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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第2章 シャングリラは微笑まない
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33.天使のいた窓辺


 外での夕食を終えて屋敷へ戻るなり、エリクは客室の寝台へ倒れ込んだ。

 久しぶりに安酒を飲んだせいだろうか。あるいはここ一ヶ月の疲れが今頃押し寄せてきたのだろうか。やけに頭がぼうっとする。眠い。

 羽毛をくるんだ上質で高価な寝台に、このままずるずると沈み込んで眠りに落ちてしまいたかった。けれどエリクの帰邸(きたく)を知った執事(ベケット)が入浴の支度をしてくれているというので、彼が呼びに来るまで眠ってしまうわけにはいかない。

 というかそもそも外出した主人(シグムンド)がまだ屋敷に戻っていないのに、部下であり居候である自分が先に就寝してしまうなんてもってのほかだ。エリクは微酔に身を委ねてまどろみながら、たまには場末の酒場で飲む酒も悪くないなあとつい一刻(一時間)前まで滞在していた小さな酒場でのひとときを思い返した。


 今夜はシグムンドが第一軍副統帥(オズワルド)の屋敷の夕餐(ゆうさん)に招かれたというので、エリクはメイナード邸での夕食を断り、城下町の適当な酒場に酒を飲みに行っていたのだ。

 何しろソルレカランテへやってきてからというもの、エリクは朝晩の食事をメイナード家で世話してもらっていて、酒も料理もこれまで口にしたこともないような高級品ばかり(きょう)されてきた。それを主人が不在のときまで馳走(ちそう)になるのは何だか気が引けたし、そもそも生来平凡で庶民的な暮らしを送ってきたエリクの舌には身分相応な食事の方が合っている。そこで久しぶりに身の丈にあった料理と安酒が恋しくなり、わざわざ貴族街を出て下町の酒場まで足を伸ばしたというわけだった。


(……だけどシグムンド様はまだお戻りにならないんだな。やっぱり昼間の件でこってり絞られてるんだろうか)


 と、屋敷の柱時計が戒神(かいしん)の刻(二十時)を告げているのを聞きながらエリクはうっすら苦笑した。というのも日中、ソルレカランテ城で繰り広げられたシグムンドと財務局との熾烈(しれつ)な論争はギディオンの一喝で手打ちとなり、焦点である黄都(こうと)守護隊(しゅごたい)の軍費問題についてはギディオンが皇居へ持ち帰ると言い放ったらしい。

 皇居へ持ち帰る、というのはすなわち黄帝(こうてい)であるオルランドの裁量を仰ぐということで、彼の腹心中の腹心であるギディオンが口添えをしてくれるとなれば、事態はこれ以上悪い方へは転がらないだろうと思われた。


 一度怒り出せば黄帝でさえも止められないと言われる剣鬼(けんき)殿の介入にすっかり尻尾を巻いた財務大臣(ヴェイセル)はしかし、最後には苦り切った表情をしていたそうだ。

 おかげで軍費の問題はどうにか解決の目処(めど)が立ったものの、当然ながらシグムンドは上官であるオズワルドから呼び出しを受け、渋々今夜の会食へ出かけていった。「先生の説教は一度始まると長くて敵わん」と、当のシグムンドは屋敷を出る前に散々不満を垂れていたけれど、あんなことをしでかしておいてまったく悪びれていないあたりにエリクはいっそ感心する。


(スウェイン殿は〝あの方のことだから、恐らくはギディオン将軍が介入してくるところまで計算づくで動いていたんだろう〟とおっしゃっていたが……もしそうだとすれば、俺は本当にとんでもない人の部下になってしまったような気がする)


 己の元上官にして黄帝の最側近である将軍までまんまと利用し、物事を思い通りに運んでしまうなんてまったくとんだ恐れ知らずがいたものだ。

 むしろあれほどの所業を平然とやってのけるような人物を、保守派貴族たちはどうして今の今まで野放しにしておいたのか。あの様子ではエリクが憲兵隊を相手に騒ぎなど起こさなくともゆくゆくは本性が露見して、ルシーン派から最重要危険人物の烙印を押されていたんじゃなかろうか、という気さえする。


