16、魔の差す瞬間
走る。
編入初日だというのに、遅刻なんてしてはならない。
少女は口にパンを挟み、多少呼吸が難しい中で必死に足を前に運んだ。
横断歩道を走り、信号を横切る。そして勢いのままに角を曲がった瞬間、少女は巨大な何かに弾き飛ばされた。
「きゃぁ!」
「うお!」
少女は、口元のパンを思わず離して、地面に尻餅をつく。
ぶつかった何かは、慌てたような声を出した。少女はすぐに前方注意で他人にぶつかったことに気がついた。
「あ痛たたた……。ど、どうも、ごめんなさいです」
瞳にうっすらと涙を浮かべて、少女はぶつかった男を見上げた。
朝日を逆光となり、顔はよく見えなかったが男は心配げに少女を見下ろしていることが分かる。
「こっちこそ、わりぃな……。大丈夫だったか?」
男は腰を少し落とすと、少女に向けて手を差し伸べた。
「あ……いえ。大丈夫です。ご丁寧にありがとうございます」
あまり異性の免疫を持っていなかった少女は、頬に僅かな熱を感じ、それがばれないように俯きながら男の手を握った。
ぐい、っと腕が引かれて、少女は瞬く間に立ち上がることが出来た。
「おい、まじで大丈夫か? 無理すんな。だめなようなら医者に連れてくぜ?」
俯いている少女を見て、痛みに耐えていると勘違いした男は、腕を組み困ったような声を出した。
言葉は乱暴だが、男の言葉に暖かさを感じて、少女はよけいに顔を上げられなくなった。けれども別に痛みに耐えている訳ではないということを伝えるために、首を左右に振った。
「怪我したわけじゃねぇのか? そいつは良かったぜ! しかしだとしたらなんだってんだ……ん? あぁー……。なるほど、そういうわけか……こいつはわりぃ……いや、悪かった! すまねぇえ!」
突如謝り出した男に、少女は少し動揺し、上目使いで男の顔を垣間見た。
何を言われているのか全然わかなかったが、男が一瞬だけ視線を地面に落としたので少女はその先を追った。
小さな歯形が1つだけ付いている食パンが1枚落ちていた。
「……朝飯だったか?」
「……ち、違いますよ! いえ、朝ご飯かと言われれば、確かにそうなのですが、べ、別にパンを落として落ち込んでるとか、そんなことはないのですよ!!」
少女は真っ赤になった顔を上げて、慌てながら弁解をした。
「なんだよ、別に恥ずかしがることじゃねぇだろ? 俺だったら朝飯落としたらショックで寝込むぜ!」
男は豪快に笑った。
少女はどうしようかと唸りながら男を見上げていたが、始めに恥ずかしがっていた理由は旨く誤魔化されたようで、良しとすることにした。
「……あ、学園……」
少女は呟いた。
「うおぉ!! もうこんな時間じゃねぇか! やべぇ。走れ! 遅刻するぜ!」
2人は同時に駆けだした。
気が付けば少女は男に手を強く引かれて走っていた。
朝の爽やかな空気を2人は矢のように切り裂いて進んでいく。
少女は少し驚きながらも、心の中で仄かな恋の予感を感じた。
「……って、ちょっと待ってください?」
少女が疑問を持ったのはそれからすぐの事だった。
「速い!! 速いですって!! お願いですからペースダウンを! って!! 目の前崖ですよ!? 大きくないですが、落ちたら骨の一本は折れそうな崖です!」
絶叫する少女。その手を握って男は焦ったように言う。
「悪いが俺は未来の生徒会長なんだ! だから遅刻なんて許されねぇ! んでもってこの時間じゃ正式なルートじゃ間にあわねぇんだよ!! 腹くくりやがれぇ!!」
「いやー!!」
1組の男女が虚空に向かって身を投げていった。




