第一章 第三節
ただ一面の真っ白だけが広がっている何もない空間の中心で、少女はただただ立ち続けます。
まるで夜明け前の暗さを集めたような真っ黒な髪と鱗、そしてまるで薄い雲に隠れた三日月のように儚い黄色の瞳。
集落の中に、このような髪と瞳を持つ者は他にいません。
たとえ、少女がいくら探していても。
独りで彷徨っていると、少女は赤い鱗を持つ人と青い鱗を持つ人に出会います。
実の娘のように愛してもらい、居場所とぬくもりをもらいます。
それでも、胸の中のささやきは一向に止みません。
「オマエノ居場所ハ此処デハナイ」
と、誰かが囁きます。
時が過ぎるにつれ、やがて切ない囁きはゆっくりと張り裂けそうな悲鳴に変わります。
そしてついに、少女は願いました。
「ダレカ、アタシヲ連レサッテ」
と、叫びながら。
あの出会いから数年。
あの頃の幼い少女も今は成長して少しだけ大人になり、最初の頃は少しぎこちなかったカニさんも今はすでにみんなと打ち解けて、お客さんというよりも、どちらかというと家族のような存在になっています。
時にはお母さんの家事を手伝ったり、時にはお父さんの晩酌に付き合ったり、そして時にはどこかのお寝坊さんを起こしたり。
まさに長男ポジションです。
「ごめんね、柚を起こしてくれる?そろそろ朝ごはんができるの」
「カチッ」
「あの娘ったら、今日も薬屋のお手伝いがあるのに…」
そして今朝も、そのお寝坊さんを起こす任務はカニさんに任されました。
もともと朝に弱い少女ですが、最近はやたら寝坊します。
カニさんはお母さんに了解のジェスチャーを見せて、二階に上がりカニさん専用の出入り口をくぐって少女の部屋に入ります。
この湿度の高いマングローブの森では、湿気の少ない二階に寝室を作るのが普通なのです。
長い蛇の半身にとって階段よりもスロープの方が歩きやすいため、この集落では階段の代りにスロープを作るのが普通ですが、あいにく表面の荒い砂漠の岩に慣れたカニさんの脚にとって、マングローブの木でできたスロープはあまりにも滑りやすいのです。
そしてドアノブの位置も、少女が帽子代わりに頭に乗せられるほどサイズの小さいカニさんにとって、あまりにも高いのです。
そのため柚の家では、スロープの横にカニさん専用の小さい階段を作ったり、ドアの下にカニさん専用の出入り口を開けたり、いろんなところが工夫されているのです。
「カチッ…」
そしてその出入口をくぐったカニさんは、相変わらず薬剤を入れてあるビンや難しそうなことが書いてあるメモがあちこち散乱している少女の部屋を見ながら、肩の代りに鋏を落としました。
基本清潔好きな少女ですが、きっとまた夜通しで勉強に励み、疲れすぎて片付けないまま布団に入ったのでしょう。
頑張り屋なのはいいですが、もう少し昔のように年頃の女の子らしく遊んだほうがいいのではないかと兄として、いえカニとして心配しますが、とりあえず今はこの部屋を綺麗に片付けないといけません。
あちこち散らかっているビンをラベル通りに棚に戻し、メモを順番に重ねて机に戻します。
「カチッ!」
そしてようやくあるべき姿を取り戻した部屋を見ながら、達成感を味わうカニさん。
「柚ーーー?ポチーーー?まだなの、朝ごはんできたわよーーー!」
おっと、いけません。
部屋の整理に夢中で、カニさんは少女を起こす使命をすっかり忘れました。
慌てて少女のベッドに飛び乗り、布団を一気に引き抜きます。
多少乱暴に見えるやり方ですが、相手も相手なのです。
例え倒れたタンスが頭に直撃しても目を覚めない少女を相手にして、やさしくするだけ無駄なのです。
「…ふぇ?…」
「カチ、カチッ!」
「…ポチ?もう少しだけ寝させて…」
長い尻尾で引き抜かれた布団をカニさんごとに取り戻して、少女は再び眠りにつきます。
ついでにカニさんを抱き枕のように抱きますが、甲殻亜門の抱き心地は言うまでもありません。
それでも少女は難なく寝息を立てます。
眠りにつくことに関しては、世界最強かもしれません。
「…カチ…」
少女に抱きしめられて、カニさんは思わず寝てしまいそうになります。
それも仕方ありません。
さっきも言いましたが、この数年間で少女はいろいろ成長したのです。
精神面では、黒魔術に没頭していた頃の思い出が少しずつ黒歴史になったり、今度はちゃんとした魔法を勉強するために薬屋のところで実習を始めたり、家にいるときも自分で魔法の独学に励んだり、いろいろと背伸びしたがる年頃になりました。
そして身体面でも、顔つきや体つきの至るところがゆっくりで、そして確実な成長を遂げています。
例えば少女の胸あたりは、今抱きしめられているカニさんを深い眠りへ誘えるほど成長しています。
将来有望なのです。
しかしミイラ取りがミイラになってはいけません。