(だが仮にそうだとしても、俺の存在がシグムンド様の立場をより悪化させていることは事実だ。ギディオン将軍はああ言って下さったけど……俺は本当にこのままシグムンド様の部下でいていいんだろうか)


 ひとりで酒を飲んでいる間も古い友のように連れ添っていた自問が、今度は添い寝をしてやろうかと耳もとで(ささや)いている。

 いつまでもぐるぐると考え込んでいたところで答えなど見つかるはずもないのに、シグムンドに直接尋ねる勇気はまだ芽生えない。


(……ソルレカランテを発つ前には決断しないと。シグムンド様の従者を続けるにしてもイークのことを黙っているわけにはいかないし、今のままじゃカミラを黄都に呼び寄せることもできない──)


 むしろこうしてぐずぐずと迷っている間に、事態は刻一刻と悪化の一途を辿(たど)っているような気がする。いい加減何とかしなければと頭では分かっているのに、一体いつまで結論を先延ばしするつもりなのか。まったく不甲斐ない自分自身に嘆息しながら、エリクは仰向けに寝返りを打った。今は枕もとに灯された角灯の明かりを視界に入れるのも億劫(おっくう)で、右腕で目もとを覆ってしまう。


(お前が俺の立場ならどうする、イーク?)


 そうしながら、暗闇の中でここにはいない親友に尋ねた。

 すると冬の風がエリクの問いに答えるようにそっと髪を()ぜていく。外では凍えそうなくらい冷たく感じた北風が、今は不思議と心地よかった。ほどよく酔いが回って火照った体を冬の神(ツァフォン)の息吹がやさしく包み込んでくれているかのようだ。

 だがそうしてしばしそよ風に身を委ねたあとで、エリクははっと目が覚めた。

 何故なら自分が部屋へ戻ってきたとき、窓はしっかり閉じられていたはずだと思い出したからだ。そもそもこの真冬のさなかに、屋敷の使用人たちが客室の窓を開け放しておくはずがない。エリクが帰邸する頃には部屋に明かりがともされ、暖炉にもしっかりと火が入れられていたことを思えばなおさら。

 ──ならば今の風は一体どこから?

 そう思い至って跳ね起きた直後、エリクはさらに驚愕する羽目になった。

 何故なら寝台の真横に設けられた格子窓が窓掛けごと開け放たれ、そこから射し込む(さや)かな月明かりの中に小さな人影が浮かび上がっていたからだ。


「ようやく気がつきましたか、エリク」

「な……き、君はイヴ……!?」


 思わず絞り出した声は滑稽なほど上擦り、エリクは一瞬にして酔いが吹き飛ぶのを感じた。いや、違う、あるいは自分は自分で思う以上に酔っていて夢か幻でも見ているのだろうか? だとしても正体を失うほど飲んだつもりはないんだが……と動揺して額を押さえていると、傍らに佇んだままの少女が小さくため息をついた。

 かと思えば彼女は七ヶ月前、ルチェルトラ荒野で邂逅(かいこう)したときと同じ貫頭衣(かんとうい)(すそ)(ひるがえ)し、月光で蒼く濡れた窓辺にとっと音もなく腰かける。


「久しぶりですね。異国での暮らしにはもう慣れましたか?」

「い、いや、その前に君はいつからいたんだ? というかどこから入ってきた?」

「そんなささやかな質問が何の役に立つというのです? おまえたちの時間は有限です、エリク。不要な惑いや疑いは捨て去りなさい。黙っていても、神々の意思がおまえを正しき道へ(いざな)ってくれるのですから」


 相変わらず何の抑揚もない声色で、やたらと偉そうにイヴは言った。否、もちろん彼女が眠れる神々の声を聞く預言者である──という話が事実なら確かにこの上なく神聖で偉いのだろうが、エリクは未だにイヴの正体をはかりかねている。

 何の気配も前触れもなく忽然(こつぜん)と現れて消える彼女は、果たして現実に存在する人間なのだろうか?

