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15.ひとときの夢であれ


 亜竜はエリクが思っていたよりずっと好戦的な生き物だった。

 草食動物の馬と違って、生まれたときから捕食者としての本能を備えているからだろうか。とにかく一度敵と見なした相手には容赦がなく、追い払うまで繰り返し襲いかかっていく。乗り手のエリクが命じずとも、己の判断で標的に執拗な攻撃を仕掛けるのだ。おかげでエリクは鞍から振り落とされないようにするので精一杯だったが、自ら剣を振るうまでもなくファリドのことは亜竜(かれ)が追い払ってくれた。

 竜人(ドラゴニアン)と同等の巨躯(きょく)と硬い(うろこ)、そして凶暴性を兼ね備えた生き物を真正面から迎え討つのはさすがのファリドも分が悪いと判断したのだろう。

 最初の一撃をエリクに邪魔された時点で、渾身(こんしん)の奇襲も失敗に終わっていたし。


「助かったぞ、エリク。あのとき君が駆けつけてくれなければ、私は今こうしてここにいなかったかもしれん。しかしよくファリドが奇襲を仕掛けてくると分かったな。てっきり君も我が軍と共に前線に出ていると思っていたのだが」

「ええ。ですがその前線に王子の姿が見当たらなかったので、これはおかしいと思い引き返しました。王子の今までの言動を(かんが)みるに、安全な場所に隠れて戦の指揮を執っているとは思えませんでしたし……何より王子の目的はガルテリオ将軍と直接対決することです。通常の指揮官ならばまずありえない行動ですが、我々の常識はシャムシール人には通用しませんから」

「なるほど。ゆえにファリドの考えが読めた、か。まったく大したものだ。太陽の村の戦士というのは皆、君ほどの年齢でここまで優秀なものなのかね?」

「私が優秀かどうかは計りかねますが、我が郷出身の戦士たちは貴国に比べると非常に原始的な生活を送っています。数百年前から変わらず森と共に生き、物心つく頃には戦う術を叩き込まれて育つのです。ですのでごく一般的な人々よりは()()()()かと……グアテマヤンの森では危機察知能力の低い者は生き残れませんから」


 エリクが故郷を覆う亜熱帯の森を脳裏に思い描きながら苦笑すれば、机の向こうで床几(しょうぎ)に腰を下ろしたガルテリオが低くうなった。

 彼が肘をついた机の上にはマクランス要塞の俯瞰図(ふかんず)と火入りの燭台、そしてここイーラ地方の名産だという麦酒(エール)が注がれた杯が置かれている。

 マクランス要塞奪還戦、一日目の夜。

 ガルテリオ率いるトラモント黄皇国(おうこうこく)中央第三軍は結局日没までに本塞正門を突破すること(あた)わず、塞内からの一時撤退を余儀なくされた。ファリドら砂王国軍(さおうこくぐん)は未だ本塞に()()もり、第三軍の攻撃に対して強硬な抵抗を続けている。

 要塞(ここ)を追い出されたら彼らは身を守るものなど何もない砂漠へ放り出されるわけだから、一日でも長く(とりで)に食らいつこうと必死なのだ。おまけにマクランス要塞内には黄皇国軍が蓄えていた武具や矢種、兵糧の類が潤沢に保管されている。


 ゆえに敵勢は籠城(ろうじょう)し放題。これを手強いと見たガルテリオは夜間の戦闘継続を断念し、一度要塞の外へ兵を引いた。日中のファリドの奇襲を受けて、視界のきかない日没後に障害物だらけの市街地をうろつくのは危険だと判断したのだろう。

 エリクは現在そうして設けられた野戦陣地の本陣にいる。

 マクランス要塞の城門から二(アナフ)(一キロ)ほど東へ離れた総大将(ガルテリオ)の天幕だ。

 時刻は既に深夜を回っている。エリクはつい半刻(三十分)ほど前まで、陣地のはずれにあてがわれた小さな天幕で眠る準備を整えていたのだが、着替えを済ませたあたりでガルテリオから呼び出しがかかった。どうやらガルテリオやシグムンドといった上級将校たちはこんな時間まで要塞攻略のための軍議に明け暮れていたらしく、それが終わるや否や彼の幕舎へ招かれたのだ。


