152話
「お姉、ちゃん」
ぽつり、と桜さんの呟く声が聞こえて、それがやはり偽物だと気づく。
これは幻影だ。
〈真〉
だから、振り払わなければいけないのだ。
分かっては、いる。
「……真君、君にはあれが何に見える」
「母さんに、見えます」
答えると、古泉さんは、そうか、と言って、自嘲気味に薄く笑う。
「俺には妻に見える」
古泉さんの視線は懐かしげではあるが、そこにきちんと理性と緊張があるのを見て安心する。
「桜さんにはお姉さんが見えてるみたいです」
「ああ……そう、だろうな」
他の事務所のヒーロー達も、それぞれにそれぞれの反応をしている。
きっとこれは、その人が一番見たいものを見せる類の幻影なのだろう。
「茜さん」
「どしたの恭介君」
「茜さんがあそこにもう1人いるように見えるんですが」
「え……私にはあれ、恭介君に見えるなー」
「偽物ですか」
「そだね」
茜さんと恭介さんの会話に、他のヒーロー達も気づいたらしい。
一斉に身構えるが……相変わらず、それぞれの見たいものが見えているのだろう。
俺にも相変わらず、優しく微笑む母さんが見えている。
こちらに攻撃してくるでも無く、ただ微笑みながら俺を見ているだけ。
……どのヒーローも、攻撃を躊躇いつつ様子を見ている。
〈真、おいで〉
どう嘘を吐くか、パターンをいくつか構築しようとするも、思考が優しい声に邪魔される。
〈真〉
分かっていても、いや、分かっているからこそ、どうしようもなくそれは魅力的だった。
もう無いことが分かっているものが、取り戻したくても決して戻ってこないものがそこにあるのだ。
そしてそれは甘やかに優しく、話しかけてくる。
〈どうしたの、真〉
心配そうな表情を浮かべて俺に変わらず手を差し伸べるそれの誘惑に負けてしまいそうになる。
踏み出してはいけないと分かっている足が、そちらへ踏み出しそうになる。
短いような長いような時間は、明るい声によって破壊された。
「あーっ!偽物の恭介君が脱いだ!あ、結構きわどい!流し目が色っぽい!これは誘ってるでしょ!」
余りにも明るい、そしてあけっぴろげで内容が内容なのに本人の性格と声量によって全くいやらしさを感じない、非常に健康的な台詞が響き渡った。
「……茜さん、あの……」
「胸薄い腰が細い!自分から脱いでおいて恥じらう様子がすごくそそる!私に薄い細い言われてちょっと傷ついた顔してる!超リアル!無修正!最高!」
……茜さんの明るい声に、優しい声は掻き消されてしまった。
今や、ここにいる全てのヒーローは自らの願望と向き合うどころでは無かった。
全員がそれぞれ微妙な表情で茜さんと茜さんの横で頭を抱える恭介さんを見ている。
もう、なんというか……いろいろと台無しだ!
