I-ii 幼女の正体?
夕飯を食べ終えると、予告どおりレントはチィに鳥の巣を教え、卵の採り方を教える。そして少女が歯磨きしてベッドに納まったのを見届けると、二人は森へ出かけた。
二人の作業は慣れたもので、黙々と行われた。別におかしなことではない。チィが来るまで、沈黙の内に作業するのはよくあることだった。レントから何か話すことはあまりないので、カイが作業に集中して喋らなくなると自然そうなるのだった。
無事必要なだけリンデン草を摘み、調合室で必要な作業を滞りなく終えると、瞼も重そうに二人は寝室へ向かった。チィがやってきたからか、山に出歩いたからか、いつも以上に疲れている。
師に一言「おやすみなさい。」とだけ言って自らの寝室に入ると、当然ながら部屋は暗く、窓から射す月と星の明かりが僅かに暗がりを薄めていた。小さく膨らんでいるベッドに真っ直ぐカイは歩み寄り、すぐに潜り込んだ。
と、何か濡れる感触がある。カイは驚いて暗闇の中目を凝らした。
チィの頬が、月明かりに僅かに煌く。……泣いていたらしい。
そういえば、結局この子はどういう境遇の子供なんだろうか。今更ながらにカイは疑問に抱く。シーナは説明を省略していた。何かしら深い事情があるのだろう。
例えば、隠し子、とか――。
その考えが浮かんだ途端、カイは思わず暗闇の中目を見開いてしまった。
仮にも王族の子供がこんなところに預けられるなんて、一体どうしたことだろう。しかも母親があの黒尾のシーナとは。
カイは推測を確かめるべく、記憶の糸を手繰った。チィは見た目と言動から考えて五歳から八歳といったところだろう。五年前から八年前、それらしき噂が流れなかっただろうか――。
しかし幾ら考えてみたところで、その頃はカイも今以上に子供で、興味もない噂話を耳にしているとは考えにくかったし、何より疲れてぼんやりした頭が夢の世界へ呼ばれていた。
――水神を呼び出したんだって?おめでとう。
――違うっ!!あれは俺の力じゃ……。
白い清潔な部屋、子どものための魔道具やら玩具やらが整然と並ぶ綺麗な部屋、窓際の寝台の上、碧眼が笑いかける。
――君が羨ましいよ。
――冗談じゃないっ!ふざけるなっ!
それでもその碧眼は、心底羨ましそうにこちらを見つめて、口を開く。……その時、彼が言った言葉を、今も、忘れられない。
翌日、二人が目を覚ましたのは日も高い昼頃であった。チィは前日言われた通りコナタの巣から三個卵を採ってきており、一個は既に自分用に調理して食べたらしい。卵の殻が捨てられていた。
記念すべき初めての授業は、二人の朝食兼昼食が終わってからとなった。
調合室のテーブルは昨日の晩処理したリンデン草が置かれている他は、夕飯前と変わらぬ状態だった。
しかしレントは新しく何か本らしきもの一つ、二人の前に置いた。本らしきもの、と言ったのは立派な本の為りをしているくせに、タイトルも中身も何も書かれていなかったからだ。カイは初めてその本を見た。
しかもレントは決して持つことのなかった魔法用の杖を手にしていた。否応にもカイの期待は高まる。
レントは杖で机の上の「商人の心得と処世術」を示した。
「じゃあこいつから始めるか。ヲウヨイナノソセツウ!」
杖が「商人の心得と処世術」から何もない本へと向けられる。すると不思議なことに、みるみる内に本は姿を変え、重厚そうな造りが安っぽくなり、終いにはもう一冊の「商人の心得と処世術」になっていた。
「師匠これは……!!」
輝いた目で問うカイに、師は丁寧に説明してやった。
「俺が作った“複製帳”という魔法具だ。見ての通り好きな本を複製できる。これのおかげで結構な数の希少本が手に入った。」
「……けちくさ。」
ぼそっと呟かれた突っ込みは、昨日からパパに反抗しているチィのものだった。すぐさまパパとにぃにが熱を込めて反論する。
「お前、この魔法具の素晴らしさがわからないのか!これはな、普通じゃ到底手に入らない希少本を手に入れる他に、普通じゃ買えば一冊のところをもう一冊複製でき、原本は原本のまま保存し、複製本に書き込んだりできるという優れものだぞ!」
「師匠、俺師匠のこと見直しました!こんな素晴らしい魔法具作れるなんて……!」
師弟関係が固く結ばれている横で、除け者にされたチィは膨れっ面になっていた。
「早く始めようよお。」
「そうだな。始めるとするか。じゃあ43ページ。」
カイが二人で共用の教科書をめくる。
43ページを開くと、「ラカ十一世の政治体制」という見出しが目に入った。ラカ十一世とは、先日話に出た病に倒れた現王のことである。
「ここに載ってるのは基本的な政治体制だな。今も殆ど変わっていない。筆頭となる王に執政官が続き、その下に魔帥、軍帥、治帥、人帥、財帥が配置されている。執政官は現王以前は三人いて、王不在の場合のみ筆頭執政官が王代行となる決まりだったが、現王の体制ではこの王代行が可能な筆頭執政官のみ存在する。これがどういう意味を持つか、わかるか?」