 使い番の訪問を受けたエリクはまさか「疲れているので今夜はもう寝ます」と大将軍の呼び出しを拒むわけにもいかず、言われるがまま本陣まで(おもむ)いた。

 招き入れられた幕舎の中にいたのは、この軍の主であるガルテリオと副官のシグムンドだけだった。何でも昼間ファリドの奇襲からガルテリオを守った功績をねぎらいたいとかで、ふたりは酒を用意してエリクを待っていてくれたのだ。

 無論いまは戦の真っ最中だし、砂王国軍による夜襲の心配も皆無ではない。

 ゆえに一杯だけだと念押しされたが、ガルテリオに手ずから酒を注がれたエリクは恐縮して杯を受け取った。イーラ産麦酒と呼ばれるらしいその酒は、さっぱりとした苦味の奥に果物に似た微かな甘味を感じる非常に飲みやすい酒だった。

 エリクは麦酒というのがあまり得意ではなかったのだが、これなら何杯でもいけそうだ。というか同じ麦酒でも列侯国(にし)黄皇国(ひがし)でここまで味が違うものなのだなと感心した。列侯国で生まれて初めて口にした麦酒は苦味が深く、どこか香辛料に似た香りがしてエリクの舌には馴染まなかったから。


「だが驚いたことは他にもある。君が初めての騎乗にもかかわらず、亜竜を完璧に乗りこなしていたことだ。あの亜竜という生き物はとても気難しくてな。己が主人と認めた相手以外は決して背に乗せぬし、無理矢理従わせようとすればたちまち牙を剥いてくる。そんな生き物を一体どうやって手懐(てなづ)けた?」

「いえ、特別なことは何も……ただ私は城壁を登攀(とうはん)する際に馬を置いてきておりましたので、来た道を急ぎ引き返すには別の馬が必要でした。そこで前線に出て乗り手とはぐれた馬を一頭お借りしようと思ったのですが、たまたま竜騎兵が竜人に噛み殺される現場に遭遇しまして……」

「だから馬ではなく亜竜に(また)がった?」

「はい。乗り手を失った亜竜も竜人に襲われそうになっていたので、とっさに救い出しました。そうしたら彼がじっと私を見つめて〝乗れ〟と言いたげに背中を向けてくれたのです」

「ほう……聞いたか、シグ。主人を失った亜竜がこれほど早く次の乗り手を受け入れるというのは、竜騎兵団創設以来初めての事例やもしれんな」

「ええ。しかし仲間意識の強い亜竜の生態を思えばありえない話ではないかと。アンジェ様の研究によれば、亜竜は人間の五、六歳児にも相当する知能を持っているとか。とすれば自らの命を救ってくれた恩人を〝仲間〟と認識したとしても、何ら不思議な話ではございませぬ」

「アンジェ様というのは?」

「ああ……アンジェは私の亡き妻だ。彼女はかつてこのルチェルトラ荒野で砂漠の民と共に暮らし、亜竜の生態研究をしていた生物学者だった。もっとも亜竜の研究はあくまで()()で、本職は考古学の方だといつも(うそぶ)いていたがな」


 未だ酒が残る銅の杯を手もとで(もてあそ)びながら、なつかしそうに瞳を細めてガルテリオが言った。そこで初めて彼が既婚者だったことを知り、エリクは目を丸くする。いや、ガルテリオの年齢ならむしろ妻子がいた方が自然だが、しかし奥方はもう亡くなっているのかと、エリクはそれ以上の言及を慎んだ。

 しかしガルテリオは結婚石──夫婦が婚姻の証として身につける、ひとつの宝石をふたつに加工した装飾品──を所持しているようには見えないし、奥方と何か不和でもあったのだろうか。そう言えば昼間ファリドが、ガルテリオはかつてこの地に住んでいた民を皆殺しにしたとか何とか、そんなことを喚いていたような気がする。あれは一体どういう意味だったのだろう? 少なくともエリクには、目の前の男が私利私欲のためにひとつの民族を根絶やしにするような人物とは思えない。

 きっと竜騎兵団創設の陰には、異邦人のエリクには推し量れないほどの苦労や障害が多々あったのだろう……とエリクが思いを巡らせていると、ときにひとりだけ酒を飲まず、粛然(しゅくぜん)とガルテリオの背後に控えたシグムンドが口を開いた。


