112.君を救いたかった
フィロメーナに案内された先は、舞踏室の中二階から張り出した露台だった。
楽団の奏でる旋律が絶えずたゆたい、きらびやかな照明に照らされた下階とは裏腹に、人気のない上階は静かで薄暗い。
中二階へ上がる階段には関係者以外の立入りを制限する綱がかかっていたから、屋敷側はここに人を上げるつもりはなかったようだ。
けれども階段の傍で警備に就いていた屋敷の衛士にフィロメーナがそっと耳打ちすると、彼らは何も言わずに綱をはずし、ふたりを上へ通してくれた。
「はあ、涼しい! 今夜は風が気持ちいいわね。だけど黄都から夜空を眺めるなんて、いつぶりかしら……」
ラヴァッレ邸の壮麗な中庭を一望できる半円状の露台には、秋の夜風が吹いている。見上げた先には時の神マハルの祭日を祝福するかのような満天の星。その星空からそっと吹き下ろしてくる風は、確かに酒と舞踏で火照った体に心地よい。
されどエリクの眼差しはひと足先に露台へ出て、感慨深げに空を見つめる彼女の背中に釘づけだった。
「……いいのか。仮にも国中に顔が知れ渡ってる大罪人が、気軽に素顔を晒したりして」
と周囲に人がいないことを確かめてから、エリクは声を低めて忠告する。
するとフィロメーナは絹を梳いたような髪をぱっと舞わせて振り返り、星明かりの下、仮面をはずした顔で微笑った。
「そう言うあなたは、仮面を取ってはくれないのね」
「ここは中庭から丸見えだからな。この高さと逆光を思えば、さすがに顔を見られる心配はないだろうが……万が一でも、オーロリー家のご令嬢とふたりきりでいるところを誰かに見られるのは困る」
「意外と慎重なのね。カルボーネ事件の顛末を聞いた限りでは、大胆不敵な印象を受けたのだけど」
「……天燈祭の日に君を助けたあと、たくさんの人に迷惑をかけた。これ以上大切な人たちを危険に晒したくないんだ」
「ならどうして私を追い払わなかったの? 正体に気づいていながら舞踏の誘いを受けてくれたのは、つまりあなたも私に会うためにここへ来たということよね?」
……さすがはあのエルネスト・オーロリーの娘と言うべきか。
どうやらフィロメーナはエリクが見積もっていた以上に頭の回転が早く、ある程度の駆け引きも辞さない人物のようだった。しかもエリクが今日まで念入りに彼女の身辺を調べてきたように、彼女もまたエリクの身上や来歴を調べ上げている。
とすれば、果たして彼女はどこまでこちらの情報を掴んでいるのか。
まずはそこを探る必要がありそうだった。
「……君がわざわざ危険を冒して黄都へ戻ってきた理由を確かめたかったんだ。何より俺も、君と会うことができればもう一度話し合えるかもしれないと思った」
「だけど、周囲の人々を巻き込みたくないというのなら、あなたはやっぱり私の手を取るべきじゃなかったわ」
「そうかもな。だが同時に、君と話すことで守れるものもあると……皆を再び内乱の渦中へ追いやることを避けられるかもしれないと、そう思ったんだ」
このときエリクが口にした〝皆〟という言葉の中には、言わずもがな黄都守護隊の仲間以外にも、今、目の前にいるフィロメーナやイークのことも含まれていた。
が、秘めた想いは届かなかったようで、フィロメーナは途端に眉を曇らせると、レース地の手套を嵌めた指先を物憂げに露台の手摺へ這わせる。
「……そう。やっぱりそうよね。ひょっとしたらあなたがあの日の誘いを受ける決心をしてくれたんじゃないか、なんて、少しだけ期待していたのだけれど」
「俺について調べたなら、その可能性が限りなく低いことは分かってただろ?」
「そうね。ロマハ祭の前日まで毎晩皇女と過ごすような人が、そう易々と反乱軍に靡くわけがないわよね」
「いや、あれは……まあ、認識は間違ってないんだが、何か言い方に語弊が──」
「だけどちょっと驚いちゃった。もしかするとあなたは今夜、皇女殿下を連れて現れるんじゃないかと思ってたから。でも、さっきまで一緒にいた女性は殿下じゃないわよね?」
「あのな……しがない傭兵上がりの俺なんかが、殿下を誘えるわけないだろ。さっきのは、無理を言ってパートナー役を引き受けてもらった軍の部下で……そう言う君は誰と会場に入ったんだ?」
「さあ、誰かしら」
「俺の予想では、この屋敷の主殿か……あるいはあの日、君と行動を共にしていた剣士殿とか?」
「ふふっ……ご想像にお任せするわ」
意味深な笑みを湛えながらそう言って、フィロメーナは再び身を翻した。しかし刹那、そうしてまた夜空を仰いだ彼女を見やり、エリクはある確信を得る。
──イークの名を出してこない。
ということは彼女は、自分とイークの関係について知らないのか?
