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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第5章 あの朝を抱き締めて
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139.遠い呼び声


 ディーノらの処分が済み、ひととおり調練を視察すると、エリクたちは本棟への帰路に就いた。練兵場で走り込みを続けていた新兵たちは、普段滅多に姿を見られない黄都守護隊長(シグムンド)の登場に緊張し、かなり気が引き締まったようだ。

 日頃問題行動ばかり起こしていたディーノが為す術もなくシグムンドとの勝負に敗れ、放心状態で懲罰房へ連行されるさまを目撃していた者も少なくないから、当然と言えば当然の反応だろう。


 さらに言えば調練を担当していた将校も、ディーノらの素行を正せなかったがゆえにシグムンドの手を煩わせてしまった、とひどく恐縮していたようだった。

 当のシグムンドは長らく本隊の指揮を丸投げしていた自分の責任だから気にするな、と声をかけていたものの、軍規違反を繰り返す悪質な兵がいるという重大な報告を怠っていた事実が露見した以上、彼らも気が気ではないだろう。


「まあ、問題を黙秘していた彼らの心境も分からんではない。恐らくは調練にも顔を出せんほど多忙を極めている我々に、処罰しても処罰しても態度を改めない新兵がいるなどと泣きつけば、将校としての沽券(こけん)に関わると思ったのだろう。彼らにもまた、先代のラオス将軍の時代から一隊を預かってきたという自負があるだろうしな。加えてまさか連中が謀略のために送り込まれてきた保守派の手先だとは、夢にも思っていないに違いない」


 とシグムンドが零したのは、エリク、コーディ、サユキと共に本棟の入り口をくぐったときのこと。彼の口調から察するに、事態が発覚するまでディーノらのことを報告してこなかったのは確かに問題だが、今回は将校たちを職務怠慢で罰することはしない方向でいくのだろう。実際、新兵の監督を彼らに任せきりにしていたエリクらにも責任はあるし、何より今回は事情が事情だ。

 仕組まれた混乱の責任を将校たちに押しつけたのではますます隊の分断は進み、黄都(こうと)でほくそ笑んでいるに違いない黒幕の思う壺というものだった。


「ですが驚きましたよ。まさかシグムンド様が直々に調練の視察にいらっしゃるとは……おかげで新兵に発破をかけることはできましたが、今回のような無茶をなさるのはこれきりにして下さい。彼らは場合によってはシグムンド様に危害を加えることも(いと)わない、刺客としての役割も担っている可能性もあるのですよ」

「ほう、君も存外心配症だな。あの程度の雑兵ひとり相手にするのが〝無茶〟ならば、彼らを十人同時に相手取っていた君は私以上に(とが)められるべきではないかね。しかも彼らには真剣を持たせておきながら君は刑棒一本で立ち回るという、蛮勇とでも言うべき行為に及んでいたのだぞ」

「そ、それは、彼らを屈服させるためには向こうの主張に応じた上で、より屈辱的な敗北を味わわせるのが最も有効な手段だと判断したためで……何より挑まれた勝負に真剣で応じては、軍規に抵触するおそれがあったので仕方なく……」

「では同じ理由で稽古という形を取った私も責められる(いわ)れはあるまい。結果として本隊に紛れ込んでいたネズミも駆除できたわけだし、むしろ褒められてもいいくらいだと思うがな」

「……相変わらず屁理屈がお上手ですね」

「自分のことは棚に上げて、他人の心配ばかりしている優秀な副官に恵まれたおかげだな。彼がいつも隙だらけの弁舌で我が舌鋒(ぜっぽう)を磨いてくれるので、私としても非常に助かっているよ」

「……」


 と、前を歩くシグムンドが悪びれもせず答えるのを聞いて、今ならファーガスとうまい酒が飲めそうだなと、エリクは苦々しい思いで沈黙した。

 確かに彼がディーノのごときゴロツキに負けるわけがないことは分かり切っていたし、結果だけ見れば万事丸く収まったことも事実なのだがどうも釈然としない。

 まあ、しかしここまでの反応を見る限り、シグムンドもまた『ハト』の情報を掴んで様子を探りに来た、というわけではなさそうだ。突然練兵場に現れたのは、あくまで先日の部隊長たちの話を気にかけたからであって、秘密裏にことを運ぼうとしていたエリクの計画はまだ見抜かれてはいないようだった。


