172.獅子王の名に懸けて
夢を見ていた。
今や遠い遠い記憶となった、北の大地を馳せていた頃の夢だ。
遮るものなく、どこまでも続く広大な原野。
春が来れば水鳥が歌い、夏が来れば恵みをもたらす美しき大河。
その大河に守られし都ティテムを望む丘の上で、若き日のキムは、急ぎ足でやってくる冬の足音を聞きながら白い息を吐いていた。
「──おい、キム!」
ところが不意に丘の麓から名を呼ばれ、キムは視線を傍らへ引き戻す。
すぐ側に控える王騎兵らも同じく声の主を振り向いたが、憤怒の表情で馬を急がせ、丘を駆け上がってくる男の姿を認めると、彼らは畏れ多くも王の第三子を呼び捨てにした男を咎めるでもなく、むしろ敬礼してみせた。
「ああ……ヨングか。お前、ここで何をしている」
「何をしている、じゃないだろう! 騎兵長の俺に断りもなく寡兵で狩りに出るなんて、無用心にもほどがあるぞ! いつまた神領国の手先に襲われるか分からんのに……!」
「大袈裟な。いくら殺しが趣味のエレツエル人といえど、王位継承権を放棄した王子まで狙うほど暇ではなかろう。だいたいお前、今日は休暇じゃなかったのか?」
「そうだけど、朝からずっとジエンをあやしたり遊んだり添い寝したりしてたら、シャオが怒り出して家から叩き出されたんだよ! 〝鬱陶しいから休暇を取り下げて仕事に戻れ〟と言われて……」
「やれやれ……生まれたばかりの息子がかわいいのは分かるが、ダオレン家の次期当主がこの親馬鹿ぶりでは、兵部の威厳も何もあったものではないな」
「うるさいな、そういうのは親父殿の仕事だろ。あの人がくたばるまでは、俺は好きにやらせてもらうさ。だいたい、いつまたエレツエル人との戦に駆り出されるかも分からんのに、獅都にいる間くらい息子を溺愛して何が悪い」
「男児を授かってこれなのだから、女児など生まれようものなら目も当てられん始末になりそうだな。娘が嫁に行くとなったら憤死しそうだ」
「そうかもな。だがどんな形であれ、俺は妻子のために死ねるなら本望だ」
「仮にも獅子王国を担う三大将家の嫡男なら、せめて戦場で死ね」
「おいキム、それが同じ乳母の乳を吸って育った乳兄弟への言い草か!?」
「騎兵隊、帰るぞ。せっかく苦労して手に入れた熊肉だ。早く王宮へ持ち帰って、身重の義姉上に精をつけていただかなくては」
「畏まりました!」
と憤慨している乳兄弟を華麗に無視して、キムは自らの跨がる馬に鞭をくれた。
当時アルスラン獅子王国の第三王子として暮らしていたキムと、シャンロン族の名家に生まれたヨング・ダオレンとは、同じ年に生まれたという理由で幼い頃から共に育った乳兄弟であり、王族とそれに仕える騎兵長であり、エレツエル神領国の侵攻を阻む戦場で互いに命を預け合う戦友だった。
アルスラン獅子王国とは、もともと大陸北東に群雄割拠していた複数の部族がひとつに束ねられて生まれた国家であり、中でもヨングの属するシャンロン族は、建国の一族であるアナーシ族に次ぐ一大勢力だったのだ。
よって王家とのつながりが深く、キムの母もまたシャンロン族の姫であったし、ヨングの父はそんな母の外戚だった。だからだろうか。
キムにとっては血のつながったふたりの兄よりもヨングの方が遥かに気の置けない存在で、互いに憎まれ口を叩き合いながらも、実際にはこの世の誰よりも信頼していた。ほとんど己の半身と言ってよかった。
口に出したことこそなかったものの、心のどこかではずっと、ヨングの死ぬときが自分の死ぬときなのだろうと思っていた──祖国が同盟国に裏切られ、雪崩れ込んできたエレツエル人どもの手によって、何もかも奪い尽くされるまでは。
「キム、後生だ。アルスランの民のために死んでくれ」
そしてあの日、原野で数ヶ月ぶりの再会を果たしたヨングは確かにそう言った。
「俺の肩には今、生き残った百万の民の命が乗っている。神領国軍は、俺がアルスラン王家の最後のひとりであるお前を討てば、アルスランの民を中級市民として遇すると……奴隷同然の下級市民の待遇は課さないとそう言った。だから、キム。国亡きあとも遺される民のことを想うなら、どうかここで死んでくれ。獅子王国最後の王として……」
敗軍の将として神領国軍に捕らえられ、キムを討つことを条件に解放されたヨングが率いていたのは、彼と共に虜囚の身となった獅子王国軍の将兵だった。
