3.獣と移植
昨日と同じように森の奥に入り、昨日薬草を取りにしゃがんだあたりに立つ。一度入り込んだからか、禁域との境界はあからさまなほど目についた。
(昨日はこれに気がつかなかったのか、私)
己の魔女としての資質に疑問を持ちながら自問し、境界に手を触れる、と、そこはもう、薔薇の匂う庭だった。
「獣さん。獣さん、どこにいますか?」
ティノは呼びかけながら薔薇の庭を歩き王宮へと近づいていく。まっすぐ城へ向かう道はなく、あちこちへ曲がり、時に四阿や薔薇のアーチへ出たり、まるで迷路だ。
否、本当に迷路なのかもしれないとティノは思った。本物の王宮の前庭がこんな狭い迷路のようでは、訪れた人が困るだろう。まっすぐな道があるべきなのだ。
何を閉じこめるのか知らないが、何者かの意志によってはこの庭に囚われることもありうる。
しかも何者がどんな意図を持っているのかもわからない状況で、何がどう作用するかもわからないのだ。
そう思い至って、ティノはぞっとして獣呼ぶ声を張り上げた。
「獣さん!」
「……来たのか、魔女。その角を右に曲がれ」
薔薇の生け垣の向こうからそう声がした。ティノが言われた通りにするとすぐに、広い芝生と石の円柱と円形の屋根とで出来た白い四阿が見え、獣は四阿の白い石の床に寝そべっていた。獣が寝そべることができるだけの大きさであり、それでいっぱいになる広さでもあった。
獣は目をあけてティノを認めると身を起こした。ふさふさとした尻尾が緩く揺れている。
「座れ、魔女。今日は何をするんだ?」
「私の名前はティノです、獣さん。今日は薬草学の本を持ってきました、それから庭に植えられるように少し苗を」
「私のことはドフト王子か殿下と呼べ」
「では早速始めましょう」
「待て。まずは茶を飲もう、喉が乾いているんだ。テーブルの上に準備してある」
獣の言葉にティノが四亜の中央にあるこれも石のテーブルを見ると確かに、ティノが見たこともないほど薄い磁器のティーカップとポット、それに揃いの絵皿には焼き菓子が乗っていた。
「……まさかあなたが?」
「まさか!」
獣はあまりおかしくもなさそうに短く笑い、否定した。まあそうだろうなとティノも思っていたので大人しく椅子に座ると、ポットからお茶を淹れる。ふわりと湯気が立ち、どういう魔法だろうかとティノは首を傾げる。
そしてカップは一つしかない。
「獣さんはお茶を飲まないんですか?」
「この口ではカップに入らない。この皿の中に淹れろ」
鼻面でスープ皿を押し出され、ティノはそれにお茶を淹れて自分のカップの向かい側に置いた。ティノが使うにも少し低いと感じるテーブルは、獣が座ってテーブルの上のものを食べるのにちょうど良い高さなのだ。
お茶は香り高かった。そもそも人里とあまり交流のない魔女の森では茶葉自体が贅沢品だ。普段は薬草や香りの良い花などを乾燥させたお茶を飲む。
木の実を混ぜ込んだ焼き菓子も砂糖や香料が惜しみなく使われていてとても美味しい。
「美味しいですねえ。みんなにも食べさせてあげたいな」
「皆とは? 魔女達か?」
「そうですよ、魔女の森ですから。皆魔女です」
「私は魔女は嫌いだ」
「そうですか」
会話終了。無言でも、お茶もお菓子もおいしさは変わらないのが救いだ。
皿がきれいになり、ポットの湯が尽きるころ、ようやくティノは本題に入った。
「ではそろそろ始めましょう。今日は苗の移植です」
「始めるが良い」
「何偉そうにしているのですか、植えるのは獣さんです。日当たりがよくて水はけがよくて薔薇から遠いところに植えますよ」
「ここで良い」
四阿のすぐそばを獣は指さした。きれいに芝生がしかれているのを壊すのは……とティノが躊躇していると、獣の視線の先でみるみるうちに芝生が枯れ、土が露出した。
「これくらいか? もっと広げるか?」
「いえこれで十分です。今何をしたんですか?」
「ここは私のものだ。城も庭も天候も草一本も私の意志でどうにでもなる」
面倒くさそうに獣は言い、そのとおりに芝は枯れたがティノは何か釈然としなかった。獣の言葉と現状が一致していないような印象を受ける。
「この魔法を掛けたのは、とても力のある魔法使いだったのですね」
「ああ。そうだろうな。私の母親だ」
「え? 魔女、なんですか?」
「ああ。大掛かりな魔法を使うのは魔女に決まっている」
「へえ! 私達は大きな魔法はほとんど使いませんよ。そういうのは王都にいる男の魔法使い達の仕事なんです。だから男の魔法使いは生まれるとすぐに王都に迎え入れられるの」
