1話
「行ってきます」
今までお世話になった部屋に挨拶する。俺がここに戻ってくることはもう無いだろう。
元々、物の少ない部屋だったし、備え付けの家具はそのままだ。なのに、私物を全て処理した空間は酷くがらんとして見えた。
その部屋をもう一度振り返ってから、玄関を出る。
少し蝶番が錆びついたドアを開けて。
ドアを閉める重い音と、鍵を掛ける軽い音を響かせて。
安普請のボロアパートの、赤錆の浮いた階段を軋ませて。
そして最後に、予め約束していた通り、大家さんの部屋のポストに鍵を返す。
これにて出発前の工程は終了。
「……よし、行くか」
呟いて気合を入れて、少しひんやりとした空気の中に踏み出す。
まだ青白い月が薄く残る空は快晴。気温はやや低め。過ごしやすい一日になりそうだ。
出立の日にふさわしい朝だった。
『ミリオン・ブレイバーズ』からヒーローのスカウトをされたのは2週間前の事だった。
いつも通り、低レベルのアイディオンを1体倒した所だった。
戦法は素人らしく、リーチ特化の鉄パイプを振り回すだけ。
それでも、シルフボードでアクロバット飛行しながらヒット・アンド・アウェイ戦法をとっていれば、素人ながらヒーローの真似事ができた。
チキンプレイと言うなかれ。その時の俺は所詮、ただちょっと戦い慣れただけ、ただちょっと身体能力が高いだけの男子高校生だったのだから。
いくら低レベルと言っても、アイディオンはアイディオンだ。
素人が戦うにはリスキーだし、だからこそ、こいつを倒せばそこそこの金になる。
慎重になることは悪いことじゃないと思う。
「計野 真さんですよね?」
だから、背後から声を掛けられて咄嗟に鉄パイプを構え直したのはしょうがない。
アイディオンの中には言葉を話すものも確認されている。
そして、そういうものは大抵、素人の手に負えないような高レベルのアイディオンなのだから。
そして振り返って、ただの……と言ってしまっては申し訳ないが、なんの害意も無さそうな小太りの中年男性が慌てているのを見て、こちらも慌てて手の鉄パイプを下ろした。
「あ、すみません」
こういう事に慣れていない人なのだろう。その人の意識が鉄パイプに集中しているのを感じて、安心させるために鉄パイプをベルトに挟んで、シルフボードを小脇に抱える。
そして、笑顔を見せることで敵意の無いことを伝えれば、その人は安心したのか、俺から目を離して懐を探り始めた。
「いえいえ、こちらこそ突然声を掛けてしまって……実はこういうものでして」
差し出された名刺には『本那 秀介』という、この人の名前らしいものと、『ミリオン・ブレイバーズ』という、聞いたことのある社名と、見覚えのあるロゴマークがあった。
「『ミリオン・ブレイバーズ』のヒーローになりませんか?」
余りにも突然のスカウトに何も言えずにいたが、「とりあえずお話だけでも」ということで、近くの喫茶店に入ることになった。
喫茶店に入って、本那さんはアイスコーヒーを注文した。
奢りだという事だったが、なんとなく気が引けて、俺は何も注文せずに受け取ったパンフレットを眺める。
パンフレットには色々書いてあるが、読むまでも無い。
『ミリオン・ブレイバーズ』はそこそこ名の知れた……中堅から大手あたりに位置するヒーロー企業だ。
後援に『ミリオン・カンパニー』が付いていることもあり、新しい割にはかなり力を持っている企業だと言える。
「計野さんは戦い慣れているようですし、少し訓練すればプロのヒーローとして十分にやっていけると思うんです」
俺みたいな素人が『少し訓練すれば十分にやっていける』とは信じがたいけれど……余程、新人育成に自信があるということなのか。
それとも、ヒーロー業というものは噂よりも簡単な職業なのだろうか。
十七年前から現れ始めた謎の異能集団『アイディオン』。
神出鬼没な彼らは人を殺戮し、街を破壊する。
ヒーローの仕事は、『アイディオン』の破壊活動に伴い悪化した治安の維持、破壊された町の復興作業、市民の救助……そして、『アイディオン』との戦闘だ。
ヒーローになる条件は、『ヒーロー適性が発現している』事だ。
ヒーロー適性が発現した人は2つの力を得る。
1つは優れた身体能力。
個人差はかなりあるが、ヒーローとして活動できる程度の身体能力……ビルの4階から飛び降りても平気な程度の能力は身につく場合が多い。
