにしていたはずの呼び名にもちゃっかり敬称をつけている。
そしてエリクは今までただの一度もスウェインが冗談を言うところを見たことがなかった。軍務外の付き合いでも酒の席でも彼は真面目一徹で、直属の部下にさえ『鋼の男』と陰で揶揄されているくらいだ。……ということは、つまり?
「シグムンド様。お引き立ては誠に幸甚ですが、恐れながら今回のお話は辞退を検討したく──」
「よし、スウェイン。本人の了承も得られたことだ、早速司令部へ送る報告書を作成してくれ。アンゼルムの身分の証明となる任命書もな」
「畏まりました」
「畏まらないで下さい、スウェイン殿! 今の私の言葉をお聞きになりましたか? 黄都守護隊副長などという肩書きは、私には分不相応すぎるから辞退させていただきたいと申し上げて……!」
「残念ですが、アンゼルム殿。先程シグムンド様がおっしゃったとおりこれは決定事項です。そしてそれが明らかな不正行為である場合を除いて、上官が取り決めた事項に反することは命令不服従とみなされます。ですのでここは大人しく諦め……決定を受理されるのが賢明かと」
「今〝諦めろ〟と言いかけましたよね? つまりスウェイン殿も今回の決定は突飛すぎるとお思いなんですよね!?」
「いいえ。あなたを副長に推薦したのは他ならぬ私ですので」
「どうしてそんなことを!?」
「そうしなければ私が無理矢理副長にさせられるおそれがあったためです」
「真実の神も腰を抜かすほど正直ですね!」
つまりスウェインは自分が副長にされる未来を回避するために、部下であるエリクを人身御供として差し出したわけか。とするといよいよたちの悪い冗談ではないらしいと理解して、エリクは激しい眩暈を覚えた。
いや、だって、普通に考えてありえない。軍に入営してからまだふた月足らずの異邦人が、何の実績も階級もないくせにいきなり一軍の副将になるなんて。
端から見れば異例の大出世なのかもしれないが、はっきり言ってこれは拷問だ。
まだ軍のことすらおぼつかず、見様見真似でどうにか日々の業務についていっている状態だというのに、そんな人間に本日着任したばかりの軍団を率いろと?
少なくとも正気の沙汰ではない。
シグムンドは赴任早々黄都守護隊を潰すつもりなのだろうか。
エリクはぐわんぐわんと耳鳴りがする頭を押さえてから、どうにか冷静になろうと深呼吸したのち、改めて執務机の向こうのシグムンドに向き直った。
「ですがやはり納得できません。弱輩者の私にとって身に余る光栄であることは重々理解していますが、候補者は他にいくらでもいるでしょう? そもそも黄都を発つ前は、二ヶ月間隊長代理を務めて下さったブレント殿を副長に取り立てるつもりだとおっしゃっていたではありませんか。なのにどうして私が……」
「そのブレント殿に断られたから君に白羽の矢を立てたのだ。他四人の部隊長たちは指揮官としては優秀だが副長が務まる器ではないし、彼らを部隊の指揮から取り上げると様々な不都合が生じることも判明した。一方でスウェインを昇進させてはどうかという意見も上がったのだが、本人が頑なに拒むのでな」
「だとしてもここには私よりずっと古株で優秀な先輩方が何人もいらっしゃるではありませんか。つい先日ようやく報告書の書き方を覚えた私などより、何年も軍で経験を積まれてきた先輩方の方がよほど安心して隊を任せられると思います」
「ならば本人たちに訊いてみよう。アンゼルムはこう言っているが、この中に我こそは副長に任じられるべきと思っている者はいるか。あるいはアンゼルム以外に推薦したい候補者がいるという者は手を挙げてみろ」
と、夕日の注ぐ格子窓を背にしたシグムンドが、エリクの後ろを覗き込むようにして問いかけた。そこにいる彼らだってきっと後輩であるエリクが突然シグムンドの副官に推され、何の実績もないのに大出世しようとしていることに不服を覚えているはずだ。だからエリクは〝これで味方を得られる〟と期待に目を輝かせて振り向いた。が、そうして向けた視線の先に手を挙げている者はひとりもいない。
ただ誰もが春の陽気のように朗らかな微笑を浮かべ、無言で首を振るだけだ。
エリクは衝撃を受けた。信頼していた先輩方の裏切りに全身をわななかせ、何かの間違いだろうと声を上擦らせる。
「い、いや、あの、皆さん……? ちょ、ちょっと考えてみて下さい。皆さんは今、この瞬間から、こんな若造の部下として働けと言われているんですよ……? 最近軍に入ったばかりの、トラモント人でもない若造ですよ? 悔しくはないんですか? 屈辱ですよね?」
「いや、別に。我々はシグムンド様がお決めになったことならいかなる決定にも従う所存だ。シグムンド様の人を見る目が確かなことは、我々もよく知ってるしな」
「そうとも。将軍が選んだ人材なら、俺たちは出身や経歴なんて気にしない。どんなときもただ祖国のために、自分の為すべきことを黙々とこなすだけだ」
「……なるほど。で、その心は?」
「そもそも黄都守護隊の副長になるくらいなら昇進しない方がマシ」
「私には帰りを待つ妻子がいるからな」
「どうせ死ぬなら戦場で死にたいし……」
「心労で胃に穴が開いて、血を吐いてまっすぐあの世行き──なんて洒落にならないもんなあ、はははははははは」
「……」
と、依然なごやかに談笑している従者一同を見て、エリクはもはや反論する気力をも失った。もはやここに自分の味方はいないのだと悟り、虚無感というか無常感というか、とにかくそんな感じの何かに包まれる。
同時にいつか聞いたガルテリオの言葉が脳裏をよぎってエリクは嫌でも考えた。
……俺、ひょっとして仕える相手を間違えたんじゃないか?
