158.人でも神でも魔物でもないもの
「郷に入っては郷に従え、という言葉がある」
と、サユキはまずエリクたちにそう前置きした。
「大陸の言葉では確か『水を飲んだら礼に従え』と言うんだったか。その言葉になぞらえるなら、私はトラモント黄皇国の水を飲んだ日から、トラモント人の礼に従うことにした。だから今まで特に口出ししてこなかったが──大陸の信仰というのは、狭霧人からするとまったくもって不可解だ。何故ならお前たちは二十二ノ天ツ神ばかりを崇めて國ツ神を蔑ろに……いや、そもそも存在を認知してすらいないのだから」
時折サユキの忍術をもってしても翻訳されずに届く言葉は、どうやら倭王国──またの名を狭霧国──にのみ存在する概念を表すもののようだ。
ゆえに解説を求めれば、サユキの言う〝ハタタヒノアマツカミ〟とは倭王国において、エリクたちの知る二十二大神に相当する神々なのだという。
そもそも〝ハタタヒ〟とはサギリ語で〝二十二〟を、〝アマツカミ〟とは〝天界の神々〟を指す言葉であり、さらに倭王国には〝クニツカミ〟と呼ばれる、アマツカミとは別の神々が存在する。サユキはそれを、
「坤輿を創り給うた神々だ」
と言い、
「この國ツ神の力の源を〝地祇〟という」
ともつけ加えた。
「え、えっと……では倭王国には天界の二十二大神の他に、大地の神々と呼ばれるまったく別の神族が存在するということでしょうか? 二十二大神の眷族である五十六小神ではなく?」
「ああ。そもそも國ツ神は五十六なんて数じゃきかない。八百万……つまり数え切れないほど多くの神々だ。これに対して天ツ神は〝外来の神〟ともいう。天ツ神はもともと坤輿には存在しなかったが、ある日『高天原』と呼ばれる空より高いところからやってきて、國ツ神と大地を巡り争ったから……というのがその由来だ」
「か、神さまと神さまが、地上世界の覇権を争った戦い……まるで神界戦争だね」
「同じ戦いを指す神話なのかどうかは知らないが、この神々の戦いを狭霧では『神遣らいの大戦』と呼ぶ。そして狭霧国では國ツ神が戦いに勝利を収め、天ツ神は海の向こうへ放逐された。しかしあるとき、今度は根ノ国と呼ばれる異界から大禍ツ神が現れて、狭霧は一度滅びかけたんだ」
「オオマガツカミ?」
「お前たちの言葉で言うなら『邪神』、あるいは『魔王』だな。だが國ツ神の力だけでは抑え切れなかった大禍ツ神も、天ツ神の力を借りれば封じられると分かり、國ツ神は天ツ神を狭霧の地へと呼び戻した。そうして大禍ツ神の討伐に成功し、以後、狭霧国では天ツ神も國ツ神も平等に祀られるようになった……というのが、まず話の大前提だ」
と、大陸で信じられているのとはまったく異なる倭王国の神話を聞かされて、共にサユキの講義を受けるコーディやモニカは揃ってぽかんと絶句していた。
が、エリクはサユキが何気なく発した〝魔王〟という単語に思わずぴくりと反応し、膝の上に置いた手を握る。イヴの襲来から一夜明けた命神の月、金神の日。
午後になってようやく体調が持ち直したエリクは、モニカの許可を得て寝室に皆を集め、昨夜の出来事について話し合っていた。
そこでエリクが気になってサユキに尋ねたのが、彼女がイヴに向かって放っていた〝モノノケ〟という言葉の意味だ。サユキは以前から魔物のことを〝アヤカシ〟というサギリ語で呼んでいるが、昨夜のイヴとのやりとりを聞く限り〝モノノケ〟は〝アヤカシ〟とはまた別の定義を持つサギリ語のようだった。
「狭霧国では根ノ国の住人を〝妖〟と呼び、それ以外の異形は総じて〝物ノ怪〟と呼ぶ」
と、サユキは言う。
「そして物ノ怪の多くは、國ツ神の成れの果て……もとは神として崇められる存在だったものが、瘴気を浴びたり、忘れ去られたりして乱心し、人に危害を加えるようになった姿だという」
「えっ……つ、つまり神さまが魔物みたいな悪い存在になっちゃうってこと? そんなことがありえるの?」
「少なくとも狭霧国ではある。國ツ神の多くは社や祠といった斎場を与えられ、そこに留まることで人々の信仰を集めるが、祀る者が絶えると徐々に力を失い、やがて穢に染まってしまうんだ」
「……ということは、クニツカミは人々の信仰によって、彼らを異形に変えるケガレから守られている、ということか?」