(とにかくこれでディーノから話を聞き出せる状況は整った。今日の業務が終わったら、早速懲罰房へ行って尋問してみよう。シグムンド様が散々脅して下さったおかげで、案外やつもすんなりと口を割るかもしれない。その後の対応をどうするかは、黒幕の正体次第だが……)


 もしも相手が自分ひとりで何とかできそうな小物なら、可能な限りシグムンドの手は借りずに処理したい。彼に余計な労力を割かせたくないというのはもちろんだが、こういうときこそ主人の盾となり、代わりに手を汚すのが副官の仕事だ。

 事実、第三軍の副帥を務めていた頃のシグムンドは上官(ガルテリオ)を守るためなら手段を選ばなかったと聞いた。ならば今度は自分がシグムンドの影となり、彼の()く道の露払いを請け負う番だとエリクはそう確信している。


 とにかくこれ以上彼を危険に晒したくないのだ。ゆえに自分が身代わりとなり、どんな危難も引き受ける覚悟がエリクにはある。が、もしも黒幕の正体が財務大臣(ヴェイセル)憲兵隊長(マクラウド)──あるいは保守派の庇護者たる黄帝の寵姫(ルシーン)であったなら、黄都守護隊はますます難しい局面に置かれるだろう。黄皇国(おうこうこく)内における彼らの力はもはや絶大で、そう簡単に太刀打ちできるものではない。むしろひとつでも選択を誤れば、たちまち黄都守護隊ごと奈落の底へ突き落とされてしまう……。


(そうなればそれこそやつらの思う壺だ。今はシグムンド様が活発に動かれてやつらの注意を引いているからいいものの、黄都守護隊が()ちれば、次はガルテリオ様やファーガス将軍が狙われるだろう。そしてこの三人の将軍が保守派の手に落ちれば、革新派の砦は今度こそ崩壊する……そうして保守派に対抗し得る勢力が失われたときが黄皇国の最期だ。ハーマン将軍やマティルダ将軍は今のところ中立派を維持されているし、リリアーナ将軍は最有力皇位継承権者としての立場上、特定の派閥には肩入れできないしな……)


 年末に共に酒を酌み交わした際、ファーガスは次の時代をエリクら若い世代に託さなければならないと言っていた。

 されど現状、新興貴族を中心とする革新派には、保守派の重鎮たちに対抗し得るほどの力を持った若い芽が育っていない。彼らは保守派のやり方に不満を並べこそすれ、連中と直接対峙することは避けたがる傾向にあるのだ。


 その最たる原因は、権力(ちから)を持ちすぎた保守派貴族が逆らう者には容赦なく制裁を加え、場合によっては暗殺も辞さないという脅迫的な態度を崩さないため。

 とはいえ革新派の先鋒を務めるシグムンドたちが、そうした危険に晒されながらも怯まず戦っているというのに、あとに続く者たちが後込みしていたのではそもそも勝てるわけがない。むしろシグムンドらには味方の殿(しんがり)を務めてもらい、若い世代が果敢に戦うくらいでなければ……。


「しかし、一連の報告を受けてある程度覚悟はしていたが、まさかあそこまで強硬に反抗する新兵がいるとはな。あれでは部隊長たちが対応に苦慮するのも当然だ。ひょっとすると彼らの背後には、我々の想像以上に強力な後ろ楯がついているのやもしれん。でなければ仮にも黄都守護隊長である私に剣を向けることなどできんだろう。最悪の場合、反逆罪で首を()ねられる可能性もあるのだからな」


 ところがエリクがそんな物思いに沈んでいると、不意にシグムンドがぎくりとするようなことを言った。どうやら彼も先程のディーノの振る舞いを見て、さすがに違和感を覚えたらしい。とすれば勘の鋭い主のことだ、状況次第ではすぐにディーノが黒幕と直接つながる存在だと見抜いてしまうかもしれない。