もしもイークから自分の情報を聞き出してきたのなら、今の会話の流れで彼の名が挙がらないのはおかしい。彼女がエリクの心変わりを期待して会いにきたというのならなおさらだ。どうか救世軍へ寝返ってくれと交渉するのに、イークの名前ほど有効な切り札はない。だのに彼女が彼の名を口にしないということは──イークはまだ〝アンゼルム〟の正体に気づいていないのか。
(……だとしたら、フィロメーナは)
まさか本当に彼女自身の意志だけで、自分に会いにきたというのだろうか。
いつ捕まって処刑されるとも知れぬ身で、死地であるはずのこの街へ。
「……だが、どうしてヨーナ姫なんだ?」
「え?」
「君の仮装さ。自由の神の寵愛を受けた王女と言えば聞こえはいいが、彼女の最期を知らないわけじゃないだろう?」
ゆえに思わずそう尋ね、彼女の隣へ歩み寄った。
そこから中庭を見下ろせば、ぽつぽつとともったランプの明かりの中に、涼を求めて休息している客の姿がちらほらと見える。
「そうね。だけど姫は最期にこう言い遺すでしょう? 〝真の自由とは、人の身で負うにはあまりに重すぎたようです〟と」
「……つまり、それが君の覚悟というわけか?」
「あの日、あなたも言っていたじゃない。民を救うと言いながら、その民の血と屍の上に新しい国を築くというのがどういうことか分かっているのか、って」
「俺は」
「分かっているのよ、これが最善の方法じゃないってことくらい。だけど一度始めてしまったからには止まれない。私たちが今日までしてきたことを、今更なかったことにはできないのだから」
「フィロメーナ」
「あなたは? あなたはどうしてフェニーチェ炎王国の最初の王を……黄皇国を築いた黄祖と同じ、太陽神の神子を選んできたの?」
傍らに佇むフィロメーナは、やはり仮面をつけ直しもせず、まっすぐにエリクを見つめて微笑んだ。されど彼女の瞳に隠れた諦念が──帰る家を失くした少女のような眼差しが、またもエリクの胸をざわめかせる。
「俺は……大した理由はないよ。ただたまたま入った貸し衣装屋で、借り手がいなくてなるべく動きやすそうな衣装を選んだだけだ」
「まあ。てっきりシェメッシュ神への信仰の表れかと思ったのに、夢がないのね。一夜限りとはいえ、せっかく別人になりすませる機会をふいにするなんて」
「……」
「だけどあなたの髪の色、とても綺麗よ。見たところ鬘ではなさそうだけど、どうやってそんな素敵な色に染めたの?」
「いや、これは……染めてるわけじゃない」
「え?」
「地毛なんだ。その界隈では有名らしいが、知らなかったか?」
「まあ」
と、いつか聞いた自分の噂をもとに尋ねてみたものの、フィロメーナは驚いた様子で目を丸くするばかりだった。彼女の反応を見る限り、黄都守護隊のアンゼルムが世にも珍しい赤髪だという情報は、救世軍には届いていなかったようだ。
とすればイークが自分の正体に気づかないのも当然か。
そう思いながら白亜の手摺を掴んだ手に力を込める。
ああ、どうりで彼女は知らないわけだ。仮装などしなくとも、自分は常に〝太陽の村のエリク〟ではないものになりすましているのだということを。
「──すごいわ! 私も今まで色々な有色髪を見てきたけれど、赤い髪なんて初めて……ということは、あなたの家族も赤い髪なの? 有色髪の中には、先祖返りでもなく突然生まれてくる例もあると聞いたことがあるけれど……」