「ガルテリオ様の結婚石ならば鎧の下だ」

「え?」

「石を指輪や耳飾りにしたのでは戦場で紛失するおそれがあるのでな。我々のような軍人はそうなることを防ぐために、鎧の下に収められる首飾りやロザリオの形を選ぶ者が多い。ガルテリオ様もそのおひとりだ」

「え、えっと……もしかして私、今、思ったことを口に出していましたか?」

「いいや? しかし明らかに結婚石の()()を気にしている様子だったのでな。心配せずとも、生前のアンジェ様とガルテリオ様は夫婦円満であられた」

「ははは、シグ。そうやって人の心を読むのも大概にしておけといつも言っているだろう。せっかくの酒の席だというのに、エリクが青い顔をしているではないか」

「ですが彼が亡きアンジェ様のお名前を出してしまったことを気に病んでいる様子でしたので。今のはほんの親切心です」

「そういうのは〝親切心〟ではなく〝老婆心〟と言うのだ。まったくお前の読心術ときたら、それこそ妖術の域だな。だからどこへ行っても不必要に恐れられる」

「お言葉ながら、私ごときに易々と胸中を覗かれる方にも問題があるかと。そもそも彼らが本当に恐れているのは私の読心ではなく毒舌の方でしょう」

「自覚があるなら少しは自重しろ。お前の皮肉は心臓に悪い。ひそやかに私の寿命を縮めようと画策しているなら話は別だがな」

「……なるほど。その手がありましたか」

「おい、エリク。近々私の身に何かあったら、ファリドよりもまずシグムンドを疑ってくれ」


 ガルテリオが呆れ果てた顔でそんなことを言い出すので、エリクは思わず笑ってしまった。余人の目がないところだとこのふたりはいつもこんな調子らしい。

 しかしガルテリオが言うのとは別の意味で、シグムンド・メイナードという男は要注意人物だなとエリクはこっそり心に書き留めた。

 彼のことはもともと切れ者だと感じていたが、予想を超えて切れすぎる。

 シグムンドの鋭い眼差しの前では、どんな他愛ない嘘もただちに見抜かれ丸裸にされてしまいそうだ。これから彼の前での言動には今まで以上の注意を払おう……と肝に銘じつつ、エリクはあと半分ほど中身の残っている杯を口に運んだ。


 かなりしっかりとした骨組みが組まれ、天井から垂れた布が真円を描くガルテリオの幕舎の外では哨戒(しょうかい)の兵が互いを呼び交わす声がしている。

 奇襲を繰り返す砂王国軍への備えとして、今夜は歩哨(ほしょう)篝火(かがりび)の数をいつもの倍にしているのだと先程ガルテリオが言っていた。

 無論、一度は確保した要塞外郭の城門も今は黄皇国軍が死守している。日が昇れば再び攻撃の狼煙(のろし)は上がり、明日も苛烈な戦闘が待ち受けているのだろう。

 そう思うと漠然とした不安が胸に広がり、エリクは手の中の杯を机上へ戻した。


「……ですが妖術と言えば、ずっと気になっていることがあります。マクランス要塞が()ちたときもそうでしたが、砂王国軍の動きが一部読めません。彼らは一体どこから現れてどこへ姿を消したのでしょうか。昼間、ガルテリオ将軍のお命を狙った奇襲が失敗に終わったあと、ファリド王子がどこへ逃げたのかは結局突き止められなかったのですよね?」

「ああ。ファリドに付き従っているシノビが用いていたあの煙幕……あれに視界を遮られている間にやつらは忽然(こつぜん)と姿を消した。付近の家屋も探索したが、潜伏の痕跡は何ひとつ見つけられなかったという。にわかには信じ難い話だが……」

「シノビが使う妖術……かとも思いましたが、いくら何でも術の規模が大きすぎるように感じます。私の故郷にも妖術使いの巫女がおりますが、優に二百年近く生きている彼女ですらあそこまでの術は使えません。彼らの移動手段が分からない以上、戦闘が長引くのはあまり好ましくないのではありませんか?」