 酔いも手伝ってエリクがそう考え込んでいると、露骨な不審顔からこちらの意図を読み取ったのか、イヴが月白色(げっぱくいろ)睫毛(まつげ)に縁取られた瞳をすうっと細めた。


「驚きましたね。既に預言を授かっておきながら、おまえはまだ私の正体を疑っているのですか」

「い、いや……確かにマクランス要塞でのことは君に感謝してるよ。要塞を無事に奪還できたのも、グランサッソ城を守り切ることができたのも、全部君の()()……のおかげだ。ありがとう」

「では何故おまえはなおも私に疑いの眼差しを向けるのです? たったあれだけの預言ではまだ信ずるに値しないと?」

「……」

「まったく人間というものは、本当に度し難い生き物ですね。いいでしょう。ではおまえに第二の預言を授けます」


 第二の預言、という言葉がドキリとエリクの心臓を鳴らした。

 同時にルチェルトラ荒野で聞いた第一の預言の内容が嫌が応にも脳裏をよぎる。

 あのときイヴはシャムシール砂王国(さおうこく)から押し寄せた砂賊(さぞく)どもの策を(ことごと)く看破し、エリクにガルテリオを守れと告げた。結果としてイヴの託宣はすべて正しく、エリクは黄皇国(おうこうこく)防衛の要であるガルテリオと彼の居城を守り抜くことができた。

 しかし今はガルテリオの下を離れ、戦とは縁遠い黄昏の都に身を置いている。

 ならば次は何を言われるのかと身構えていたら、


「明日の朝、すべての真実をおまえの上官に明かしなさい」


 またも予想外の言葉を投げかけられて、エリクは目を見開いた。


「おまえが友を救いたいと願うなら、シグムンド・メイナードを頼りなさい。どのみちこれ以上は隠し立てできません。数日前からおまえの様子がおかしいことなど、あの者はとっくに気がついています。たとえおまえが真実を明かさないことを選んでも、すぐに追及を受けることになるでしょう」

「い……いや、待ってくれ。俺には君が何を言っているのか──」

「私を(たばか)ろうとしたところで無駄です。おまえのことならどんな些細なことでも知っていると、前回も話したでしょう。何故なら神々が待ち侘びているからです。おまえが天界の門を叩くのを」

「まさか」

「今は理解できずとも、いずれ嫌でも理解することになります。エリク・ビルト・バルサミナ・セル・デル・シエロ。おまえは神に選ばれた。だから私はおまえを導くためにここにいる。それがおまえの知りたがっている答えのすべてです。立ち上がりなさい。世界に《神々の目覚め(エル・シャハル)》をもたらすために」


 嫌になるほど確信に満ち満ちた声でイヴは言った。

 いや、だが待ってほしい。自分が神に選ばれた、だって?

 そんな話、信じろと言われたところで信じられるわけがない。

 確かにイヴは初めて出会ったときにもエリクに告げた。

 おまえの手でエマニュエルを覆う混沌(こんとん)の時代に終止符を打て、と。


 だけどどうして俺なんだ?


 エリクは神子でも何でもない、ただちょっと変わった生い立ちを持つ父親と、ルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)の貴族として生を受けた母の間に生まれた凡人だ。

 母方の血だけを見れば高貴な生まれと言えなくもないが、流れ者だった父と結婚した時点で母は生家から勘当されている。

 つまりエリクの内に流れるビルト家の血にはもう何の価値も意味もない。

 他に目につくものと言えばどこへ行っても珍しがられるこの赤髪だけ。

 だというのに彼女はどうしてエリクが神々に選ばれたなどと言うのだろう?

 仮にイヴの言葉を信じるとしても、こんな凡庸(ぼんよう)な人間が選ばれる理由は何だ?

 広い世界を見渡せば、自分以上の血筋と経歴と人徳を併せ持つ人物なんていくらでもいるはず。なのにどうして自分が?


 何の身分も力も持たずに生まれた男に、神々は何を期待している?


