34.誰が為に君は往く
行き詰まると自分に都合のいい幻を見るなんて我ながら便利な頭だな、と呆れながら、翌朝、エリクはメイナード家の食堂で口を開いた。
「シグムンド様。お話があります」
しかもその幻というのが、よりにもよって精巧な人形かと見まがうほどに美しい少女の姿の天使だなんて。これじゃ俺もあのアンギルとかいう変態と変わらないなと内心乾いた笑みを湛えつつ、今日も今日とて憐れな手紙たちを火炙りに処す上官のとぼけ顔をまっすぐ見据えて、覚悟を決めた。
「今日までお話できずにいた不忠をお許し下さい。現在逃亡を続けている反乱軍首魁のジャンカルロ・ヴィルトと彼の婚約者、フィロメーナ・オーロリーに関わることです」
けれど幻だろうと何だろうと、迷い悩んでいた背中を押してもらった事実に変わりはない。エリクが束の間瞑目し、やがて腹を据えて顔を上げると、ちょうど暖炉の前に座るシグムンドと配膳室から香茶を運んできたベケットが顔を見合わせたところだった。
「ベケット、朝食はあとでいい。悪いが席をはずしてくれ」
「畏まりました。厨房にも伝えてきます」
ほどなくシグムンドがそう告げれば、ベケットは一礼して引き下がる。ただ、明らかに緊張でこわばっているエリクへの配慮だろうか。彼は持ち出してきた香茶だけはカップに注いで、シグムンドとエリクの席にそっと添えていってくれた。
「聞こう。まずは座りなさい」
「……はい。失礼します」
やがてベケットが配膳室へ引き下がると、エリクは六人がけの食卓の定位置につく。上座に座るシグムンドの斜向かい。そこがいつからかこの食堂でのエリクの指定席になっていた。
「──なるほど。つまり現在フィロメーナ・オーロリーの逃亡を幇助している剣士は君と同じ太陽の村の民で、名をイークというわけだな。そして彼がフィロメーナと行動を共にしている経緯は不明だが、恐らくは傭兵として彼女の護衛役を務めているのだろう、と?」
「はい。これはルミジャフタの民全般に言えることですが、あの郷で生まれた者は悪を憎み善に尽くすことこそが力ある者の使命だと教えられて育ちます。我々キニチ族は国を持ちませんので、特定の土地や主君にではなく、己の善性に忠誠を誓うのです。もちろんイークもそうしたルミジャフタの戦士のひとりですから……恐らくは黄皇国の政治腐敗と、その黄皇国に女性がひとりで追われているという事実から目を背けることができなかったのだと思います」
「そうか。だがそこに政治的意図がないとしても、彼のしていることは我が国では重罪だぞ、エリク。何しろ君も知ってのとおり、フィロメーナはかのオーロリー家本家の令嬢──当然ながら彼女の名が持つ影響力は計り知れず、ことと次第によってはガルテリオ様のご威名にも並ぶ力を持っている。そんな娘が反乱軍に合流し、トラモント人があまねく信仰する太陽の村の戦士を従えてジャンカルロと手を取り合えばどうなるかは、君にも分かるな」
「……はい。我が郷の民は今から三百年前、エレツエル神領国の暴政と戦っていた竜騎士に太陽神の神託を与え、トラモント黄皇国の建国を助けました。場合によっては今のフィロメーナとイークの関係を、そうした歴史の再来と信じて逸る者が現れるかもしれません」
「そうだ。そうして生まれた新たな信仰は、ジャンカルロが起こした反乱の火種と共に瞬く間に燃え広がるだろう。そうなれば我々はいよいよ反乱軍──彼らの流儀に倣うのであれば『救世軍』だな──と本格的にことを構えざるを得なくなり、黄皇国は再び内戦の時代へ突入する」
「七年前の正黄戦争のように、ですか」
「ああ。何しろ反乱の発起人たるジャンカルロは義理とは言え陛下のご令甥だからな。そしてオーロリー家の現当主たるエルネスト殿は、第十五代黄帝ディオフィリオ二世陛下のご玄孫に当たる。つまり遠縁ではあるものの、オーロリー家は皇家の血筋に連なる家柄だということだ。そのオーロリー家の娘であるフィロメーナと、亡き黄妃陛下の甥が結びつけば……」