 ゆえにエリクは慌ててコーディとサユキへ目配せし、口裏を合わせてくれ、と無言で指示を出してから口を開いた。


「た、確かにあのディーノという名の新兵の言動はかなり悪質でしたが、ああもたちの悪い者はさすがにひと握りでしょう。他の部隊では指揮官である部隊長たちが直々に目を光らせていますが、本隊はシグムンド様や私が長らく不在だった上、将校たちも問題を秘匿していました。彼らもそうした隊の状況を察知して増長していたのかもしれません」

「うむ……単にそれだけのことであればいいのだが、しかし仮に彼らが黒幕の正体を知った上でああした行動に出ているのなら、黄都で黒幕を探すより、彼らを直接尋問した方が早いかもしれん。無論、今回送り込まれてきたすべての者が黒幕の正体を承知しているとは考え難いが」

「え、ええ……これほど大規模な人員を送り込んできているとなると、どこから秘密が()れるか分かりませんからね。しかも雇われているのは、見たところたちの悪いあぶれ者のような連中ばかりです。果たして黒幕がそんな相手に正体を明かすようなことをするでしょうか」

「……確かに連中は、そう口が堅いようには見えないな。現にキムがちょっと脅しただけで、簡単に口を割る輩がいたくらいだ。とすればむしろその軟弱さを逆手に取って、黒幕がやつらに偽の情報を仕込んでいる可能性もあるかと」

「ほう。つまり新兵たちが安心して暴れられるよう、かなりの権力者が後ろ楯についているかのように見せかけている、ということか。確かにそういった線も考えられなくはないな」

「え、ええ。そうすれば黒幕は自らの正体を隠しつつ、まったく別の人間を首謀者と思わせて、捜査を攪乱(かくらん)することもできます。しかも我々も簡単には手出しできないような相手を首謀者ということにしておけば、より時間稼ぎができると考えるはず……場合によっては我々がまったく無関係の相手を黒幕だと誤認して攻撃し、自滅する可能性も狙えますからね」

「ふむ……そうだな。となれば黄都での裏取りには、なおいっそう慎重を期さねばな……」


 となおも前を歩きながら、シグムンドは顎に手をやって、何事かじっと考え込んでいる様子だった。コーディとサユキが提示してくれた別の可能性をエリクがうまく補強することで、どうにかシグムンドの意識をディーノから逸らすことはできたようだ。だが少し冷静になって考えれば、少なくとも隊内に黒幕と直接つながる内通者がいることは明らかだとシグムンドも気づくはず……。


 でなければ隊内で騒ぎを起こしている新兵たちへの金の流れに説明がつかない。

 何者かが黒幕から金を受け取り、それを報酬として分配しなければ新兵たちを従わせることは不可能だからだ。無論、黒幕から何人かの(おとり)を経由して金が下りてきているという構図も考えられなくはないが、仮に首謀者を知らないとすればディーノは何故あれほど強気な態度に出られたのか。

 単純に彼が身の程を知らない愚か者である可能性も否定はできないものの、エリクが『ハト』の話題を出したときの反応も含め、やはり何か引っかかる。

 だからこそ早急にやつの口を割らせ、発言の真偽を確かめなければ──


「……」

「……シグムンド様? どうかなさいましたか?」

「いや……確かに今の君たちの話にも一理あるのだがな。逆に今回の首謀者が、自身の正体を隠そうともしていない可能性もあるのではと考えていた」

「と、言いますと?」

「要は先程君が言っていた〝我々が簡単には手出しできないような相手〟が、直接黄都守護隊を潰しにきている可能性だ。たとえば保守派の筆頭であるヴェイセルやルシーン……あるいは彼らの讒言(ざんげん)を真に受けた、陛下ご自身であるやもしれん」