「うむ。これは天ツ神にも言えることだが、神々の力というものは、どれだけ人に信仰されているかによって変わってくる。百人の民が崇める神と十人の民が崇める神とでは、前者の方がより強く大きな神となる、ということだ」
「え、ええっと……それって何だか、神術の法則と似ていますね。神術の威力や効果も、術者の信仰心の強さによって変わるというのが定説ですから」
「言われてみれば確かにそうだね。だから信仰されなくなった神さまは逆に力が弱まって、瘴気みたいな悪いものに負けちゃうのか……まるで免疫の話みたい」
「だが、サユキ。お前は昨日、イヴのことも〝モノノケ〟と呼んだだろう。あれはどうしてだ?」
「簡単なことだ。やつの気配は明らかに人間とは異なっていた。かと言って妖のような瘴気のにおいもなく、姿形は人間そのもの……ならば消去法で大陸の物ノ怪だろうと思ったまでだ。やつは自らを天神の使いだ何だとのたまっていたが、狭霧では天ツ神の御使いは白蛇や白狐といった白い獣の姿で現れると言われているしな」
「えっ? 神々の使いと言えば、人の姿に翼の生えた天使ではないのですか?」
「いや。二十二大神は、大陸では人の姿で描かれることが多いようだが、狭霧ではみな獣の姿をしている。人の姿で描かれることが多いのはむしろ國ツ神の方だ。おまけに二十二という数字は同じでも、神名はまるで違うしな」
「に、二十二大神が獣として描かれるだなんて……そうなると、確かに神さまの数や一部の神話は一致するけど、実は全然違う神さまだったりするのかな?」
「さあな。一応二十二ノ天ツ神の中には、大陸の神と存在が対になっていそうなものもいるが……たとえば日輪の神である玖太鷄神とか、生死を司る戔毎鼠神とか」
「ほ、本当に全然違う名前ですね!? 役割的には太陽神や生命神に当たる神なのでしょうが……」
「ちなみに、倭王国のシェメッシュさまはどんなお姿をしてるの? 大陸ではシェメッシュさまの神璽が《太陽を戴く雄牛》なのにあやかって、雄牛をシェメッシュさまに見立てることもあるけど……」
「玖太鷄神は、名前のとおり鶏だな。朝が来ると狭霧国にいるどの雄鶏よりも先に日の出を告げるという、黄金の一番鶏だ」
「し、シェメッシュ神が雄鶏……!? で、ではもしや黄皇国では牛肉を食べることが禁じられているように、倭王国でも鶏肉を食すことが禁じられていたり……?」
「いや。それを言ったら他にも鹿の神や猪の神、熊の神などもいるが、どれも普通に狩って食うぞ」
「わあ。ほ、本当に異文化なんだねえ……」
と、感心しているのか怯えているのかよく分からない反応を示すコーディとモニカを後目に、寝台の上のエリクはじっと考え込んでいた。〝モノノケ〟──あのイヴと名乗る少女の姿をした何かが仮にサユキの言うとおり、人でも神でも天使でもないとするならば、エリクもやはり〝魔物〟と呼ぶのが最もふさわしいような気がする。地の底にあるという魔界の住人とは存在を異にする魔物だ。
(だから族長様もイヴを見て〝白い魔物〟だと言ったのだとしたら納得できる……アレはどう考えたって神の使いなんかじゃない)
今朝、意識を取り戻した瞬間から、ずっとエリクの脳裏にこびりついて離れないひとつの予感。それほどまでに昨夜目にしたイヴの言動は邪悪で禍々しく、いま思い返してみても背筋が凍る思いがした。
おまけに彼女はエリクの前に現れるときにはいつも人形じみて白い肌に純白の貫頭衣をまとい、さらに言えば髪の色もほとんど白に近い。
そしてエリクの知る限り、魔界の住人に白い姿のものなど存在しないのだ。
瘴気に満ちた魔界で暮らす魔物たちは、血液すら真っ黒に染まるほどの穢れにまみれている。ゆえに族長も父を殺した犯人を〝白い魔物〟という特異な表現で言い表した──そう考えればすべての辻褄が合ってしまうような気がする。
(いや……しかしイヴは、父さんを殺したのは〝赤い髪の魔女〟だと……あれは俺を騙すための嘘だったということか? だとすればそもそも〝赤い髪の魔女〟なんてものは存在しない可能性もあるが……だが仮に〝白い魔物〟の正体がイヴだとして、父さんは何故殺された? 〝《魔王》と契りし一族〟とはどういう意味だ? あの子は……カミラは本当に、俺が運命を捩じ曲げたせいで……?)