「確かに君の言うとおりだ。やつらが使う奇術の正体を突き止めぬ以上、我が軍はいつどこから砂賊(さぞく)どもの強襲を受けるとも分からぬ。このまま戦が長期化すれば我らはいいように振り回され、消耗を余儀なくされるだろう。だがな……」


 とそこまで答えて、ガルテリオは不意に難しい表情を作った。彼は杯の中で揺れる麦酒を睨み、しばし沈黙したのち物憂(ものう)いため息をついて言う。


「やつらと短期で決着をつける方法ならばひとつある。神術部隊を総動員して本塞の城壁を破り、(とりで)の中へ雪崩(なだ)()むというものだ。さりとてそれもあの奇術の種が分からねばかえって悪手となりかねん。仮に砂賊どもが姿を隠したまま自由に市街地へ出入りできるのだとすれば、城壁を失った塞は裸同然だからな」

「なるほど……本塞内に突入したところを市街地(うしろ)から襲われたら、最悪の場合こちらが袋の(ねずみ)になってしまうというわけですか。狭い塞内での戦いとなると、兵力の多寡(たか)もあまり活かせませんしね……」

「そのとおりだ。ゆえに明日は一日様子見と決まった。適度に攻撃を仕掛けつつ砂王国軍の動きを注視し、やつらの神出鬼没の原因を突き止める。どうしても対策が見出せぬ場合には城壁の強行突破も視野に入れねばならぬがな。エリク──我々は君に期待している。何か気がついたことがあれば遠慮はいらん、いつでも報告に来てくれたまえ」


 かけられた言葉に頷き、エリクは「私でお力になれることがありましたら」と付け足した。次いで間髪入れずに酒を(あお)ったのは、ガルテリオの力強い瞳にまっすぐ見据えられると自分という名の一本の塔がぐらりと揺らぐ気がしたからだ。

 ゆえに「では今夜はもう遅いので」ともっともらしい理由をつけて、エリクはガルテリオの眼差しから逃れた。床几から腰を上げ、(いとま)を告げたエリクをガルテリオたちも頷いて見送ってくれる。

 うまい酒を振る舞ってもらったことへの礼を言い、エリクは幕舎をあとにした。

 入り口に佇むガルテリオの従卒たちにも目礼し、案内に立とうとした兵の親切を鄭重(ていちょう)に断って、陣地のはずれにある自らの天幕を目指す。

 頭上には満天の星がきらめく夜空。地上には荒野を埋め尽くさんばかりの無数の篝火。その光の狭間を縫って歩きながら、エリクは思わずため息を落とした。

 こうして幕舎を離れた今も、ガルテリオから注がれた炎のごとき眼差しを思い返しては心臓が早鐘を打っている。


「君に期待している、か……」


 最後にかけられた言葉をぽつりと反芻(はんすう)し、エリクは舞い上がりそうになる自分と困惑している自分、ふたりの自分の間で眉を寄せた。ガルテリオのような英雄に働きを認められ、一目置かれるのは戦士として素直に嬉しい。だがそうしてどんどん彼の人柄に惹きつけられていく自分に戸惑いを禁じ得ない。

 ここならば──彼の傍でなら叶うのかもしれない。

 長年胸に秘めてきたひそやかな夢が。


 エリクの父ヒーゼルは、クィンヌムの儀に出て赴いたルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)でひとりの英雄と出会った。もともと剣才目覚ましかった父は彼に師事することで栄光を掴み『雷雄(らいゆう)』という二つ名と共に人々の記憶に刻まれた。

 そして晩年、口癖のようにこう言っていたのだ。


 ──エリク。お前もいつか郷を出て、この人こそ自分の魂の(あるじ)だと思える人に出会えたなら迷わずついていけ。その先に人生の答えがある。


 だが決して俺のようにはなるな、と。


「……」


 星明りの下。エリクは無意識のうちに立ち止まり、列侯国を出てから肌身離さず懐に入れている一通の手紙を取り出してみる。封筒の表書きには亡き父の名前。

 かつて父が恩師と仰いだ人から、父の墓に届けてほしいと頼まれた手紙。


 ──俺のようにはなるな。


 もう一度父の言葉が脳裏に(よみがえ)った。父の人生はあまりに波瀾万丈で、だからこそ息子に同じ(てつ)を踏ませたくはなかったのだろうとエリクはそう解釈している。

 しかしあの言葉は同時に、父の背中を超えてゆけという期待を帯びてはいなかったか。いつしかエリクはそう考えるようになり、そして願った。

 父が列侯国で果たせなかった夢を、自分がこの手で叶えたいと。


(そうすれば父さんやあの人の無念が晴らせるんじゃないか、なんて……夢見がちにもほどがあるかな)