「……ジャンカルロは先妃の身内であることと、フィロメーナに流れる皇家の血を理由に新しい君主としての正統性を主張できる」
「そういうことだ。今の保守派貴族どもの傲りと怠慢にうんざりしている革新派貴族の中にも、やがてジャンカルロに手を貸す者が現れるだろう。そうでなくとも黄都にいた頃の彼は周囲に慕われていたからな。公明正大にして品行方正、さらには軍人としても実に優秀な部下だった」
「……〝部下〟? もしやジャンカルロは、ガルテリオ様やシグムンド様の部下だったことがあるのですか?」
「ああ。彼は元近衛軍将校で、正黄戦争の直前までは我々の部隊にいた。もっとも内乱の勃発と同時に、黄都に取り残された先妃陛下をお守りすべく隊を離脱してしまったがな」
そう話しながらベケットが残していった香茶を啜るシグムンドを見やり、エリクは言葉を失った。
ジャンカルロが元近衛軍将校であった事実はエリクも自力で突き止めていたが、まさかガルテリオやシグムンドの部下だったとは夢にも思っていなかったのだ。
そんな人物がどうして、と膝の上で拳を握り、しかしエリクには訊かずとも理解できた。保守派貴族に比べれば主張や振る舞いこそマシとは言え、ガルテリオを筆頭とする革新派貴族たちも決して一枚岩ではないことを、このひと月で嫌というほど学んだから。
中には新興貴族の冷遇に怒り、目下保守派の貴族たちが独占している権益を我が物にしたいという私欲だけで革新派を名乗っている者も多くいる。
彼らはそのために力あるガルテリオやシグムンドに擦り寄り、獅子の威を借りて物事を思い通りに運ぼうとしているだけだ。そういう者たちが政治の主導権を握ったところで、結局はまた同じ過ちが繰り返されるのは目に見えている。
ジャンカルロはガルテリオらと志を同じくしながらも、そうした貴族社会の変わらぬありさまに失望し、ついには別の道を選んだ。すなわち腐りきった貴族たちの首を根こそぎ刈り取り、黄皇国を打倒して新国家を築く道を。
「黄臣としてあるまじき発言であることを重々承知で言えば、私もジャンカルロの言い分には賛同する。あと十年若ければ同じ道を選んでいたやもしれん。だがな、我々は正黄戦争を生身で経験した世代だ。あの内乱がもたらしたものをまざまざと見せつけられた身としては、祖国を再び戦火に巻き込むなどという愚挙を選び取ることはできん。多くの民と兵が原野で血を流している間、黄都で人間と国家の闇ばかり見つめていたジャンカルロにはそれが分からぬのだ。そういう愚かさを、人は〝若さ〟と呼ぶのやもしれんがな」
「……」
「して、エリク。君は彼らと逃避行を続ける友人をどうしたいと考えている?」
「私は……」
一度口をつけたきり静止したままの、カップの中の水面を見つめてエリクは沈黙した。告げるべき言葉はひとつだけ。ここまで来たからにはもう引き返せない。
分かっているのに声帯が震える。我ながら情けない──とひとしきり胸裏で失笑したのち、握り込んだ拳をさらにきつく握り締めて、エリクはついに顔を上げた。
「私も不実を承知で申し上げるならば、どうにかして友人を助けたい……と、思っております。イークは確かに直情的な男ですが、ものの道理が分からない人物ではありません。私が直接会って話をすれば、フィロメーナの護衛からも手を引いてくれるはず……彼自身を守るためにも、内乱の火種を吹き消すためにも、ぜひそうしたいと願っております」
「だが彼を匿えば君も罪人の仲間入りだぞ。今度という今度は私も庇い切れん。何しろ今回の一件は、若者の火遊びを見逃すのとはわけが違うからな」