2つ目は……これが、ヒーローがヒーローたる為の能力で……異能、と呼ばれるものだった。
「え!?じゃあ、空飛んでるのって異能じゃなかったんですか!?」
「自前の技術です」
そして、本那さんは、俺がシルフボードでアクロバット飛行しているのを見て、俺がそういう異能持ちなんだと勘違いしていたらしかった。
確かに、シルフボードで飛ぶのにはそこそこ技術が要るし、アクロバット具合によってはそういう異能でも使ってるんじゃないか、と思われても仕方ないのかもしれない。
というか、俺が一応……低レベルだったとしても、アイディオンと交戦していたのは確かなのだから、そこに異能を使っていない訳は無い、と思われても仕方ない。
「という事は……あの、戦う時に、異能を……」
「使ってません。というかお話した通り、俺自身、俺の異能がなんなのか良く分かってないんです」
そう答えると、本那さんは何とも言えない顔をした。
異能とは、未だによく分かっていない能力の総称だ。
超自然的な現象を起こしたり、物理法則を丸無視したり。
アイディオンはこれを使って戦ってくる。ヒーローもこれを使って戦うのがセオリーだ。
そして、異能には、身体能力どころじゃない個人差がある。
例えば、水や炎を操る能力。
例えば、相手を眠らせる能力。
例えば、空間を操る能力。
余りにも多すぎて……というか、1人のヒーローにつき1つの異能がある、という具合な物だから、多分、どんな異能があるのか全てを把握している人なんて存在しないだろう。
そして、俺は俺の異能を把握すらしていない。
……しょうがないと思う。
ヒーロー適性が発現している人は全員、犯罪防止のために登録を義務付けられているから、義務教育課程を卒業する時に全員適性検査を受ける。
だから俺は自分にヒーロー適性が発現している事が分かったけれど、それが無かったら多分、それすら分からなかったと思う。
何故か自分にヒーロー適性が発現していると把握するまで、高い身体能力も異能も持っていなかったのだ。
……いや、異能は今も持ってるのかはっきりしないんだけれども……。
そして今に至っても、自分の異能がなんなのかよく分かっていない。
異能を得た瞬間にそれがなんの異能なのか理解する人もいるし、俺みたいに延々と分からない人もいる。
自分の異能がなんの異能か、詳しく異能検査すれば分かることもあるらしい、とは聞いているが、異能検査にかかる費用はそこそこいいお値段なのだ。それに金を使うぐらいなら、もうちょっと満足に飯を食いたい。
……だから、俺をスカウトするのは止めるだろうな、と思ったのだ。
何の能力を持っているのか良く分からない、ちょっと身体能力が高くて、空飛ぶ技術があるだけの素人を拾うほど甘い業界じゃないのは知ってる。
プロのヒーローとして活動しているのはごくごく限られた一部の人達だけだ。
能力が高くないとやっていけない仕事だという事は分かっている。
ましてや、そこそこの規模の『ミリオン・ブレイバーズ』だ。
能力の良く分からない素人を拾う、なんてありえないと思ったんだが。
思ったんだが……違った。
「じゃあ、異能を使えるようになったらもっと強いって事ですよね。今の段階でも計野さんはそこそこ戦闘慣れしてる訳ですし、磨けば光る逸材だと思います」
……成程、そういう考え方もあるのか。
「異能検査技師ならうちにもいますから、なんの異能か把握するお手伝いもできます。戦闘訓練も当然サポートさせていただきますし、うちで強くなりながらヒーロー活動する、というのはどうでしょうか」
そう言われて、非常に迷った。
ただシルフボードで飛びながら鉄パイプ振り回してヒット&アウェイ戦法、っていう程度の戦い方しかしていないずぶの素人。
そんな俺にヒーローなんて果たして務まるのだろうか、と。
「それから、条件の方はこんなかんじで。うちはサポート類や装備に力を入れてるのでちょっと他所より低めになりますが、まあ、1月に低めのレベルのアイディオンを4体ぐらい倒して貰えれば、大体こんなかんじかと……」
……。
「あ、じゃあ、やります」
生活に困窮する貧乏学生だった俺にとって死活問題のそれ……給金の威力には勝てなかった。
