第一章 capter-2 もしも俺が明日死ぬとすれば、何を残そうか?
『転科勧告』
登校してすぐに目の前に出されたのは、鮮烈な通達だった。
「そんな……! この書類は、一体何なんですか!?」
「須賀谷君。……残念ながら君は、今年は普通科に行って貰う事になるのだ。……この意味が分かるかね?」
家から出て数時間後。冷房の効く緋奥学園の事務室の中で、目元にたるみのある太った中年の学年筆頭主任兼事務総長『渡辺』の無情な宣告を須賀谷は肩を震わせながらも耐えていた。
俯くように視線を下げると渡辺の出ている下腹が、非常に目につく。
生徒を食っているとも噂される汚い男……。その汚物のような男が目の前にいる。
須賀谷の前に出された書類には、印鑑を押して期日までに出せと書いてあった。
「――降格、結果的にはそう言う事だよ」
「……ッ! 病み上がりだというのにこの仕打ちはあんまりじゃないですか……!」
自分の罹っていたのは錬成合宿後の想定外の急病だった。死亡率5%の秘匿指定C目、『堕落の肺炎』による4週間の入院闘病生活からようやく数日前に解放をされたばかりだというのに。
――冗談じゃ無い。こんな事実があってたまるか。
「……俺が特進Bから落ちるって……嫌です! 公欠で申請をしていたはずですよ……!」
言われた事が理解できずに声が大きくなり、思わず立ち眩みをしそうになる。……あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になっていた。
「まだそう言うのか。君は自分で、何故その処分を下されたのか分からないのか?」
「……っ」
「では、逆に聞こう。君が落ちないという……要素があるのかね?」
「それは……」
それに対しては言い返す事が、出来ない。自分は特に優秀でも、なんでもない生徒だ。
「決定した事だから、な。仕方ないという奴だ」
「くっ、俺が……入院してテストや授業に出られなかったからってそんな事で!」
あまりにも自分にとって酷い決定に、合点がいかないと声を大きくして訴える。
……だがしかし、目の前の教員は相変わらずの涼しい事務的な態度で告げる。
「いやねぇ。いくら君が絶対安静で入院をしていたからって、君より特進に上げるべき人間が居るのだよ。第一そもそも、君の成績はクラス内では低い方だったじゃないか……。総合成績で学年50位から落ちた以上、君は特進Bクラスには入れないのだよ。君の席は無い、それは、明白な事実だ」
……冷たい言葉が、槍のように突き刺さった。
「そ、それはそうですけど……! 受けてないじゃなくて受けさせてくれなかっただけじゃないですか! 代替のものでチャンスを下さい! 再試をどうか一つ!」
息を飲みつつも、そこですぐに言い返す。こちらは自分の生活が掛かる。このままではイフットと一緒に居れなくなる……それだけに必死だ。
だがしかし渡辺はそのままの表情で、こちらの頼み込みを無視してプリントを強固に受け取らせようとしてきた。
偉そうに一息をついてから、野太い声を飛ばす。
「クックッ……君が納得しているとか、納得していないとかは問題では無いんだ。……ともかく君は、本年度は3組に行ってくれたまえ、涙を飲んで貰う必要があるのだ」
……その顔色からは、言葉の裏に『えぇい、邪魔だと言うのに楯付いてくるのか、お前のような無礼者が』という厄介者を見るかのような意識が籠っていた。
――無常だ。こんな事では自分がみじめだ。あんまりだ。気分が悪い。
「……っ」
あまりにも酷い仕打ちに顔を歪ませて口を噤むが、意味はない。
「さぁ、駄々をこねずに行ってくれたまえ。嫌ならば余所の学校という手もあるんだぞ?」
だがその場を動かないでいると、貧乏揺すりをしながら早く行けと渡辺による追い打ちの言葉が入ってきた。
「……しかし!」
「文句は勝手だが……。君はこれからの単位が……欲しくないのかね?」
「……ッ!」
渡辺の申し訳程度に薄い髪が盛ってある頭が、蛍光灯に反射して光っている。
少し濁った彼のその目の様子からは、これ以上煩わせるなという態度がアリアリとして出ていた。
弁明の機会も貰えず、不服の申し立ても出来ないとは。どうにもできない状況に憤りを感じ、歯を食い縛る。どうやら相手に譲歩するという気は、絶対にないようだ。
(――拒否権はない。このまま張り合うと反省文以上かよ……。クソッ、汚ねぇ……!)