「承知しております。シグムンド様のご迷惑になるのであれば栄誉勲章も返上し、軍を退く覚悟です。ただ、ガルテリオ様やシグムンド様から頂戴した数々のご恩情に何ひとつ報いられないどころか、恩を仇で返す形になることが心苦しく……ましてや親授式の席で陛下が我が身にかけて下さったご期待を裏切ってよいのかと、数日思い悩んでおりました。そして気づいたのです。私は親友を救いたいと願うのと同じくらい──黄皇国でシグムンド様のために働きたいと願っているのだと」
イークが聞いたら怒るだろうか。怒るだろうな、と内心苦笑しながら、されどエリクは自分に嘘をつくことができなかった。
たとえ不忠者と罵られても、親友のために軍から身を引くべきだと何度考えたか分からない。なのに今日までその決断を下すことができなかったのは、シグムンドと過ごしたひと月があまりにも満ち足りていたからだ。
確かに保守派貴族との対立や殺人的な忙しさに振り回される日々ではあったけれども、ようやく見つけた魂の主の傍らで過ごす日々は、そんな苦労など霞むほどに輝いていた。毎朝この食堂でシグムンドと向かい合うたび、エリクの胸は長年の夢を叶えられた喜びで満たされた。幸せだった。
だからエリクには決められない。黄皇国に追われる親友も、国のために過酷な戦いを強いられている上官も、どちらも全力で守りたい。自分でも馬鹿げたことを言っているのは分かっている。それでも、もし許されるのなら。
「子供のようなわがままを申し上げて申し訳ありません。ですがたった今お伝えしたことが、嘘偽りのない私の本心です。自分でも最善の選択をしようと努力しましたが、結局今日まで何ひとつ決断することができませんでした。ですのでシグムンド様にお願いがあります」
「私に叶えられることであればよいがな」
「いえ、むしろシグムンド様以外の誰にもお願いできないことです。厚かましい願いであることは百も承知で申し上げます──どうか私の処遇は、シグムンド様にお決めいただけないでしょうか」
エリクがそう切り出した刹那、シグムンドの背後で暖炉の薪がパチンと爆ぜた。
同時に玄関広間から泰神の刻(七時)を告げる柱時計の鐘が聞こえる。
「今の私の立場では、進退どちらを選んでもシグムンド様にご迷惑をおかけしてしまいます。ですのでシグムンド様にとって最も利となる道を示していただきたいのです。たとえば私の身柄を拘束して、イークを誘き出すための囮にするとか……とにかくどんなものでも構いません。シグムンド様がお決めになったことでしたら喜んで従いますし、決して恨みはしないと真実の神の名にかけて誓えます」
「最も私に利するように……か。エリク、君は自分がいま何を言っているか分かっているのか?」
「もちろん分かっているつもりです。ですがこれ以上優れた方法は、私には見つけられませんでした。何を選んでもご迷惑になるのでしたら、せめてシグムンド様の部下として、少しでも主に報いる道を選びたいと考えております」
エリクが微塵の迷いもなくそう答えれば、食堂にはシグムンドの嘆息が響いた。
次いで訪れたのはしばしの沈黙。
その間、エリクはじっと息を飲んでシグムンドの審判を待つ。
「……仮に私が君の立場であったなら、どうするのだろうな」
やがてシグムンドがぽつりと零した言葉は、エリクが予想していたどれとも違っていた。
「シグムンド様でしたら私のようにうだうだ悩まず、ただちにガルテリオ様をお救いすることを選ばれるのではありませんか?」
「いや、そうとも限らぬ。何せ私は薄情者だからな。もしもガルテリオ様が国に反旗を翻し、陛下に矛を向けることを選ぶというのなら……私は、敵としてあの方をお止めする選択をするやもしれん」
「まさか」