対するキムが率いていたのもまた、共に獅都を脱出し、同盟国への亡命を目指していたアルスランの民だった。
つまりエレツエル神領国は、キムひとりの首を刎ねてことを丸く収めるか、同郷の民同士で殺し合うか選べという最後通牒を突きつけてきたわけだ。
ゆえにキムは後者を選んだ。あの頃はまだ王の血筋さえ途絶えなければ、いずれ父祖の地を奪還し、獅子王国を再興できるはずだと──さすればすべての民を神領国の支配から解放し、かつての自由と繁栄を取り戻せるはずだと信じていたから。
「ああ、くそ……これで……一二三勝、一二四敗……二〇一分け、か……最後の、最後で……お前に、勝ち越されるとはな……」
勝負の結果、ヨングの剣はキムの右目を引き裂き、キムの槍はヨングの腹を貫いた。どちらも最後の一瞬まで、決して手は抜かなかった。
それが長年苦楽を共にした兄弟のためにできる、唯一の手向けだったからだ。
そうして何も言えずにただ、ただ、死にゆく彼を見守ることしかできなかったキムを見上げて、ヨングは心底満足そうに笑っていたのを覚えている。
「キム……いや……偉大なる獅子王よ……俺のことは……生涯……恨んでくれていい……ただ……最期に、ひとつだけ……願いを……聞いてもらえるのなら……どうか、息子を……ジエンを頼む……シャンロンとダオレンの、未来のために……」
ヨングが共に囚われた妻子を人質に取られていることは分かっていた。
されど同時にヨングもまた、エレツエル人が敗戦国との取引など平気で反故にする酷悪な人種であることを、恐らくどこかで分かっていた。
だから彼はせめて幼い息子だけでもと、獅都にて替え玉と入れ替えた本物のジエンを戦場に連れてきていたのだ。今にして思えば彼の用意周到ぶりは、まるで最初から自分が敗れることを予感していたかのようだった。
「……分かった。ジエンは確かに俺が預かる。王国で最も誉れ高き一族の血は、必ず守り抜くと約束しよう。獅子王の名に懸けて」
何も知らずに眠る幼子を抱きながらキムがそう告げたとき、ヨングは笑いながら泣いていた。キムが涙を流したのも、あのときが最後であったように思う。
十数年ののち、逞しい青年へと成長したジエンは自ら志願してキムの右腕となった。やがて数多の死線をくぐり抜け、ダオレン家の名に恥じぬ武人となると、彼はまるで過日の父のごとく陰に日向に、ひたむきにキムを支え続けた。
そんなジエンをキムもいつからか、息子のように思っていたのだ。
けれども気づけば彼も歳を重ね、所帯を持ち、肉体の年齢はあっという間に不老のキムを追い越した。我が子のようだったはずの少年はいつしか、キムの父親かと誤解されるほどの老境に入っていた。
「……ジエン。俺はかつて、お前の父からひとかたならぬ恩を受けた。俺はもともと、王位を継ぐ意思も覚悟もさらさらない名ばかりの王子だったのだ。俺などよりよほど優秀なふたりの兄のどちらかが、父の跡を継ぐものとばかり思っていたからな。だがやがて父が死に、兄が死に……継承権など遠い昔に放棄したはずの俺に王の座が回ってきたとき、我ながら情けないことに、何をどうすればよいのか分からなかった。今日からお前が王だと言われたところで、どのように民を守り、導けばよいのか見当もつかなかったのだ。しかし、あの日……お前の父が俺に王としての自覚と覚悟を与えてくれた。幼いお前をこの腕に抱いたとき、俺はようやく、民を守るとはどういうことかをはっきりと理解したのだ。つまりお前とお前の父がいなければ、俺は王の何たるかも心得ぬ愚物のまま、多くの民を路頭に迷わせていたことだろう……俺がお前を預かり育てたのは、亡き友から受けたその恩に報いたかったからだ。ゆえにお前が、己を滅してまで俺に仕える必要はないのだぞ」
キムは過去に一度だけ、若かりし頃のジエンをそう諭したことがある。
父が王家に背いた罪の償いだとか、ダオレン家を庇護してもらった恩だとか、そんなもののために彼を縛りつけたくはなかったからだ。
ところがジエンは他ならぬ彼自身の意思で、生涯をキムに捧げることを選んだ。
そう、文字どおりの生涯を、己がすべてを擲って。
「……俺はそうまでして仕えるに値する王だったか、ジエン」
そして気づけばキムの意識はまた、獅都ティテムを望む丘の上にある。
されど傍らにいるのは記憶の彼方にいるヨングではなく、老いたジエンだ。
