8.無策の策
ファリドが放つ剣撃は、痺れるように腕に響いた。
膂力に任せて斬りつけている様子でもないのに、重い。この重さは何だ。剣の重量か? いや、造りからしてさほど重みのある得物には見えない。なのに重い。
つまり相手はかなりの手練れだ。身のこなしから戦い慣れていそうだとは思っていたが、たぶんエリクの想定以上に、手強い。
「ハッ、どうしたお前、さっきから防戦一方だ──ぜッ……!」
次いで繰り出された鋭い刺突を、エリクはすんでのところで回避した。
彼の剣を剣で受け続けるのはよくない。そのうち両手が痺れて使い物にならなくなってしまう。エリクはファリドの斬撃から身を守りつつ、注意深く相手の動きを観察した。今だ、と思う隙があっても踏み込まない。強い敵と戦うときは、まず冷静に先方の癖や太刀筋を見極める。それがエリクの戦い方だった。切磋琢磨して共に育った親友にはよく「お前は慎重すぎる」と言われてきたが、しかし。
(俺はお前ほどカンが良くないんだよ、イーク……!)
焦げ茶色の髪に、いつも青い羽根飾りをぶら下げていた親友との立ち合いを思い返して、エリクは攻撃を躱しながら細く笑った。
次の瞬間、下段に構えた曲刀を一気に振り上げる。
絶妙な間合いからの突然の反撃に、ファリドが一瞬怯んだのが分かった。
「おっ……!?」
急制動したファリドが顎を反らし、ギリギリのところでエリクの逆襲を躱す。
瞬時に後退した王子を見やって、エリクは内心舌打ちした。
やはり使い慣れていない武器では思うように戦えない。曲刀の重さが足を引っ張って、自分の想定より動作が半瞬遅れた気がした。しかも片刃の刀であるせいで、避けられてからの返す刃が使えない。両刃剣に慣れ切った自分が使うにはあまりにも不利な武器だ。ならば他にもっと使いやすそうな得物はないか──と足もとへ視線を走らせたところで、ファリドがふっと笑ったのが分かった。
「戦いづらそうだな、ガキ。シャムシールはお気に召さないか?」
「……少なくとも自分の剣なら、今のは当たってました」
「ハハッ! 大した自信じゃねえか。なら、そうだな──ちょっと待ってろ」
と言うが早いか、ファリドは突然くるりとエリクに背を向けた。
あまりにも無防備なその動作にエリクはぎょっとして立ち尽くす。
いや、しかし、戦いのさなかに敵へ背中を向ける間抜けがいるだろうか?
あれでは自ら斬って下さいと言っているようなものだ。
本当に斬っていいのなら遠慮はしないが……とエリクが迷った直後、角灯の明かりが届かない暗闇の向こうから声がした。
「王子! さっきの音は……!?」
げ、と危険を察知して、エリクは踏み出しかけていた足を止める。声はファリドが向かっていった方向からした。声だけじゃない。複数の足音もだ。
まあ、あんなに派手に神術を撃ったのだから当然か。
エリクの刻む雷刻は攻撃特化型の神刻で、神術の威力が高いのはいいが音が大きすぎる。だからこうして使うたびに余計な敵を招き寄せてしまうのだ。
「え、エリクさん……!」
「危ないから下がっていろ、ラヴィニア。こうなると牢の中の方が安全だ。なるべく鉄格子から離れて、独房の奥へ」
「で、でも、このままじゃエリクさんが……!」
「大丈夫。俺の座右の銘は〝有言実行〟だ」
鉄格子に取り縋り、不安で潰れそうになっているラヴィニアを安心させようとエリクは努めて微笑みかけた。ずっと幼い妹の面倒を見てきたおかげで、余裕を演じるのには慣れている。泣き出しそうな相手をあやすのはお手のものだ。
──そう、妹。
両親を早くに亡くしたエリクにとって、家族はあの子ひとりだけだった。
郷の成人の儀式のために、どうしても旅に出なければならなかった自分の見送りに立ち会って、顔をくしゃくしゃにしていた妹のことを思い出す。
──帰らなければ。
エリクは曲刀の柄をきつく握り締めた。自分は何があっても帰る。故郷へ。
でないと妹はひとりきりだ。兄弟のように育った親友が先に帰郷してくれれば安心だが、彼がいつ戻るかなんてエリクにも分からない。だから。
(必ず帰るぞ、カミラ)
改めてそう誓い、顔を上げた直後だった。暗闇の向こうからファリドの怒鳴る声がして、どよめきが走ったのが分かる。……一体何をやってるんだ?