「私はメイナード家の当主なのだ、エリク。爵位や家名を惜しむつもりはさらさらないが、ここには何代にも渡って当家に仕えてきてくれた使用人たちがいる。スウェインを始めとする多くの部下もな。私個人の自儘のために彼らを苦境に立たせるくらいならば、ガルテリオ様と袂を分かつのも致し方ない。そして何より、私はまだこの国を諦めてはおらぬ。世に『金色王』と呼ばれるオルランド陛下の下ならば、黄皇国は再び民の血を流すことなくやり直せると──そう信じたいのだ」
瞬間、エリクの胸にともった炎の名を人はなんと呼ぶのだろう。それは瞬く間に燃え上がり、煌々とエリクの視界を照らして、世のすべてを輝かせる。
──私はまだこの国を諦めてはいない。
シグムンドが放ったその言葉の、なんと力強いことか。そして同時に思い出す。
ああ、そうだ。だから自分は彼についていきたいと願ったのだと。
「だがエリク、君はまだ引き返せる。私のような男に仕えたいと言ってくれる心映えは有り難いが、私はあの日、見返りを期待して君を助けたわけではない。ましてや大切な友との関係を犠牲にしてまで仕えてくれとは言えぬ。無論君のような優秀な人材を手放すのは惜しいが、そういう天命だったということだろう」
「ではシグムンド様は私に軍を抜けろと? ですが私が軍を離れれば、陛下のご尊顔に泥を塗るような男を部下にしたと、シグムンド様が無用の謗りを受けることになります」
「そこは別段気にしなくていい。何しろ君も知ってのとおり、私の悪名は既に政界の隅々まで轟き渡っているのでな。今更どのような陰口を叩かれようが、私としては痛くも痒くもない」
「自覚があるのでしたらせめてもう少しご自重下さい……」
「善処はしている」
「どこがですか?」
「私の話はいい。とにかく以上が私の意見であり願いだ。だがいま話したことを君に強制するつもりはない。エリク、君は己の進退を私の決断に委ねると言ったが、この決断は君自身が下すべきだ。何故なら他人の言動に左右される人生ほどつまらぬものはないからな。私もかつてそういう人生を生きていたことがあるが、生涯で最も華々しい時間をそんな愚かさのために空費してしまったことを、今ではひどく後悔している」
「シグムンド様が……ですか?」
「ああ、そうとも。今の私からは想像もつかんだろうが、こう見えて若い頃は家想いの孝行息子だったのでな。兄や両親の顔色ばかり窺って、それはそれは不毛な少年時代を過ごしたものだ」
「し、シグムンド様が……ですか?」
「ふむ。先程と同じ問いかけでありながら、妙に無礼な質問をされている気がするのは何故だろうな」
「い、いえ、あの……ご、ご家族とは言え、シグムンド様が誰かの顔色を窺う姿というものを上手く想像できなかったものですから……」
「君は知らなくても当然だが、我がメイナード家は代々武官の家系として栄えてきた。ところが私の祖父は軍人としての才に恵まれず、文官として生きることを余儀なくされてな。同じく父も兄も武張ったことを苦手として育ち、当家はそのまま文官の家系へ転向すると思われていたのだ。しかしそこに私が生まれてしまった。当代で唯一、何故か剣神に愛された末弟がな」
エリクは初めて聞くシグムンドの生い立ちに驚いた。何せ彼の父や祖父が文官だったという話は以前ウィルに聞いていたから、てっきりメイナード家は代々文官の家系なのだろうと思っていたのに、まさか武官の家系だったなんて。
聞けばシグムンドの祖父はそれゆえに、武官として生きられなかった己の非才をひどく恥じていたらしかった。だから我が子にも孫にも武官として家を継がせたがったが、彼らもまた総じて剣才に恵まれず、祖父は武官としてのメイナード家は己が代で絶えるのかと肩を落としていたそうだ。
ところがそこにシグムンドが生まれた。彼は幼くして『剣神の申し子』と讃えられるほどの才能に目覚め、祖父はこの孫を大層可愛がった。長兄と歳が離れすぎていたがゆえにメイナード家の跡取りとして名指しされることこそなかったが、将来は武官として国に仕えることを望まれ帝立軍学校へ入れられたという。