すっかり雪を被ったようになった髪を風に靡かせて、彼はただ微笑んでいた。
「お前にもいつか、この景色を……俺たちの故郷を見せてやりたかった。お前の忠勤に何ひとつ応えてやれず、すまなかったな、ジエン」
遠き都を見つめたままキムが独白のごとく呟けば、隣でジエンが首を振った気配があった。しかしこれが今生の別れだと分かっているのに、どうしても彼を振り向くことができない。何かを失う痛みなど、とうの昔に慣れ切って、もはや感じることはないと思っていた。誰も彼もが自分を置いて通りすぎていく。
ずっとそういう人生だったのだ。ゆえに恐れるものなどもう何も、どこにもないはずだった。けれども、今は。今だけは、
「キム様」
刹那、亡き故郷の幻に囚われたキムの耳もとで、最も長い時間を共に過ごした男の声が言った。
「あなたは某にとって仕えるべき王であり、人生の師であり、無二の父でありました。この命果てるまであなたのお傍にいられたことは、何ものにも代えがたき幸福です。ですから、キム様。どうかあなたも──」
望郷の丘に、光の帳が降り始めた。
美しき獅子の都も、なつかしい原野も、ジエンの最期の言葉さえ、すべてが光に呑まれてゆく。されど長年連れ添った主従の間には、それ以上何もいらなかった。
最後の瞬間、キムはついに消えゆくジエンを顧みて、告げる。
「さらばだ、ジエン」
あらゆる幻があるべき場所へ還るとき、ジエンはやはり笑っていた。
同じように、自分もうまく笑ってやれただろうか。
六十年ぶりの涙を覚られぬように。
● ◯ ●
第一医務室の前までやってくると、スウェインを廊下で待たせ、シグムンドは軽いノックののちに扉をくぐった。終業の鐘はとうに鳴っている。
しかしシグムンドが中へ入ると、そこにはランプの灯明かりの中で執務机に向かうナンシーがいた。今夜は医務室長である彼女が夜間の当直なのだ。
「失礼、プレスティ君。今、少々邪魔をしても構わんかね?」
「あら、シグムンド将軍。どうされたんです、こんな時間に?」
「いや、キムの件でいくつか確認したいことがあってな。彼の容態は?」
「相変わらずですわ。傷は治癒しましたし、体温もようやく平常に戻りましたけど、まだ目覚めません。あらゆる方法を駆使して延命してはいるものの、これ以上昏睡が続くようだとさすがに危険かと……」
「そうか……もう半月あまり眠ったままということだからな。わずかでも目を覚ます時間があれば、食事を取らせることもできるのだが」
「ええ……私が何か見落としているわけでなければ、身体的にはもうほとんど問題ないはずなのですけれど、それでもなかなか目覚めないのは精神的な理由かもしれませんわね」
「精神的な理由?」
「はい。私の勝手な推測ではありますが、ジエンさんが亡くなったことが相当こたえたのではないかと……」
「……」
「前にハミルトンから聞いた話によれば、ジエンさんはキムがアルハン傭兵旅団を立ち上げたときからずっと苦楽を共にしてきた間柄だったそうですわ。傭兵団創設当時の仲間で今も生き残っているのは、彼とキムだけだったと」
「……そうか。そうであろうな。ところで、プレスティ君。話は変わるが、キムの看護は君とモニカが専任してくれていると聞いた。間違いないかね?」
「ええ、それが何か?」
「いや、君以外の医務官が当直のときはどうしているのかと思ってな」
「ああ、他の当直医には、キムの容態が急変しない限り夜間の看護は不要だと伝えてあります。必要な処置はすべて、昼間のうちにモニカがやってくれますので」
「ほう、そうか。では君も直接目にしたか、モニカから聞いていると思うが」
「……何をです?」
「プレスティ君。夏にセドリックが無断で城を留守にしたときもそうだったが、君はずいぶん口が堅いようだ。医者とは皆そういうものかね?」
「……少なくとも患者の身上に関わることについては、本人の許可なく口外しないことにしています。これは当家が代々守ってきた教えであって、他の医者がどうかは分かりませんけれど」
「なるほど。長年、皇家の主治医を務め上げてきたプレスティ家ならではの伝統というわけか。ご息女がその教えを守り、医術の腕も矜持も一流の医師に育ったと知れば、お父上もさぞ鼻が高かろう」
「さあ……どうでしょう。医師としては一流でも、貴族令嬢としての務めからは逃げ回っている娘ですから、案外呆れているかもしれませんわよ」