言葉が止まってしまう。……選択肢など、最初からなかったという事なのか。
「……くっ、分かりましたよ……俺なんかは落ちればいいんでしょう……!?」
須賀谷は嫌々ながらも、へりくだりながらプリントを受けとる。そして本当なら悔し紛れに捨て台詞を吐きたいところを我慢しながらも、屈辱に肩を震わせて事務室から出ていった……。
「……やれやれ、これだから最近の視野の狭い人間は困る。何でこんなに使えないのやら。忠誠心が欠落している強情な若い人間も増えるし、やはり学生気分というのはよくないな、無教養にも過ぎる。やはり従順に動かせない者ほど愚かしいことはないな」
ーー部屋を出ると、舌打ちと共に背後からそんな嫌味な声が壁越しに聞こえてきた。
(……クソが!)
瞬間的に頭に血が上ってくる。……サボっていた訳ではなく生死の境を一度は彷徨ったというのに。自分には怒るだけの理由もある、本当ならば殴り倒したい、そんな衝動がよぎるが、それを須賀谷は必死で我慢していた……。
(今の俺は独り……か。あぁ、死にたくなってきた)
身体が凄まじく重い。バッグを抱えつつも教室に向かう為に3組を目指すが、足取りが悪くて瞼がぴくぴくと痙攣する。
ーーそんな時、階段を上ろうとしていたところで上から大柄で筋骨隆々なクラスメイトが下りてきたのが見えた。
水でも飲みに行くのだろうか、あの渡辺の甥っ子であり、去年の同級生であった強面な奴である黒岩田鉄凪だ。対人関係で考えると、性格の問題から自分とは相性が悪い。
(……嫌な奴を見かけちまった。……摩擦が起こるのは嫌だし、避けるか)
立ち位置的には流石に因縁という程でもないが、黒岩田は前々から自分に対して悪意を持っていて仲が悪く、こちらも好感は持ってはいない。どうやらイフットに惚れて突っかかってくるという奴であり、根底は知らんが邪魔ばかりしてくるので面白くない奴だ。
成績としては魔法に関しては自分以下だが、裏を言えば初級魔法も撃てないのに身体作りと腕力、そしてコネで特進Bに上がってきた超前衛型戦士職だ。……悪く言えば自信家の上に脳筋とも言えるが。しかしそんな感情抜きで考えても、戦闘技術は尖っていて、仮に実用レベルの魔法さえ使えればコネがなくともAクラス域でも通用をするような男でもあった。
奴は距離の離れた場所からこちらに向かって、歩いてくる。こちらとしてはこんなに落ち込んでいる自分の惨めな姿は、人には見られたくは無い。
須賀谷は逃げるように背中を丸め、階段の隅に寄って向こうをやり過ごそうとした。
……だが、アイツは目の前でチラッとこちらを見ると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「――フン」
黒岩田が見下すように近付いてきて須賀谷の前に立ち塞がる。じっと自分より高い目線で、舐め回すような目つきだ。
――虫の居所も悪いというのにこちらに絡んでくるとは、何の真似なのだろうか。
「何だよ、何か用か?」
黒岩田の顔を怪訝そうにしつつも見返す。
「おい須賀谷よぉ……、一体どうしたんだ? クラス名簿にお前の名前が無かったぞ?」
すると黒岩田が階段の2段上から、嘲笑うかのような口調でそう話しかけてきた。
……嫌がらせか。相手のうすら笑みを浮かべた目付きからすぐそう察するが、事を荒立てたくはない。
「……今年の俺は3組だ。……やらかしたんだよ」
咄嗟に俺は静かに、力なくそう呟いた。不様だが全く誤魔化す事なども出来ない、事実でもある。言い訳もできない、そう思っての言葉だった。
だが、そう答えると急に、いきなり目の前に居る黒岩田の表情がばっと一気に笑ったのが見えた。
「クックック……ハッハッハッ……! 、須賀谷ぁ……! 案の定そうかよぉ。3組とはざまぁねぇなぁ、雑魚がぁ?」
……向こうは突然こちらを指で刺し、ゲラゲラとでかい声で嘲ってきたのだ。
腹は立ったが、図星でもあり言われてすぐには何一つ言い返す事は出来なかった。」
「情けねぇなぁオイ……! 島流しとはよ!」
「――ッ!」
意地悪く続けて、鼻を鳴らしてくる。追い討ちのつもりか、胸糞の悪い――じわじわと指先から激しい感情が戻ってくるのが分かる。
……こうも言われたい放題のままで、黙ってられるか。
「……何のつもりだ? 俺に恥をかかせにきたのか?」
抗議と怒りを瞳に宿らせ、相手を睨む。……自分が嘲笑を受けたり恨まれるような理由などは、いわれがないし理解が出来ない。
「ああ、邪魔者が消えてうれしいね」
「何をッ!?」
即答をされ一瞬、困惑する。
「ハッ。こちらの事情からすると色々と今の状況が愉快でな。ここで潰れてくれてありがとうと言いたいところだ。まっ、安心しとけ、イフットちゃんの面倒は俺が見るからな。空いたパートナーの座は合 法 的 に奪っておくから、お前は安心して堕ちて行けよ、須賀谷」
それから須賀谷の耳に口をそっと近付けると、今度は低い声でぼそりとそう言ってきた。
(イフット……!)