ところがエリクが数瞬、そんな自嘲に沈んでいると、にわかに視界がフィロメーナの顔でいっぱいになった。それを見てぎょっとしたエリクを余所に、彼女は鼻と鼻とが触れそうな距離まで近づいて、まじまじと赤い髪を観察してくる。
かと思えば急に手を伸ばし、まるで大事な宝物にでも触れるようにエリクの髪をひと房手に取った。が、左耳に彼女の指先の熱を感じた途端、エリクは堪らずフィロメーナの手を掴み、慌てて自分から引き離す。
「お、おい……! のこのこ黄都に戻ってきてみたり、さっさと仮面をはずしてみたり、君はちょっと無防備すぎるぞ! もう少し自分の立場を考えて、警戒心ってものを持ったらどうなんだ……!?」
「まあ、ひどい言われようね。確かに黄都へ来たのは無謀だったかもしれないけれど、今のはただあなたの髪が本当に本物なのか確かめようとしただけじゃない」
「それがどうかしてるって言ってるんだ。仮にも俺たちは敵同士だぞ?」
「肩書きの上ではね。だけどあなたは私たちの敵じゃない。そうでしょう?」
「俺は」
「もし本当に敵対する意思があるのなら、あなたはカルボーネ事件の真相を世間に隠して、すべて救世軍の仕業だと吹聴して回ればよかった。なのにそうしなかったのは、あなたも私たちの理想に共鳴しているから──あなたも私も、望む未来は同じだからよ。違う?」
「……確かに俺は、ドルフのような男に君たちの名を汚されるのが我慢ならなかった。君たちが単なる復讐や私利私欲のために戦っているわけじゃないことは分かっているつもりだからな。だが……」
と、言葉を続けようとして、されどエリクはすぐに二の句を継げなかった。
これを告げれば、もうあとには引けなくなる。彼女に会うことも、言葉を交わすことも、この手のぬくもりに触れることさえ、きっと二度と叶わなくなる。
それでも。
「だが、たとえ望む未来は同じでも……やはり俺は、君たちのやり方を肯定することはできない。だから君とは、共に行けない」
「アンゼルム」
「今、国に乱が起きれば時代は正黄戦争の頃に逆戻りだ。俺はあの戦争を直接知っているわけじゃないが……幼い頃、ルエダ・デラ・ラソ列侯国の内戦を経験したことがある。あの内乱でも多くの人が死に、苦しんだ……俺は両親に守られながら、そのさまをただ眺めていることしかできなかったんだ。いくら世を正すためとはいえ……あんな想いをこの国の人たちにまで強いることは、俺にはできない。何より──俺の父と同じ苦しみを、君たちにまで背負ってほしくない」
「あなたの……お父様?」
「ああ。俺の父は……列侯国での内乱を起こした側の人間だった。今の君たちと同じように、民の自由と平等のために戦って……けれど最後には家族以外の何もかもを失った。俺は今も、死ぬまで自分の罪に苦しんでいた父を救えなかったことを、恥じている」
まるで刃を吐き出しているような気分だった。されど痛みに耐えながらエリクがそう告げた刹那、フィロメーナの瞳がはっと揺れる。
それはエリクが今日まで妹や親友にさえ言えずにいた本音だった。
自らの信念のために戦い、しかし敗れてしまった父の苦しみを──そんな父を見ていることしかできなかった自分の無力さを、エリクは今も憎んでいる。
けれど、だからこそ。
だからこそ止めなければと願うのだ。勝算のない戦いに身を投じ、傷だらけになろうとしている彼女を。本当は誰よりも救われたがっているはずなのに、自らの心を擲って祖国を救おうとしている彼女を……。