「……お父上のことは、まだ許せていないのかね?」
「……」
「いや、すまない。つい込み入ったことを訊いてしまったな。今、君に確認したいのはあくまでキムのことだ」
「……驚きました。セドリックから聞いてはいましたけれど、本当に何でもお見通しですのね、シグムンド将軍」
「買い被りだ。キムの件については、ジエン殿の遺書がなければ最後まで突き止められなかったであろうしな」
「ジエンさんの遺書? そんなものが出てきたんですか?」
「うむ。ゆえに私もすべて承知している。その上で城の医務官たちがどこまで事情を察しているのか、まず把握しておきたかったのだ」
「……そういうことでしたか。なら、これ以上はとぼけるだけ無駄ですわね」
そう言って嘆息をついたナンシーは、豊満な胸の下で組まれていた腕をほどいて〝降参だ〟とでも言うように両手を挙げた。そうして苦笑した彼女は、シグムンドを迎えた際に離れた席に再び座り、ふと自らの胸の谷間に指を入れる。
そこには彼女の首から下がった首飾り──ではなく小さな鍵が潜んでいて、ナンシーはそれを使って執務机と一体化した引き出しの鍵を開けた。中にはいくつかの診療簿が保管されているようだが、シグムンドは妙だな、と思わず小首を傾げる。
「プレスティ君。診療簿の棚ならあちらのはずだが、そこにあるのは?」
「……こちらはいずれも特別な患者の診療簿です。たとえばアンゼルムとか、セドリックとか」
「ほう。つまり我が隊の将官以上の者の診療簿、ということかね」
「いいえ、少し違いますわ。より正確には、秘密を知られては困る患者の診療簿です。セドリックは言わずもがなですけれど、アンゼルムも幻錯胸痛症の件がありますでしょう?」
「ああ。しかし彼は、幻痛症の他に既往症はないと聞いているが?」
「問題はその幻痛症ですよ。あの病の発症者に特定の薬物を摂取させると、人為的に発作を起こすことができるんです。普段は他の病の治療に使われる薬物が、幻痛症の患者にとっては毒になる、ということですわ」
「……なるほど。そういえば君は以前〝幻痛症という病は黄皇国ではほとんど知られていないから、周囲には過労ということで説明しておけ〟と助言していたな。あれはもしや、アンゼルムの身を案じてのことか?」
「ええ。幻痛症は近年神領国で解明されたばかりの病で、黄皇国ではほとんど知られていないというのも事実ですけれど、彼を疎ましく思っている人間もみんな知らない、という保証はどこにもありませんでしょ?」
「……確かにな。だがそういう情報は、今後はもう少し早めに共有してもらえると助かる」
「申し訳ありません。叶うことならこの情報自体、あまり広めたくなかったものですから……」
「『知る者が少なければ少ないほど秘密はよく守られる』か?」
「ええ。ですが将軍のことを信頼していないわけではありませんのよ?」
そう言ってくすりと妖艶に微笑むと、ナンシーは引き出しから取り出した一冊の診療簿を渡してきた。患者名の欄にはキムの名前が記されている。
「キムの背中に刻まれた神刻のことは、三頁目に記述してあります」
と、ナンシーは言った。
「医務室へ運び込まれてきたときには、呪刻の下に隠れていたため発見が遅れたようです。最初に神刻の存在に気がついたのは、キムの体を拭こうとしたモニカですわ。彼女にはその場で決して口外しないようにと指示を出し、以降、私とモニカ以外の人間は誰も、キムの体には触れさせていません」
……まったく、実に聡明な判断だった。シグムンドはナンシーの説明に無言で頷くと、彼女に教えられた診療簿の三頁目に目を通してみる。
──患者の背部に未知の神刻を発見。名称不明。神刻は患者の脊柱上部に刻まれており、形状は獅子の横顔を象ったもの。黄金色を呈し、解読不能の文字の羅列あり。この文字も神刻の一部のようで、恐らく古代文字の類と推測される。類似する神刻の情報なし。古代文字の解読を帝立オリアナ学院に依頼すべきか検討中。
いかにも女性らしい、細く流麗な筆跡で綴られた神刻の特徴は、ジエンの遺書に記されていたものと見事にぴたりと一致した。
『獅子王刻』。
