2.飛べない小鳥
すべての明かりが落ちた暗い廊下を、足早に渡っていく影があった。
右手に並ぶ格子入りのアーチ窓。そこから射し込む月の光を擦り抜けて、小走りに影は行く。誰の目にも留まらぬように、物音を立てぬように。
「姉さん」
ところが影がいよいよ屋敷の出口へ手を伸ばしたとき、背後から声がした。
金色のドアノブにかかっていた繊手が震える。
そしてフィオリーナ・オーロリーはそんな影の背中を──自分とそっくりでいて正反対な姉の後ろ姿を、冷たい眼差しで静かになぞった。
「どこへ行くの、姉さん」
「フィ……フィオ、どうして……」
と、姉は肩越しに振り向きながら問う。
──〝どうして〟?
本当に変なところで愚かだ、この姉は。
「そんなことじゃないかと思っていたわ。だから今夜はここに泊まったの。私が気づかないとでも思った?」
まったく同じ声帯から発せられているとは思えぬほど冷ややかな声で、フィオリーナは反問した。直後、火入りの角灯に被せていた幌を外せば、あまりのまぶしさに姉がさっと手を翳す。
たったそれだけの些細な仕草さえ、姉は完成された天使の複製のようで。
角灯の明かりにより一層濃くなった闇が触手を伸ばし、フィオリーナの心を絡め取っていくようだった。ようやく春が来たというのに歓びを感じられないフィオリーナの体は、爪先から冷たくなっていく。
「ねえ。私が気づいているってことは、父様も気づいているってことよ。けれどあの人は止めに来ない。これがどういうことだか分かる?」
姉は何も答えなかった。ただこの牢獄の出口を前にして、似合いもしないボロボロの外套の下で震えている──あんなもの、一体どこで手に入れたのだか。
フィオリーナはまぶしくてたまらなかった姉の醜態を眺め、あまりの滑稽さに冷笑した。自分の中にひそむ残酷な魔物が、夜の力を借りてどんどん育ってゆく。
「姉さんが新しい縁談を蹴ることも、屋敷を飛び出していくことも。全部父様の計算のうちよ。結局私たちは死ぬまで父様の掌の上で踊り続けるしかないの。姉さんだって分かっているでしょう。それでも行くの?」
「フィオ、私は」
「覚えてる? 昔、私たちが飼っていた小鳥は、鳥籠から逃げ出した途端鷹の餌食になっていたわよね」
「……」
「あの子が自由に空を飛び回っていられたのはほんの一瞬だった。ねえ、もう一度訊くわ、姉さん。それでも行くの?」
「ええ、行くわ。まがいものの自由でも構わない。だってジャンと約束したの。たとえどんな困難が待ち受けていようとも、必ず幸せになってみせるって」
──そして私の幸せはジャンの隣にしかないわ。
きっぱりと硝子の剣のごとく突きつけられたその言葉に、フィオリーナは息を詰まらせた。……馬鹿ね、何故分からないの。
彼があなたにそう誓わせたのは、あなたのもとを去ることを決めていたから。だから遠回しに〝他の誰かと幸せになれ〟と言ったのよ。
私の双子の姉はそんなことも分からないほどに愚かだったの?
そう自問してフィオリーナは唇を噛む。
(いいえ、違うわ)
姉は何もかも承知の上で行こうとしているのだ。
家族を捨てて、自分だけの自由と幸福を追い求めて。
「姉さん、私は」
「フィオ」
フィオリーナの言葉は遮られた。今宵、初めて姉妹の立場が逆転する。
「ごめんなさい。だけど父さんに伝えて。私は二度とここへは戻らないって」
「姉さん」
「追っ手をかけても無駄よ。ジャンを誘き出すための餌になるくらいなら、私は迷わず死を選ぶ。まあ、あの人のことだから、私が屋敷へ連れ戻される前に野垂れ死ぬことも当然考慮しているのでしょうけれど」
「そこまで分かっているなら、どうして」
「信じてるから。もう一度必ずジャンに会えるって」
「そんなの妄言だわ。姉さん──いいえ、フィロメーナ、あなたは、」
「さようなら、フィオリーナ。愚かな姉を、どうか許して」
それがフィオリーナが姉と交わした最後の言葉だった。
姉はそう告げて悲しそうに微笑むと、玄関の鍵を外し、扉を擦り抜けていく。
フィオリーナは彼女を止められなかった。止めるべきだったのだと思う。
けれどいつだってそうなのだ。同じ日に同じ顔で生まれたはずの姉は遠く、どんなに手を伸ばしても届かない存在で、
「……許さないわ、フィロメーナ……」
その日、虚ろな鳥籠に取り残された妹は顔を覆ってひとりで泣いた。
自分はもうどこにも行けない。
どこにも行けないのだ。