「……えっと、話し合いが楽ってことですかね?」
しどろもどろにカイが答えると、チィがすかさず言う。
「執政官の権力がおっきくなったってことでしょ。ね、パパ?」
にこにこするチィに、カイもレントも驚いて目を丸くした。が、レントは直ぐに気を取り直した。
「前にこの本読んだことあるのか?」
レントがチィに尋ねると、チィはこっくり頷いた。
「ねぇねがね、現行の政治体制とか状況とか知りたいんだったら、この本がわかりやすくていいぞって。」
「……あいつ本気でこんな子供を執政官候補にするつもりか。」
呆れと、それ以上に驚嘆の眼差しで、にこにこするチィをレントは見やる。
「商人の心得と処世術」に載っているのは、商売の心得というよりも、時勢の読み方であった。その為に現行政治体制について詳しく書かれ、その問題点と商人としての利用方法が指摘されている。商人としての処世術についてが最も記載が多く、過去の実例が五万と載っている。
レントが今回教科書の一つとしてこれを選んだのは、現行政治体制について書かれた殆ど唯一の書物だからだった。普通政治体制についての評価が書物になるのは、その政治体制が終わってからである。正式な書物をつくりあげるのは専ら学院であり、学院が書物にするのは何年、何十年とかけた研究の末であり、現行の政治体制が書になるべくもなかった。しかしこれはある商人が思いつきで亡くなる間際に書き上げ、商人仲間に流布したものだ。商人にとって大事なのは先をよむこと。決して過去を批判することではない。
商人の仲間内ではこの本は好評で、新入りなどに読ませたらしい。しかしあくまで商人の仲間内でだけ流布したもので、一般には出回っていなかった。
……のだが、商人とすんなり仲良くなれる才能を持つシーナにかかれば、そんな本手に入れるのは容易かったらしい。自らが読み終えるとさらにニ、三冊手に入れ、その内の一冊をレントに寄越した次第であった。
「師匠、なんで王様はわざわざそんなことしたんすか?」
レントより先に驚きから立ち直ったカイが素朴な疑問をぶつける。何故王は執政官の権力を増やすような真似をしたのだろう。いくらカイだってそれがとても危ういことくらいわかる。レントはその疑問に何でもないことのように答えた。
「ああそれはな、今の執政官が王に出した条件なんだ。執政官に就いてやる代わりに執政官を一人だけにしろってな。」
「えっらそうな奴ですね。どうしてそんなこと王様許したんですか?」
カイの疑問にレントが答えるよりも先に、チィが無邪気に説明してやる。
「だってあのおじさんのパパのお陰で、王様は王様になれたんだもん。それに王様と執政官ってイトコなんだって。」
「へえ……。」
レントはすらすら答えるチィにまたしても驚愕の視線を向けていたが、カイはそれほど驚かなくなっていた。もし仮にチィが隠し子だとするならば、おかしな話でもないだろう。
チィは説明するためカイに向けていた顔をレントに向けた。レントはまだ驚いているのかじっとチィを見つめていた。
「それよりパパ、王様って死んじゃったお妃様と執政官のおじさんと、どっちのことが好きなんだろ?」
無邪気に投げかけられた疑問に、レントはぎくりとした。カイはこの質問の意味がてんでわからなかった。
「……それはつまり、現執政官の孫にあたる第一王子と、王が寵愛した正妃との間に生まれた唯一の子供とどちらが王位に就くか、という質問か。」
レントは真っ直ぐ小さなチィを見つめた。その眼光に、カイは大魔法使いの称号の片鱗を見た気がした。しかしそんな眼光の効かない無邪気なチィは、即座に首を振った。
「違うよ。だって王様がお妃様のこと好きだったとしても、ねぇねが王様になれるとは限らないもん。」
その言葉でやっと、王宮事情に全く疎いカイにも意味がわかった。つまりチィは、王が死んだ正妃と執政官の娘である第二王妃とのどちらの味方なのか、と訊いているのだ。
分かると同時に、チィへの疑問が確信に変わりつつあった。こんな幼い子供がこれだけ王宮事情に精通してるなんて、どう考えたっておかしい。
チィはそんなカイに気づくはずもなく、レントに説明している。
「チィが聞きたいのは、どうして王様どっちつかずなのかな、ってこと。ずるいよね。」
「ずるい?」
レントの言葉にチィはこっくり頷く。
「だって最初のお妃様と二番目のお妃様が喧嘩してたの王様がどっちが好きか言わなかったからでしょ?王様がはっきり言っちゃえば喧嘩しないで済んだのに。」
いや、それはないだろ、と事情の飲み込めたカイが心の中で突っ込む。というかこの子はこの年にして昼メロドラマの世界になんとどっぷり漬かっていることだろう!