六十年前、アルスラン獅子王国が滅ぶまで、かの国の王を代々選出してきたという唯一無二の神刻である。これは比喩でも何でもなく、ジエンの述懐によれば獅子王国では先代の王が没すると、獅子王刻が次の王に選んで自然とその身に宿るのだという。まさに王権神授説の真髄とでも言うべき王家の在り方だ。
だが獅子王刻に選ばれた者は通常、竜と同程度の寿命──二百年~三百年と推定される──を得るらしく、ひとりの王の在位が非常に長引く傾向があったらしい。
ゆえに獅子王国では王家に連なる血筋の者が成人を迎えると『選王の儀』と呼ばれる試練に挑むことが許される。そして無事に試練を突破し、次代の王たる資格を示せば王位が譲られるという形で禅譲が行われていたのだという。
(しかし獅子王国の王家に生まれた者が皆、必ず試練を受けねばならぬというわけではない。『選王の儀』に臨むか否かはあくまで本人の意思に委ねられ、当初、キムは儀式への挑戦を放棄……つまり自らの意思で王位継承権を手放したと、ジエン殿の遺書にはそう書かれてあった)
そう。すなわちキムは六十年前、エレツエル神領国に滅ぼされたアルスラン王家の生き残りだ。しかも先王──すなわちキムの父の他、キム以外の王族がエレツエル人に鏖殺されると、獅子王刻は唯一生き残った王子の背中に忽然と現れ、彼こそが新たな王だと万民に知らしめた。
ゆえにキムは亡命を望む民を率いてかつての獅子王国領を去り、紆余曲折の果てに傭兵団を名乗って民の食い扶持を稼ぐようになったのだという。
(今回、キムが襲撃された理由もそこにある。彼はもともとアルスラン王家の生き残りとしてエレツエル人に追われていた。王が生きている限り、獅子王国再興の火種が消えることは決してない。神領国はその火種が再び燃え上がり、死んだはずの獅子に命を吹き込むのを何としても阻止したいのだろう)
とすればサラーレでキムを襲撃し、ジエンの命を奪った集団の正体はやはりエレツエル人だ。建国以来、神領国と険悪な関係が続く黄皇国では、神領国側のあらゆる工作を察知し撥ね除けるための防諜対策が敷かれている。
よって神領国の間者が黄皇国内に入り込むことは容易ではないはずなのだが、それを裏で手引きし、可能にしたのが例のミクマス商会なのだろう。
「……なるほど。君の機転に感謝しよう、プレスティ君。ちなみに、キムの背中にあるアレが何であるのか、君も正体を知りたいかね?」
「いいえ、せっかくですけれど遠慮しますわ。秘密の神は『秘密とは鉛よりも重く増えれば増えるほど持ち切れなくなる』……とも仰せでしたでしょ?」
「ふふ……賢明な判断だ。君はセドリックの秘密を共に抱えてやるだけで手一杯であろうしな」
「ええ、まったくおっしゃるとおり、あの暴れ馬には手を焼いているんです。ちなみに今回の件については、セドリックにも伏せてありますからご心配なく。モニカにも引き続き、他言しないよう言い含めておきますので──」
「──おい、待て、止まれと言っている! 室長はいま取り込み中だと……!」
ところが刹那、扉の外から夜の静寂を打ち砕く怒声が聞こえた。
あれはシグムンドが聞き間違えるはずもない、スウェインの声だ。
彼が平時に声を荒らげるなど、只事ではない。瞬時にそう判断したシグムンドの脳裏に予感が走った。あまりにも不吉でありながら、ほとんど確信に近い予感だ。
「プレスティ君、下がっていたまえ」
扉を振り向いてそう告げるが早いか、シグムンドはキムの診療簿を再び彼女の手に委ね、すかさず腰の剣へ手をやった。而してそれを引き抜くと同時にスウェインのにぶい悲鳴が聞こえ、外から扉が打ち破られる。
「シグムンド様! 敵襲です……!」
と叫んだのを最後に、スウェインは血飛沫を上げて頽れた。
背後から彼を襲った何者かが、スウェインの背中を容赦なく斬り裂いたのだ。
しかも襲撃者は一人ではない。倒れ込んだスウェインの後ろから現れたのは、一人、二人、三人──計五人の不審者。彼らは皆一様に黄都守護隊の隊服に身を包んではいるが、恐らく隊の者ではない。においで分かる。
コレは明らかに、闇と血溜まりの中で生きてきた殺人者のにおいだ。
「エレツエル人……いや、《兇王の胤》か」
シグムンドが青鈍色の瞳を細めてそう吐き捨てたのと同時に、虚のごとき眼をした先頭のひとりが踏み込んできた。
その踏み込みに合わせて、シグムンドも下段に剣を構える。
《兇王の胤》。
彼らこそエレツエル神領国の誇る、熟練の暗殺者集団だ。




