第一章 第六節
「お父さん!!大丈夫!?」
「柚!!あぁ、こっちは大丈夫だが…」
集落の入口には、すでに人だかりができていました。
応急処置用の傷薬を抱えて駆けつけた少女は、お父さんの無事を確認できてようやく少しだけ落ち着きを取り戻します。
しかしお父さんが背負っている大怪我を負った男性を見て、少女の心に再び悪い予感が浮かび上がります。
「運び屋の、おじさん…!?」
ここにいるはずもない、クックの師匠。
なぜならば、今日のクックの実習はひとりで行うはずだったのです。
いろんな予想外の状況が頭の中で押し競饅頭でもしているのか、少女の目はグルングルンと回ります。
それでも薬師としての本能なのでしょうか、少女は自分の驚きを表す前にお父さんからその男性を受け取り、急いで怪我の治療を始めました。
「なんで、おじさんが…」
「すまないが、こいつは頼む!!他の人は俺についてこい!!」
少女の疑問に答えることもなく、お父さんは切羽詰まった様子で自衛団の団員を連れて集落の倉庫に向かいました。
それにもかかわらず、賢い少女はすでに一つの答えに辿り着いたのです。
少女はその答えを頭から追い出すかのように、その男性に薬を塗りながら必死に頭を横に振ります。
「まさか、だよね…きっと、考えすぎだよ!クックは、きっと…」
「…うっ!!」
動揺しすぎて自分に向かって喋りだす少女を、男性の唸り声がさえぎります。
薬がしみたのでしょうか、彼は少しだけ意識を取り戻した。
「…ゆ、ず…?」
「あ、はい…」
「クック…クックは、大丈夫か…!!」
そして残酷なことに…その男性の喉から押し出したような叫びは、少女のその予想を裏付けるものでした。
きっとこの男性は弟子である幼馴染が一人で飛ぶのが心配で、こっそり後を付けて見守って…それでもクックに何かの危険が迫ってきて、助けようとするが失敗して返り討ちにあって…そして通りすがりの自衛団に保護されたところだと、少女は考えます。
周りを見渡しますが、幼馴染の姿はどこにもありません。
きっとまだ、森の中で助けを待っているのです。
「クックは、どうしたんですか…!?」
「う…がぁ…!!」
少女は男性からもっと情報を聞き出そうとしました。
しかし意識を取り戻す同時に劇痛も襲ってきたのでしょうか、男性はただ唸り続けます。
これでは、とても話が聞ける状態ではありません。
「…失礼します、ね」
「ん…」
「おやすみ、なさい…」
石像のように数秒間固まって、少女は覚悟を決めました。
自分で幼馴染を助け出す、と。
…本当は、お父さんと自衛団に任せるべきだと少女もわかります。
男性を落ち着かせるために傷薬に少しだけ睡眠薬を混ぜて傷口に塗りながら、少女は心の葛藤に悩まされていました。
自分は兵士ではなく薬師で、そもそもそれ以上に守られる立場にあるべき子供です。
ここで治療しながら医師や薬師が来るのを待ち、クックを自衛団に任せるのが、一番合理的な選択のはずなのです。
「でも、それだと…」
それでも…そうしてはいけないと、少女もわかります。
自衛団の隊長として、集落を守るべき者として…お父さんが異種族の小娘の為に、自分の集落の人が怪我をして、最悪亡くなるようなリスクを冒してまで…この危ない敵が待ち構える暗い森に、本格で突入することは決してないことを。
優しいお父さんを信じ込みたいところですが…少女は、賢いのです。
賢いからこそ、現実の残酷さがわかってしまって…現実を現実よりも、残酷であろうと思い込んでしまうのです。
…彼女を養ってきたお父さんもこの集落の人々も、そのような理由で一人の女の子を見捨てるはずもないことは、こうにも明らかなのに。
「…よし、これで大丈夫なはず」
包帯で傷口をしっかりと包み、男性をゆっくりと寝かせます。
行動を起こす機会は今しかないと、少女は心に決めました。
「お父さんが帰ってくる前に…森に入って、クックを助けないと!」
