22 ミリーの怒りゲージ起動......
始業の鐘が鳴るまでまだ時間があるなか、ネルカは既に校舎の中へと歩いていた。ミリーを待ちきれなかったのである。平民寮迄迎えに行こうかとも考えたが、まだそこまで深い仲でもないので自粛した。残念でも常識はある。ゲイルとは違うのだ。ゲイルとは。
「おはようございます、ネルカ様」
「おはよう、ファーノさん」
玄関を通りすぎた辺りで休養日に一緒に校外へとお出掛けした友人の一人、平民のファーノ・リスランと出会う。
休養日でのお出掛けでは貴族の令嬢が平民と共にお出掛けするのかと問われたが、我が愛しのミリーちゃんは奴隷。平民さえ差別してしまえば、ミリーから信頼されないかもしれない。そう思えば貴族のプライドなんて自分のプライドのうちには入らない。色々と言いくるめて貴族と平民との間のわだかまりをほぼ解消した。徐々に味方を増やしてゆくゆくはミリーちゃんを……。
「どうかなさいましたか?ネルカ様」
「何でもないよ」
危うく顔に出るところだった。冷静に冷静に。
「もう一週間たつけど、学校はどう?」
「ええ、とても楽しいです。私、学校に通ったことが無いだけに一層」
ファーノはルミンと言う港町出身で、父親は貿易商船の乗組員、母親は町の役所の受付をしている。本来であれば学校に通える機会など手に入らないはずだったが、本好きだそうで町の図書館によく入り浸っていたらしい。その事が町長の耳に入ったそうで、磨けば大成するかもと感じた町長がルミンを配下に治めるディグリット子爵に推薦し、晴れて入学を果たした。聞くところによると前世は王宮に仕えたことのある魔術師らしい。努力の結果が幸運に結び付いた例だとも言える。これで魔術師方面に成長できれば彼女だけでなく、ルミンの町長もディグリット子爵も見る目ありと評価されるだろう。
ふと思い出したようにネルカが確認をとる。
「休みのときにも言ったけど、ミリーちゃんのこと、納得出来なくてもよろしくね?」
「他でもない姫騎士リズ様のお言葉ですから違えませんよ」
「もう。リズは前世。今はネルカだよ!やっぱりその呼ばれ方はこそばゆいなあ」
ファーノのからかいにネルカが頬を膨らませる。
それでいて、休養日に頼んだことが少なくともファーノは守ってくれそうなことに安堵した。少なくとも一人はミリー差別には荷担しない。この波を広げていけばミリーから信頼を得ることができる。この頼み事は、クラスメイトとかかわりを持つたびに前々からネルカが自主的にしていた。ゲイルに話を出す時点で既に動いていたのである。
ミリーが心を開いてくれるのにそう時間はかからないんじゃないかと感じたネルカは思わず浮き足だった。
教室の前にたどり着き、ファーノがネルカのために扉を開けようと手を伸ばしたところで彼女の手が止まった。
「どうしたの?」
「いえ……、妙に静かだなあと思いまして……」
言われてみれば教室から物音ひとつ聞こえてこない。思わずファーノと顔を見合わせる。ただ、待っていてもらちが明かないからとネルカは扉を開いた。
「…………」
思わず固まる。ネルカだけでなくファーノも。
教室に居る人間は無言で遠巻きにある場所を見つめていた。そこはネルカの席だ。今一人の男がネルカの席と向き合っている。比喩ではなくそのままの意味で。その男は手に雑巾を握り、せっせとネルカの机を椅子を拭いていた。
それからすぐにネルカに気付き、雑巾を後ろのポケットに突っ込んで駆け寄り、傅いた。
「おはようございます、ネルカ様。お席の清潔を保たせていただきました」
ゲイルだった。
唖然として何も口に出来なかった。
「今ちょうど清掃が終わりました。どうぞお使いください」
道をあけ、しかし傅く姿勢はそのまま。ネルカはゆっくりと口を開く。
「何してるの?」
「お席の清潔を保たせていただいただけです。何か不備がございましたでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて……」
質問が悪かったのだろうか?何でそう畏まるの?
ネルカは困惑で言葉を結べない。
しばらくして教室の別のドアが開き、少女が入ってきた。
ミリーだ。
ミリーは教室の異様な空気にすぐさま気付き、こちらに目を向ける。何かを察したのだろう。ネルカに対して目を細めた。
(やめて!そんな目で見ないで!ゾクゾクしちゃうっ!)
ミリーはネルカの心など知るよしもなく、目付きを変えず大股で近寄ってくる。
表情の変化こそ乏しいものの誰もが不機嫌になったと感づいた。
「何をなさったのですか?」
「ええっと……」
声のトーンが微妙に違うために戸惑いうまく言葉を結べない。
(そ、そんな言い方しないで!もっとゾクゾクしちゃうっ!)
脳内は相変わらず残念なご様子。
大した返答もなかったのでミリーはゲイルの方を見た。
「ゲイル様。何があったのですか?」
分かりやすくトーンが変わった。ゲイルは先程とは打って変わって、慌てた様子になる。
「いや、リーゼロッテ様のお世話を……」
「何故?」
「ミリーを守ってくれるお約束をしてくれただろ?そんな恩人に対してお礼をするのは当然だろ?だから行動で示そうかと……」
約束に恩も何もないはずだが、ゲイルの思考回路は相変わらず飛躍していた。
「ゲイル様。貴方は侯爵家次期当主のお自覚はありますか?」
「侯爵も何もリーゼロッテ様に対して……」
「自覚あるのかって聞いてる」
ついに敬語がなくなった。不機嫌を通り越して怒ってる。奴隷のはずなのにこの時ばかりは不敬な口調に対して口を挟む度胸は誰も残していなかった。
ちなみにネルカの心情。
(その目。その口調。私にも向けてくれないかな?でも嫌われたくないし……)
他事を考えていた。
「……申し訳ございません」
ゲイルの方が敬語になってしまった。
「ネルカ様もお困りの様子です。今後このようなことがありませんように」
「でも……」
大きな溜め息が出た。普段嘆息するにしても小さく済ませるミリーから。ここまであからさまな態度はゲイルですら初めてだった。
「前世に自信がないのは分かりますが、それでもゲイル様はゲイル様です。ゆくゆくはフォアワード侯爵家を継がれるお方です。そのような方がそう易々と傅いて赦されるとでもお思いですか?」
「思いません……」
「では次からはなさらないでくださいね?」
「…………」
「いいね?」
「は、はいっ!」
ゲイルが慌てて立ち上がり姿勢をただす。
「ネルカ様。授業直前にお騒がせしてしまい申し訳ございません」
「い、いいよ!こっちも気にしてないから!」
突然声をかけられ慌てて返答する。
「ゲイル様。席に戻りますよ?」
「はい!」
本当にどちらが主人なのだろうか?ミリーに言われ、慌ててゲイルが席に戻った。
「あの……、ネルカ様?大丈夫でしょうか?」
「私は大丈夫……。ゲイル君の今後の方が心配かなあ…………」