必死にもがいて、どうにか少女の懐から脱出します。
「カチッ…」
その甘美な魔窟から脱出できたのはいいですが、少女を起こす効果的な手段はなかなかありません。
少し考えた後、今日もカニさんは仕方なく最終手段を使います。
カニさんは少女の尻尾の他のところと違い、真っ黒の鱗に覆われていない先端を狙って軽く挟みます。
「ぴゃあ!?」
効果抜群です。
「…え、もう朝なの…て、またあそこ挟んだの、ポチ!?こら、待って!!」
「カチ、カチッ」
だらしない叫び声をだしながら布団から飛び出る少女と、その同時に全力でリビングに向かってダッシュするカニさん。
毎朝慣例のピンポンダッシュならずセクハラダッシュです。
無脊椎動物でなければ、訴えられてもなんの文句も言えません。
そして弱点を甘噛みならず甘挟みされて眠気が吹っ飛んだ少女は、顔を真っ赤にしてカニさんを追いかけます。
しかし寝起きの鈍い動きでは、なかなか俊敏なカニさんを捕まえられません。
「ポチ、待って!今日こそ茹でガニにするから!」
「カ、カチッ!?」
あの日の記憶がよみがえり、カニさんは恐怖に震えます。
「あら、柚を起こしてくれたのね、ありがとう。ほら、柚も早く支度して朝ごはんを食べなさい、プリンあるわよ」
「お母さん!!ポチがまた…え、プリン!?本当!?」
「ふふ、相変わらずプリンには目がないわね」
「い、いや、そんなことないよ、もう子供じゃないし…とりあえず、歯を磨いてくるね」
「カチ…」
リビングまで追ってきて、やっと我に返った少女。
大好物のプリンにつられてカニさんを調理する事をすっかり忘れましたが、子供の食べ物だと認定しているプリンで取り乱したことを恥ずかしがっているのでしょうか、少女は慌てて洗面所に逃げました。
「毎朝ごめんね、ポチ…私たちが柚の部屋に入ると、あの子とても不機嫌になるの」
「カ、カチッ…」
初めの頃はカニさんをポチと呼ぶことに違和感を持っていましたが、今となればお父さんにとってもお母さんにとっても、ポチ以外の呼び名の方がむしろしっくりと来ません。
ペットと家族を足して二で割ったような扱いを受けるカニさんですが、本カニはそれで満足しているようです。
「そのくせに寝坊助さんなのよね、柚は…いくらラミアでも、体を温めるのにそこまで時間かからないわよ。本当に、どこの誰かさんにそっくり」
「…カチ…」
蛇の半身を持つ一族は、蛇の部分に体温維持の機能がないため、目が覚めてからゆっくりと体を温めないと行動できないのです。
しかし柚の場合、起きてから体を温める時間が長いというよりも、ただ朝に弱いだけに見えます。
少なくともカニさんは、柚が体を温めている素振りを見たことありません。
そこを不思議に感じたのでしょうか、カニさんは頭…でなく、体を傾げました。
「ふぁ…あぁ、おはよう、ポチ」
「カチッ…」
噂をすれば、早速どこの誰かさんが大きな欠伸をしながらリビングに降りてきました。
この集落を守る自衛団の隊長でもあるお父さんは、昨晩も集落の警備でほぼ寝ていません。
寝癖と目の下のクマがとても酷いことになっています。
「おはよう、朝ごはんできたわよ」
「おはよう…ふぁ」
「ほら、熱い味噌汁でも飲んで体を温まりなさい。そしてカニさんのごはんもここに置いとくね」
「カチッ…」
「ありがとう、助かるよ…柚は?まだ起きてないのか」
「ついさっきポチが起こしたわよ、今は支度しているの」
「あぁ、そうか…ポチ、いつも起こしてもらってありがとうな」
「…カチ」
支度しに行った少女のどこか吹っ切れた表情が気になったのでしょうか、さっきからどこか心ここにあらずといった感じのカニさんです。
この数年間もっとも近い距離で少女を見てきたのです。
何かを感じ取ったのかもしれません。
「…懐かしい夢なの」
歯を磨きながら、少女は今朝の夢を思い出します。
まだ幼かった頃の少女を毎晩襲う、不気味なほど印象に残る真っ白な空間と、頭がおかしくなりそうな耳鳴りと誰かの叫び。
「ポチが来てから、まったく見なくなったのに」
あのポチが訪れた日以来どこかに消え去ったはずの悪夢ですが、ここ数日再びよく見るようになります。
しかしその夢の忌々しさとは裏腹に…幼かった頃と違い、なぜか嫌な感じがしません。
どちらかというと、まるでずっとこの日を待っていたかのように。
「そろそろ、なのかな…?」
少女心のどこかでは、ずっとわかっていました。
いつか、この地を…
ずっと少女に惜しまなくぬくもりを与え続けてきたこの地を旅立つ時は、必ずいつか来ると。
語彙力 さんと 文章力 さんがログアウトしました。
知り合いに「ナニコレ実験レポ?クソワロ」的な感じで突っ込まれました。
たしかにレポートに追われる毎日を過ごしていますが…
悲しいです。