――煽られるように言葉を告げられ、ハッと思い出す。真っ直ぐな緋色の瞳をした、とても芯の強かった彼女の存在を。周囲には知られてはいない、妻の存在を。
……だが、それが。
「アイツが奪われる……だと……!? 貴様ぁ! まさかお前が渡辺に根回しをしたのか!」
瞬間的に須賀谷は、頭に血が上るのを感じた。
同時にほぼ反射的に右手に力が入り、黒岩田の顔面をめがけて勢いよく振りおろす。
「おっと」
ーー殴った、つもりだった。
しかしその腕は、手首を捕まれ黒岩田に受け止められてしまった。
「危ないじゃないか、須賀谷ぁ」
自信ありげな顔で、奴が笑ってくる。
「答えろ、貴様っ!」
「なぁに、『安定団結』のためにお前には消えてもらうだけだよ」
「……何だと?」
「これから起こるのはいわゆる、お前のパートナーの座の寝取られだ。よく考えてみろよ、今の彼女は一人だぜぇ? 情けない須賀谷士亜のせいでなぁッ!」
腕をつかんだままさらにそう、罵倒してくる。
……その瞬間、自分の中の心にカッとさらに熱い怒りが湧いてきたのを感じた。
「……ッ! この、下衆が! アイツはお前なんかに吊り合わん!」
何様のつもりだ、下品にも程が過ぎる、不快だ。……そう思いつつも瞳孔が開き、焦りも何故か湧いてきたのが、悔しい。
「どうしたんだよ? ……その目は? 何だ? 泣くのか? 悔しいか? 大事なものが零れ落ちて辛いか?」
だが彼等は場馴れをしているのか、竦む様子もない。
「てめぇ……!」
クソが! 虚勢を張りながらも食って掛かり、さらに腕に力をこめて振り解こうとする。
……だがこちらの腕は、抑えられたままびくりとも動かない。
「まぁ、何の取り柄もないお前の時代は終わったんだよ。お前はこの世界からの脱落者だ。これからは俺の時代なんだよ、非力な負け犬が。ナードは死んでろ、バーカ」
黒岩田は此方の言葉に応えずに、間髪を入れずに反対の腕でこちらの肩を軽く叩く。そして、馬鹿にしたような笑い方をしながらこちらを抑えていた腕を放した。
「――ッ!」
そしてこちらが悔しさのあまりに歯軋りを起こしたのを見ると『ああこわいこわい』だの『ハハハハハッ! 涙目になるなよクソ弱者が、泣いていたことをイフットに知らせてやろうか』だのと嘲り笑い、余裕の表情のまま自分の教室にへと帰っていった。
(――ググググッ……!)