「おまえが混乱するのも無理はありません。何しろおまえも、おまえの父も、真実を知ることなく生まれ落ち、そしてここにいるのですから。ですが知りたいと望むのならば、神々の導きに従いなさい。奪われた真実を取り戻しなさい。それらは白き門の向こうで、今もおまえを待っています」

「……本当、なんだな。本当に君は預言者で……未だ眠れる神々の声が、俺にそう言ってるっていうんだな?」

「嘘だと思うのなら、今から与える預言に従いなさい。さすれば年が明ける頃、おまえは友を救う機会に恵まれるでしょう」

「年が明ける頃って、かなり先の話じゃないか。今年もまだ始まったばかりだっていうのに」

「おまえには力を得る時間が必要なのです。今のおまえの身分では、たとえ友を見つけても救いの手を差し伸べることはできない。ゆえに力をつけなさい。経験を積みなさい。仲間を集めなさい。一年後、この地で友との再会を果たすとき、正しい選択を下せるように」


 ──一年後。イヴの言葉は神々の言葉であると仮定するならば、そのときまで自分とイークの再会は叶わないということか。もっと手っ取り早く彼を助け出す方法はないのかと尋ねても、イヴはいま話した内容が最短にして最善の方法だと言う。

 しかし彼女の言うこともまったく理に適っていないわけではない。

 黄皇国に追われるイークを助けたければ、軍人となったエリクが彼を無事逃がせるだけの力をつけること。彼女の言う〝力〟とは知識であり、身分であり、自分を助けてくれる仲間だ。今のエリクは異国の真ん中にぽんと放り込まれた余所者にすぎず、身分はもちろん知識も土地勘も協力者もない。

 だが一年かけて様々な経験を積めば士官としてそこそこの地位を築けるかもしれないし、黄皇国の法の抜け穴だって見つけ出せるかもしれない。それが無理でもイークを無事故郷へ逃がす道を探ることはできるし、協力者だって集められる。

 ただ唯一気がかりなのは、既に重罪人となっているイークを救おうとすることがシグムンドに大いなる不利益をもたらしてしまうのではないかということ……。


「おまえは贅沢ですね、エリク。友と上官、どちらも平等に助けたいと願うとは」

「当たり前だろう。シグムンド様は俺の命の恩人だ。いや、あのとき助けていただいた恩を差し引いたって、戦士として剣を捧げるに値するお方だよ。まあ、確かにちょっと気難しくて破天荒で皮肉と毒舌が過ぎるきらいはあるけど……」

「でしたら名を変えなさい」

「え?」

「シグムンドの許しの下、〝エリク〟の名を捨て新しい名前を得なさい。さすれば一年の間は確実にその名がおまえを守るでしょう。おまえが神々の加護を得ることはシグムンドにも益をもたらします。そしてもうひとつ──おまえの郷の長に手紙を出しなさい」

「郷の長……ってトラトアニ様のことか?」


 とエリクが思わず尋ねればイヴは無表情に頷いた。トラトアニはエリクの故郷であるルミジャフタ、そこに住まうキニチ族の長であり、エリクたちの育ての親だ。

 父が亡くなったあと、トラトアニは身寄りを失くしたエリクらに何くれとなく世話を焼き、困ったときにはいつだって親代わりになってくれた。

 だから彼に手紙を書けと言われてもエリクは特段抵抗はないし、むしろ身の振り方が決まったら真っ先にそうしようと思っていたところだ。

 何しろトラモント黄皇国とルミジャフタ郷は、三百年以上前から切っても切れない複雑な(えにし)で結ばれている。キニチ族は郷の治安と文化を守るため、黄皇国とは遥かな昔から不干渉条約を結んでいるものの、互いの顔色を(うかが)うべく今も毎年使者や進物の交換が続けられていた。


 だからルミジャフタ郷の人間が黄臣(こうしん)となって黄皇国に仕えるというのは、郷にとってはそこそこの一大事であるはずで、念のためにトラトアニの意向を仰いでおく必要があると思ったのだ。大岩のごとく(いかめ)しい外見の裏に慈父の心を秘めたトラトアニなら反対はしないだろうが、郷にはあまり迷惑をかけたくなかった。

 何より問題なのはイークの件だ。そもそも彼は自分の近況を伝える手紙をまめに出すような性格ではないし、黄皇国に追われる身となってからはなおのこと、郷の皆に騒がれることを嫌って連絡を絶っているに違いない。ならば代わりに自分が状況を伝えなくてはと、エリクが初めからそう考えていたことを告げると、イヴは再び宝石のような瞳を細めたのち、不意に隣にある机へ手を伸ばした。


