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蒼とリュナと青と

作者: ひがら

     ‡


 十五歳の少女の精いっぱいの力で、リュナは船長室の柱にしっかとしがみつく。それ以外にできるのは、ほっそりとした顔を青ざめさせて、父のいない真っ暗な空間をむなしく眺めることだけだ。

 嵐の海が、こんなにもひどいものだったとは。――

 荒波は絶え間なく船に打ちつけて、頑丈なはずの壁板がひっきりなしに悲鳴をあげる。

 床は一瞬たりともじっとせず、海から放り出されそうに持ち上がったかと思うと、次の瞬間、地獄の底までひきずりこまれるかのようにどこまでも落ちていく。

「ああ神さま、神さま!」

 暗闇のむこうから、母の泣き声が聞こえた。

 リュナはきつく目をつぶった。歯を食いしばって顔をねじる。おろした髪の中に少しでも顔をうずめようとする。

 それでも母の泣き言は聞こえてしまう。

「わたしじゃありません、わたしを海に連れてきたのは夫です! わたしじゃありません、お許しを、お許しを!」

 ――どうして。

 そんなひどいことを言うのだろう。リュナは、なりふりかまわず泣きわめく母の姿を想像して、歯を食いしばる。けれども震える歯はかちかちと鳴るばかりで、こみあげる思いをうまくかみ殺してくれない。

 だから少しも静まらない――恐怖と、そして怒りは。

 リュナは耳をふさぎたかった。だがいま柱から手を離してしまえば、床を転がり壁にたたきつけられて、簡単に体中の骨が折れてしまうにちがいない。

「母さま、やめて!」

 リュナは叫んだ。

「父さまはいま、外でこの嵐と戦っているんだから!」

「知ったようなことを言うんじゃありません!」

 母の金切り声は、今度はリュナにむけられた。

「あの人があんなばかげたことを、アトロスタンへ引っ越しだなんて考えつかなければ、こんな目には遭わずにすんだのよ! なにもかもあの人のせい、あの人のせいよ!」

「母さま!」

「わたしはいやだって何度も言ったのよ! 磯くさい港町も、ひねこびた南島も、絶対にいやだって! それを、あの人が――」

 そのとき、船がほとんど逆立ちしたかと思うほど、床が大きく傾いた。

 一瞬体がもっていかれそうになって、リュナは本能的に足を動かし、さらに柱に体を密着させる。踏むというより蹴とばしたのは、もしかしたら床ではなく壁だったかもしれない。

 天井の上を逆巻く波が越えていく轟音がとおりすぎ、水滴がぽたぽたと床を濡らす。

「もういやあ!!」

 ひときわ甲高い母の声のほか。

「オヤジ!!」

 風と波の轟きをついて、頭上から別の叫び声が落ちてきた。

 恐怖でもない、悲嘆でもない、そんなものをすべて塗りつぶした絶望ひといろのその声が、いまにもあふれだしそうだったリュナの涙を押しとどめた。

 あまりに強すぎる感情はかえって涙を消すのだと、生まれて初めてリュナは知った。



 柱にしがみつくことしか考えなくなった意識のどこかで、ふっと波がおだやかになった瞬間を覚えている。

 いつのまにか眠ってしまっていたリュナは、そんな記憶とともに目を覚ました。

「……終わったんだ……」

 灯りのない船長室は暗いが、真っ暗ではなかった。ほのかに外の光が感じられた。床も元どおり平らになって、嵐のときとはまったく別物のような波が、おだやかに船を揺らしている。

 柱に押しつけていた頬が痛かった。赤くなっているか、悪くすると痣になって青くなっているかもしれない。しかしいまのリュナには、そんなことはどうでもよかった。

 母は吊り寝台にもぐりこんで、やはり眠っているらしい。寝息が聞こえる。

 リュナはそっと立ち上がった。

 船長の娘として恥ずかしくないようにと、母が買ってくれた新品の服はひだをたっぷりとってあって、脚にまつわりついて歩きづらい。船長室から甲板に出るのに、梯子と呼ぶほうがよさそうな狭くて急な船の階段を使わずにすむことを、リュナは改めて感謝した。

「わっ――」

 甲板に出た途端、照りつけたまぶしい日の光に、おもわず口から声が出る。反射的に顔をかばってあげた手の下からそろそろとのぞくと、リュナの父の船、海燕号は、真っ青な空と海のただなかを進んでいた。

 海はおだやかだった。ラーペルの港を出航したときと同じだった。

 ただ、船の様子は違っている。青い世界に映える白い帆はほとんどあがっていないし、なによりきびきびと働いているはずの乗組員たちの姿がない。よく見ると、甲板にある前後二本の帆柱の影に何人も横たわって、身動きひとつせず熟睡している。

 父さまは、とリュナは頭をめぐらせた。

 甲板の後部には、船長室がその中にある建物のようなもの――船尾楼が作られている。甲板より一段高くなったその上の場所を、乗組員たちは後甲板と呼んでいる。船長室を出た父はだいたいそこにいると、二日間の航海でリュナは知っていた。

 リュナはひきずりそうな裾をかるくたくしあげ、後甲板に出る階段をあがった。

「父さま――」

 だが、そこにいたのは、父とは似ても似つかない若い男だった。上着を脱ぎ、片膝を立てて、じかに床に座っていた。行く手を眺めていた浅黒い顔がこちらにむく。

 何度見ても見慣れない、この空と海とに染め上げられたかのように真っ青な切れ長の目に、リュナはまた改めて息を呑んだ。

「お嬢か。無事だったようだな」

 生粋のエルティア人と変わらない発音だが、語尾にはわずかに、聞き慣れない低く深い響きがまじっている。

 サイオルというこの船乗りの名を、リュナはこうして船に乗るずっと前から父に聞いていた。この国エルティアの人間ではなく、国を持たず、王を戴かず、自由に海に暮らすサトゥラ族だということだった。

「あ、うん……」

 顔を出した格好で止まってしまっていたリュナは、このまま後甲板へあがるか、それとも船長室へ戻るか、一瞬迷う。

 エルティア人にはない真っ青な目は、どこか人を寄せつけない印象で、リュナは彼が苦手だった。

 しかし、いまはほかに話せそうな相手はいない。リュナは決心して後甲板にあがった。立ち上がりもせずにまた行く手をむいたサイオルの横顔を見やる。

「あの、父さまは……?」

「海に落ちた」

 短い説明は、誤解しようがなかった。

 だというのに、リュナはうまくその意味をのみこめなかった。

 それでも勝手に頬がこわばる。頭からさあっと血の気がひいて、そのまま体の外へと流れ出していくような気がする。

「いま――なんて?」

 サイオルは目を閉じ、ゆっくりふりむきながら目をあけた。ひとたび消えていた青い光が、浅黒い顔のなかでひときわ鋭さを増していた。

「海に落ちたんだ。陸地は遠いし、あの嵐だ。生きているとは思えない」

 足から力が抜けた。がくん、とリュナはその場にへたり込んだ。

 ――アトロスタンで暮らそう。

 船から戻ってきた父はそう言って、家の壁にかけたエルティアの地図を指さした。

 エルティアは南北二つの島を主要な国土としている。北島はおおむね下向きにひっくり返った半月の形をしていて、内海をはさんで、こちらは三日月のように細長い南島がある。

 父の固くごつごつとした指は、北島にあるラーペルの港から内海を下に降りて、南島の東の端で止まった。

 リュナたちはずっと、ラーペルの港から丘をひとつ越えた村に住んでいた。父は、海燕号が港に戻ったときだけ家に帰ってきた。

 ――アトロスタンで暮らせば、おれももっと家に帰って来られる。南島は大陸との交易が盛んだし、アトロスタンはその一番の港なんだ。都に負けないくらい、大きな街だぞ。

 船なんて一度も乗ったことがないと母は渋ったが、結局は承知した。

 話がまとまると、父はエルティア王の呼び出しに応えるために船に戻った。母とリュナは荷物をまとめて、ラーペルの港の宿屋に移った。やがて海燕号が都から帰ってきて、リュナと母は初めて父の船に乗り込んだ。

 たった二日前のことだった。

「……うそ」

 リュナはつぶやいた。

 どこまでも続く蒼い空には、雲ひとつない。視界を埋め尽くす海も、そんな空をからかうように、小さな白い波しぶきを投げかけるだけだ。

 港では小山のように見えた海燕号は、いまはちっぽけな木っ端のようで、けれどもこの広い世界を楽しむように、張りめぐらされた太さも長さもさまざまな索具が、陽気に潮風にさざめいている。

 世界はこんなにもおだやかで、なにもかもが順調だった。

 だというのに、父だけがいない。

「うそだ……」

 やってきたサイオルに引き起こされた自分の体は、相変わらずどこにも力が入らなかった。自分ではない借り物のようだった。

「……うそ、だよ……そんなの……」

 リュナのつぶやきは無情に遮られる。

「いまのこの船に船長はいない。これからどうするのか、船を継ぐやつが決めろ」

 足もとがふわふわと頼りない。語尾がやけに響くサイオルのエルティア語も、なんだかほんとうに聞こえている気がしない。

 くしゃくしゃの裾の先からわずかにのぞく自分の新品の靴を見つめながら、ぼんやりとリュナは聞き返す。

「どうするって、なにを……?」

「この船をどこへ持って行くのか、誰の物にするのかだ。幸い、船はそう傷んじゃない。昨日の嵐でやられたところは、積みこんである資材で十分間に合う。だから、この船の権利を持つやつが、オヤジに代わって行き先を決めるんだ。都に引き返すのか、予定どおり〈三人娘ガルタトーリ〉にむかうのか」

