第一章 第二節
「…あれ?カニ?」
このような疑問を少女が持つのも、仕方のないことなのです。
なぜなら少女が行ったのは黒魔術の儀式。
世界を破滅に導くような大悪魔を召喚できなくても、どこからどう見ても食材にしか見えないカニさんが召喚されるのは、あまりにも想定外のことなのです。
「え、もしかして…これで、食べ物をとりに行かなくても…」
しかし、年頃の少女の切り替えの早さと思考の柔軟さをなめてはいけません。
もはや召喚に応じてくれたカニさんを食材としか思っていない少女ですが、その考えを見抜いたのでしょうか、カニさんは慌てて二つの鋏をめいっぱい高く挙げました。
その姿はまさに、俗に言うお手上げでした。
「…?どうしたの、かにさん?」
節足動物にあるまじき機敏を完全発揮したカニさんでしたが、残念ながら少女はそれを理解してくれませんでした。
幸い少女は好奇心が旺盛なお年頃。
カニさんの滑稽な動きに興味がわいたのでしょうか、少女もそれの真似をして両手と尻尾を高く上げました。
「…カチ?」
さすがのカニさんも、この予想外な反応に戸惑いしか感じません。
しかし、ここで諦めると真っ赤な茹でガニになる結末しか待っていないのです。
カニミソ、でなく脳みそをフル回転させるカニさん。
鋏で一回自分を指して、儀式の台に置いてある折り紙を口に運ぶ仕草を見せて、最後にピンと背筋を伸ばして、鋏を交差させてバツをつくります。
そしてフリーズ。
そのまるで審判を待っているような姿から、どこか悲壮感が漂っています。
「…?あ、食べないで、ていうこと!?すごい、賢いカニさんなのね!!」
ようやく茹でガニになる未来から逃れたカニさん。
感動の涙を流したいところですが、目の構造的にそれができませんので、とりあえず泡を吹きときます。
「すごい!パパとママに見せなきゃ!」
しかし感動に浸す暇も与えずに、少女はカニさんを持ち上げて全速力で両親のもとへと走りました。
「パパ、ママ!」
少女の両手はカニさんでふさがっていますので、尻尾でドアをあけます。
大変行儀悪いので、尻尾を持つみなさんは真似しないでくださいね。
「どうしたの、柚?ドアはちゃんと手で開きなさい…」
「これを見て、カニさんなの!」
「あら、立派なカニじゃない。今夜の献立にでもするの?」
まさかの食材エンド回避戦、第二ラウンド。
ピキィと、カニさんのハートにヒビが入りました。
果たしていつになれば、カニさんは食材になる運命から逃れるのでしょうか。
「違うの!これはあたしが黒魔術で召喚したの、食べちゃダメ!」
「…柚?まさか言ったそばから、また黒魔術を…?」
再び不穏な効果音が鳴り始めました。
妻と娘の論争モードが終わったことに安心したお父さんにとっても、まさかの第二ラウンドでした。
「遊びじゃないの!ほら、カニさんを召喚できたもん!」
「母さんは黒魔術について詳しくないけど、少なくともカニが召喚されることはないことぐらいわかりますよ!?」
「二人とも、落ち着こうか…」
「…あなた?」
「なんでもないです、はい」
まさに蛇に睨まれた蛙のように、お父さんは再びなじみの隅っこへと退避しました。
いつも通りのワンターンキルです。
「カチッ…」
同じ男性として共感するところがあったのでしょうか、カニさんは机から飛び降りてお父さんの背中に登り、ポンポンと鋏で肩をたたきました。
「カ、カチッ!」
「…ありがとう」
無言でお父さんを励ますカニさん。
そして意外なところからの激励で目尻が潤うお父さん。
こうして少女とお母さんの口喧嘩がひと段落つくまで、二人の男はしずかに見守っていたのです。
「えーと…」
そのカニさんは遠い砂漠でしか生息しない種だとわかり、ようやくお母さんはそれが黒魔術の産物であることを渋々信じました。
そしてこの特別な来客を迎え入れるために、ただいまリビングで小さな家族会議を開いています。
「この度は娘の召喚に応じてくれて、ありがとうございます」
机の上にのっているカニさんに面向かって、丁重に感謝と歓迎を伝えるお父さん。
娘の教育については口をはさむ権利をまったく持っていませんが、このような正式の場はやはり一家の主であるお父さんの出番なのです。
「カチ、カチッ!」