 乾いた風が吹き、エリクの手の中の手紙をカサカサと揺らす。そこに記された父の名が風に(あお)られ、ひしゃげるのを見てエリクは胸が苦しくなる。


(父さんは正しかった。俺の手でそう証明したい。けど、俺には(カミラ)が……)


 夢を追いかけようと思ったら、自分は妹をたったひとりで置き去りにすることになる。それだけはできない、とエリクは手紙を(しま)いながら嘆息をついた。

 父も母も失った今、エリクにとって妹のカミラはたったひとりの大切な家族だ。

 三年前、突如として父を奪われ、絶望の淵に立たされたエリクの唯一の希望がカミラだった。彼女がいたからこそエリクは父を失った悲しみにも耐えて生きようと思えたのだ。何より自分は父と約束した。妹のことは何があっても必ず守る、と。


(そのカミラを郷にひとり残してはいけない……よな)


 今も故郷で自分の帰りを信じて待っているのだろう妹のことを思うと、エリクは一刻も早く帰らなければという焦燥に駆り立てられた。

 これ以上彼女に孤独な想いはさせたくないし、何なら長らくひとりきりにしてしまった詫びに、今すぐにでも飛んで帰って抱き締めてやりたい。

 自分の夢と最愛の妹。どちらがより大切かと()かれたらエリクは迷わず後者を選ぶ。エリクにとってカミラはそれほどまでにかけがえのない存在なのだ。だから──と自分に言い聞かせ、今度はひとつ、吐いた分の息をすうっと吸った。


(さっさとこの戦いにけりをつけて帰ろう)


 シャムシール砂王国の放蕩王子(ほうとうおうじ)を、トラモント黄皇国の常勝の獅子と共に撃退した。そんな実績が残せればクィンヌムの儀に課せられた目標は達成できるし、エリクにとってもいい思い出になる。その記憶だけ大切に脳裏に焼きつけて、あとは故郷へ帰ればいい。たとえ一時だけでもガルテリオたちと共に戦えた僥倖(ぎょうこう)に感謝しながら、余生は森の奥の愛する故郷で過ごすのだ。

 腐敗に(むしば)まれつつあるという黄皇国の行く末が気にならないと言えば嘘になるが、ここにはガルテリオやシグムンドのような男たちがいる。

 彼らが国の一翼を担っているうちはきっと黄皇国も安泰だろう。


 どちらにせよ、ルミジャフタのような辺境から出てきた異邦人にできることなどたかが知れている。エリクにできるのはここで砂王国の侵攻を食い止め、ガルテリオたちに黄皇国の未来を託すことくらいだ。彼らにはラヴィニアやシュレグのような善良な民たちが、安心して幸せに暮らせる国を取り戻してもらいたい。

 そう願いながら、エリクはようやく帰りついた天幕の入り口をくぐった。

 地図を広げられるほど大きな机や寝台を並べても、まだ広々としていたガルテリオの幕舎とは比ぶべくもない質素な寝床だ。上端を交差させたふた組の柱に(はり)をかけ、布を被せただけの天幕は人がひとり横になるだけの空間しかない。

 おまけに天井は屈まなければ立っていられないほど低く、これこそ自分にふさわしい待遇だよなとエリクは苦笑した。運よくガルテリオに信頼され、手ずから酒まで注いでもらったあれは一時の夢にすぎないのだ。だから思い上がるのはよそうと改めて言い聞かせながら、地面に布一枚敷いただけの寝床に横になろうとした。火の入った自前の角灯を枕もとに置き、次いで剣を外そうと腰の革帯へ手をかける。


「エリク」


 そのとき不意に名前を呼ばれた。

 簡素な寝床に腰を下ろしたエリクの正面、かなりの至近距離からだ。

 ぎょっとして顔を上げ、そしてエリクは目を疑った。

 そこには音も気配もなく、いつの間にか真白い少女が佇んでいる。



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