エリクは如才なく曲刀を構えたまま相手の出方を窺った。早くしないとさっきの神術で失神させた者たちも起き出してしまう。そうなれば形勢はさらに不利だ。
が、やがて複数の足音が遠ざかったかと思うと、サンダルのような靴の底を鳴らしてファリドが戻ってきた。
……サンダル。あの男はあんなものを履いてあれだけの動きをしていたのか。
対するエリクはしっかりした革の長靴を履いてようやく互角に戦えている状態だ。その事実に気づいた刹那、エリクの頬を初めて冷たい汗が濡らした。
今はこの洞穴の暗さと履物の差がエリクの助けになっているが──万全の装備を揃えたファリドと地上で相対したらどうなるか。
「ほらよ」
動揺を悟られぬように唾を飲み下したところで、いきなり何かを投げ渡された。
思わず曲刀を手放し、慌てて両手で受け取れば、降ってきたのは深緑の鞘に収まったひと振りの直剣だ。エリクは驚きに目を見張った。金色の鍔を持つその剣は他でもないエリクの剣だった。とっさに鞘から抜いてみるが、特に刃を折られたり潰されたりしている様子もない。しかし、何故?
「そいつなら本気を出せるんだろ? 持ってこさせた。かかってこい」
「どうしてわざわざ……」
「そりゃ弱えやつと戦ってもつまらねえからだ。どうせ戦るなら少しでもおもしれえ方がいいだろが」
「理解できません。さっきそこまで来ていた増援は?」
「囚人が逃げたから追えと嘘ついて追っ払った。勝負に邪魔が入っちゃ萎えるからな。お前も俺に刀を抜かせたからには、楽しませろ」
「……要するにあなたにとって闘争は娯楽だということですか?」
「ああ、そうさ。てめえの命ひとつ賭けるだけの、生きるか死ぬかのシンプルな博奕だ。楽しいだろ?」
やっぱり理解できなかった。これがラッサの言っていたシャムシール人の美学というやつか。そうだとしたら理解できない方がいい。この国の人間と同じ地平に、エリクは立ちたいと思わない。
今はただラヴィニアと生きてここを出ること。それだけに集中した。
相手が不利な条件下にいることを知っていながら戦闘を継続するのは、正々堂々たる戦いを美徳とするルミジャフタの戦士としてあるまじきことだが、今は自分以外の人命が懸かっているのだ。なりふり構っていられない。
「では、得物を返してもらった礼に──全力で行きます」
腰の剣帯に鞘を戻し、改めて抜き放った愛剣をエリクは片手で正眼に構えた。
それを見たファリドが上機嫌に口笛を鳴らし、構えだけで〝来い〟と呼びかけてくる。遊ばれている気がして不愉快だったが、ここは心を乱した方の負けだ。エリクは先程までの観察で覚えたファリドの癖を反芻しながら──右から攻めた。
「おっと」
振り抜いた一撃はたやすく受け止められる。
暗闇に火花が散って、楽しそうなファリドの髭面をほんの一瞬照らし出した。
そこから息の続く限り、寸刻も休まず攻める。攻める。攻める。
エリクが振るう剣の切っ先は何度かファリドの肌を掠めた。巧みに避けられ、致命傷には至らないものの、まったく当たらないということはない。
恐らくファリドは左足が悪いのだろう。
怪我か病かは知らないが、さっきから時折左足をかばうような動きをしているのが気になった。反応も少し遅れることがあるようだ。
だから左から攻められるのに弱い。エリクはそう読んだ。
こちらの右はファリドの左だ。エリクも元来左利きなので、右手で振るう剣の威力は多少落ちるが、剣術だけは両手でこなす鍛錬を幼い頃から積んでいる。
「おい、やればできるじゃねえか、ガキ! 口だけじゃなくて嬉しいぜ」
「俺は何も嬉しくないですし、これでも一応成人してるので、いつまでもガキ呼ばわりするのはやめていただけますか」
「この勝負にお前が勝てたら考えてやるよ。しかしよく気づいたな、俺の左足が弱いってことに」
「……!」
「さっきの防戦一点張りはそういうことか。ほとんどのやつはそれに気づく前に死んじまうが、できるなあ、お前」
「お褒めにあずかり光栄です、とでも言っておけば満足ですか?」
「ハハッ、だがそういうところが可愛くねえ。可愛くねえガキには──仕置きが必要だ」
刹那、エリクが繰り出した斬撃を後ろへ躱し、いきなりファリドが得物を投げた。投げたと言ってもエリクを狙って投げつけてきたわけではなく、自身の頭上高く、真上に放り投げたのだ。
エリクはファリドのその行動に虚を衝かれた。何だ、と驚いて動きを止めた一瞬の隙に、ニヤリと笑ったファリドが素早く右手を捩じ込んで来る。