確かに助かった。幻影に構うどころじゃなくなった。そう、確かに助かったんだけれど、何かこう、何とも言えない何かが、こう……。
「恭介君、偽物入れて3人でどうよ!」
「勘弁してくだ……あ、俺にとっては『茜さんと俺2人』じゃなくて『茜さん俺茜さん』か……2分の1じゃなくて2倍……」
「おい茜!いい加減にしなさい!恭介君もそこで迷うな!頼むから!……茜!恭介君!助かった!が、後で話があるからな!」
古泉さんは叫ぶように言って、幻影に向かって突進していく。
全てを台無しにしてくれた茜さんと恭介さんに感謝しながら、俺も鉄パイプを握りしめた。
真っ先に突っ込んでいったのは古泉さんだったが、古泉さんより先に桜さんが投擲したナイフが届く。
母さんの姿をしたそれは飛んできた刃物に驚きの表情を浮かべて、咄嗟にそれを躱そうと……ただの一般人女性らしい、おぼつかない身のこなしで体を捻る。
当然、命中率100%の『カミカゼ・バタフライ』の刃はそんなことで避けられるものじゃない。
ナイフはそれに突き刺さり……そして、その直後、迫る古泉さんの拳がそれを打ち砕き……。
……次々に、ヒーロー達のありとあらゆる攻撃が幻影を襲う。
〈真……〉
俺に向かって伸びる腕は、まだその形を保ったままだ。
「これ、幻影だけど幻影じゃない!実体がある!」
攻撃を加えたヒーローがそう叫ぶ。
……実体のある幻影、なんて、性質が悪いにもほどがあるな。
〈どうして来てくれないの、真〉
もう声に耳を貸すこともなく、俺は鉄パイプを振り下ろす。
俺の腕に迷いはない。
ヒーロー達は一斉に攻撃を行った。
ありとあらゆる攻撃が加えられ、そのうち、ありえない程執拗に形を保っていた幻影遂には傷つき、砕かれ、潰れ、踏みにじられる。
その直後。
〈ειμαι αιδιον〉
歌うような声とも音ともつかない何かが聞こえ、それと同時に胸に灼けた鉄の杭を打ち込まれるような感覚が襲ってくる。
激しい痛みと喪失感、と言葉にしてしまえばちっぽけだが、それは俺を倒れさせるのに十分な威力を兼ね備えていた。
〈ειμαι αιδιον〉
天も地も分からないような苦しみと虚無感の中で、周りの事を見る余裕も無い。
ただ自分が失ってしまったものが何だったのかも分からず、なのにひたすら苦しい。
ぽっかりと胸に穴が開いて、その穴から体を焼き尽くされるような、或いは、そこからどんどん凍てついていくような、絶望的な感覚が俺を苦しめる。
〈真〉
母さんが血だまりの中に倒れたまま、俺に手を伸ばす。
あり得ない曲がり方をした腕は弱弱しく震え、しかし、真っ直ぐこちらへ延びるのだ。
〈真〉
そんな状態になって尚優しい声が暖かく俺を包む。
委ねかけて、手を伸ばしかけて、けれど聞いてはいけないと、理性が叫ぶ。
抗いがたいそれに抗うことで、一旦掬い上げられたのにまた苦しみの中に落ちていく。
〈ειμαι αιδιον〉
溺れそうだ。
いっそこのまま沈んでしまったら。
俺はこの時、俺の望みがもうすぐ消えてしまう事を悟った。
叶えられた望みが再び叶えられる事は無い。
永遠に叶えられない望みは、永遠に追い続けられる望みでもあるのだ。
逆に、叶えられる望みは、そこで消えてしまう望みでもある。
望みを追いかけ続けていられるという事は、ある意味幸せな事なんだろうと思う。
叶ってほしいと思い、そう言いながら永遠に追いかけ続けていたいという二律背反。
ずっとこのままでは居たいのに、このままで居ることを自分で許さないという二律背反。
そして根底にあるのは、望みが消えてしまう恐怖だ。
……俺は俺の望みが叶って消えた後、どうやって生きていくんだろうか。
アイディオンが居なくなったらヒーローではいられない。それは分かっている。それが俺の望みなのだから。
……そう、俺の望みは。
「これがあなたの願い事?」
ふと、耳元で声が聞こえた気がして、目を見開いた。
「この程度で、砕ける訳が、無い!」
開いた目に飛び込んできたのは、倒れたヒーロー達。
そして、その中で1人、立ち上がろうとしている古泉さんの姿だった。
「もう二度と、折れるものか、俺は」
古泉さんの声を聞いて、不意に、この苦しみがソウルクリスタルの砕けるときの感覚か、と、気づいたのだ。
気づくと同時に、痛みが和らぐ。
まだ失われていないから。
まだ完全に失われたわけじゃない。古泉さんは立っている。俺だってまだ立てるだろう。
「俺はヒーローだ!」
指先が動くようになる。
それから、足先、腕、脚……次第に全身が動くようになっていく。
まだ、俺の意志は折れていない。
〈αιδιον〉
歌うように音を発するそれは、既に母さんの姿をしていなかった。