「ではこちらの手紙はもう不要ですね」

「えっ」


 と、それを見たエリクが声を上げたのは言うまでもない。イヴが書類の片づいた机に唯一残る一枚の便箋(びんせん)を摘み上げ、冷然と吐き捨てたからだ。彼女が手にしているのはエリクがこのひと月、悩みながらも書き続けていた故郷の妹へ宛てた手紙。まだ書きかけではあるものの、だからと言って不要ということはなかった。

 黄都を発つ前にはトラトアニ宛ての手紙と併せて伝達屋──遠く離れた人に手紙や贈り物を届けてくれる輸送業者──に預けようと思っていたものだったから、エリクは慌てて取り返そうと手を伸ばす。が、


「な……」


 次の瞬間、エリクの視界が赤い閃光に塗り潰された。噴き上がった炎に怯み、何だと思って目をやれば、イヴの手の中で手紙が明々と燃えている。何もないところからいきなり火が出て便箋を包み込み、そしてあっという間に燃え尽きた。

 もしや今のは神術か? でなければ説明がつかない。無惨にも灰となり、イヴの足もとに舞い落ちた手紙の成れの果てを見やってエリクは言葉を失った。

 どうしてこんなことを、とやがて目だけで訴えれば、イヴは小さく嘆息をつく。


「おまえは何も分かっていませんね、エリク。たとえ友の消息を伏せようとも、あの娘を黄都へ招けばいずれ真実が明るみに出ます。かと言って先に真実を明かし、郷に留まるよう説得を試みたところで()()は大人しく従う娘でもないでしょう。であるならば、おまえが妹を守るために取れる手段はただひとつ。友を救う日まで沈黙を守り行方を(くら)ませることです。妹に余計な心配をかけたくないと願うなら、そのように計らいなさい」

「ゆ、行方を晦ませるって……だけどそんな真似をすれば、どのみち妹は俺を心配して──」

「ですから長へと手紙を書くのです。すべての真実をつまびらかにし、おまえに代わって妹を説き伏せてくれるよう頼みなさい。さすればおまえの妹を無用の危険に巻き込むことなく、おまえはおまえの使命を遂行できます。どうしても放っておけないと言うのなら、私も無理には止めませんが──おまえと友の関係を案じた妹がどのような行動を取ろうとも、すべてはおまえの責任ですよ、エリク」


 冷たい冬の風と共に吹きつけてくるイヴの正論に、エリクはぐっと息を詰めた。

 確かに彼女の言うとおりだ。カミラはエリクとイークが敵対する関係になってしまったと知って大人しくしていられるような子ではない。事実を知れば身動きの取れないエリクに代わってイークを説得してくると単身飛び出しかねないし、たとえそれを止められたとしても、問題が解決するまでひどく心配させてしまうだろう。

 だったらエリクの行方ごと真実を隠しておけばいいというイヴの言い分も分からないではない。自分の不在がカミラを孤独に追いやってしまうのではないかという不安はあるものの、一年後にはイークを助け出せるというのなら、自分もカミラもほんの二十二ヶ月のあいだ試練に耐えればいいだけだ。

 その間のことはトラトアニに頼めばきっと間違いはないはずだし、ことが解決した暁にはカミラが許してくれるまでひたすらに謝り倒せばいい。

 何より今のソルレカランテにカミラを呼び寄せるのは他の意味でも危険だった。

 ここにはエリクやシグムンドの凋落(ちょうらく)を望む政敵がうようよしているだけでなく、若く美しい娘を求めてやまない変質者もいることだし。


「……そう、だな。妹の件は、もう少し考えてみるよ。イークのことを伝えるかどうかを決めるのは、トラトアニ様からの返事を待ってからでも遅くはないし……」

「そうしなさい。焦らずともまだ時間はあります。おまえ自身の問題と状況の推移をじっくりと見定めてから決断すればよいでしょう」

「ああ……そうしてみるよ。ありがとう」

「……はい?」

「ありがとう」

「……何故、私に礼を言うのですか?」

「え? いや、だって形はどうあれ、君は俺の相談に乗ってくれただろ。正直ここ数日ずっと参ってたんだ。誰かに話したくても気軽に話せる内容じゃないし……かと言ってひとりで悩んでいても、全然解決の糸口が見えなくてどうすればいいのか分からなかった。だからありがとう、イヴ」