すぐに腸が、煮えくりかえりそうな気分になる。してやられた。奴等は挑発をしに来ただけだったのか。足音が遠ざかって行くとほぼ同時に、心の中が地獄の業火のような怒りで満たされ、喉の奥が熱くなった。
……憎い。先程奴らに本気で手を出さなかったことを後悔する。
――先程までは悲観的でさえあったのに、今では薄汚れた井戸のような感情が腹の奥底で渦巻いているのを自覚する。まさかここまでイフットが絡むと自分が感情的になるとは、思ってもいなかった。
「あんな人間に……イフットが俺から取られる……!? そんなのは……嫌だ……!」
思わずにも思っていた事を、語気を荒くして口に出してしまう。ーー自分が進学競争で負けたのは事実だ。それは絶対的な現実なので、言い返せない。自分にも非がある。だが、自らが打ちのめされた敗者であろうと、……イフットがいなくなるのは規則だろうと嫌だ。
自分でも子供の駄々と何一つ変わらないと思うが、それでも諦めきれない。
自身の無力を自覚すると身体が勝手に脱力をしていき喉が、渇いてくる。……気にいらない。何の恨みがあって転落した俺に追い打ちをかけるんだ。しかもイフットを奪うだと? 認められるか……! 冗談じゃ、ない。想像を一つするだけでも、身の毛がよだつ。
簡単に俺の人生を潰すような事など、許せはしない。それに、あいつらもあいつらに何も反論できない自分も、大嫌いだ。
……でも、こんな結果になる世の中も大ッ嫌いだ……。見返してやる……!
(クソったれがぁ……! 俺は負け犬じゃねぇ……! 蹴落とされたままなんかで、終わるかよッ……!)
怒りのあまりに目を尖らせた須賀谷は、去っていく黒岩田達の遠い後ろ姿をぎっと見据えて、少し涙の出かけた目でリベンジをそう強く決心した。
――この世界は元来、自然文明、スチーム文明、機械科学文明、魔術文明など多種多様な文明から構成されており、まだ見ぬ遺産を探し冒険者が多数闊歩していた。そしてかつてはモンスターを倒したりダンジョンに潜って財宝を狙ったり謎の野菜を栽培したりビームとブーメランと斧と魔法が飛び交う、――まさに、人々にとってはファンタジックな世界であった。
だが現在、ある日を境に突如現れた数多の侵略者により、この世界はしばしば戦火の絶えないものとなってしまった。
そんな訳で、侵略者達に対抗する事の出来る新たな冒険者を養成する学校が増え必要性に応じて新規に設立されたのが、この秘奥学園という訳であった。
なので目的柄、学校の人間は戦術において度々役割経験や連携の為、同じクラスの人間と最小限からの連携ーーツーマンセルを組むことが義務付けられていた。
そして、須賀谷士亜という人間はそういう経緯でイフット・イフリータ・イフリートと組んでいたのだった。
「――畜生めッ!」
それもまた、この今になって崩された訳だが。須賀谷のコンビ相手が居なくなった事により、現実問題として新たなパートナーを見付けねばならない。無論、それはイフットの方もまた、同様じゃないか。
つまり、あながち先程の黒岩田の奪ってやるという話も完全な与太話という訳ではないのだ。いや、むしろイフットと組んでも見劣りしない程、あの野郎の能力は高い。少なくとも俺よりは、ずっと。
ーーそれがとても歯痒くて怖い。
――だが、こんなところで屈服してたまるものか。心が負けたら終わりだ。
胸を圧迫する痛みに耐えながら、俺は歯を食い縛って顔を上げる。
「……マイナスがなんだよ、逆風が何だよ! 、この程度で俺の人生の火を消せると思うなよぉぉッ……!」
こんな明日も見えない絶望的な世の中だ、交通機関に飛び込んで自分がバラバラになるのも悪くはないが……このままでは奴等に一撃をかまさなければ気が済まない。
復讐してやる。この屈辱、何百倍にでもして返してやろう……!
それは自分の心の中に新たに出来あがった、赤くて黒い負の火種であった。
ーーそれから思考をしてどれだけの時間が経ったのか自分では分からないが、気が付くといつの間にか自分は教室の前にいた。
ドアの近くに寄ってみると、何やらざわざわと部屋の中から騒ぎ声が聞こえてきたのが分かる。
「……ん?」
一呼吸置くと、異変に気付く。
――どうやら少し授業前にしては、騒がしい。こんなにも五月蝿いものなのだろうか。
(……何だ? まだ、HRホームルームまでには僅かに、時間が有るはずだが)
手元の時計を見てそう考えながらも須賀谷は閉まっていた木製の教室のドアに手を掛け、そろっと開けた。
「面倒事はもう……沢山なんだがな……」
ピリピリとした気配を含む異質な威圧感が、顔に当たる。……須賀谷は遠慮なく教室に入っていく。すると部屋の中では人だかりが出来ており、今までの生活では予想もしなかった争いが起きていた。