レントは溜息を吐いた。そして丁寧に解説してやる。
「王が現在どっちつかずなのは、どっちに付いても危ういからな。今その問題を白黒はっきりさせることは、ジーノ派かシーナ派かを表明するも当然だ。ジーノ派に付いたとなればシーナ派方の軍帥や人帥が王から離れかねない。それにあいつは民衆にも人気があるからな。逆にシーナ派につけば、執政官を確実に敵に回すことになる。今や執政官なしでは現体制は維持できない。そんな状態で王が執政官を敵に回せるわけがない。」
カイは軽い驚きの念を持って師匠を見つめた。この一年間、全く政治には興味がないと思っていたのがこの二日間で大分覆された。しかし考えてみればレントも元は王宮に近しい出なのだ。おかしなことではない。
「そのジーノ派シーナ派って、いつからあったんですか?」
本当に全く興味がなかったカイはそんな派閥も今日初耳だった。レントは、その無関心さに呆れたのか、溜息を吐いた。
「そうだな、シーナが生まれた時からあったと言えばあった。が、仮にも女の身だ。正統な王位継承権は明らかにジーノ王子のものだ。しかも母親は隣国出身、国内に有力な味方はいなかったんだ。だからシーナ派というよりは正妃派だな。それもシェーハザート様がお亡くなりになられて自然消滅したが。
今のようにシーナがジーノと対等になったのは、ここ何年かだ。元々軍帥と魔帥は戦において並行する指揮系統だからな、相性が悪い。そこにシーナが上手く付け込んで味方にしたんだ。人帥の方は色々現在の執政官に不満が溜まっていたんだ。最初はシーナに付いても見込みがなかったが、軍帥がついたのを見て翻ったわけだ。」
「え、じゃあ十年前は……」
「全く対等とは言えなかったな。対等どころか敵とすら見なされていなかった。四人の王子の内唯一の第三妃の息子、第二王子は生まれた時からゆくゆくは第一王子を補佐するように育てられていた。第一王子と同じく執政官の孫の第三・第四王子は当然執政官方だと思われていたしな。だから第一王子が次期王なのは確実だと思われていた。」
十年前にそんな状況ということは、師匠は王宮を出てからもアンテナを張り巡らし、情報を入手していたのだろう。カイは改めて驚愕の表情で師を見つめた。
一方チィはまだ先ほどの答えに納得がいってないのか、不満そうな顔をしている。
「なんでパパ山中にいたのにそれだけのこと知ってるの?」
チィの視線が真っ直ぐレントを捉える。対するレントは視線を逸らしていた。
「それは……街に出れば自然と聞こえてくるんだ。」
嘘だ、現に関心のないカイは全く知らなかった。
チィはまだ何か言いたそうにレントを真っ直ぐ見つめていたが、レントがその口の開くよりも先に遮った。
「さて、話が飛んだが、まだ現行の政治体制についてちゃんと説明してないな。カイ、五帥についてはわかるか?」
ゴスイ?いきなり出てきた単語にカイはたじろいだ。
「午後の昼寝のことですか?」
「それは午睡だ。」
呆れるでもなく冷静に突っ込まれて、逆にカイは恥ずかしくなった。レントは特に気に留めずすぐ続ける。
「五帥とは先ほど言った執政官の下に当たる五人のことだ。そこに図が載ってるだろ?見ればわかるように魔帥の下に魔導師団、医療団が配置されている。因みに現在の魔帥は宮廷付筆頭魔導師も兼ねている。」
「パパのパパだよね!」
チィが何が嬉しいのかにこにこ合いの手を入れる。レントは複雑そうな、むしろ嫌そうな顔をして「まあそうなるな。」と素っ気無く答えた。
「軍帥の下には近軍団と遠軍団、それから近衛団が配置されている。財帥の下には財政部、財産管理団、商連部が、治帥の下には立法部、裁判部、治安団がある。」
「師匠、団と部の違いは?」
「簡単に言えば団には役人だけではなく実務担当、例えば兵士とか魔導師とか宝物庫の管理人とかが含まれている。ってなってるけどな、厳密な違いはない。」
「ふうん。んで人帥ってのは?」