「柚…?」
数分後集落の入口に駆けつけた、異種族の女の子を救うためにできるだけ短時間で最善の準備を尽くしたお父さんの目の前にはもう、少女の姿はどこにもいませんでした。
真っ黒の鱗と髪を、森を包んでいる真っ暗に潜ませます。
そして三日月のような薄い黄色の瞳で周りを見渡しながら、少女は見慣れたようで見慣れていないような、真夜中のマングローブの森の中を泳ぎます。
「早く、考えなきゃ…!!」
敵も居場所も、何一つもわからないまま集落から飛び出た少女。
流石に自分の無謀さに気づきましたが、あの場での判断は最善のはずだと何度も自分に言い聞かせます。
森の騒ぎのおかげで大体の方向はわかりますが、それでもわからないことはたくさんあって、そのまま突入すれば今度こそその無謀に命が取られます。
必死に自分を落ち着かせようとしますが、いくら大人ぶっても少女の精神年齢は子供のままなのです。
胸のざわつきは一向に、収まってくれません。
「カチ、カチッ!!」
「ポチ…ポチなの!?」
その時、聞きなれた音が少女の後ろで鳴りました。
どこから出現したのかはわかりませんが、カニさんはピョコっと少女の頭に登り、自分の専用席に座ります。
コン、コンッ
お叱りのように、そして励ましのようにカニさんは少女の角を軽く叩きました。
「…ごめんね、ありがとう」
「カチッ!」
少女にとって小さけれどもいつも頼りがいがある、兄のような存在。
そのようなカニさんが今そばにいることは、少女に大きな安心感を与えました。
ようやく落ち着きを取り戻した少女は、静かに考えます。
(判断材料は…おじさんの傷、しかない)
さっき治療していた、男性の太ももにある刺し傷を思い出します。
(直径は数センチで、太ももを貫通している…火傷も凍傷もないから、きっと魔法ではないはず。もしそれは相手の角や爪だったら…かなり大きい生き物、かも)
今から立ち向かおうとする者の輪郭を、頭の中でゆっくりと描きます。
(傷口はきれいで歪みがない…ということは、刺された瞬間も抜かれた瞬間も、おじさんは抵抗しなかった…もしくは、抵抗できなかった。刺された方向はたぶん上から下だから…角で刺したというよりも、脚を使ったのかな…?)
「カチッ!」
少女は無意識に頭の上のカニさんを撫でます。
不意を突かれて、カニさんは少しだけ驚きました。
(鋭い、脚…ちょうどポチのような感じ、かな…?でも大きなカニというよりも、相手を拘束できるような生き物と言ったら…あぁ、あの種類のクモかも!…もしそうだったら、いい方法があるの)
やっと微笑みを見せて、少女はカニさんに提案します。
「ねぇポチ、作戦があるの…手伝ってくれる?」
「カチッ!!」
躊躇もせずに、カニさんは了解のサインを送りました。
カサ、カサ
「グギィ…」
マングローブの木を柱として編み上げた、直径数十メートルもあるクモの巣。
その真ん中に、毒の所為なのかぐっすりと眠っている、鳥のような翼を持つ少女をグルグルと巻き付いている糸の塊がぶら下がっています。
そしてまるで誰かを待っているかのように、その糸の塊の前でピクともしない巨大なクモみたいな生き物。
トリグイとよばれるその生き物は、飛び疲れたトリが止まりそうな枝の近くで罠を作り、つかの間の休憩を求める来客を捕まえて、お腹が減るまで自分の巣で保存する習性を持っています。
しかし本来トリグイは温厚で謹慎な生き物であり、食べ物が足りている場合に捕まえた獲物を逃すところも目撃され、知能を持つような生き物にはよっぽどでなければ手を出さないのです。
「…っ」
「ギギィ」
このトリグイは明らかに、どこかが違います。
もちろん本来南の雨林に棲息するトリグイがこの西のマングローブの森にいることも十分おかしいのですが、何よりも行動が不可解なのです。
濁った深緑色のかわりに透き通った真っ赤の八つの目で夜の森を覆っている、飲み込まれそうになる真っ暗をただじっと見つめています。
