第一章 第五節
ここは集落の中心にある、薬師や医師などの人々が集まるアトリエです。
基本薬の研究や調製などをする場所ですが、常備薬や一部の日用品の販売なども兼ねています。
「倉庫からツクヨミグサをとってきて、すり潰してくれないかのう」
「はい、わかりました!」
そして少女は、今日もこのアトリエで実習しています。
外見がボロボロな上に、あちこち朽ちたところをグンカンウオの丈夫な背骨で補強しているため、お世辞でもちゃんとしている建物だと言えません。
しかしその今でも崩れそうな外観とは反面に中はとっても清潔で、さまざまな薬剤が綺麗に並んでいます。
「えーと、ツクヨミグサは確かに、すり潰す前にシラツユイカの墨で濡らさないと…」
「ふむ、よく覚えているのう。でも、なぜ濡らさないといけないのかい?」
急いで倉庫からツクヨミグサを取り出し、それを測り取ってすり鉢に入れます。
しかし少女がシラツユイカの墨を加えようとする同時に、少女の師でもあるこの気難しそうな薬師は、老眼鏡の隙間から少女を見つめながら冷たい声で質問します。
「え…確かに、ツクヨミグサのエキスは光を吸収して揮発する特徴をもつから、光のマナをもっと強く吸収するシラツユイカの墨に混ぜないと…」
「うむ、正解じゃ。一回しか説明してないのに、よく覚えているのう。では、シラツユイカの墨がない場合、どうすればいいのかい?」
「え…?」
薬師の予想外の質問に、少女は一瞬戸惑います。
記憶を漁りますが、薬師がそれについて何か言った覚えはありません。
それでも少女は冷静に考えて、ゆっくりと言葉を紡いでいきます。
「まったく暗い場所で調合する、というのは現実的ではありませんね…」
「なにしろ、夜の暗闇をかろうじて透り抜ける月の光に含まれるマナにさえ、強く反応するからのう」
「闇の魔法を使う、とかですか?」
「それもいい方法じゃが…もし、お主がそれを調合したい場合だと?」
少女はツクヨミグサをすり潰しながら、再び考えます。
確かに、マナが回復しない少女にとって魔法を使う調合はできるだけ避けたいのです。
かといって、なかなかいい方法を思いつきません。
「光を吸収しちゃうのは仕方ないなら…揮発させないとか、揮発したエキスをどうにか元に戻すとか、ですか…?」
「…うむ、大正解じゃ。具体的な方法を思いつけたらなおさら良いが…まだ実習の身で、このような視点の変え方ができただけでも上出来じゃ」
ここまできてようやく、笑顔を見せながら声を柔らかくする薬師。
「あ、ありがとうございます…」
「すり潰したものをくれないかのう」
「は、はい!」
少女からすり鉢を受け取り、それを慎重に魔法陣の書いてある小さなビンに詰めて、さらにいくつかの他の薬剤を入れてフタをきつく閉めます。
「今日も頑張ってくれたお礼として、これを貰っていくのじゃ」
「はい、これは…」
「ツクヨミクサの性質を利用して、光のマナを吸収して持ち主のマナを回復させるお守りさ。大した効果はないかもしれないが、気休め程度にはなるはずじゃ」
「…っ!!あ、ありがとうございます!!」
「礼には及ばんよ。お主のような素質のいい真面目な子が弟子で、むしろ誇りにしたいぐらいじゃ」
ため息をつきながら、薬師は話し続けます。
「それにしてもお主の体質も、難解じゃのう…これほど多い量のマナを持っているのに自然に回復しない人は、長い間生きてきたけれどお主以外見たことないのじゃ」
「やっぱり、そうなのですか…」
「…考え直さないのかい?魔法が使えなくても、名高い薬師になれた人などいくらでもおる…」
「いえ、大丈夫です」
薬師の誘いを、少女はきっぱりと断りました。
「魔法使いになるのは、あたしの夢であり、大事な約束でもありますから…」
「…ふむ。お主のそういったところも、評価しておるがのう…」
「ごめ…」
「よせ、己を突き通すことについて謝る必要などおらん」
手を振りながら薬師は少女の話をさえぎりました。
それでもやはり少し残念なのでしょうか、薬師はため息をつきながら話し続けます。
「そうじゃのう…お主の体質についていろいろ調べてみるかのう」