 エルティア語ではないそのふしぎな地名も、リュナは父から何度も聞いていた。おかとはちがう海のことばがあるのだと、父は言っていた。

 それは都のはるか南、内海のただなかによりそって立つ三つの岩山の名で、都を出た船はここで東、南、西の航路に分かれる。

 そんな内海航路の要所をこの目で見られると、リュナは楽しみにしていた。

 ただし、それはあくまでも父が指揮する父の船に乗っているとしてのことだった。

「そんな……だってそんなの、父さまじゃなきゃ決められない」

「オヤジは、もういないんだ」

 彼の声が昨日の嵐のなかで聞いたものと同じだということに、ふとリュナは気づいた。のろのろと顔を上げる。

 真っ青な目がリュナを見つめている。

 ――サトゥラ族は、星を読み風を聞き海と話す、生まれついての船乗りなのさ。

 父は、サイオルという自分の部下を信頼しきっていた。

 なんとなく父と同年代の熟練の船乗りを想像していたリュナは、実際のサイオルが自分と五歳もちがわないような中背の若者だったことに驚いた。

 しかし、それ以外はリュナの想像どおりだった。この二日というもの、彼はしなやかな身ごなしで、空気のよどんだ甲板の下から目がくらみそうな帆柱の上まで見て回り、さらには父の相談相手も務めた。たいていの者は彼より年上だったが、誰もがサイオルには一目置いているようだった。

「……じゃあ」

 リュナは無意識に、彼の手をつかみ返した。

「戻ろう。父さまが落ちたところまで。父さまを捜さなきゃ」

 切れ長の目がわずかに細くなる。

「だめだ。そんなむだのために、食糧と水を費やすわけにはいかない」

 むだと言われ、リュナはかっとなった。

「ひどい! それでも父さまの部下!? 父さまはあなたを信頼して――」

 リュナの腕をつかむ彼の手に力が入った。

「嵐の海に落ちた人間は、海底の宮殿に迎えられるんだ! 二度と帰ってくることはない! オヤジはもう海の神が面倒を見てくれる、いま生きて船にいる人間のことを考えろ!」

 鋭い声と真っ青な目に圧倒されて、リュナは自然と黙り込む。

 サイオルの手が離れた。

「選択肢はふたつだけだ。〈三人娘〉にむかうか、都に戻るか」

 天頂高い太陽が、彼の短い髪を銀糸のように光らせる。

「都に戻れば、王の命令は取り消される。海燕号は、使い走りもできないまぬけのへぼ船ってことになる。そんな船に積荷を任せようって商人はいない。さっさと船を売って、みんなにはこれまでの給料を払って、それでおしまいだな。ただし」

 サイオルはことばをつなぐ。

「おまえたちはそれでいいだろうが、この船のみんなはちっともよくない。へぼ船のへぼ船乗りだなんて評判を立てられたんじゃ、次に乗る船をうまく見つけられるかどうか、あやしいもんだからな」

 強い陽射しがちりちりと顔に照りつけているというのに、リュナはぞっと寒くなる。

 海とは、なんと冷たい場所なのだろう。父の死を受け入れて悲しむ時間も、ここでは許してはもらえない。

 骨まで凍えるという真冬の海とはこういう色をしているのかもしれない、とリュナはサイオルの目に思う。

 どうあっても、もうひとつの道を選ぶしかないらしかった。

「……じゃあ、ガルタトーリまで行けばどうなるの……?」

「王の命令書を開けられる。どんな命令なのかは知らないが、民間船に託す程度のことだ、たいした内容じゃないだろう。それを果たして都に戻れば、船の評判を落とさずにすむ。それに、うまくいけばオヤジの次の船長として、王と《契》を結べるかもしれない」

 エルティアにおいて、主従の関係を結ぶことを《契》という。船長もまたその部下の船乗りたちと《契》を結んだ者であり、エルティア王とは、そうした契主たちを自分の部下とすることでこの国全体を治めている大契主でもある。

 もしエルティア王と《契》が結べれば、父の正式な後継ぎとして、これまでどおりの航海ができる。

 そうしたエルティアの仕組はリュナも知っている。けれども実際にそれをやれと言われれば、ただ呆然とするしかない。

「そんな、むりだよ……」

 《契》は男に限ったことではなく、王と《契》を結ぶ女の契主もいないわけではない。

 しかし、それは家という単位と資格で王に仕える貴族階級の女の話であって、船長のように個人の能力をもって王に仕える自由民階級では聞いたことのない話だった。

 そもそもエルティアの女は滅多に海には出ない。リュナにしても母にしても、海も船もこれが初めてで、しかも最後になると思っていたくらいだ。

「どうしてサイオルがそうしないの? 父さまはあなたを一番頼りにしていたのに――そうだよ、船主が母さまで、あなたが船長になれば」

「おれは、エルティア人じゃない」

「船長になるのに、そんなのは関係ないよ」

「そっちになくても、こっちにはある。おれがこの船に乗ったのは、ただオヤジが船長だったからだ。エルティアの船の船長になったり、エルティアの王に仕えるなんてまっぴらだ」

「でも」

「誰かを船長にしたいんなら、ほかのやつに相談しろ。船主が乗らない船なんて、おれは乗るつもりはない」

 ――サトゥラ族がエルティアの船に乗ってくれるなんて、こんなすごいことはないんだぞ。

 子どもと変わらないような無邪気な父の自慢を、リュナはありありと思い出す。

 ――サイオルがいるというだけで、海燕号の評判は上々さ。その上あいつは、どんなエルティアの船乗りよりも優秀な船乗りだ。あいつがいてくれるかぎり、海燕号は安泰だ。

 いまのリュナには、それがサイオルを失えば海燕号はなくなるという警告に聞こえた。

 父は昨日の夕方、風が吹きはじめた外に出て行った。

 行ってくる、いってらっしゃい。それだけだった。いつもの別れと変わらなかった。

 だから、またひょっこりと父が帰ってきそうな気がしてしょうがない。珍しい土産を持って、どこまでがほんとうでどこからがうそなのかわからない話をするために。

 けれども、もうラーペルの港に近い家はない。

 もし、父が帰るとしたら。――

「わかった」

 リュナは船長室に戻った。

 母が吊り寝台から不機嫌そうな顔をあげた。

「ばたばたと走りまわらないで、リュナ! 頭が痛いのよ、少し静かにしてちょうだい」

 ラーペルの港を出て以来、母はずっと船酔いを訴えていた。嵐のあいだはそれどころではなかったようだが、またぶりかえしたらしい。

 リュナはじっと、母を見つめた。

「父さまが、海に落ちたの」

 リュナと同じ灰色の母の目が、みるみる丸く、大きくなる。同じなのはそれだけではない。小さな鼻も、かるく上向いた唇も、ゆるい癖のある黒髪も、そしてすんなりした体つきも、リュナは完全に母親似で自分にちっとも似ていないと、よく父はくやしがった。

「なんてこと!!」

 リュナが次のことばをかけるより早く、母の目から大粒の涙があふれ出す。だが、それは悲しみのためではなかった。

「どうしたらいいの! 帰る家なんてどこにもなくて、しかもまだこんな船なのよ! これからどうすればいいのよ!!」

 枕をつかみあげ、母は何度も何度も寝台に叩きつけた。枕の縫い目が破れ、羽毛が散っても、母はまだ手を止めなかった。

「こんな無責任なこと! どうしろっていうのよ!!」

 母の顔は、自分の未来の心配で浅ましくゆがんでいる。なにもかもリュナとそっくりだという顔が。

 リュナは目を背けた。母を視界に入れないようにしながら、部屋の隅の衣類箱から父の服を取り出した。

 自分か、母がやるしかないというのなら。

 母にはできるわけがないと思うなら。

 ――わたしが。

 父の船を守るしかない。リュナは唇を噛みしめる。

 たいして多くない服から、リュナはなんとか自分の体に合いそうな物を選び出した。洗いざらしの半袖のシャツ、丈夫な短ズボン。ぶかぶかの腰は、無理やりベルトでしめつける。最後に丈長のベストを着込み、それでなんとか格好がついた。

「……なにをしているの」

 やっと手を止めた母の問いかけに、リュナはふりむくことすらしなかった。床に釘付けにされた机の引き出しから小刀をつかみ、ほとんど走るように船長室を出た。リュナがはくとふくらはぎまで来る短ズボンは、急な階段でも動きやすかった。

「サイオル」

 ゆっくりふりむいた真っ青な目を、ひるむ気持ちをぐっとこらえて、リュナはじっと見つめ返す。

「わたしが船長になって、〈三人娘〉に行く」

「了解」

 気抜けするほど短い返事に、こくりとひとつうなずいて、リュナは後甲板の一番後ろへ行った。腰まで伸ばした髪をひと房つかみ、持ってきた小刀でざっくり切って、手すりのむこうの海へと投げる。

 ――父さま。

 こみあげる涙は、乱暴に髪をつかんだ痛みでごまかした。泣いたらきっと、母と同じ顔になる。あんな顔には絶対になりたくない。

 ――海燕号は、絶対に守るから。

 リュナは次から次へと髪を切っては、海に投げた。

 ――わたし、がんばるから。

 投げた髪は風に散って、あっという間に蒼と青のはざまに消えていく。

 ――だから。

 帰ってきて、とつい自分のために願いかけて、リュナは頭を大きく振りながら最後のひと房を切った。



     ‡


 太陽が天頂にかかるころ、サイオルは甲板に据えられた鐘を鳴らした。甲板にいた者はもちろん、甲板に切られた昇降口からぞろぞろと、下の船室にいた者たちもやってきた。

 揺れる甲板をすばやくわたって後甲板に戻ったサイオルは、下の甲板に集まった乗組員たちに宣言した。

「これからは、リュナお嬢がこの船の船長になる。針路はこのまま、〈三人娘〉だ」

 サイオルはそう言ってさっさと下がり、代わってリュナを手すりに押しやった。

「っ――」

 新しい船長としてなにか言うべきなのだろう。だが、リュナの頭はすっかり真っ白になってしまった。

 ぽかんと後甲板を見上げた乗組員たちは、父の服を着込み、短くした髪をさらにひとつに束ねたリュナがなにも言わないと悟ると、横目にちらちらと互いの様子をうかがいはじめた。明らかにとまどっていた。