「人帥は例外的に所属する組織が多くてな。人事部、工作部、芸術部が主なとこだ。後はそれ見とけ。」
カイが言われた通り見てみると確かに色々書いてある。そして注釈として「他の四帥に割り振れない機関を人帥に割り振っているため、人帥直下には本来団・部とは呼べない小規模の機関が所属していることもある。」と書いてあった。要はブラックボックス的な機関らしい。
「パパ、チィ全部知ってる!」
不満そうに、チィが抗議の声を挙げた。レントは冷たくチィを見据えた。
「お前さんがこの本を最初に選んだんだろう?それに、カイは全く政治に興味がないからな。復習のつもりで聞いとけ。」
「ぶう。」
チィが可愛らしく頬を膨らませてすねる。カイは思い切って質問してみた。
「チィはどこでこんなこと習ったんだ?」
この質問に、レントも興味を示したようだった。顔をチィに向ける。チィは膨れっ面のまま答えた。
「ねぇねと、あと色んな人に聞いて!」
「色んな人って?」
レントもカイも真っ直ぐチィを見つめる。チィは質問の意味がわかっているのかいないのか、視線を上にやる。
「うんとね、髭のおじさんとか。すれ違った時に聞いたら教えてくれたの!」
「そのおじさんの名前は?」
どうせカイが聞いてもわからないのだろうが、レントならわかるだろう。しかしながらその期待は、あっさり裏切られた。
「知らないよ。チィわからなかったことがわかって嬉しくて、聞くの忘れちゃったの。」
カイはがっかりした。その人物がチィの正体を知る大きな手がかりになると思ったのに。特に関係なさそうだ。
「どこですれ違ったんだ、そのおじさんとやらとは。」
レントが鋭く質問を投げかける。カイはがっかりした顔をあげて、チィを見つめた。
「廊下!」
何が嬉しいのかよくわからないにこにこ笑顔でチィは答える。レントは辛抱強く質問を重ねる。
「どこの廊下だ?」
「うんとね、東廊下だったと思う!」
わざとなのか天然なのかよくわからない答えに、レントはいらついた。
「だからどこの建物の東廊下だ!」
一瞬、チィはきょとんとし、それから当然のように言った。
「ねぇねのお家だよ。」
予想通り、お城、か。カイは隠し子説を確信した。
しかしレントはこの際はっきりさせることに決めたらしい。子供相手ということもあり、直球で疑問をぶつけた。
「結局シーナは何にも説明してなかったが、お前は一体誰でどうしてここにいるんだ。」
「チィはねぇねの妹で、ねぇねのお手伝いしたいって言ったらねぇねが連れてきてくれたの。」
「だから……!」
得たい答えが得られずイライラも絶頂だった。そんなレントの質問をカイが引き継ぐ。
「チィの本当のパパとママは誰なんだ?」
再びチィはきょとんとし、やはり当然のように言った。
「ママはヘーゼル、パパはナッツだよ。」
「!!!」
レントが思わず立ち上がり、言葉にならぬ表情で、チィを見つめる。チィは無邪気にその顔を見返した。
「……ってことはアズリルの……」
「うん、妹!」
無邪気に笑う。レントはますます複雑な表情になり、カイには一体全体わけがわからなかった。
レントは全てに納得がいったらしく、しかしその衝撃が大きかったのか、「続きは後でやる。」とだけ言い残してふらふらと調合室から出て行った。
「パパ、どうしたんだろうね?」
「さあ……?」
チィの無邪気な疑問だけが静かな山中の小屋に響くのであった。
レントは自室に戻ると手を組みベッドに腰掛けた。しばらくの間組んだ手で頭を支えて伏していたが、徐に立ち上がると書き物机に歩み寄り、引き出しから額縁に入れられた一枚の絵を取り出した。
先日会った時には刻まれていた傷のまだないシーナを中心に、今よりずっと背の低いレントが左に、右には金色のおかっぱ頭の少女が不機嫌そうな顔で描かれている。幼いレントも少女と逆向きで不機嫌そうだ。真ん中に座っているシーナだけが満足そうな笑顔である。
レントは溜息を吐くと、長いこと食い入るようにしてその絵を見つめていた。