だがやがて問題が起きた。シグムンドは年に一度、学校行事として行われる士官候補生同士の御前試合──成績優秀な学生たちが黄帝の御前で互いの腕を競い合い、優勝した者は軍での栄達を約束される──の決勝戦で由緒ある詩爵家の子息を打ち負かしてしまい、彼に心底憎まれたのだ。当時メイナード家は四つある爵位の中でも最下位の華爵位の家柄だったから「下級貴族が上級貴族に大恥をかかせた」として、ほどなく度を超えた嫌がらせを受けるようになっていったという。
「その嫌がらせというのが私ひとりに降りかかるものであればさして気にも留めなかったのだがな。やがて先方は私をなじるだけでは飽き足らず、兄や両親、果ては屋敷の使用人にまで恫喝や誹謗中傷といった危害を加えるようになっていった。が、当時一番の災難は、祖父の偏愛のおかげで私が兄たちから心底妬まれていたことだ。おかげでふたりの兄はついに私の存在を容認できなくなり、こう言い放った──〝お前はメイナード家に災いをもたらすために生まれてきたのだろう〟と」
「……まさか、」
と、刹那、エリクの中でようやくすべてがつながった。
二十五年前、シグムンドがガルテリオと初めて出会った戦場で「私は死ぬためにここへ来たのだ」と叫んだ理由。
あれはもしや家のために死にに来たという意味だったのか。彼は生家にもたらしてしまった不名誉を、自身の名誉の死でもって挽回すべく戦っていたのか。
エリクがそうして当時の真相に辿り着くと、シグムンドはうっすら口角を持ち上げ、再び静かに香茶を啜った。
「だがのちにその話を聞いて、我がことのように激怒された御仁がいる。彼は私にこう言った。〝お前は貴族の奴隷として生きるよう神に命ぜられて生まれてきたのか。そうでないのなら、お前はお前自身のために生きるべきだ〟とな」
「それが……シグムンド様が長年ガルテリオ様をお守りしてきた理由ですか」
「ああ。あのお方は私を奴隷の軛から解き放ち、一個の人間にして下さった。以来ガルテリオ様のために生きることこそが私の人生となったのだ」
「ですが己が一生をガルテリオ様に捧げたのでは、シグムンド様は結局ご自分の人生を生きていらっしゃらないということになるのでは?」
「いいや。私がガルテリオ様のために生きようと思い定めたのは、兄にそう命ぜられたからでもガルテリオ様に乞われたからでもない。他ならぬ私が私のために私の意思で決めたことだ。ゆえにこの道を選んだことを悔いたことは一度もない。エリク、私は君にもどうかそうあってほしいのだよ。何故なら君はまだ若く、前途有望で、そのうえ私とガルテリオ様を結びつけてくれた恩人の忘れ形見なのだからな」
まったく困ったものだった。そんなことを言われたら、自分はますますここを離れ難くなってしまう。シグムンドの生き様があまりにもまぶしくて、自分も彼のように生きてみたいと願ってしまう。求めてしまう。憧れてしまう。
シグムンドは見返りを求めて助けたわけではないと言うけれど、結局エリクにとって恩返しだとか国のためだとか、そうした理由はあとづけに過ぎないのだ。
自分はただガルテリオやシグムンドの生き方に惹かれてやまないからここにいたい。彼らの傍らで、彼らのために、彼らのように生きてみたい。それだけだった。
そうして自分の心を丸裸にされたとき、エリクはようやく覚悟が決まり、一度だけ深く息をつく。
「……分かりました。では私も私のために私の意思で申し上げます」
「ああ。聞こう」
「──一年。どうか私に一年だけ時間を下さい。その間に必ずや親友を見つけ出し、説得して反乱から手を引かせます。ですがイークを納得させるためには、私が黄皇国に仕えているという事実が必要です。イークも私もルミジャフタの民として、黄皇国の腐敗を放っておくという選択肢はありませんから」