 やっぱり女の船長など認めてもらえないのかもしれない。かといって、どうすれば認めてもらえるのかもわからない。手すりに置いたリュナの手は、勝手にぶるぶると震え出す。

「しゃんとしろ。お嬢は契主だ」

 打ち寄せる波の音にまぎれそうなサイオルの小さな声が降ってきて、リュナがおもわずふりむきかけたそのとき、大男の乗組員が、肩を揺らして階段をあがってきた。彼はリュナの前に片膝をついてかがみ、自分の左の中指にはめた指輪に口づけた。

「リュナお嬢、《契》をお願いします」

 エルティアの成人した男はほとんど誰でも、ときには女も、《契》を結んだという印に左手の中指に特別な指輪をはめる。契主に忠誠を尽くすという誓いは、その指輪に口づけることで立てられる。

 うれしすぎる申し出に、リュナはかえって固まってしまってなにも言えなくなる。

 大男は顔をあげた。もじゃもじゃの髭の中の目は、悲しげな光をたたえていた。

「オヤジは、おれの甥を助けようとして、いっしょに海に落ちたんです。そのオヤジのお嬢が次の船長になるというなら、おれはこの船に乗せてもらわないわけにはいきません」

 リュナはこくんとうなずいた。

「……わかった」

「ありがとうございます!」

 大男は頭を下げ、もう一度指輪に口づけた。

 すると、ほかの乗組員もやってきて、リュナに《契》を求めた。大男のようにリュナの父への恩を語る者も、理由はなにも言わない者もあった。

 望んだ者が《契》をすませて戻ると、サイオルはもう一度甲板を見下ろした。

「どのみち、ここは海の上だ。どこかの港に着くまでは、みんなこれまでどおりに働いてもらう。いいな?」

 リュナとまだ《契》を結んでいない者も半数ほどいたが、承諾はよどみなく返ってきた。

「よし、だったら通常勤務に戻る。ただし、嵐の影響がまだ出てくるかもしれないから気をつけてくれ」

 そう注意してから、サイオルは具体的な指示を出しはじめた。

 話されているのはたしかにエルティア語だが、陸では聞いたことのない船上用語が多すぎて、なにを言っているのかリュナには四割方わからない。だが、もちろん乗組員たちはそうではない。それぞれの持ち場に散っていく。

 帆柱を支える格子状の縄をするするとのぼっていき、帆を結びつけた帆桁にとりついた者たちがいる。下には何もないただの丸太にひるむことなく、彼らは海に突き出た先へと進み、帆をひらく。帆は風をはらんでひるがえり、船はさらになめらかに進み出す。

 別の者たちは海水をくみ上げ、勢いよく甲板にぶちまけて、棒にぼろ布をとりつけたモップでごしごしとふいていく。濡れた甲板は陽射しをうけて、まぶしいほど光りはじめる。

 いつものように動きはじめた船上の光景に、リュナはふうっと息をついた。

「お嬢、いいか」

 気を抜けた瞬間にサイオルに呼ばれて、リュナはびくりとすくみあがった。それでもなんとかふりかえる。

 サイオルは、後甲板に作り付けの台に置かれた針路盤を見ていた。

 リュナもそろそろとのぞいてみる。

 それはいくつもの同心円を描いた木の板で、東西南北三十二方位に、中心から等間隔に小さな穴をあけてある。木のピンを時間ごとに針路方向の穴にさすことで、船のこれまでの針路の変移が一目で確認できるようになっている。同心円のほかに速度を記録するための穴の列もあって、こちらにもこれまでの時間ごとの速度を示す木のピンがさしてある。

 台には、水深や陸地の特徴を記した海図もあった。このふたつを見比べれば船の現在位置がわかり、どちらに船をむけてどれくらい走れば目的地に着けるかも、すぐに割り出せるのだろう。

「昨日の嵐で、船は本来の針路からかなりずれた。いまはこのあたりにいる」

 サイオルは海図の一点を指さした。

 本来の針路と言われてもリュナは知らないが、それでもサイオルが指を置いた場所が三つの岩の絵からかなり北西にあることは理解できた。

「その上、風がよくない」

 え、とリュナはおもわずつぶやく。

「こんなに気持ちよく進んでいるのに……」

「方向が違う。東か、南東に行きたいんだが、いまは南にむかっている」

「……どうして?」

「逆風だからだ。風が変わったところで、東に舵を切る」

 サイオルは空を見上げた。

「いい風に変わればいいがな」

 祈るようなつぶやきの後、真っ青な目がリュナに戻ってくる。

「念のため、明日から水と食事はひかえめにしておくほうがよさそうだ。六分の五くらいか」

 六分の五だろうが八分の五だろうが、サイオルに従うよりほかにない。リュナは黙ってうなずいた。ただ、ひとつだけ気になったことを聞いてみた。

「……どうして、今日からじゃないの?」

 サイオルはしなやかに肩をすくめた。

「昨日は嵐で、その後は明け方まで修理に追われたんだ。まだみんな疲れてる。今日くらいは腹いっぱい食いたいだろうよ」

 そういえばそうだ、とリュナは思った。母はもちろん、リュナ自身もかるい船酔いで食欲があまりわかず、食べることに意識がむいていなかった。

 これからは、自分の体調よりも自分以外の者の体調に気を配らなくてはならない。そんなことができるのか、リュナは改めて不安になる。

 サイオルは頭を振り、首にかけていた紐をはずした。紐について服の下から出てきたのは、鈍色の鍵だった。

「オヤジからあずかった、予備の鍵だ。もうこれひとつしかない。だからいつでも首にかけて、絶対になくすな」

 さしだされた鍵を、リュナは両手で受け取った。

「これで開く船長室の机のひきだしに、命令書が入ってる。〈三人娘〉を越えるまで開けるんじゃないぞ。開けるときも、おれでもほかの誰でもいい、誰かの前で開けろ。そういう決まりだ」

「……わかった」

「じゃあ今度はおれが休む番だ。なにかあったら起こしてくれ」

 そう言うとサイオルは、海に一番近い船尾の手すりの前で、脱いだ上着を顔にかけて寝ころんでしまった。

 そんな行動に驚いたせいで、ひとつ気になっていたこと――サイオルは自分と《契》を結んでくれるのかどうかを、聞きそびれてしまった。リュナは細く息をつきながら前をむき、紐を首にかけた。胸に落ちた鈍色の鍵は、実際よりもはるかに重く感じられた。

 甲板の乗組員たちは皆きびきびと働いていて、問題はなさそうだった。

 リュナは船長室に戻ってみた。

「……なに、あのうるさい鐘の音は」

 吊り寝台から、母がのろのろと体を起こした。

「それにその格好。どういうことなの」

 頭から足までじろりと、リュナの何もかもが気にくわないといった目つきでにらむ。

 リュナは戸棚を開けて、父が出ていく前にしまいこんだ椅子を引っ張り出した。机の前に置いて座る。これで、吊り寝台からはほとんどリュナの背中だけしか見えない。リュナも母の姿を見ることはできない。

「父さまの代わりの船長が要るんだって。だから、わたしがなることにしたの」

「まあ、なんてこと!」

「だけどそうしないと」

 リュナはことばを選ぶ。

「この船は、売るしかなくなるみたいんだもの」

「だったら売ればいいでしょう! リュナ、早くラーペルへ戻るのよ。元の家を返してもらいましょう。ね、そうしましょう」

「母さま!」

 リュナは声を大きくした。

「どうしてそんなことが言えるの! この船は、父さまが残した父さまの船なのに。それに船があれば、父さまを捜せるじゃない」

「嵐の海に落ちた人が生きているわけがないでしょう!」

 母は泣き出した。激しい怒りまじりの涙ではなく、弱々しいすすり泣きだった。

 さすがにリュナはふりむいた。

「泣かないでよ……母さま」

 机に置いたリュナの手は、無意識にきつく握り込まれる。泣きたいのはリュナも変わらない。けれどもこの瞬間にも船は動いていて、父と《契》を結んだ乗組員たちが乗っている。父の遺族として責任を継げと言われている。泣いている暇などないのだ。

 母の顔があがった。

「なんて冷たい娘なの! こんなひどいことが起きたのに泣くなだなんて! いつもそう、おまえはいつだってそうなんだから! こんなにわたしからいろいろもらっておいて、どうしてそんなに冷たくできるの!」

 振り乱した黒い髪の下で自分をにらみつける顔から、リュナは目をそらせ、後甲板へ逃げ出した。外のきつい陽光にさらしつづけていれば、自分の黒い髪も少しは色あせてくれるかもしれないと思った。

 日が傾きはじめたころにサイオルは起きたが、リュナは先ほど聞きそびれた質問を、なぜだかもう口にできなかった。



 翌日、南風が吹いた。船は針路を変え、頭に布を巻いたサイオルが後甲板の針路盤のピンを東の穴に差し込んだ。

 南の風は妙にじっとりと生暖かい。風が吹き抜ける後甲板に立っていても、リュナは肌が汗ばんでいつまでも乾かない気がした。

 お嬢、と、針路盤に視線を落としたままサイオルが呼んだ。

「後甲板にいるなら、なにか頭にかぶっとけ。水が足りないんだ、暑さにやられると困る」

 嵐のせいで海水が入りこんだ水樽が、新たに見つかっていた。

「わかった」

 リュナは帽子を取りに船長室に戻った。

 母が、吊り寝台に上体を起こして座っていた。

「喉がかわいたわ。リュナ、お水をもらってきて」

 リュナは顔をしかめた。

「母さま、いまは水を節約しているの。朝ご飯のときにもらったでしょ。あれは?」

「もう飲んだから言っているのよ! こんな暑い日に水も自由に飲めないなんて、いったいどうなっているの!」

 肌を焼く陽射しこそないが、暑さは船長室のほうがひどいかもしれない。小さな船尾窓はほとんど役にも立っておらず、閉じ込められた空気全体が、むわっと熱気を帯びている。

「母さまも、甲板に来たら」

「頭が痛いのよ。リュナ、コップに半分でいいからもらってきて」

「だめだってば。みんな、がまんしているんだもの」

「たったの半分よ!」

「みんながそう言って飲んだら、節約にならないじゃない!」

 リュナはつい声を荒げた。

 まだ〈三人娘〉にも着いていない。密封された命令書に記された行き先次第では、さらに何日も航海することになる。余分な水などどこにもなかった。

 だが母はそんなことにかまってはくれなかった。

「わたしに渇き死にしろって言うの!」

 今朝、リュナは一日分の水が入った革水筒を渡され、ベルトにつけていた。すでに何度か飲んだが、まだいくらか残っている。リュナは無言で革水筒を母に押しつけ、代わりに自分の帽子をつかんで船長室を飛び出した。

