47、パンドラの箱
「お願いします!」
少女はいきなり頭を下げた。
そんな少女の様子を見て、白衣を着た医師は慌ててそれを制して、なんとか少女の顔を上げさせようとするのだが、少女はかたくなにそれを拒んだ。
このままでは土下座もやむなしといった様子の少女に、医師と看護師は二人でこそこそと言葉を交わすと、少女の提案を飲むことにしたのだ。
ただしそれは、決して少女がわがままだったり、しつこかったりしたからではなく、少女の持つ一人の患者に向けた思いがあまりにも純粋であり、そしてその透明な思いが唯一その患者を救うことが出来ると信じることが出来たからである。
医師は厳しい表情をしながら、数日前に無理矢理退院していった患者の様態について語った。
少女としても決して楽観しなどしていなかった。しかし活動的な男の姿を知っているがために、やはり心に余裕があったのかもしれない。
少女にとってはブラックボックスであった男の様態は、その中をのぞき込んだ瞬間に想像を超えた絶望がどろどろと溢れ出てきたのである。
周りから見て気の毒に思えるほどに青ざめた顔を俯かせた少女に対して、しかし医師はそれでも真実を知ろうとする少女の気持ちに答えるように、残酷な事実を語り続ける。
少女は華奢な肩を震わせ、拳をぎゅっと握りしめながら聞いていた。
そして探す。
むせかえるほどの絶望の中に僅かな希望がきっとあるのだと。耳を塞ぎたくなる思いを律して、ただじっと耐えながら、そこに座っていた。
こうして少女は真相に至った。
すべてを知った少女はやがて顔を上げると、必死な笑みで、必ず男を連れてくると約束を残して踵を返した。
病院を出て、ターミナルでバスを待つ時間さえ惜しく感じた少女は、走りながら男の家に向かい、電話をかけた。
「おう、ガキ。どうした? なんか忘れもンでもしたか?」
電話に出た男の声は、まったく普段通りの声だった。
少女はそのことに底知れぬ怒りを感じて歯を噛みしめた。
最悪の状況。それが自分の身に降りかかっているというのに、どうしてこの男はこんなに暢気でいられるのだろうか。それともこの男の感情は壊れていて、恐怖を感じないとでも言うのだろうか。
少女は怒鳴るようにして男をいつもの場所に呼び出して、荒れた気分のまま男を待った。そして男が姿を現した瞬間、少女はどう叱りつけようかと振り返り、睨みつけた。
そして感情のまま文句を口にしている最中、少女ははたと気がついてしまった。
少女の言葉に対して、言い訳のように語る男。
「……らしくないですよ、会長さん……」
逃げず、隠れずを貫いていたはずの男が、逃げようとしている。そして冷静になってみれば、今の男の様子は、脚を一歩下げて、大きな声とは裏腹にその身体は僅かにふるえているように見えた。
男は、この話題を一刻も早く切り上げて、早くここから立ち去りたいと考えている。さとい少女にはすぐにそれが分かってしまった。
この男の心は壊れてしまって、恐怖など感じない。そんな訳がない。
目の前からやってくるあまりにも理不尽なモノに押しつぶされそうであり、その中でも自分をたもつために戦ってきたのだ。しかし、それは戦いと呼べないほどにあまりにも一方的で、男は自分の心を壊さないために逃げ出したのだ。
そしてその事が、もしかしたら男の自尊心を傷つけたのではないだろうか?
みっともなく逃げ出した自分に絶望して、自暴自棄に陥っているのではないだろうか。
その後、男と何を話したのか、よく覚えていない。
しかし気がつけば男は去り、少女はその背中に腕を伸ばしていた。
「……会長さん……」
ずっと近くにいたはずである。
特に最近は、誰よりも近くを歩いていたはずである。
だというのに何も気がつけなかった自分は、一体今まで何を見ていたといういのだろうか。