「……」

「この際君が預言者だろうと幽霊だろうと構わない。とりあえず明日の朝、言われたとおりシグムンド様にイークのことを話してみるよ。あの方ならきっと分かって下さるとは思うけど、あいつを助けたいと願うことと、罪人の友を持ちながらシグムンド様の従者を続けることはまったく別の問題だからな」

「……そうですね」


 と、相変わらず平板な声色でイヴは言う。窓辺に腰かけたままの少女の表情は依然無色透明だった。が、月明かりの中で唯一閃く青色の瞳だけが、まるで見たこともない生き物をじっと観察するような眼差しでもってこちらを見ている。

 果たして自分はそこまでおかしな発言をしただろうかと内心首を傾げつつ、エリクはついに寝台から腰を上げた。

 というのもイヴが突然現れた驚きと話に夢中で気が回らなかったが、薄い貫頭衣一枚で寒空の下に座っていたのでは彼女が凍えてしまうと思い至ったからだ。


「ほら。いくら子供は風の子だって言っても、いつまでもそんなところにいたんじゃ風邪をひくぞ」


 と忠告しながら、帰邸するなり部屋の隅の椅子に投げかけておいた外套(がいとう)を掴んで軽く広げる。それをぐるりとイヴの背中に回しかけ、身長三十五(アレー)(一七五センチ)のエリクでも軽々と抱き上げられそうなほど小さな体を厳重にくるんだ。

 そうしてひとまず彼女を部屋の中へ入れようと手を差し伸べる。

 厚手の外套にすっぽりと全身をくるまれたイヴはしかし、無言でエリクの手を見つめるばかりで身動きひとつしなかった。


「とにかく中に入ってくれ。どうやって屋敷に入り込んだのかは知らないが、まずはベケット殿に話して君の処遇を考えないと。まさか君みたいな小さな子を、たったひとりで真冬の夜道に放り出すわけにもいかないし……使用人たちの目を盗んで勝手に屋敷に入ったなら、俺も一緒に謝るから」

「……」

「……どうした? まさかほんとに君は俺にしか見えない幽霊だ、なんて言わないよな? 実際、今、触れたし」

「……」

「もう夜も遅くて眠いなら、今夜は君も泊めてもらえるようシグムンド様に頼んでみるよ。あー、でもその場合、君がどこの誰でどうしてここにいるのかってことを洗いざらい話してもらわなきゃいけなくなるけど──」

「エリク。おまえは本当におかしな人間ですね」

「へ?」

「神々がおまえを選んだ理由が少しだけ分かったような気がします。ですが言ったはずですよ。私はおまえたち人間が〝精霊〟とか〝天使〟とか呼ぶものだと」


 淡々とそう告げたイヴは刹那、ほんの微かに、されど確かに笑った気がした。

 かと思えば次の瞬間、エリクの瞳に思いもよらぬものが映り込む。

 それは月光に仄青(ほのあお)く照らされた、純白にして一対の──


「ではまた会いましょう、エリク」

「えっ……ちょ、待て、イヴ……!」


 直後、突如として翼らしきものを得たイヴが、背中から倒れ込むように窓辺を離れた。いや、離れたというよりは()()()といった方が正確で、エリクは慌てて手を伸ばす。だが指先は外套を掴み損ね、イヴの体は真っ逆さまに戸外へ落ちた。

 ここはメイナード屋敷の二階だ。しかも半地下の地階の上に建てられているせいでただの民家の二階よりずっと窓の位置が高い。

 サアッと血の気が引くのを感じながらエリクはとっさに窓から身を乗り出した。

 が、どんなに目を凝らしても寸前に落下したはずのイヴの姿が見えない。

 代わりにひゅるりと北風が音を立て、笑うように吹き上げた。

 その風が音もなく運んできた一枚の白い羽根を、エリクは無意識に掴まえる。


「……………いやいや、まさかな」


 と、やがて手の中の羽根を見やってエリクは呟き、無理矢理口角を持ち上げた。

 何故ってありえない話だ。

 神々も未だ眠るこのご時世に〝精霊〟や〝天使〟だなんて。

 だから少女と共に消えてしまった外套のことは忘れよう。

 そう、たぶん、自分は自分で思う以上に酔いが回っていたのだと。



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