 後甲板に戻ろうとして、だがリュナは足を止めた。

 二本の太い帆柱の先、船尾のものよりはずっと小さい船首楼が見える。厨房はそこの階段の下にある。

 リュナは一瞬迷い、だがすぐに船首にむかって甲板を歩き出した。

 距離自体はほんの三〇歩程度だが、陸地と甲板では勝手が違う。ゆらりゆらりと前後左右上下に揺れる頼りない足もとに気をつけ、働く乗組員たちの邪魔にならないよう、リュナは慎重に進む。甲板に切られた格子窓から、船底にしみこんだ海水を捨てるポンプを動かす音が聞こえていた。

 どうにか船首楼について、リュナは階段を途中まで下りた。女のリュナでも頭をぶつけそうな切り戸の上の縁材に手をかけ、厨房をのぞきこむ。

 陸の感覚からすると船の部屋はどこも狭いが、厨房は特にそうだった。空間の半分を占める煉瓦造りの竈には火が入って大鍋がかけられ、料理番の少年がほとんど固まりのように感じられる熱のなかで、くるくると働いていた。

「水樽は、ほかは大丈夫だった?」

 少年が手を休めてふりかえる。額の汗をぬぐいながらの口はしの微笑は、浮かんだものか、浮かべたものか。

「ああすいませんね、お嬢。奥のほうのは、まだいくつか調べてなくって」

 リュナはうなずき、切り戸から手を離した。

 やはり余分な水などどこにもない。どうやって母をなだめようか考えはじめたリュナの背に、少年のぼやきがぶつかった。

「……あーあ、この暑さで六分の五かあ。オヤジならもうどこへ行くかわかってて、これが何日続くかくらい教えてくれたんだろうけどなあ」

 それは完全なひとりごとで、少年はリュナがまだ階段にいると気づいていなかった。ため息に続いて鼻歌が聞こえてきた。

 リュナは音を立てないようにしながら階段をあがり、後甲板に戻った。

 まだサイオルがいた。どことなく不機嫌そうに、行く手の空を見やっている。

 少しためらってから、リュナは声をかけた。

「どうして〈三人娘〉まで行かないと、命令書を開けられないの?」

 サイオルはふりむきもしなかった。

「エルティアの慣例は、おれは知らない。ただ、いつかオヤジが、都は王がくしゃみひとつしただけで、やれ病気だ後継ぎだと騒ぎ出すやっかいな場所だと笑ってたな」

 それ以上の説明はなさそうだった。リュナは自分で考えてみるよりほかになかった。

「えっと……だから、命令書の内容が都の誰かに知られたら、もっと大騒ぎになるっていうこと? だから行き先をぎりぎりまで、誰にも教えないの?」

「王だなんてややこしいものがする、ややこしいことなんて、おれは知らない」

 最初の印象そのままのそっけないサイオルの態度にも、リュナは慣れはじめていた。だから正解を求めることはあきらめた。

 ちょうどそのとき甲板で起きた、異変に気をとられたせいでもあった。

「なんだ」

 サイオルも気づいた。

 甲板の下から、険しい顔をした乗組員が出てきたかと思うと、彼に襟首をつかまれて別の乗組員がひきずりだされた。力なくうつむいた髭もじゃの大男は、リュナと真っ先に《契》を結んでくれた乗組員にまちがいなかった。

 彼をひきずりだした乗組員と、集まってきたほかの者の顔つきに、不吉な予感がわきあがる。風に散って後甲板のリュナにははっきり聞き取れないが、こぶしをふりあげたりして、なにか文句を言っているらしい。

 いつのまに甲板に下りたのか、サイオルが彼らのなかに割って入った。騒ぎは少しばかりおさまった。サイオルと最初の乗組員がなにやら話し合い、その間、大男はひざまずいてうなだれている。

 サイオルが大男に顔を向け、なにか言った。

 集まった乗組員たちが、大男を囲んで船べりへと追いやった。

 うなだれた大男は、そこにある帆柱へと張られた格子状の縄をのろのろと三分の一ほどのぼり、あきらめたように止まった。

 なにかの仕事とはとても思えなかった。

 大男がつかまったせいか、格子状の縄はふらふらと不安定に揺れている。船が切った波飛沫が跳ねて、きらきらと光っている。あの手がもしすべりでもしたら、彼はあっという間に海か甲板に落ちてしまうにちがいない。

 サイオルが戻ってきた。

 リュナはかすかに震える声で聞いた。

「……あれは、なに?」

 たいしたことではないといった様子で大男に目もくれず、サイオルは台の上をのぞきこんだ。

「《洗濯物》って言ってな。罰だ」

「えっ?」

「水を盗んだんだよ。暑さに負けたな」

 リュナは改めて、今日の暑さを意識する。

 あの大男が甲板の下で働いていたのだとしたら、きっと風が抜ける甲板よりも暑かったことだろう。あの体格では、皆と同じだけの、しかもいつもより少ない水では足りなかったことだろう。

「頭より腹のほうが偉くできてるやつもいるさ。放っとけ」

「……でも、いつまであんな場所に?」

「半日ってところか」

「それじゃ全然休めないじゃない!」

「鞭打って、明日一日じゅう寝込ませるよりはましだろうが。水の盗みは反逆の次に重いんだ」

「でも! あの人はあんなに大きいのに、あれっぽっちの水じゃ――そうだ、わたしの水を」

 手を腰に泳がせて、リュナはそこで、自分の分はすでに母に与えていたことを思い出した。

 顔は動かず、切れ長の真っ青な目だけが口ごもったリュナにむく。

「決まりを破った者が罰を受けないんなら、決まりを守って耐えた者はどうなるんだ?」

 海図をとんと指先で一度叩くと、サイオルは台から離れ、また甲板へと下りていった。

 リュナは彼を見送ることしかできなかった。

 ぼやいていた料理番の少年、縄につかまる大男。彼らの姿がぐるぐると頭をめぐり、体の内側がやけに冷えて感じられた。なにもできない自分のあまりの無力ぶりに震え出しそうだった。

 罰を受ける大男のことなど、ほんとうに洗濯物程度にしか思っていないような顔で、乗組員たちはそれぞれの仕事に戻っている。大男がひきだされたときの騒ぎからすると完璧すぎる無視は、おそらく、同じようにがまんができずに決まりを破った仲間への、彼らからの罰なのだろう。

「……ごめんなさい……」

 リュナは彼らに、そして縄につかまった大男にあやまった。

 父がいまも船長でいれば、きっと水を盗ませるようなことはさせなかったにちがいない。誰かに決まりを破らせ、それによって乗組員をますますいらだたせることなど、決してしなかったにちがいない。

 父ではなく、船のことなどなにも知らないリュナが船長だから、こんなことが起きてしまった。

「ごめん……」

 リュナはふたたびあやまった。

 突然、まるでその声が聞こえたかのように、甲板にいた乗組員たちが、驚いたような顔を一斉にふりむけた。ただし視線はリュナではなく、もっと下にむいていた。

 彼らがなにを見ていたか、すぐにリュナにもわかった。

 片手には革水筒、もう片手には長い裾をつまみあげた母が甲板に現われ、苦労しながらも船首楼にむかっている。

 リュナには後ろ姿しかわからないが、表情など見る必要もなかった。どうしてこれだけしか水がもらえないのか、厨房に怒鳴り込みに行くつもりだ。

「母さま!」

 リュナは手すりから身を乗り出して叫んだ。

 聞こえていないのか、リュナと同じ黒髪をなびかせて、母は止まらなかった。

 ――もう、いやだ。

 自分は母すら止められない。自分のせいでこのあとに起きる騒動を、これ以上見たくない。リュナは、母がいなくなった船長室に逃げ込んだ。

 ばたんと扉を閉め、後ろ手にもたれて肩で息をつく。体ではなく心の疲労が、全身をぐったりとさせていた。リュナはのろのろと顔をあげた。

「――」

 そこに、まるでリュナを待ち構えていたかのようにして、机があった。

 右のひきだしには、命令書が入っている。それにはどこへ行けばいいかが書いてある。行き先さえわかれば、サイオルがすぐに到着までの日数を割り出すだろう。皆もいつまで我慢すればいいのかがわかるだろう。

 リュナはふらふらと、泳ぐような足取りで机に近づいた。

 陸を離れ、船は海の上だ。いるのは海燕号の乗組員だけ。命令の中身を触れまわる野次馬など誰もいない。そもそもそんな場所がない。

「……見ても、誰にも迷惑なんて……」

 むしろ、この船の皆が助かる。

 〈三人娘〉を過ぎなければ目的地がわからないなどという、こんな意味のない決まりを守ってもしかたないと、きっと誰もが思っているにちがいない。

 それに――リュナは息をつめる。

 もし、行き先を教えられたら。

 自分も、役に立てる。

 リュナは首のひもに手をかけた。束ねた髪をくぐらせて、首からはずした。鍵穴へ鍵をそろそろと近づける。緊張した指さきがぶれて一、二度ねらいをはずした後、鍵はすっぽり鍵穴へとおさまった。右にひねる。かちりと、音。

 心臓が口から飛び出しそうだった。同じくらい激しく脈打つこめかみも、ずきずきと痛んでいまにも切れそうな気がした。

 リュナは鍵から手を離し、音が立たないように慎重にひきだしをあけた。

 ひきだしの幅にほぼぴったりの、平たい油紙の包みが入っていた。

 リュナはごくりと喉を鳴らして包みを取り出した。

 油紙には青のリボンがかけられ、金色の封蝋が施されてあった。

 座ることも忘れていた。リュナは波に揺れる床に足をひらいて立ったまま、苦労しながら小刀を封蝋の下に入れた。封蝋は油紙にぴったりと貼りついていた。細いはずの小刀の刃が、いまはやけに無様で分厚くて、いらいらする。さすがに油紙を破いたり、封蝋を割ったりはしたくない。なんとかきれいに封蝋をはがそうと、リュナは息を詰めて小刀の刃の先に集中する。こめかみに汗がにじむ。