「なるほど。つまり君がジャンカルロやフィロメーナに代わって国を改革すると誓うことで、友に身を引かせようというわけか」
「はい。しかしこの計画を叶えるためには、私はシグムンド様からお許しを頂戴しなければなりません。重罪人を友に持つ私を傍に置けば、シグムンド様にも危険と不利益が降りかかるおそれがありますが……それでも私が従者としてお仕えすることを、どうかお許しいただけますでしょうか」
エリクが提示した一年という期間は、昨夜イヴが預言として授けてくれた予言だった。彼女の言葉を信じるならば自分は一年後にイークと再会し、彼を救い出す機会を手にする。そこで無事に問題を解決できれば、自分は大切な親友と敬愛すべき上官、双方を守ることができる。イヴの存在や正体についてはやはり半信半疑だが、たとえ彼女が自分の見ている都合のいい幻だとしても七ヶ月前、グランサッソ城が砂王国軍に襲われる未来を言い当てたことは事実だった。ならば今回も彼女の言葉に賭けてみたい。諦めなければ道は開けると信じたい……。
「もちろんスッドスクード城に着任したら、今まで以上の働きでシグムンド様をお支えすると誓います。ご迷惑をおかけする分、誰よりも忠実かつ勤勉に軍人としての職務をまっとうする所存です。ただし親友の件を一年で解決することができなければ、そのときこそはどうかシグムンド様が私に審判を下してください。不忠者として首を刎ねていただいても、城を追い出していただいても構いません」
「ふむ……だが君の妹の件はどうする? 君が彼女に便りを出すことを渋っていたのは、もしかせずとも友人のことが原因だろう?」
「ええ。イークは妹にとってもうひとりの兄のような存在で……私たち三人は、故郷ではまぎれもない家族でした。ですから親友のことは妹には黙っていようと思っています。それから──私が軍人として黄皇国に身を置くことになった事実も」
「何?」
さしものシグムンドもそこまでは見通せなかったのだろう。彼はエリクの告白に片眉を上げて聞き返してきた。けれどこれも預言者の預言だ──と説明するわけにもいかず、エリクはひと晩かけて考えた言い訳を苦笑と共に並べ立てる。
「妹を一日も早くシグムンド様に会わせたい気持ちは山々なのですが、カミラは昔から少し思い詰めやすい子で……一時的なものとは言え、私とイークが敵対する関係にあると知れば思い余ってどんな危険を冒そうとするか分かりません。ですので問題が解決するまでは私もイークも行方不明ということにするのが最善かと……」
「しかし君はいいのか? たったひとりの妹を故郷に置き去りにしてきたことを、あんなにも気に病んでいたではないか」
「ええ。ですが私と親友の間で苦しめてしまうよりは、そうした方が妹のためだと判断しました。私が留守にしている間のことは郷の長に頼もうと思っています。こういう事情があってしばらく郷へは帰れないから、どうか妹が寂しがらないよう目をかけてやってほしいと」
エリクが順序立ててそう説明すれば、シグムンドは腕を組んで低くうなった。
もうほとんど中身のないティーカップを睨んだ眼差しは明らかに難色を示しているが、やがて彼は短い嘆息ののちに言う。
「……他でもない君の家族のことだ。君が構わぬと言うのなら私もこれ以上は言わん。しかしいくら長の手を借りたとしても、君と友との関係を隠し切れるとは限らんぞ。少なくとも既に手配書が出回っているイークのことはいずれ郷にも知らせがいくであろうし、君も昨年末の件で名が売れすぎた。たとえば黄都に出入りする行商人が貴族たちの噂を集めて、商いついでに君の郷へばら撒きに行くかもしれん」
「はい、そこは私も危惧するところです。ですのでひとつご提案が」