「な……何をおっしゃるんですか。そもそも陛下が黒幕であるならば、こんな遠回しなやり方などしなくとも、直接シグムンド様を更迭(こうてつ)すれば済む話で……」

「だが大した理由もなく表立って私を排除すれば、革新派の反発は避けられんだろう。ギディオン将軍を罷免(ひめん)したときですら表向きには〝勇退〟という形を取らせたのだ。なれどあのときも大半の者が納得せず、最後には反乱(クーデター)の話まで持ち上がる騒ぎとなった。ゆえに当時の失敗を踏まえて、より()便()()ことを済ませようとなさっているのやもしれん」

「つ……つまり、より間接的かつ表沙汰にならない方法で、シグムンド様にも〝勇退〟を迫っていると?」

「ああ。あるいは私が直接噛みついてくるのを待ち、それを〝反逆〟ということにして処理しようとしている可能性もある。さすれば誰も──ガルテリオ様すらも私を擁護することはできん。陛下が反逆者と名指しする者の肩を持てば、その者もまた反逆者と見なされるわけだからな」

「そ、そんな……」

「……いや、すまない。今のはあくまで最悪の想定の話だ。私も陛下がそこまで保守派に毒されてしまったとは思っていない」

「……ですが仮にヴェイセルやルシーンが黒幕だったとしても、彼らの背後に陛下がいらっしゃる限りそうなる可能性は否定し切れないとおっしゃりたいのですね」

「ああ、そうだ。今はまだ確たる情報がない以上、あらゆる可能性を考慮して動く必要がある……しかし我々は、いつまでこうして自分の祖国(くに)と戦っていればいいのだろうな」


 刹那、シグムンドが振り向きもせずにぽつりと告げたひと言が、エリクの胸に重く沈んだ。それは恐らくシグムンドの心の底から出た本音だ。正黄戦争(せいこうせんそう)が起こるより遥かに以前から祖国の闇と戦い続けてきた彼の、嘘偽りなき心の声。

 そうして戦って戦って戦って、何十年も戦い抜いてきたにもかかわらず、未だに勝機が見えてこない。

 むしろ状況は悪くなるばかりで、何ひとつ報われている気がしないシグムンドの半生を思うと、エリクでさえも途方もない虚しさと無力感に襲われた。


(自分はもう陛下に必要とされていないのではないかと……これまで祖国の希望と信じ、お慕いしてきたはずの陛下のことを、シグムンド様でさえ信じられなくなっているのか。だが、だとすればこの方は何のために戦ってこられたというんだ? 今日まで流した(おびただ)しい血も、払った犠牲も、一体、何のために……)


 すべてはトラモント黄皇国の平和と繁栄を願った、オルランドの理想のために捧げられた戦いだった。しかしそのオルランドがシグムンドたちに背を向けてしまった今、彼らは何のために戦い続ければいいのだろう?

 いつかオルランドが我に返る日を信じ、代わりに国を守ろうにも、それすら同じ祖国を持つ者たちに阻まれる。

 保守派も救世軍も、誰もがトラモント人でありながら求めるものの違いによって争い続け、シグムンドたちが生涯を懸けて追い求めた夢を打ち壊していく……。


(……どうしてだ? ()()()()()()()()()()()()()? シグムンド様たちが目指す黄皇国の未来は、何も間違ってなんかいないはずなのに……)


 誰もが自由と平穏を享受できる、安全で豊かな国家。

 そんなものは所詮夢物語に過ぎないと、天に(わら)われているのだろうか?

 されどトラモント黄皇国には、かつて確かに『黄金の国』と呼ばれ、北西大陸の覇者として君臨していた時代があった。

 それを取り戻したいと願うことは、果たして罪に当たるのだろうか。だからシグムンドたちの戦いも報われないのだろうか──かつて父がそうだったように。


『だから、エリク。お前は俺のようにはなるなよ』


 そう言って寂しげに笑っていた父の声と在りし日の情景がまざまざと脳裏へ甦った。広場に詰めかけていた群衆。飛び交う怒号と嘲笑。当時まだ幼かったエリクにはどんなに手を伸ばしても届かなかった、処刑台の上の、