 かすかな手ごたえ――はがれた。

 胸の中で跳ねまわる心臓を必死に静めながら、リュナはリボンをとった。油紙をひらくと、たたまれた青い布地と、筒と、小箱があった。リュナはまず筒をあけた。中の丸めてある紙をひっぱりだし、ほかの物は小脇にかかえて、紙を両手でひろげる。

 淡い乳色の高級紙にはエルティア王家の紋章が箔押ししてあった。宮廷書記の手による装飾文字が記されて、最後に王の個人印があざやかな青色で押されている。命令書など見たことがない者にも、この紙の特別さがすぐにわかるようになっている。

 リュナは急いで流文字を読もうとした。だが、かっと血ののぼった頭に、なじみの薄い華麗な装飾文字はなかなか入ってこない。命令、エルティア王、カドナーン、とたどたどしく単語を拾いあげてゆく。

 扉がノックされたのはそのときだった。

「なにかあったのか?」

 サイオルの声だった。

 リュナはとっさに声が出せなかった。全身どころか頭のなかまで凍りついて、振り向くこともできなかった。

「おい、大丈夫か?」

 扉があく。息をのむ気配。乱暴に扉がたたきつけられる音とほぼ同時、おもいきり手首をつかまれて引っ張られる。

「っ――!」

 強引にふりかえらされたすぐ目の前に、サイオルの真っ青な目があった。

「……なにをした」

 喉がからからだった。声の出し方自体思い出せなかった。

 手首の痛みが遠かった。自分とはまったく無関係なもののようだった。その先の手のしびれも、もぎとられた包みも、そこから長く垂れ下がった青のリボンも。

 怖い。ただそんな、純粋な感情だけがリュナを支配する。怖い、怖い、怖い。馬車にひかれた蛙を見たときのように、危ないだとか心配だとか、そんなはっきりした理由はなにもないのに、体が自然と震え出す。

 だしぬけに手首が放された。

空間にリボンが跳ね上がり、あざやかな青の残像を残して舞う。しゅるしゅると元の位置に戻っていく。

「……誰にも見られてないだろうな」

 残像よりも青い目がリュナを見つめた。リュナは答えられない。真っ青な目は扉を振り返り、閉じられたままの船窓を見やって、またリュナに戻る。

「なんで、こんなことをした?」

 船までリュナを責めるように大きく傾いだ。リュナはよろけた。床に手をつく寸前、強い腕に抱き止められた。

 きい、きい、と母がいない吊り寝台が規則正しくきしむ音が、頭の中いっぱいに広がっていく。その音が怖くて、一瞬たりともじっとしていない足もとが気持ち悪くて、リュナは泣き出しそうになる。

「――って」

 なによりも、すぐそばの真っ青な目が怖かった。怖すぎて、リュナはかえって目がそらせなかった。

「だって、行き先がわかるから。水が飲めるようになるかもしれないから。もうここには船の人しかいないから。みんな暑いのに、がんばってるから。それに」

 思いつくままに言い立てながら、冷たく重い気持ちがだんだんと胸の底に固まっていく。

 ――ちゃんとした船長だって、思われたかったから。

 ほんとうは、それが一番の理由だった。そのことを自覚した瞬間、リュナは息がつまった。

 自分のことしか考えない浅ましさは、あれほど嫌っていた母と同じものだった。――

 つまって、つまって、このまま息なんて止まってしまえばいい。自分があまりに情けなくて、心の底からそう願ったリュナから、真っ青な目が遠ざかる。

 サイオルは、ランタンの蓋をあけ、火縄で自分の小刀の刃先を焼くと、はがれた封蝋の裏を慎重に熱した。十分にそうしてから、服の裾越しに封蝋の表に手のひらを押しあて、もう一度油紙に貼りつける。様子を見ながら何度か息をかけて冷まし、包みをひきだしに突っ込んだ。

「っ」

 また近づいたサイオルに、リュナはすくみあがる。だがサイオルは、リュナの足もとに落ちた鍵を拾い上げただけだった。彼はひきだしに鍵をかけた。

「……船には、いろんなやつが乗ってる」

 低く響く声が言う。

「生まれも育ちも考え方も、みんな違ってる。そういうやつらがひとつの船に乗り合わせて、ひとつの仕事をしてるんだ。どうしたって目安になるものが必要になる。それが決まりで、みんなに決まりを守らせるのが船長だ。船長が決まりを破るってことは、太陽が東へ動いたり、北の星が西へ移ったりするのと同じだ。そうなったら船は迷う。どこにもたどり着けず、難破する」

 声が出ない。怖いのと恥ずかしいのとで、リュナはぶるぶると震えながら立っていることしかできない。

「わかったら、二度と決まりを破るな」

 サイオルの声の冷たさに泣きたくなる。けれども、自分勝手な気持ちで船の決まりを破ったような船長には、きっと泣く資格もないにちがいない。リュナは涙をこらえる。

「……じゃあ、つかまる」

「は?」

「罰を受ける。《洗濯物》をする」

「やめとけ。お嬢じゃすぐに海に落ちる。船に迷惑をかけるな」

「だったら鞭にする」

「熱を出して何日も寝込む気か? それに、自分の船で鞭打たれる船長なんて、どんな笑い話だ。いいからおとなしくしてろ」

 近づいた声とともに、鍵のひもが首に落ちてきた。自分の胸もとにぶつかっておさまった鍵を、リュナはきつく握りしめた。

「……わたしは、罰も受けられないんだ。決まりを破った者は罰を受けるのが、決まりなのに」

「船長だろ。決まりを破って悪かったと思うんなら、いい船長になれ」

 リュナはうつむき、かぶりを振る。

「むりだよ。わたしは父さまみたいになれっこなんかないもの。船長なんてなれない。だってわたしは」

 ――母さまに、そっくりだから。

 その思いは心のあまりに奥深くまでからみつき、根を広げていて、だからリュナはこれまで気づけなかった。そのすべてを説明するのは、心すべてを説明しようとするのと同じくらい、無謀なことに思えた。

 家よりも船にいる時間のほうが長かった父を、母は確かに嫌っていた。だけではなく、そうした自分の感情をリュナにも共有させようとした。

 リュナの話を聞くのではなくひたすら自分の話をするという点では母となにも変わらない父を、ほんとうはどう思っていたのか、リュナはもう忘れてしまっていた。

 ただ、ひっきりなしに愚痴をこぼす母より、たまに帰ってきて航海を語る父のほうが、ましだった。だからリュナは、母の押しつけに反発した。自分から父の話に聞き入り、父が喜びそうな質問をした。