再び胸ぐらを掴まれ、背負い投げの要領で地面に叩きつけられた。
あまりに突然のことで受け身を取り損ねる。背中に激痛が走り、息が詰まった。
辛うじて剣は手放さなかったが、起き上がれない。
「てめえみてえに理詰めで戦うやつには、こういう型破りな戦い方が一番キくんだ。だろ?」
直後、頭上からファリドの声が降ってきて、エリクははっと顔を上げた。
そこには落下してきた曲刀をまんまと掴み、振りかぶったファリドがいる。
次いで叩きつけられた刃を、エリクは地面を転がることでどうにか躱した。
起き上がりの隙を最小限に留めるために、神術を炸裂させる。
青い稲妻が闇を走った。ファリドは首を傾げるような仕草でそれを避ける。
エリクが体勢を整え切る前に突っ込んできた。迫る刃を剣で受け止め、鍔迫り合いに持ち込んだが背後は壁。これは──まずいかもしれない。
「え、エリクさん、もういいです! 私のことはいいからひとりで逃げて……!」
「だ、めだ、ラヴィニア、待ってろ……!」
とんでもない膂力に押されながら、エリクは何とか言葉を紡いだ。
約束された未来を打ち壊され、帰りたいと泣いていた彼女を置いて逃げるだなんて、そんな真似をすれば戦士の名折れだ。いや、名折れどころかエリクは恥ずかしくて戦士を名乗れなくなる。冗談ではない。冗談ではない、のだが。
「……っ!」
ザリザリザリと靴の底が滑って、エリクの背中は岩壁に叩きつけられた。
ちょうどエリクとラヴィニアの独房を隔てていたあの壁だ。自分も人並み以上の膂力はある方だと自負していたが、完全に圧倒されている。この男の力は一体どこから来るのか。しかも単なる力押しではなく愉しんでいる。戦いを。
「おら、どうした? こんなもんかよ、マセガキ! 何ならまた神術を撃ってもいいんだぜ? 次も当たらねえと思うがなあ」
交差した刃の向こうでニタニタ笑いながら、ファリドがややタレ目がちの黒眼を眇めた。見え透いた挑発だ。エリクはそういうものに感情を揺さぶられるタチではないから問題ない。けれど、
(俺の戦い方も向こうに読まれている……このままだと勝ち目はない……!)
カタカタと互いの刃が鳴るのを聞きながらエリクは切歯した。
ファリドの言うとおり、エリクは理詰めで戦うタイプだ。
常に相手の裏を掻けるよう考え、先制する。だが目の前の男はエリクの考えなどすべて見通しているようで勝ち筋が見えない。ここで神術を放ったとしても、たやすく躱され反撃の糸口にされるだろう。そうなればますます相手の思う壺だ。
しかし鍔迫り合いが長引けばいずれエリクが押し切られる。
駄目だ。思考を巡らせろ。
どうにかしてファリドの予想を覆さなければ、自分は──
(……予想?)
そうだ。ファリドは予想している。エリクが頭脳で戦う戦士だと。
つまりこうしている間にも、エリクが必死に策を巡らせていると予想しているわけだ。それを敢えて裏切らなければいいのでは?
予想どおりの男であることを逆手に取ればいいのでは?
「──ラヴィニア、今だ!」
思いついた瞬間、エリクは迷わず叫んでいた。
呼ばれたラヴィニアが「えっ」と驚いたのが分かる。彼女がいる独房はすぐそこで、鉄格子の間から手を伸ばせばファリドにだって触れられるはずだ。
「さっきの〝アレ〟を、早く──」
とエリクが続けざま叫んだところで、不意に剣が軽くなった。
ファリドが自ら跳び離れたのだ。──想定どおりだった。
ファリドはエリクが策を弄して戦う男だと知っていたから、本当に何か策があると判断して危険を回避しようとした。だがその判断が命取りだ。エリクには策なんてない。ないものをあるように見せかけただけだ。
ラヴィニアは〝アレ〟なんて知らない。
「な──」
初めてファリドの余裕が消えた。
彼が跳びずさって牢から距離を取ったとき、エリクは既に懐にいた。
ファリドが下がると予想していたから、彼と同時に飛び出したのだ。
最初で最後の隙。一瞬の迷いもなく、下段から剣を振り上げる。
「てめえ……」
斬り込む寸前、姿勢を低くしたエリクを見下ろしてファリドが笑ったような気がした。しかし直後に噴き出した血飛沫がエリクの視界を遮ってしまう。
返り血を浴びながら、エリクはすぐさま背後へ跳んだ。
そして思わず眉をひそめる。仕留め損なったと手応えで分かったからだ。