「大分違うのだな。私は男の子供など要らないと言われて、母に捨てられた」
「王子と魔法使いだったら王子のほうが良い気がしますけど」
「魔女にはわからんさ」
会話終了。でも無言で指示はできないので、鋭い爪で土を掘り返させ、ふかふかになった土を浅く掘って苗を置かせた。いつのまにか用意されていた水の入った桶で、たっぷりの水を撒いてから流れた分だけ土を足して、また水を撒く。丈夫な種類の苗を持ってきたからこれで十分だろう、と思いながらも、早く根付くようにまじないをかけた。
「さあ、これで根付いて成長するのを待ちます。獣さんは明日までに、今日植えたのが何の苗なのか本を読んで調べてください」
「それはいいが魔女」
「なんでしょうか」
「手が汚れた」
「洗えば?」
言った途端、空が曇って強い雨が降り出してきた。獣はなんだかご機嫌で土で汚れた手を天に差し出して洗い流しているがティノは痛いほどの雨に四阿に駆け込む。急いで植えたばかりの苗が傷つかないように魔法を掛けた。膜のようなものをイメージして、苗の上にかぶせる。すると移植したあたりに雨は降らなくなった。
「苗が傷むじゃないですか!」
怒鳴ったが、雨音に消されて獣の耳には届かなかったのだろう、返事は返ってこなかった。
暫くして、びしょぬれになった獣が四阿に駆け込んでくる。と、雨はすっきりと上がった。
ティノは苗の上にかぶせた膜を消す。そうしないと苗には夜露さえかからず、早晩枯れてしまうのだ。
ティノが魔法を使う様子を見ていた獣がびしょぬれのままなのを見て、ティノは魔女の服についている大きなポケットからハンカチを出した。
ごしごしとこするが獣が大きすぎてハンカチはすぐにびしょぬれになってしまう。
「獣さん、タオルとかないんですか?」
「乾け、と願えば乾くだろう。というより魔女、それくらいの魔法も使えないのか?」
「魔法はなるべく使わない方が良いんですよ」
「あるものは使えばいいのだ。こんな風に」
獣が言い終わらぬうちに獣の毛は乾いてふさふさと立つ。ティノは無言で、びしょぬれのままのハンカチをぎゅっと絞ってまたポケットに仕舞った。
「魔女、明日は何をする?」
「そうですねえ。獣さんは何をしたいですか?」
「魔女に私のことをきちんと呼ばせたいな」
「ドフト君は何がしたいですか?」
「殿下か王子をつけろ無礼者が。私は……、そうだな、何がしたいかな……」
ティノが想像もできない長い間を無為に過ごしてきた王子に「やりたいこと」を望むのは酷だろう。延々悩み続ける獣に、ティノは早々に諦めをつけた。そのうち、色々なことを知ればやりたいことも出てくるだろうと思いたい。
「では、明日はお茶を作りましょう。外に持っていけば高く売れるので、大事な収入源なのです」
「それは、私の自活ではなく魔女の生活の為ではないか」
「作り方を覚えれば立派に食べていけますよ」
「私は王子だぞ。農夫のような下賎の仕事はしない」
ぎっ、とにらみつけると獣が僅かだがひるんだような顔をしたので少し満足して、ティノは持ってきた道具を片付けはじめた。禁域では天候すら獣の思うままだと思えば空の様子では判断ができないが、ティノの感覚からすれば今は昼過ぎだ。今から戻れば暗くなる前に家に戻って、干しておいた洗濯物を仕舞えるだろう。
「では獣さん、また明日」
「あ、ああ分かった。また明日な、必ずだぞ」
この時ばかりはすがるような獣の声にちょっと笑って、ティノは禁域を出た。
☆ ☆ ☆
夕方、四阿で魔女が置いていった薬草学の本をめくる。人間サイズの本は頁を一枚一枚めくるのも大変だが、爪を使って数頁はめくってみて、やがて飽きて放り出した。ドフトの目にはどの植物も同じように見えるし、どんな薬効があろうとさして興味はない。
四阿のそばにある、今日植えた苗は魔女のまじないの加護があるせいか、元気だ。ああいう葉っぱの名前を覚えて効果を覚えて、それで人間に戻った暁には王子である自分が手を土に汚して働くのか?
ドフトはぞっとして苗から目を背ける。この場の主人であるドフトに拒絶されて、苗が悲しそうにため息をついたのを感じたがドフトは気にもかけなかった。
「魔女は明日も来るのかな」
ひとりごちた声が宵闇に響いた。
魔女は嫌いだ。赤い髪はぞっとするし、闇夜にも光る碧の目はおぞましい。自分にも同じ色彩が宿っているだけに余計疎ましい。
けれど、きっと孤独のまま長い時間が経ちすぎたのだ。だからあんな魔女でも来るのが待ち遠しい。
『獣』は長い舌で口の周りを舐めた。
(あの魔女は、どんな味がするだろう)