もはや何が真実で、何が嘘なのか分からない。あまりにも多くの情報が錯綜し、ひとつずつ冷静に繙こうとしても、荒れ狂う感情が邪魔をした。おかげでどうすればいいのか分からない。カミラやイークを守るためには、イヴの預言に従うしかないのだろうか。されど彼女は既に手遅れだとも言っていた。そう、それこそ彼女の預言によって、エリクに選ばれた者は栄え、選ばれなかった者は滅びると──
「アンゼルムさん」
瞬間、膝の上に置いた右手を唐突にモニカに掴まれて、エリクははっと我に返った。顔を上げれば、皆が不安そうな眼差しでじっとエリクを見つめている。
そこでエリクもようやく、自身の呼吸がわずか乱れていることに気づいた。
左手もいつの間にか胸を掴み、どうやら意識の外でまた発作を起こしかけていたようだと数拍遅れて理解する。
「あ……ああ、すまない、モニカ……大丈夫。大丈夫だ……」
「……念のため、もう一度お薬を飲みますか? あの薬には発作を予防する効果もありますから……」
「いや……あまり薬を飲みすぎると、頭が働かなくなる。ナンシー先生の薬の効果は覿面だが、飲むと何も手につかなくなるのが……」
「だが、今はむしろその方がいいんじゃないのか?」
「さ、サユキさん……!」
「だってそうだろう。起きていても余計なことばかり考えて、また発作を起こすのがオチだ。ならば薬の副作用を逆手に取って、頭も体も休めた方が……」
「で、ですがナンシー先生が、この薬はあまり多用すると依存性が出てくるとおっしゃっていたではありませんか。そうして薬が手放せなくなると、最後は廃人同然になってしまうと……」
「そこまで薬に頼れとは言ってない。ただしばらくは、強制的にでも思考を止めた方がいいという話だ。少なくとも妹の情報がある程度集まって、状況が落ち着くまでは──」
「──あ、アンゼルム様、失礼致します」
ところが刹那、コーディとサユキの口論を遮って、にわかに響いた声があった。
見れば風通しをよくするために開け放った扉の向こうに別荘の執事の姿がある。
が、どうも様子がおかしかった。
夏の暑さのせいかもしれないが、彼は額に大粒の汗をかき、されどそれをしきりに拭いながら、口もとには必死に笑みを貼りつけているのだ。
「執事殿、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、実はアンゼルム様宛にお客様がお見えでして……体調が整われるまでの間、来客はすべてお断りするようにとのお話でしたが、今回ばかりは……」
「というと?」
「──ああ、すまない。執事殿を困らせるつもりはなかったのだがな」
と、直後にわかに彼の後ろから声がして、エリクたちは一斉に目を見張った。
何故なら聞こえた男の声には覚えがある。低くどっしりとした巌のようでいて、しかし同時に奥底にある優しさとぬくもりを感じさせるその声は──
「久しぶりだな、エリク。元気にしていたか……と、この状況で尋ねるのはさすがに野暮か」
「が……が、が、ガルテリオ将軍!?」
とまったく予想だにしていなかった来客に、エリクたちは揃って素っ頓狂な声を上げた。そう、廊下の奥から現れたのはトラモント黄皇国で黄帝に次ぐ有名人、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオだったのである。