「では満場一致で異論はなしということだな。よかったではないか、アンゼルム。ここにいる皆は後輩の昇進と前途を祝福し、今後喜んで君に仕えてくれるそうだぞ。よき先輩に恵まれたな」
「……ええ、本当に素晴らしい上官と先輩ばかりで涙が出そうです」
「私も実によい部下を持ったと自負している。何せスッドスクード城に着任したら今まで以上の働きで私を支える、との誓いをこれほど早々に果たさんとする健気な若人と巡り会えたのだからな。というわけで、スウェイン」
「はい。早速任命書と報告書の作成に取りかかります」
「そうしてくれ。アンゼルムの気が変わる前にな」
目の前で本人の意思を完全に無視した会話が交わされているものの、こうなっては抵抗するだけ無駄だと理解したエリクは深々とため息をついた。その落胆のため息を銘々都合よく解釈したのか、背後ではシグムンドの従者一同が歓声を上げている。黄都守護隊副長という難役を無事逃れられたのがよほど嬉しいらしい。
ゆえにエリクはひそかに誓った。正式に彼らの上官となった暁には、今日という日のことを必ずや後悔させてやろう、と。
「というかですね……着任早々こんなデタラメな人事を押し通して、本当に大丈夫なんですか? 私は一切責任を取りませんし、どうなっても知りませんよ」
「案ずるな。保守派の将軍たちは騒ぎ立てるだろうが、やつらが何を喚こうが最終決定権を持つのは陛下と第一軍副統帥だ。そもそも何の実績もない異邦人だと君は言うが、陛下より我が国の栄誉勲章を賜ったという時点で相応の階級を得る資格は充分にある。何より黄都守護隊の副長ともなれば軍内でもある程度の発言力を認められるからな。口うるさい保守派貴族どもも多少は手を出しにくくなるだろう」
と、シグムンドが落ち着き払った口調でそう話すのを聞いて、エリクはわずか目を見張った。確かに一軍団の副将ともなれば、爵位はなくとも軍内で一目置かれる存在であることは事実だ。自分がそうした周囲の期待に応えられる器であるかどうかは別として、さすがの保守派貴族たちも世間の注目を集めている相手には容易に手出しできないだろう、というシグムンドの言にも一理ある。
とすれば彼はそこまで考えた上で、エリクを守るために副長の肩書きをつける、という結論を導き出してくれたのだろうか。……まんまと言いくるめられている気がしないでもないが、今はそう考えることにした。
何より中央第一軍別働隊の副将という肩書きは軍内で力を蓄えていく上で悪くない。自分がその名に相応しいだけの実力と実績を備えていれば一年後、親友と再会するとき、彼をうまく守ってやれるかもしれない……。
──力をつけなさい。経験を積みなさい。仲間を集めなさい。
一年後、この地で友との再会を果たすとき、正しい選択を下せるように。
十日前に授かった天使の神託を反芻し、エリクはもう一度そっと息をついた。
そうしてついに腹を決め、夕日を背にしたシグムンドを見据えて言う。
「……分かりました。シグムンド様がそこまでおっしゃるのでしたら、私も副長の肩書きにふさわしい人材となれるよう善処致します。当面は至らぬ点ばかりで多大なご迷惑をおかけするかと思いますが、その点は私を副長に推したシグムンド様とスウェイン殿の責任ですから、どうぞお手柔らかにご指導下さい」
「君ならそう言ってくれると信じていたぞ、アンゼルム。では明日、早速各部隊長のところへ挨拶に行くように。仲立ちとしてスウェインを同行させるから、くれぐれも友好な関係を築くようにな。スウェイン、新任の副長殿を頼んだぞ」
「……努力致します」
わずかに間のあいたスウェインの返答に違和感を覚えつつ、しかしエリクの腹はすっかり据わっていた。
何しろ一度引き受けると答えたからには、もうあと戻りはできない。
自信の有無はともかくとして、今日から自分はシグムンドの副官となったのだ。
ならば彼の面目を潰さぬように──そしていつか来る親友との再会の日のために、まずは黄都守護隊副長として恥ずかしくない力をつける。軍人として成長し、人脈を築き功を成す。そのすべてをシグムンドとイークを守るために使うのだ。