 父を、そして父が好きな船と海を自分も好きなのだと、リュナはそう信じていた。

 船長になれとサイオルに言われたときも、もしかしたら自分にもなんとかやれるかもしれないと、心のどこかで現実離れした甘い空想を思い描いていた。

 だが、どうだろう。

 あの嵐の晩、泣きわめいて父をなじる母がいなければ。海に落ちたと聞かされたとき、自分の未来だけを心配する母がいなければ。

 こんなところに連れてきたとなじり、これからどうすればいいのだと身もだえしていたのは、リュナ自身だったかもしれない――いや、きっとそうだった。

「ごめんなさい……わたしは、船長にはなれない」

 ――わたしも、自分のことしか考えられない人間だったから。

 リュナは唇を噛んでひたすら足もとを見つめた。まばたきを睫毛の毛先をはじく程度におさえた。ちょっとでも強くまばたけば、その瞬間に涙がこぼれ落ちそうだった。

 視界に、船の上での暮らしぶりを物語る、こすれた傷だらけのサイオルの革靴が入った。びくりと肩をこわばらせたリュナの耳に、低い声が届いた。

「いまさら引き返すわけにもいかない。次の港に入るまで、船長はおまえだ」

 リュナはおもわず顔をあげた。

「でも!」

 海の色の目がリュナを見ていた。その厳しさをこらえきれずに、リュナは顔をそむけた。

「それが罰だと思え」

 サイオルは出ていった。

 残されたリュナは、呆然と扉を見つめながらゆっくりとその場に両膝をついた。

 しばらくして、手ぶらの母が半泣きになって帰ってきた。

「なんなのあのサトゥラ族は! わたしに、鮫の餌になるかだなんて! この船はわたしのうちの物よ、それを自分の物みたいに! あの男こそ海に放り込めばいいのよ!」

 サイオルになにか言われたらしい。ひとしきり枕にあたりちらすと、母はリュナをにらんで言いつけた。

「リュナ、あの男は次の港でおろすのよ!」

 いつもの鼓膜を切り裂くような母の声が、いまはどこか遠く、鈍かった。周囲が水で包まれているような気がした。

 自分はおかしくなったのかもしれない、とリュナは思った。そうでなければ、どうしてこんなに笑い出したくなっているのだろう。

「……おろさなくたって」

 次の港に入るまで船長はリュナだと、サイオルは言った。それより前には、リュナか母が船長になるのでないかぎり、自分は海燕号をおりると言っていた。

 はは、とほんとうにリュナは笑った。

 一点だけ、母とリュナとは違っていた。

 母は鮫の餌にするという脅しで、なんとか水をがまんすることができた。

 だがリュナは、父の片腕と船を失うという脅しを受けても、船長のまねごとすらできなさそうだった。



 太陽にじりじりと焼かれる風待ちの時間を過ごしたあと、海燕号はやっと北西の風をつかまえて東へ走り出した。

 半日後、行く手に〈三人娘〉が現われた。

 リュナは後甲板でぼんやりと、海鳥のいい巣になっているらしい三つの岩山を眺めた。

「お嬢、行くぞ」

 甲板からサイオルの声がした。

 その声にひきずられるように、リュナはおとなしく階段を下り、船長室に入った。

「なに! なんなの! 出ていって!」

 母が、リュナに続いて入ってきたサイオルに金切り声をあげたが、ふたりともまるでかまわなかった。

 リュナはひきだしの鍵をあけ、包みをとりだし、今度は油紙を切って中の物を出した。筒の中の紙の装飾文字は、今度はすらすらと頭に入ってきた。

「エルティア王カドナーンの名のもとに命ず。アトロスタン太守に同封の小箱を与え、太守からふさわしい返礼の品を受け取り、すみやかにエルティアに帰港せよ」

 しずかに読み上げて、リュナは顔をあげた。

 サイオルは腰に手を置き、切れ長の目尻ぎりぎりに眸をやって、壁を見て黙っていた。

「このエルティアって、都のことだよね」

 沈黙に耐えきれなくなって、リュナはわかりきったことを口にした。エルティア王のいる街には特別な名はなく、ただ「都」、もしくは国と同じ名前で呼ばれる。

 答える必要を認めなかったのか、サイオルは沈黙していた。視線も壁から動かなかったが、彼がそこのなにかを見ているわけではないことは明らかだった。

 リュナはまた口をひらく。

「父さまは、これからはアトロスタンで暮らすからって、わたしたちを乗せたんだ。どこに行くのか、とっくに知っていたんだね」

 真っ青な目がリュナにむく。

「オヤジは、海と同じくらいエルティアの事情にも詳しかったからな。王のくしゃみが次はいつどこで飛び出すか、見当がつけられたんだろう」

 船と海の話しかしなかった父が政治にもくわしかったということを、リュナは初めて知った。

「アトロスタンまで、この風なら二日で着ける。仕事はただの使いだ、問題はないな」

 サイオルは、リュナが机に置いた布地を取った。

「それは?」

「王使旗だ。アトロスタンから見える位置になったらすぐ掲げられるよう、準備しとく」

 母が割って入った。

「なにをしているの、早く出ていって! リュナ、この男は海に放り込みなさいと言ったでしょう! 二度とここへ来させないで!」

 サイオルは、母を一瞥すらしなかった。

「お嬢、目的地がわかったんだ、みんなに伝えに行くぞ」

 怒りのあまり口もきけず、ただこぼれそうなほど目をみひらいてサイオルをにらみつけるばかりの母から、リュナは目をそらせた。

 アトロスタンへ行く、とサイオルから聞いた乗組員たちは、なんの感情も見せずに通達を受け止めた。

 後甲板で、サイオルから半歩下がって立っていたリュナは、そんな彼らをぼんやり眺めていただけで、一部がすばやく目配せを交わしたことには気がつけなかった。



     ‡ 


 リュナの耳はまだ、波と風の音になじみきっていない。決してとだえることのない音は、吊り寝台をひっきりなしに揺すぶる振動そのものにもなって、リュナを安らかに眠らせてくれない。

 ――落ちろ。落ちろ。

 そんなふうに海に呼ばれている気がした。

 と、リュナの体は大きく沈み込みはじめる。波の底へ、どこまでも、どこまでも。

 ――もう、終わりだ。

「っ!!」

 リュナは重い体で跳ね起きた。

 全身にじっとりと冷たい汗がにじみ、心臓が痛いほど鳴っている。頭がふらつくのは、まだ目覚めていないせいか、それとも波に揺すぶられつづけているせいか。

 リュナは顔に手をあて、細く吐息をついた。

 まだ夜もそう更けていないらしい。規則正しい母の寝息が聞こえている。

 だが、開けたままの船尾窓からは、これまで見たことのない銀色の光がさしこんでいた。

 遅くとも次の昼までには、アトロスタンに着くと言われている。太守に会うという仕事で迷惑をかけないよう、むりをしてでも眠らなければ――そう思ったのだが、銀色の光はリュナをどうしようもなく惹きつけた。

 ――少しだけ。

 リュナはいまひとつ言うことをきかない起き抜けの足に注意しながら、船尾窓まで行った。

「わあ……」

 夜の海が銀の輝きを秘めて広がっていた。水平線の下に沈んだはずの月の光が、波を透かして届いているかのようだった。海燕号はそんな銀の海の波を切って、ひときわ強いひとすじの軌跡をつけながら進んでいた。

 この世のものとは思えない景色だった。

 あまりに海が美しすぎて、リュナの心臓はかえって不安で早まった。

 こんな幸福が、自分に許されるはずがない。

 なにかが起きる。

 この美しい景色を一変させる、よくないなにかが。

 ――もう、終わりだ。

 先ほどの悪夢の呼び声がよみがえる。

 リュナは船尾窓の明かりだけを頼りに着替え、そっと甲板に出た。

 夜のあいだも船は進む。だから乗組員は交代で夜も仕事に就く。

 そのくらいのことは、リュナも知っていた。

 だが、いま甲板には誰もいなかった。

 暗い空にまぎれて先は見えない帆柱の上にも、やはり人の気配はなかった。

 張りめぐらされた縄と帆が、人の手など必要ないとでも言いたげに、夜風に楽しげに鳴っている。

 まるで、リュナ以外の全員が海燕号から消えてしまったかのようだった。

 リュナは祈るような気持ちで後甲板にあがった。

「……サイオル……」

 雰囲気に圧倒されて、声が自然と小さくなる。

 サイオルは、自分の休憩時間にも甲板下の乗組員室には滅多に行かなかった。後甲板や甲板の隅といった、よくそれで疲れがとれるものだと不思議になるようなところで寝ていた。

 船尾の手すりの下に寝転がる姿を見つけたとき、リュナはわずかにほっとした。

「よかった……サイオル」

 つぶやいたのと同時、がばっと上着をはねのけて、サイオルが起き上がった。

「なんだ、なにかあったのか?」

彼の短い髪が海の光をはじいて、銀そのもののように輝いている。

 リュナはなぜだか泣きたくなった。

「そうじゃないけど……なにか、変な感じがする」

「変?」

「甲板にも、誰もいない」

「なんだって? 当直が誰か必ずいるはずだぞ。スームはどうした?」

 それはサイオルの休憩中に針路盤を預かる乗組員の名前だったが、彼の姿もどこにもない。

 船に打ち寄せる波の音が、やけに大きく響いた。

 そのとき、急に帆柱のむこうが明るくなった。ランタンの灯りだった。

 人がちゃんといたんだ、とリュナがほっとしたのは一瞬だった。

 ランタンの灯りの輪は次から次へと甲板の上にあがってきて、騒がしい何人分もの駆け足がそれに続く。

「サイオル!」

 甲板の中ほどから、必死なスームの声がした。

「反乱だ! 反乱だ!!」

 がん、といやな鈍い音とともに声はふっつりと途切れ、なにか重たいものが甲板に落ちた。頭で理解するより早く、リュナの体は勝手に総毛立った。

「なに……?」

 突然、リュナは両肩をわしづかみにされて引き寄せられた。海の反射を受けて、こちらを見つめるサイオルの真っ青な目がはっきりわかった。そこに映る自分の姿まで見えそうだった。

「……お嬢にも奥にも、誰も手は出さない。出すようなやつが、この船にいるもんか」

 サイオルはつぶやいた。リュナにというより、彼自身に言い聞かせているような声だった。

 リュナの肩から手が離れ、サイオルは階段の上に立った。

「首謀者は誰だ」

「おれだ」

 下の甲板から誰かが答えた。そこは暗がりに沈んでいて顔ははっきりしなかったが、サイオルには声だけで十分だったらしい。

「ツォフか、ばかなことを。エルティアの法じゃ契主への反乱は死罪だぞ。港でどうやってごまかす気だ」

 あざけり笑いが返ってきた。

「おいサトゥラ族、エルティアで暮らしたいんならちゃんとしたことばをしゃべってみな。おれはツォフなんて妙ちきりんな名前じゃねえ、ゾフだ。いくら言っても直りゃしねえな」

「悪い、その音は苦手なんだ。だがおれの発音なんかより、もっと気にかけたほうがいいことがあるんじゃないのか」

「いいや、なにもねえな。おれはおまえと違って、リュナお嬢と《契》もきちんと結んだんだ。逆らうわけがねえだろう。ただお嬢のために、お嬢が不慣れなのをいいことに、自分の好きなように操ってる悪いやつを片付けちまうつもりなだけだ」

 ――うそだ。

 リュナは確信する。リュナの不慣れをいいことに、好きなようにしようとしているのは、サイオルではなくこの男のほうだ。いまこの男が言ったことは、そっくりそのまま、これからこの男がしようとしていることだ。

「それにおまえときたら、ずいぶんとでけえ顔をしてくれてるしな。よそ者のくせに、エルティアの船でよ」

「給料はそう多くもらってるわけじゃないぜ」

「問題はなにも給料だけのことじゃねえよ。――おい、クーリズ!」

 リュナは小さく息を呑む。

 帆柱のあたりからやってきた人影は大きくて、暗がりはその顔まで届いていなかった。水を盗んで罰を受けた、あの大男だった。

 またゾフが言う。

「なあクーリズ、おまえだって納得いかねえだろ? エルティア人のおまえが、エルティアの船で、サトゥラ族のこいつに罰を受けるなんてよ。よそ者はよそ者らしく、小さくなっておとなしくしてろってんだよ。なあ?」

 クーリズはゾフの煽動にはあいまいにうなずいただけで、おどおどとした顔で後甲板を見上げた。

 ――違う。

 リュナはそう思った。サイオルは私情で罰を与えたわけではない。クーリズもそれはわかっている。ただゾフにひきずられてここに来ているだけだ。

 自分がなにかすれば、この場が治められそうな気がした。リュナは身じろいだ。

 と、そのとき、顔は階段の下にむいたままのサイオルの手がこちらにあがった。

 動くなと彼が言っているように、リュナには思えた。

 ――でも。

 とはいえ、どうすればいいのか具体的なことはなにも思いつけない。リュナはその場に立ちすくむ。

 そのあいだにサイオルがゾフに答えた。

「わかった、おれがおとなしくすればいいんだな。言っとくが、ここにはお嬢がいるんだ。だからおまえも、もう少しおとなしくしろ」

「ほう、そりゃ都合がいいな」

 階段をあがってくる足音がして、サイオルが道をゆずった。

 後甲板にゾフが現われた。三〇がらみの色あせた金髪の男は、確かに《契》を結んでくれた者のなかにいた。彼はリュナの真ん前に立つと、にやりと日焼けた顔をゆがませた。

「リュナお嬢、こんなよそ者ではなく、これからはこのゾフを頼りにしてくだせえ」

 ことばがこれほどむなしく聞こえたことは、かつてなかった。リュナはぞくりと身震いした。おもわず一歩後じさる。あのいやな鈍い音以来、まったく声が聞こえないスームのことが思い出された。