「だから……頼む、フィロメーナ。どうかこの戦いから手を引いてくれ」
「……できないわ」
「ジャンカルロのことは……すまなかった。非道な手段を用いたネデリンには、必ず報いを受けさせると約束する。君たちの怒りも悲しみも、全部代わりに俺が背負うよ。そしてきっと黄皇国を救ってみせる。だから……」
「できないわ!」
瞬間、エリクに手を掴まれたままのフィロメーナが、その手を振り払うようにしながら叫んだ。結局彼女の力では振りほどくこと能わなかったものの、しかしフィロメーナは構わず声を荒らげる。
「言ったでしょう? 私たちはもう始めてしまったの。もうあと戻りはできないのよ! 今もこの国のあちこちで、たくさんの民が私たちの助けを待っている……そんな彼らの苦しみに背を向けて、私だけ逃げ出せというの?」
「フィロメーナ」
「彼らの叫びは私の叫びよ。私だってこれ以上、何の罪もない人々が私と同じ想いをするさまを黙って見ていられない。彼らが国の暴虐に轢き潰される悲鳴に耳を塞いで、何もせずにはいられないの! だから……っ」
「……つまり俺たちは、分かり合えないということだな」
「ええ……どうやらそのようね」
「どうあっても、俺たちの往く道が交わることはないんだな」
「そうね──だからお別れよ、アンゼルム」
分かっていた。きっとこうなるだろうことは、たぶんずっと、心のどこかで。
されど顔を上げたフィロメーナが微笑を浮かべ、星を映した瞳に涙を溜めているのを見た瞬間エリクの魂が悲鳴を上げる。こんなはずじゃなかった。必ず彼女を守り抜くと、いつかどこかで確かに誓ったはずなのに。ひょっとするとこの記憶が、この感情が、かつて預言者の言っていた〝前世〟の証左なのだろうか。
(だとしても、俺は──)
胸を裂かれるような痛みを噛み殺し、エリクは掴んだままでいたフィロメーナの手を引いた。すると彼女の体は思いのほかすんなりと懐に収まる。
そこに感じるフィロメーナのぬくもりを、ほんの数瞬、抱き竦めた。
この痛みを心に刻み込んで、生涯忘れないために。
「さようなら、フィロメーナ。君を救いたかった」
腕に抱いたフィロメーナの肩が、微か震えているのが分かった。
また泣かせてしまっただろうか。
けれど彼女の涙を拭う資格は、もう自分にはない。
ゆえにフィロメーナから手を離し、そっと一歩退いた。彼女は顔を上げない。
それが、エリクが目にした最後のフィロメーナの姿だった。
瞬く星明かりの下で白いドレスが翻る。
背を向けた彼女は振り向きもせず露台を離れ、舞踏室へ駆け戻っていった。
その後ろ姿を見送ったのち、エリクは嘆息と共に星を仰ぐ。
分かり合えなかった。いや、心の底では分かり合えていたはずだ。けれど。
「サユキ。そこにいるか?」
露台の縁に立って天を眺めたまま、エリクは背後に呼びかけた。
するとわずかに人の動く気配がする。
隠れ身の術を使っているため姿こそ見えないものの、万一の事態に備えて、サユキには自分たちを見張っているよう事前に指示しておいたのだ。
「ああ。ここにいる」
「見てのとおりだ。交渉は決裂した。……始めてくれ」
「……本当にいいのか?」
「いいんだ。これでいいんだ……」
自らに言い聞かせるように答えながら、されどエリクは最後までサユキを振り向くことができなかった。するとしばしの沈黙ののち、彼女から短く言葉が返る。
「分かった」
そうしてすぐにサユキの気配は遠のいた。
今宵、エリクはついに、救世軍の敵となる。