ファリドはエリクの剣が上体を裂く直前、ギリギリのところで半歩下がった。並の反射神経ではない。おかげでエリクはファリドの息の根を止められなかった。
が、重傷は重傷だ。ファリドは二、三歩よろめくようにあとずさると、うなだれながら肩で息をした。シャムシール人のものにしては清潔感漂う白い上衣を真っ赤に染めて、されどファリドは笑っている。
「くっ……くくくく、はははははははは……! やるじゃねえか、雷雄の倅! こんなに自分の血を見るのは久しぶりだぜ……!」
──あの傷でまだ倒れないのか。
如才なく剣を構え直しながら、エリクはぞっと戦慄した。
大きく斜めに斬られた傷からはドクドクと血が溢れているのに、ファリドは苦しむどころか大層愉快そうに放笑している。
この男、やはり普通ではない。彼なら本当に無敗のガルテリオ・ヴィンツェンツィオをも打ち負かすかもしれない。だがそれだけは阻止しなければ。
シャムシール人が東の防壁を突き破り、トラモント黄皇国へ雪崩れ込むようなことがあれば、ここでラヴィニアを救っても意味がない。
「すみません、王子。お命頂戴します」
足もとから這い上がってくる怖気を振り払い、エリクは終わらせる覚悟を決めた。今度は剣を上段に構え、一気に踏み込もうとする──ところが、ドッ、と。
刹那、背中に衝撃が走った。何だと思って振り向けば、ひどく小柄な人影がエリクに寄り添うように密着している。
ラッサ。彼女が手にした小振りの短剣が、エリクの腰に突き刺さっていた。
「エリクさん……!!」
ラヴィニアの悲鳴が轟く。ぐら、と視界が揺れるのを感じながら、しかしエリクは踏み留まり、ラッサを捕まえようとした。
が、彼女はすぐに跳び離れ、右手が虚しく宙を掻く。刺した短剣を拈る暇はなかったのか、あるいは人殺しの知識はなかったのか、ラッサは逃げる際に短剣を引き抜いた。おかげで傷から血が溢れ、エリクはあまりの激痛に一瞬気が遠くなる。
「いや……そんな……!! エリクさん……!!」
倒れそうになる体を、地面に剣をついて何とか支えた。
呼吸するたびに抉るような痛みが走り、息を吸うのもままならない。
朦朧としながら視線を巡らせると、ラッサがファリドへ駆け寄っていくのが見えた。彼女もついさっきまで気を失っていたはずだが──不覚だ。
目の前の敵に気を取られるあまり、背後の守りをおろそかにするなんて。
「ファリド、ファリド! しっかりして……!」
「ラッサ……お前、何を……」
「こんなところで死んじゃヤだよ! だって約束したじゃない、今度はふたりでテペトル諸島の一番高い山から世界を見渡そうって……!」
ラッサは頬を濡らしながら瀕死のファリドへ縋りついた。
彼女が大声で城兵を呼んだりしたら、エリクは今度こそ万策尽きる。
そうなる前にファリドだけでも。そう思った直後だった。
何の前触れもなく、ラッサの背中から刃が生えたのは。
「え……」
己の胸を貫通した曲刀を見下ろして、ラッサが信じられないものを見たような顔をしている。次いで彼女は震えながらファリドを見上げると、いびつな笑みを作って言った。
「……ファリド?」
「奴隷ごときが、俺の楽しみを邪魔してんじゃねえよ」
ぞくりと底冷えするような声が響く。己の愛妾を冷徹な眼差しで見下ろした男は、そのまま手にした曲刀を横に薙いだ。途端にラッサの胸から血が噴き出し、巻き添えを食った右腕がごとりと肩から落ちていく。一拍遅れてラッサの体も血の海に沈んだ。口から血を吐き、虚ろな目をした彼女はもう動かない。
「興醒めだ」
と、やがてファリドが吐き捨てた。
「邪魔が入ったんで、もういい。気が削がれた。てめえらも好きにしろ」
そう言ってラッサの血で濡れた曲刀を肩に担ぎながら、彼は身を翻す。
「この洞窟の突き当たりに天然の地下道に通じる穴がある。一応荷物で隠してあるが、まっすぐ行けば枯れ井戸の下に出るはずだ。運良く縄梯子かなんかがあれば、そこから地上に出られるかもな。お互い生きてたらまた戦ろうぜ、エリク」
足もとの角灯を拾い上げ、ファリドは闇へ向かって歩き始めた。
その腰からチリン、と何か小さなものが音を立てて転がり落ちる。
それは鉄製の鍵だった。恐らくは独房の鍵だろう。
エリクは痛みに息を詰めながらファリドを見やった。尻尾のような黒髪が垂れた彼の背中は、あっという間に闇に呑まれて見えなくなる。
途端にどっと全身から汗が噴き出してきて、呼気が震えた。
──なるほど、あれは確かに〝放蕩王子〟だ。