「……サイオルは」

 からからに乾いた口で、どうにかそれだけがつぶやけた。

 ゾフは顔のゆがみをさらにひどくした。それで笑顔を作っているつもりらしかった。

「ひでえ悪党ですよ。これからは、もっと悪党にふさわしい仕事をさせてやりまさあ。――おいサイオル、おまえは今日、たったいまから副長じゃなくて檣楼員だ。どうせいつもねずみみてえにその辺で寝てるんだ、一日じゅう帆柱の上にいたって平気だよなあ?」

「わかったよ」

 サイオルは逆らわないことに決めたらしかった。リュナが聞いても明らかに無茶だとわかる命令にも、素直に従うつもりらしい。

「サイオル……」

 リュナはなんとか彼を見ようとした。だが、ゾフの体が邪魔になって見えなかった。

 声だけが返ってくる。

「いいから、おとなしくしてろ。お嬢は関係ない。こいつらの目的はおれだ。だいたい船長のお嬢と船主の権利がある奥に、こいつらは手は出せない。裁判にかけられるようなまねは、さすがにしたくないはずだからな」

「でも」

「エルティアの《契》は、そんなに軽いもんじゃないだろ。信じろ。お嬢たちに悪いことは起きっこない」

「だけど」

「もう黙れ」

 リュナは必死に体を伸ばした。

 ゾフの肩のむこうに、サイオルがちらりと見えた。

 いつもとなにも変わらなく思える真っ青な目が、一瞬だけリュナにむく。あきらめた従順さとはまるで違う、すべての感情を塗りつぶした絶望を、リュナはその目に見た。

「よくあることだ。この件に、お嬢も海燕号も関係ない」

 最後のことばは、むしろゾフにむけたものらしかった。

 ――サイオル。

 初めてじゃないんだ、とリュナは悟った。

 理由にもならない言いがかりをつけられてよそ者と蔑まれることなど、彼の人生では珍しくなかったのだろう。これからなにが起きるのか、彼は残酷なまでに正確に知っている。

 けれども、だからといってすくんでいるわけではない。これから起きる出来事を、淡々と受け止めようとしているだけだ。

 そんなサイオルに、ゾフも気づいたらしい。顔からあっさりと笑みが消えた。

「……すかしやがって、気に入らねえな」

 おい、とゾフが声をかけると、手下らしい男たちが階段をあがってやってきた。

「この生意気なねずみに、誰がご主人さまかを教えてやりな」

 ふたりの男がサイオルの両腕をひろげてとらえ、別の男が縄をかけておく手すりの棒を引き抜いた。巻かれた縄がどさりと落ちると同時、真鍮製のそれは大きく振り上げられて、不吉な道具としての別の顔を思い出したかのようにきらりと光った。

「だ――だめ、やめて!」

 リュナは叫んだ。とっさにサイオルめざして走り出そうとした。

 だが、ゾフの岩のように固い手がリュナをつかまえた。

「やめて!」

 リュナの声はなんの役にも立たなかった。

 容赦なく打ち下ろされた真鍮の棒は、サイオルの左腕に食い込んだ。その瞬間、サイオルはことばにならない叫び声をあげて、どんな音がしたのかわからない。腕を持っていた男たちが離れると、サイオルはその場にくずれ落ちて、肩を大きく上下させながら左腕をつかんだ。

 ゾフがにやついた声をかける。

「なんだ、それがサトゥラ族のことばか? 悪かったなあ、日ごろそんな汚え発音ばかりしてるようじゃあ、おれのこの洗練されたゾフだなんて名前は言えっこねえやなあ」

 リュナは身をよじってゾフから逃れた。

「ゾフ! なんてことを!」

「ああ、こりゃあお嬢にはちっとばかり、刺激が強すぎちまいましたかねえ。まあ大丈夫、あいつのことだ、二、三日もすれば骨だってくっついちまいまさあ」

 ぞくり、と冷たい恐怖が背中を滑り落ちていく。サイオルの骨が折れたかもしれないということと同時、逆らうならおまえも容赦しないといったふうのゾフの顔つきに。

 やっと、リュナを関係ないとサイオルが言いつづけたわけが理解できた。

 ――怖い。

 この男には逆らっちゃだめだ。全身がそう訴える。エルティアには《契》と法がある。リュナが黙ってゾフに従えば、彼はきっとそう悪くは扱わない。扱えない。リュナと母を船主として、十分すぎるとは言えなくても、女ふたり暮らすには不足のない稼ぎをまわしてくることだろう。

 ――だけど。

 ほとんど泣きだしそうになりながら、リュナはまだうずくまるようにして動かないサイオルに顔をむける。

 悪いことは起きっこない、とサイオルはリュナに言った。それはゾフの凶暴な反感を自分ひとりで引き受けるという覚悟のあらわれだった。

 リュナが自分の身の安泰しか考えられないというのに、どうしてサイオルはそうではないのだろう。どうして自分の身を犠牲にしてまで、リュナを助けようとしてくれているのだろう。

 ――父さま。

 父はあれだけサイオルを自慢にしていた。

 あの無邪気なまでの笑顔が、そのままサイオルにもむけられていたとしたら。

 それは、エルティアに暮らすサトゥラ族のサイオルにとって、ただひとつ残された希望になっていたのではないだろうか。失われてもなお、彼に影響を及ぼさずにはいられないほどのものとして。

 サイオルは決して優しくはなかった。けれども未熟ということばでは足りないくらいのリュナを自分の船長に選び、過ちを犯しても見捨てはしなかった。

 彼はリュナと《契》を結んでいない。エルティア人ではない彼は、これからもずっと結ばないのかもしれない。

 けれどもそれがなんだというのだろう。

 彼はリュナを守ってくれた。

 これ以上ないほど部下の務めを果たしてくれた。

 ――わたしは、父さまを継いだ船長だ。

 リュナは胸をそらせる。

 ――サイオルの、契主だ。

 ふりかえる。

「ゾフに従う者は、誰!」

 下の甲板にむかって、リュナはあらんかぎりの声で叫んだ。

「この男に従って、契主のわたしに逆らう者は!」

 一瞬、すべての音が世界から消えた気がした。

 だがそれはリュナの錯覚で、すぐに船に打ち寄せる波と帆をはためかせる風の音が戻ってきた。まるでリュナを鼓舞するかのように。

「ゾフに従うなら、さっさとわたしを海に放り込めばいい! わたしは、わたしの部下を傷つけたゾフを許さない!」

 こちらをむいたゾフの顔がぽかんと呆け、それからじわじわと怒りでゆがんでいく。

 そんなゾフを見ていながら、リュナは不思議と恐怖を感じなかった。

『決まりを破った者が罰を受けないんなら、決まりを守って耐えた者はどうなるんだ?』

 いまのリュナでは、ゾフに罰は与えられないかもしれない。けれども、そう言ったサイオルに、いまのリュナは答えられる。

 ――せめて、契主があなたを守ろうとしたことくらいは見せてあげる。

 リュナは静まりかえった甲板に、ふたたび叫んだ。

「決まりを破ったことへの罰に文句があったの、クーリズ!」

 刹那、甲板で獣の咆哮のような雄叫びがあがった。そして飛ぶように階段をあがってきた巨体がゾフにまっすぐ躍りかかった。

 クーリズに続いて、ほかの男たちも叫びながら後甲板に現われた。彼らは手に手にあの真鍮の棒をつかんで、クーリズの下敷きになったゾフとその手下たちを取り囲んだ。

 反乱の首謀者は、ほとんど抵抗できないままとらえられた。

 彼らを船倉へつれていこうとする人だかりからやや離れて、リュナはサイオルを捜した。

 彼はまだ左腕を押さえていたが、もう立っていた。海の目の色をした目もリュナを見つけ、ゆっくりとほほえんだ。



     ‡


 明け方近い空の、海すれすれの場所に、ひとつだけ鋲を打ったかのような強い黄色い光が見えた。

「アトロスタンの灯台だ」

 左腕を吊ったサイオルは無事な右手で、その光を指さした。

「じゃあ、もういい?」

 同じく後甲板にいるリュナは聞いた。ああ、という返事をもらって、下の甲板の水夫に声をかける。

「王使旗をあげて」

 青い長旗がするすると、帆柱の上へとあがっていった。

 リュナはふうっと息をつく。

「緊張する……」

 サイオルが小さく笑う。

「なんの役目で来たかわからない王使を迎えるほうが、もっと緊張すると思うがな」

「だけど、太守だよ? わたし、そんなに偉い人に会ったことがないもの」

「反乱鎮圧よりは軽い仕事だろ」

 すうっと首すじが寒くなった気がして、リュナは肩をすくめた。

 たった数時間前のことなのに、あれがほんとうにあったことだとはどうしても思えない。ことに自分があんな演説めいたことをしたとは、とても信じられずにいる。

 ゾフたちを船倉に閉じ込めた後、クーリズたちは、リュナからサイオルをひきはがすというゾフの口車に乗せられてしまったあやまちを詫びた。

 彼らがゾフにひきずられたのは、サイオルがサトゥラ族出身だからという理由ではないことを、リュナは察していた。

 ――みんなをそうさせてしまったのは、わたしのせいだから。

 リュナはあまりに未熟すぎて、自分の未熟さをどう埋めればいいのかすらわからず、しかも命令書を開けるという違反まで犯してしまった。ますますなにもできなくなって立ちすくんでいたリュナの世話を積極的にしてくれていたのが、ただひとり事情を知っていたサイオルだった。