「ほう。提案とは?」
「名を変えようかと思います」
「何?」
「ことが落ち着くまでの間、名を変えようかと。そうすれば少なくとも私の噂が郷里に届くことは避けられるかと思います。そして何より、イークがどこかで私の名を出すことがあろうとも、すぐには私と結びつかなくなる。つまりシグムンド様に要らぬご迷惑をおかけする危険も最小限に留められるということです。ですので軍規上問題がなければそのように取り計らいたいのですが」
「ふむ……そうか、名を変えるか。特に軍規や法に絡む問題はないと思うが、しかし何と名乗るつもりだ?」
「それをシグムンド様にお決めいただきたいのです。黄皇国の軍人としての私の名を、どうかシグムンド様の手で授けてはいただけませんか?」
というのもイヴから与えられた預言どおりだが、しかしこれは悪くない案だとエリクは思っていた。何しろ都合のいいことに、エリクたちは明後日には黄都ソルレカランテを発ち、南のスッドスクード城へ入る。しかし着任の前に今の名を隠してしまえば、新しく着任する黄都守護隊では仮の名の方が自然と定着するだろう。
無論エリクは今の名を捨てるつもりはない。何しろ〝エリク〟という名前は、かつての父の師がエリクの息災と栄達を願ってつけてくれたものだ。
けれど今日から自分はルミジャフタのエリクではなく、黄皇国の軍人として生きる。ならばその決意を新たな名前として背負っていきたいとエリクは願った。
「そうだな……トラモント軍人としての君の新たな名前か。ならば、アンゼルム、というのはどうだ?」
「アンゼルム、ですか?」
「ああ。他ならぬ我がメイナード家の始祖の名だ。当家の初代当主たるアンゼルム・メイナードは異郷よりこの地に現れ、人並みはずれた武芸でもってトラモント皇家に貢献したのち、数多の勲功を讃えられて黄皇国に根を下ろしたという。ゆえに君も私の祖先のごとく、異邦人でありながら我が国の歴史に名を残すほどの人物となるように──との願いを込めて〝アンゼルム〟だ。いかがかな?」
と、不敵な笑みと共に尋ねられ、エリクは目を瞬かせた。
メイナード家の始祖となった異邦人、アンゼルム・メイナード。
──そんな名誉ある偉人の名を自分に授けて下さるというのか。
そう思ったらエリクはたちまち胸がいっぱいになった。
重罪人となった友を持ち、ともすればシグムンドの目指す理想の妨げになるかもしれない自分に、彼はそれほどの期待をかけてくれているのだと理解したからだ。
すなわちエリクは、これからもシグムンドの傍に仕えることを許された。
ゆえに誓う。必ずや一年のうちにすべての問題にけりをつけ、彼の与えてくれた名に恥じぬ男になってみせると。
「ありがとうございます、シグムンド様。私などにはもったいないご芳名ですが……いずれ必ずやその名にふさわしい人物になってみせると、我が郷の聖祖タリアクリの名にかけてお誓いします」
「ああ、楽しみにしている。君の友人の件については、私もでき得る限り力になろう。彼の消息を追うことがジャンカルロの暴走を止める手がかりになるやもしれんしな。今後新たに分かったことがあれば、迷わずただちに報告しなさい」
「はい!」
「ではそろそろ朝食としよう。今日も一日忙しくなるぞ」
昨日までまったく先が見えずにいたのが嘘のようだった。
こんなことならもっと早くに打ち明けておけばよかったと苦笑しながら、エリクはシグムンドが鳴らす呼び鈴の音を聞く。
ほどなく一度厨房に引っ込んだベケットが戻り、今日も今日とて甘い朝食が運ばれてきた。けれどトラモント貴族式の朝食にももう慣れたものだ。
その日からエリクの新しい人生が始まった。
黄都守護隊のアンゼルム。
シグムンドが与えたこの名はやがて、遥か後世まで語り継がれることになる──