悲しいかな、ヒーローも人間で、人間である以上は金が無いと生きていけないのだ。
ましてや俺は、家賃の滞納こそ1回しかした事がないが、食費かつかつ、冷暖房一切なし、シルフボード買う為にますます切羽詰まった生活をしていた身だ。
……金は、大事だ。
どんな綺麗事を並べても、それはどうしようもない事実なのだから。
金が出て、住居も提供してもらえてゆとりのある生活ができるようになって、これから強くなっていくためのサポートもしてもらえる、となったら、かなり条件はいい……はずだ。
何より、俺が今まで真似事ながらもやっていたヒーロー業が認められた、というのは嬉しかった。
……それがなくたって、ヒーローは俺にとって、憧れの職業だった。
そして俺は『ミリオン・ブレイバーズ』のヒーローになることを決め、そこで研修を受けたり、今後そこで活動していくために、『ミリオン・ブレイバーズ』の提供してくれる住居に引っ越すことになった。
今まで住んでいたボロアパートを出て、朝早くの電車に乗って、最寄り駅から歩いて8分。
『ミリオン・ブレイバーズ』はそこにオフィスを構えていた。
「あの、すみません。計野というものですが」
オフィスに入って受付にそう言うと、幾らかのやり取りの後、ロビーの一角で待つように指示された。
……なんとなく、場違いな気がして居心地が悪い。
汚れの無い石タイルの床も、そこに置かれた磨かれた机も、やたらとふかふかするソファも、そして、そこを行きかう人たちも。
全てが今まで憧れはしていたものの、実際に触れる事の無かったものだった。
俺がいた世界とは違う世界なんだなあ、なんて、今更ながら実感する。
居心地の悪さの中、ロビーのソファで待つこと数十分。本那さんがやってきた。
「いや、すみません。遅くなりました」
「いえ、お気になさらず」
本那さん、忙しそうだな。やっぱり色々と仕事があるんだろう。
「ええと、では早速ですが、これからの生活について説明させていただきます」
そう言って、本那さんは机の上に書類を並べ始めた。
……要約すると。
これから俺は3か月間、訓練を受ける。
その訓練は戦闘訓練がメイン。知識面での訓練も多少あるらしい。
俺の異能を探る検査や、俺の装備についてもその3か月で何とかするそうだ。
それから、居住は事前に説明があった通り、『ミリオン・ブレイバーズ』の管理しているマンション……ではなく、このオフィスの地下にあるらしいヒーロー宿舎。
研修期間を終えればオフィスの隣にある高層マンションに移れるらしいので、それまでの我慢、との事。
別に雨漏りしなくて隙間風が無ければ日の光が差さない程度、別に構わない。狭いのも問題ない。4畳半あれば寝泊りには十分だし。
学校に関しては、研修が終わったら『ミリオン・ブレイバーズ』の運営する学校に編入する形になるらしい。
一応、高卒程度の学歴は無いと何かと不便だから、ということなんだとか。
「それでは、こちらの書類に記入をお願いします」
そんな説明や、ヒーローとして契約する上での契約内容の説明をざっとされた後、契約の書類に記入していく。
氏名……計野、真。
フリガナ、とあるので、氏名の上に、ハカリノマコト、と小さな文字で書き足す。
年齢は17歳。
住所はここに引っ越した以上、ここでいいらしい。もう記入されていた。
緊急連絡先……ええと。
「すみません、ここの緊急連絡先なんですけど」
「あ、書かなくて大丈夫ですよ」
察してもらえたのか、それとももう調査済みだったのか、それともそれほど珍しいことでも無いからか。
特に何も聞かれずにそこを空欄にすることを許された。
持病・疾患……特になし。俺は健康体そのものだ。風邪もろくにひかないから自分のことながら助かってる。
アレルギー……も、特になし。
異能は……本那さんを窺うと、空欄でいいですよ、との事なので、そこも空欄、と……。
「はい、じゃあ書類はこれで」
記入が終わったら、他の幾つかの書類にサインして、契約完了だ。
「じゃあ早速ですが、能力の測定をしましょう。とりあえず、部屋に荷物の類を置いてから……じゃあ、11時に8FのシールドルームCに、という事で」
今は10時27分。
30分ぐらい、部屋に居られるっていう事だな。
その間に荷解きをできるだけ済ませておこう。
……新しい生活の始まりだ。