「…ギィ?」
なにかに気付き、そのトリグイはゆっくりと右の方向に向きました。
糸からわずかな振動と、ほのかな熱が伝わってきます。
それが誰かが自分の巣に火をつけたということに気付くまで、数秒もいりませんでした。
「グギギィ!!!」
自分の巣が何者かに破壊されていることに怒りを覚えたのでしょうか、奇声を上げならその方向に歩き出します。
そして燃えている場所に駆けつけて火を消しますが、なぜか周りには誰もいないのです。
中心ではないけれど、ここも別に巣の端っこではありません。
それにもかかわらず、この糸に囲まれた場所に火をつけることができるということは、犯人は火属性の遠距離魔法を使えるということを意味します。
「…グゥ」
八つの巨大な目を凝らして巣の周りを見つめ、犯人が身を隠していそうな場所を探します。
いくらなんでも、木の葉一つ揺らさず、波ひとつも立てずに巣の周りを移動することは不可能なのです。
そして居場所さえわかれば、トリグイにとって対処法なんていくらでもあります。
「…ギィ!?」
しかしトリグイのその思惑とは裏腹に、今度は巣の反対側の一か所が燃え始めました。
慌ててその方向に歩き、火を消します。
巣の直径は数十メートルも及ぶため、いくら射程の長くて見えづらい魔法でもトリグイの目を盗みながら巣の反対側を焼くことはできないでしょう。
それでも、犯人がいくら素早くてもトリグイの気付かないうちに巣の反対側まで迂回したのも考えにくいのです。
ガタ
必死に何が起こったのかを考えているトリグイを弄んでいるように、今度は獲物を包んでいる糸の塊が大きく揺れました。
生き物としての本能でしょうか、自分の獲物が狙われているとわかると、そのトリグイはさらに凶暴になりました。
さっきと比べにもならないぐらい早い速度で巣の中心に戻り、獲物の無事を確認します。
「…ギィ?」
覚えのない匂いがわずかについている他に獲物に異常はありませんが、そもそもそこには足場がないのです。
匂いがついているということは、誰かが糸の塊を直に揺らしたことに間違いありません。
それでも…どうやって揺らしたのでしょうか。
上には、ただ夜空が広がっています。
そして、下には…
「グギィ!?」
水面と、大きな蛇のような輪郭のシルエットがあります。
そのときまでトリグイは犯人の手口を見破れませんでしたが、それも仕方ないのです。
本来普通の森に棲息するはずのトリグイは、いつも巣を直接地面に置くため、巣の下にありうる脅威なんてせいぜい家から出られなくなったモグラしかないからなのです。
「ギギィ…!!」
「鬼さんこちら…きゃ!」
ザッ
その蛇の半身を持つ侵入者は頭だけ水から出して息継ぎの同時に挑発しますが、あやうくトリグイの脚に刺さりそうになりました。
侵入者は慌てて水に潜って逃げようとしますが、マングローブの森では深く潜ることができないのでしょうか、トリグイは巣の上からでも十分に侵入者の居場所を特定できます。
「グギィ!!」
ザッ、ザザザッ
トリグイの容赦ない追撃を避けつつ、侵入者は巣のあちこちに火を付けながら逃げ回ります。
水の中の侵入者を攻撃したり、燃えだした場所を巣から切り離したり、大きな被害はないものの見た目がボロボロになっていく穴だらけの巣を見ながら、トリグイはだんだんとイラついてきます。
しかしそれでも、巣の中心部からのわずかな振動をトリグイは見逃しませんでした。
「ギィ!?」
「ポチ、よくやった!」
「カチ!!」
慌てて振り向くトリグイの目に映ったのは、いつの間にか意識を取り戻して空を飛んでいる獲物と、落ちないようにその獲物の脚を必死に捕まえている小さなカニさんでした。
雲行きが怪しいどころか完全にタグ詐欺になっていますが、安心してください。
あと三、四話ぐらいでほのぼのにもどります。かも。たぶん。
…もどるといいなぁ