「え、それは…申し訳ないです、いろいろお忙しいのに…」
「可愛い弟子のためじゃ、それぐらいの時間は惜しまんよ…それでもじゃ、柚。この近くの集落に魔法使いもおらんし、ここで魔法使いを目指すのは体質の問題を除いても、非常に難しいのじゃが…」
「はい、そこは承知しています…」
「ふむ…」
まるで我が子を見ているかのような表情で、薬師は少女を見つめます。
「とりあえず、今日はここまでにしようかのう。ご苦労さん」
「あ、はい、お疲れさまでした!では、お先に失礼しますね」
「…」
薬師は少女が荷物を片付けてアトリエから出ていくのを、どこか懐かしい物を見ているかのような表情で眺めます。
「まだ若いのに、もう少し楽に生きてもいいのにのう…」
「あらぁ、今日もいるのね、ポチ!」
「ということは柚ちゃん、今日も実習なのね…本当に頑張り屋さん、うちの息子にも見習ってほしいわねぇ」
「カチッ」
アトリエの前で集まっているおばさんたちと、楽しそう(?)に話す(?)カニさん。
少女が黒魔術で召喚したカニさんは、いつの間にか集落の中年女性の間でも有名カニになったのです。
「そうねぇ、実はシャンプーが切れたのよ…ちょうど他のシャンプーにも挑戦したくて、どれにしようか悩んでいるのよ」
「…カチッ」
「あら!ポチのおすすめなのねぇ、見せて!…綺麗でふんわりとした美髪にぴったりのシャンプー、だって!ふふ、相変わらずお世辞上手なカニさんなのね」
「ねぇねぇ、いつも実はボディーソープを切らしてぇ…」
「…カチッ」
「あら、つやのある美白肌と、光沢のある綺麗な鱗を維持するのに最適、だって!」
「確かに、あんたいい鱗持ってるわよね!やっぱり人を見る目持ってるわねぇ、ポチって!」
カニさんの的確なアドバイスと適度なお世辞のおかげで、おばさんたちのテンションだだ上がりです。
しかしカニさんの戦いは始まったばかりなのです。
このチャンスは見逃せぬ、といった感じでカニさんは次の行動を起こします。
「カチッ」
「あら?これは…あらあらあら、あのブランドの日焼け止めじゃない!確かに最近、日差しが眩しくなってきたのよねぇ」
「カチッ!」
次にカウンターの裏からとある看板を取り出して、できるだけ高く挙げます。
「あら、今日に限って割引なんですって!」
「どうしよう、これは悩んじゃうわね…ん?」
「カチッ」
そして最後に一押しと言わんばかりに、カニさんはさらにカウンターの裏からある商品を取り出します。
「この石鹸がどうしたの?…あぁ、おまけしてくれるの?」
「カチッ!」
「しかも、手にやさしい石鹸って書いてあるわよ!この森の水って、手の肌に優しくないのよねぇ…」
「もう、商売上手なんだから!わかった、買ってあげるわよ」
「じゃあ、私もワンセットお願いね!」
「カチッ!」
カニさんの完全勝利でした。
慣れた動きでお釣りを返してから、カニさんは鋏を振っておばさんたちを見送ります。
ちょうどそのとき、少女がアトリエから出てきました。
「今日もやっと終わった…ポチ、帰るよー」
「カチッ!」
初めは少女が一人でアトリエに行くのが心配でポチをお供させたのですが、なぜかポチを日用品コーナーのカウンターに置くと売り上げが上がることが発覚してから、毎日ポチを連れてくるようになったらしいです。
その理由は柚にとって、未だに謎です。
「今日も疲れたよ…」
カニさんを頭に乗せて、少女はため息をつきます。
基本優しくて人柄のいい薬師ですが、その厳しさも有名なのです。
「でも、お守り貰えたのは、うれしいかも」
ポケットからビンを取り出して、うれしそうに鼻歌を口ずさむ少女。
イカ墨はすでに分解されたはずですが、いまだに中身は真っ黒です。
きっと光を吸収してマナを作り、少女に注ぎ込んでいるのでしょう。
「早く帰って、お父さんとお母さんに見せよ…」
「薬師いませんか!?誰でもいいから、早く来てくれ!自衛団が帰ってきた!けが人が…」
「…え?」
思わずビンを落としそうになります。
「お父さん…!」
ほのぼのってタグ付けたんだけどな…
毎節の始まりと終わりが不穏になっていることに気付く今この頃