『見ろ。そして目に焼きつけておけ。あの男の無様な死に様を』


 怒り。恐怖。絶望。憎しみ。


 どんな言葉で形容しても表現し得ない、あの日の激情。それが封じ込めていた記憶と共に溢れ出し、肺という肺を満たしたとき、ドクン、と。

 苦しさに息が詰まると同時に、ひと際大きな拍動が胸を打った。

 瞬間、背後から(つるぎ)で刺し貫かれたような痛みが心臓に走る。

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。

 とっさに胸を押さえたエリクの手の下で、今日もまた心臓が喚き出す。その絶叫はたちまち耐え難いまでの痛みとなって全身を駆け巡った。待て、と思わず立ち止まって念じるも、とうに限界を迎えていた心身が言うことを聞くはずもない。


「……アンゼルム様?」


 本棟の最上階に鎮座する守護隊長執務室はもう目の前だ。

 だというのに足を止めたエリクを不思議に思ったのか、小首を傾げたコーディが呼びかけてきた。だが答えたくとも答えられない。

 代わりに唇から漏れたのは、叫び出したい衝動を押し殺した呻きだけ。


「アンゼルム様、どうかされましたか──」


 と、そんなエリクの異変に気づいたコーディが、みなまで言い終わらぬうちのことだった。エリクの意思に反して傾いだ体が、石積みの壁にぶつかる。

 そこで何とか持ちこたえようとしたものの、結局力が抜けてずるずると床に倒れ込んだ。慌てふためいたコーディがさらに何か言っているのが分かるが、もはやひとつも聞き取れない。ただ、ただ、胸を引き裂くような痛みと心音とがすべてを塗り潰し、治まれと焦れば焦るほどにより激しさを増していく。駄目だ。


 あまりの激痛に、息が、できない──


「──りしたまえ──ルム──アンゼルム──エリク!」


 誰かに本名(なまえ)を呼ばれる声で息を吹き返した。

 どうやら数瞬の間、痛みと呼吸困難で意識が飛んでいたらしい。

 気がつくとエリクはシグムンドに助け起こされていて、血相を変えた彼の顔が目の前にあった。が、何か答えなければと口を開いた瞬間再び心臓が悲鳴を上げて、エリクは痛みに喘ぎながらシグムンドへと(すが)りつく。


「アンゼルム様、アンゼルム様! しっかりなさって下さい、アンゼルム様!」


 すぐ傍で取り乱したコーディが泣き叫んでいるのが聞こえた。

 されど痛みに耐えるだけで精一杯で、視線すらも上げられない。

 これまで繰り返し襲ってきた痛みとは比べものにならないほどの激痛だった。

 おかげで覚醒したのも束の間、再び意識が遠のいていく。

 ひゅう、ひゅう、と奇妙な音を立てながら、呼吸が弱まってゆくのを感じる。

 その刹那、嫌でもエリクの脳裏をよぎった予感があった。


 ──ああ、もしかすると俺は今日、ここで死ぬのかもしれない。


 だとしたら、まったく予期せぬ幕引きだった。

 どうせ死ぬのなら戦場でと、心のどこかで決めていたのに。

 けれどもし、今、この瞬間が人生の最期であるならば、エリクにはどうしても伝えなければならないことがある。


「……っシ、グ……ムンド、様……わ、たし、は……」


 最期にもう一度、どうしてもシグムンドの顔が見たかった。

 他の誰でもない、自分が剣を捧げた主の顔を。

 そう思い、今にも閉ざされようとする重い(まぶた)()()ける。しかしどんなに目を凝らしても、見えない。(かす)む視界が、明滅する意識が、エリクの想いを妨げる。


「わ……たし、は……あなたの……隣、で──」


 ──どうしても、共に見たかった。見せて差し上げたかった。


 かつてあなたの愛したトラモント黄皇国を、もう一度。


 そう願いながら、悔やみながら、されど想いはついに言葉にならず意識と共に闇に呑まれた。最後に聞こえた呼び声が誰のものだったのかさえ、もう分からない。


「─────」


 遠い、遠い呼び声を聞きながら、エリクはゆっくりと沈んでいった。


 暗く冷たい海底(うなぞこ)に似た〝あの日〟へと。


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