 そうした関わり方が傍目にはほかの者を排除した好ましくないものとして映り、そこにゾフがつけこんだのだから、これは自分の責任だとリュナは心の底から思う。

 逆にあやまったリュナをおしとどめて、クーリズたちは改めて忠誠を誓ってくれた。これまで《契》を結ばなかった乗組員たちも、全員がリュナと《契》を結ぶことを求め、ひきつづき海燕号に乗らせてほしいと申し出た。

「……ほんとうに、わたし、やったのかな」

 リュナはほとんど声には出さずつぶやいた。

 海はもう銀色ではなく、うっすらと暗い赤みを帯びている。

 だから、あの出来事は、あのときの銀の海が見せた夢か幻だという気がしてしょうがなかった。リュナはおもわず目をこすった。

 サイオルはその仕草を誤解したらしい。

「寝足りないだろ。もう少し寝てこい」

「え、でも」

「海燕号の船長として会うんだ、せいぜいしゃんとしたところを見せてこい」

 おとなしく階段を下りかけて、リュナはふと立ち止まった。

「サイオルは、いっしょに行かないの?」

「おれには留守番という仕事があるし、だいたいそういう仕事には、見栄えのいいやつが向いてる。ジーサあたりをつれてけ」

 こくんとリュナはうなずき、今度こそ階段をおりた。

 リュナと《契》を結んだ「全員」には、サイオルは入っていない。頭をひどく打たれたサームともども、船医室で折れた腕の治療を受けていたということもあるが、こうして後甲板に戻ってきても、彼はその件についてはなにも言わない。

 だから少しだけ、リュナには不安が残っていた。

 サイオルを信じていないわけではない。だが、実際に《契》を結んでいないのに、自分で自分をサイオルの契主と思うのは、悪いようなおこがましいような、ともかくおちつけない気分になる。

 とはいえ、そんな自分の気持ちを押しつけてもしょうがないことだった。

 船にはいろんなやつがいる、とサイオル自身も言っていた。だったら、それらすべてを契主、いや船長として呑み込んでいくのが、リュナの役目だ。

「……ふう」

 船長室の前で、リュナは深呼吸をひとつした。

 昨夜この部屋を出てからいままで、一年も経ったような気がする。それはそのあいだの時間で自分が大きく変わったからだと、リュナはわかっていた。

 リュナは扉を見つめる。

 母はまだ眠っているだろうか。自分によく似た姿の、けれどもまったく違っている母は。

 リュナはそっと船長室に入った。

 吊り寝台で、もぞもぞと母が身動きしたかと思うと、薄く目をあけた。

「……リュナ?」

「ごめんなさい、もう休むから」

 次の瞬間、リュナは吊り寝台を飛び出した母にきつく抱きしめられていた。

「なにがあったの! 心配したのよ! 上でずっとあんな騒ぎがあって!」

 呆然としながら、リュナは視界の隅で、開いたままの船尾窓を眺めていた。あそこが開いていたのなら、後甲板で少し大きな声でなされた会話はすべて、この船長室にも聞こえていたにちがいない。

「なにもなかったのね……よかった、リュナ……」

 かすかな香水と体臭がまじった母のにおいが、ひさしぶりにリュナを包みこむ。遠い記憶がよみがえる。

 吹雪にとじこめられた晩、みしみしときしむ家で母がこうして抱きしめて、絶対に大丈夫だからと、怖がるリュナを慰めてくれたこと。そのままリュナが寝入るまで、子守歌を聞かせてくれたこと。

「母さま……」

 記憶よりも、いつのまにかずっと小さくかぼそくなってしまっていた母の背を、リュナはそっと抱きしめ返した。

 母の背は細かく震えていた。

 父からの仕送りがあるとはいえ、たったひとりで自分を育ててくれた母は、これまでどれほどの苦労をしてきたのだろう。

 船長のまねごとをすることになって初めて、リュナは父が楽しげなおとぎの海に生きていたわけではないことを知った。実際の海は、嵐があり、思いのままにならない風があり、こまごまとした船上の仕事があり、乗組員たちから国の事情にまで目配りしなければ生きていけない、厳しい世界だった。

 ――母さまも、きっと。

 そうだったにちがいない。吹雪の晩にリュナを慰めてくれた母は、もしかしたらリュナよりももっと恐怖を感じていたのかもしれない。それなのに隣にいてくれない父に、母はいつしか愛想をつかし、そしてついには嫌うまでになってしまったのかもしれない。

 母に同調して父を嫌うことは、やっぱりリュナにはできそうになかった。だが、そうした心を持ってしまった母を理解することは、少しだけできたような気がした。

「大丈夫よ」

 リュナは母の背を軽くさすって、体を離した。

「母さま、港までもうすぐよ。もういくらでも水が飲めるわ。海もおだやかだし、もしかしたら朝は熱いお茶を煎れてくれるかも」

「まあ、ほんとうなの、リュナ?」

「お茶はわからないけど、アトロスタンがすぐっていうのはほんとうよ。だって、さっき灯台が見えたもの」

 アトロスタンという地名に、母の顔は微妙に曇る。母にとってはすべての元凶に思えるのだろう。

「母さま、どんな街か、着いたら見てきたら。誰かに頼んでついていってもらえばいいし。ひょっとしたら、とても気に入るかもしれないじゃない」

「気に入るですって! おまえ、そんなことをまだ言っているの!」

 リュナは表情を改めた。どう切り出せばいいのか一瞬迷い、結局はなにもとりつくろわずに言うことに決めた。

「母さま。船のみんなが、わたしと《契》を結んでくれたわ。わたしはもうこの船の船長なの。だから、アトロスタンで役目を終えたら、都に戻る。王様と《契》が結べるかどうかはわからないけど、それからは商人に頼まれた荷物を運んだり、自分たちで商売をしたり、これまで父さまがやってきたような仕事をするつもり」

 母の眉がはねあがった。

「リュナ! なんてこと――」

 甲高い叫び声は、だが尻つぼみに途切れる。

 リュナはその間を利用して、さらに言う。

「みんなは、こんな素人のわたしを信じて《契》を結んでくれたの、母さま。それにわたし、もしかしたらほんとうの船長になれるかもしれないって、少しだけだけど思えてきたの。だからやりたい。やらなきゃいけないからじゃなくて、わたしがやりたいの」

 母は憎々しげにリュナをにらんだ。

 以前だったらすぐに目をそむけたところだったが、リュナはそうしなかった。すると、母のそんな表情の隅にのぞいた、ほかの感情が見えてきた。

 それは悲しみだった。

「……おまえも、あの人と同じになるのね。わたしを置いて、自分ひとりで好きなように、勝手なことをやるようになるのね」

「母さま」

 リュナはもう一度、今度は自分から母を抱きしめた。

「これまでわたしを育ててくれて、ほんとうにありがとう」

 母は彫像のように動かない。

「もし母さまがラーペルに戻りたいなら、送るわ。だけど、もしアトロスタンに新しい家を持ってくれたら、わたしはラーペルよりもっと、母さまのところへ帰ってきやすくなると思う。父さまがそうしようとしていたみたいに」

 おずおずと自分の背にまわった母の手を、リュナは感じた。

「……気をつけなさい。こんな年で、それも女の船長だなんて、おまえはどこまでわたしに心配をかければ気がすむの」

 ありがとう、とリュナはくりかえして、母の黒い髪に顔をうずめた。



「わあっ――」

 あざやかな朝日に照らし出されたアトロスタンの景色に、リュナは息を呑んだ。

 そこはただの陸というより、山だった。切り立った斜面が、平地を作ることなくそのまま海に落ち込んでいる。アトロスタンの町並みはそんな荒々しい土地にへばりつくように重なり合って、空へと続いていた。まるで街全体がひとつの塔を作っているかのようだ。

 船にいろんな人間がいるだけでなく、世界にはいろんな街がある。

 リュナはそんなことを思い、なぜかくすりと笑ってしまった。

 海燕号に掲げられた王使旗の威力か、港からすぐに小舟が出てきて、中年の水先人が乗ってきた。彼は海燕号の船長として名乗ったリュナに目を丸くしたが、やはり王使旗の威力か、口に出してはなにも言わなかった。

 海燕号は、アトロスタンの港のほとんど中央に案内された。

 どんどん緊張が増してきた。できるかぎりの正装をし、甲板で小箱を落とさないように何度も気にするリュナの傍らに、さりげなくサイオルがやってきた。

「あとは肩書きがやってくれる。そう気張るなよ」

「う、うん」

 リュナがうなずくと、彼は、今度はまったくいまの状況にそぐわないことを言い出した。

「お嬢、おれはサトゥラだ。サトゥラは指輪なんて窮屈な物はつけないし、主も持たない、ましてエルティア人みたいな《契》なんて習慣はない。同じ船の仲間は裏切らない、助け合う、そう決まってるだけだ」

「うん……」

 サトゥラ族に興味がないわけではないが、いまここでするべき話なのかどうか、リュナはとまどった。

 しかしサイオルはおかまいなしに話を進めてしまう。

「ただ、おれのこの目がエルティア人にはなじまないように、決まりを目に見えるかたちで表わさないことも、エルティア人にはなじまないらしいな」

 と、彼はリュナの後ろに手を伸ばした。

 風以外のなにかがかすかに触れたかと思うと、束ねていたはずの髪がはらりととけた。

「えっ――」

 リュナの髪を束ねていたひもを、サイオルは、口をつかって器用に自分の折れた左の手首に巻いた。結び終えたひもに口づけたサイオルの真っ青な目がリュナにむいた。

「エルティア人の指輪の代わりだ。これで《契》ということにしてくれ」

 港に、報せを受けた太守からの迎えの使者が現われた。

 サイオルは、船と港をつなぐ渡し板を視線で示した。

「行ってこい、船長」

 海のような真っ青な目をしっかと見つめ、リュナは力強くうなずいた。



                                                   《了》

     

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[一言] 最後まで楽しく読ませて頂きました。 続きがとても読みたいです!
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