そう決意を新たにして、エリクは翌朝を迎えた。
早春のキンと冷えた空気が晴れた空と共に澄み渡る、清々しい朝だった。
エリクたちの新しい家であるスッドスクード城には、現在二十五棟もの武骨な兵舎が並んでいる。うち、エリクの個室は〝本隊一号隊舎〟と呼ばれる兵舎の三階に与えられ、初めて過ごす部屋で迎えた朝は、今日からまた新しい人生が始まるんだ──とエリクの心を改めて引き締めてくれた。朝食は兵舎ごとに設けられた大食堂で済ませ、始業の鉦が鳴る前に本棟の守護隊長執務室へと出仕する。
シグムンドは黄都にいた頃から始業の半刻(三十分)前には執務室に姿を見せるから、エリクら側近の部下たちは一刻(一時間)前の泰神の刻(七時)には出仕して、当日の予定の確認や執務室の軽い清掃を済ませる必要があった。そしていざシグムンドが出仕してきたら、すぐに側近一同が顔を揃えての朝会となる。
この朝会の進行役はこれまでスウェインが務めてきたが、明日からは副長が取り仕切るようにと念押しされたため、エリクはいつも以上に集中して朝会の流れや手順を頭に叩き込んだ。そうして必要な報告や確認が粗方済んだら礼拝だ。
よほど火急の用件でもない限り、シグムンドは毎朝欠かさず東方金神会の聖堂で執り行われる礼拝に参加する。黄都にいた頃はわざわざ軍司令部からソルレカランテ城内に設けられた礼拝堂へ赴き、そこで諸臣と共に礼拝に参列していた。職務上では神をも恐れぬかのようなふてぶてしい言動をするわりに、エリクの上官は意外と信心深く、神の前ではひとりの敬虔な信徒としての顔を覗かせるのだ。ゆえにエリクも神派は違うが、毎朝シグムンドに随行して東方金神会の礼拝に参加した。
幼い頃に聖マレノテ虹神教会──ルエダ・デラ・ラソ列侯国の国教会──の洗礼を受けているとは言え、故郷のルミジャフタは東方金神会と同じく太陽神シェメッシュを信仰の対象としていたから、かの神に祈りを捧げることには何のためらいもない。むしろ機を見て自分も東方金神会に改宗しようかと考えているくらいだ。
よって今朝もスッドスクード城内の〝文化棟〟と呼ばれる建物へ足を運び、併設された東方金神会の礼拝堂に顔を出した。ここには軍属の聖職者が数名詰めていて、毎日朝と夕方に城内関係者のための礼拝が開かれている。
特にシグムンドが正式に着任してから初めての集会となる今朝の礼拝では、司祭がお決まりの説教のあとに説教台をシグムンドへ譲り、集まった将士や文官、奉公人たちへの顔見せの場を設けてくれた。聖堂の最奥に設けられたシェメッシュの象徴──金色の《太陽を戴く雄牛》の像の前に立ったシグムンドは、やはり敬虔なひとりの信徒として粛々と挨拶を述べ、聴衆から割れるような拍手を浴びていた。
しかしそう言われてみれば、エリクも礼拝のあとには新任の副長として黄都守護隊に所属する五人の部隊長のもとへ挨拶へ行くことになっている。が、ひょっとしたら彼らもまたこの席に参列しているのではないか、と隣に座った助祭のひとりに尋ねてみたら、いかにも聖職者然とした穏やかな風貌の彼はにっこりと笑って、
「ああ、部隊長の皆様でしたら、バントック卿を除いて礼拝に顔を出される方が稀ですよ。むしろあの方々が参拝になどいらっしゃろうものなら、たちどころに天が落ちて地を押し潰し、かつてハノーク大帝国を滅ぼしたという《大穿界》よりも恐ろしい厄災が降りかかるでしょうから、今日も世界の平和が保たれたことを神に感謝致しましょう」
と、脳が理解を拒むようなことを言った。
実際、エリクは彼の言葉を理解するのに必要以上の時間を要したが、そうして両者沈黙する間にもにこにこと笑みを絶やさぬ彼を見て深くは触れないことにした。触れたら何かとてつもない不幸が我が身に降りかかってくるような、そんな得体の知れない予感が働いたからだ。けれども結論から言えばエリクの予想は甘かった。
何故なら助祭の発言に触れようが触れまいが、エリクの行く手には想像を遥かに超える艱難が待ち受けていたためである。