いえいえと言っているかのように、慌ててお父さんに向かって一対の鋏を振るカニさん。
召喚されて早々食材になりかけたカニさんでしたが、本来召喚とは一方的な使役ではなく互いの合意に基づく契約なのです。
普通召喚者は願いに応じた価値の供え物を準備して召喚を行いますが、この場合供え物はごく普通な果実といびつな折り紙。
それにもかかわらず召喚に応じてくれたカニさんは、きっと優しい心の持ち主なのです。
食材になりかけましたが。
「よかったね、カニさん!これでだれかに調理されることもないね!」
「柚!もう…でも、その件については本当にごめんね、カニさん」
「カチッ」
台所で夕飯の準備をしているお母さんをからかいながら、楽しそうに笑う少女。
最初にカニさんを食料扱いしたことは、綺麗サッパリ忘れたようです。
「しかし、ずっとカニさんって呼ぶのもなぁ…」
「え、名前付けるの?それならあたし、いい案があるよ!」
「却下だな」
「えぇ!?どうして、パパ!?」
「あら、確かに…柚のネーミングセンス、壊滅的だもの」
「ママまで!?そんなことないもん!!」
少女は両親に全力で反論していますが、お父さんが言ったことは本当なのです。
なぜなら少女のネーミングセンスの悪さは、ただいま両手で魚を捌きながら尻尾を器用に使ってスープをかき混ぜるお母さんの影響だからなのです。
あの日少女を迎え入れたときもお父さんが決死の覚悟で頑張っていなかったら、今頃少女の名前はきっとダークフレイムプリンセス的な何かになっています。
…あの時の熾烈な戦いを思い出して、思わず遠い目をするお父さんでした。
「カチ、カチッ」
「ほら!カニさんもいいよ、って言ってるし!」
少女の必死さが伝わったのでしょうか、カニさんは鋏を高く挙げて丸を作りました。
「…まぁ、いいか。言うだけ言ってみな」
「ふふん!あたしのネーミングセンスに驚かないでね!」
「近所の野良猫にケルベロスって名前を付けた時から柚のネーミングセンスは大体把握してるから、いまさら驚かないよ」
「じゃあ、耳を澄まして聞いてね…今日からカニさんの名前は!」
「カチ!」
「ガトーショコラ・ザ・ルシファー三世!」
いかにも甘党な堕天使を思い浮かばせられるような名前でした。
「…カチ!」
「え、いいの!?もう少し考えた方がいいよ!?」
情報の処理が追いついてないのか一瞬フリーズしたカニさんですが、まんざらでもなさそうに再び鋏で丸を作りました。
どうやら今日からカニさんの名前は、めでたくガトーショコラ以下略になったようです。
しかしお父さんとお母さんは、その厨二病と乙女心を程よく混ぜ合わせた禍々しい混合物に動揺を隠しきれません。
余談ですが、一世も二世も存在しません。
「え、柚、その…ガトー?」
「ガトーショコラ・ザ・ルシファー三世!」
「…カニさんがいいのなら、それでいいが…いや、よくはないが…とりあえず、呼びにくいからもう少し呼びやすい名前も考えようか?ほら、あだ名のつもりで…」
予想外の展開に戸惑いつつも、どうにか流れを変えようとするお父さん。
「うーん…確かにね!それだけでも素晴らしい名前だと思うけど、やっぱりかっこいい二つ名って必要だね!」
しかし失敗しました。
年頃の少女の厨二心ほど手ごわいものはないと、お父さんはあらためて思い知りました。
「柚?ほら、格好いい二つ名もいいけど、普段からそんな感じで呼んでると皆に素性がばれちゃうわよ?本当の身分を隠すための、普通な呼び名も必要なのよ」
「…!!そう、かも…そうだね、ママ天才!そういうのに詳しいね!」
「え!?い、いや、一般論の話だから、ね?詳しくないから、ね?」
そして流れを変えることに成功しましたが、素性がばれかけたお母さんでした。
「えーと、じゃあどうしようかな…ポチとか?」
「カチッ」
「じゃあ、今日から人前ではカニさんのことポチって呼ぶね!」
「…いや、ポチって…」
違和感しかありませんが、少女にしては割とまともな名づけでしたので、ツッコミを入れるかどうか悩むお父さんとお母さんでした。
「これからもよろしくね、ポチ!」
しかし楽しそうにカニさんとじゃれ合う少女を見ると、二人は目を合わせて同時に仕方なさそうに笑いました。
第二話も無事出来上がりました。
めでたしめでたし…